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スタバへの思い

考えるために手ぶらで出掛けた

 何もない時に何が浮かぶのか、の実験を行なっていた。

 駅前スタバのカウンターに座って、道行く人を見ていて思った。「こいつら、何なんだ」。やはり、何も出てきません。

他者に聞いても応えてくれない

 今はどこから来たのか。宇宙間飛行と言うけど、これほどの飛行はないです。これだけの道具が準備されているけど、それらはどのようにつくられているのか、どこから持ってきたのか。

 これは他者に聞いても、誰も応えてくれないでしょう。だから、教育というもの自体が意味をなさないという気がします。最後の最後は、ここはしっかり考えないといけない。

スタバへの思い

 スタバから送られてきたカードで、抹茶ホワイトチョコレートのヴェンティを頼んだ.こういう時にしか飲めないという理由だけで。やはり、甘いわ。色々な経験をさせてもらっている。

 スタバの最初の一杯は2000年2月14日に、LAPL(ロサンゼルス公共図書館)の前のビルの地下で飲んだ。トールモカをカップで飲んだ。エスプレッソとミルクが合わさって出てきた.あの感触は忘れられない。それまでに、スタバ自体を知らなかった。アメリカと言えば、アメリカンのイメージしかなかった。

 次の飲んだのは、その翌日。50歳の誕生日。サンフランシスコのホテルの一階がスターバックスだった。気に入った。日本に帰って、半年後に、名古屋駅にスタバがオープンした。

乃木坂における生田さんの存在

 生駒だけは分かっている。乃木坂が奇跡的に集ったグループだと言うこと。生ちゃんが乃木坂に必要だということ、居てくれて有り難いということ。

 アイドルというグループはどうでもいいことです。居ることが重要で、色々なことをやっている。それを運営も後追いで認めている。46時間TVのイエヴァンポルカで運営の思惑を超えました。アイドルであることを超えました。

 その次の公演を許可したと言うよりも、運営は応援している。

乃木坂は次世代の「コミュニティ」

 やはり、乃木坂という「コミュニティ」です。次の時代の核になる存在です。未唯空間でゆっくりと証明しましょう。

OCR化した本の感想

 『中東の絶望、そのリアル』

  独裁と「アラブの春」の幸福は第三次ポエニ戦争でカルタゴ破滅のような結末にはならない。

  絶望の次の中東のカタチが宗教上のカリスマの存在でないことを祈ります。宗教上の対立を超えたところで、新しい統合ができることは中東でしかできない。

 『ガロア理論超入門』

  天才ガロアの生涯を知ったのは、かなり遅かった。19歳だった。周辺に環境がない、田舎の高校生が知ることができなかった。そう考えると、動乱のフランスで多感な時期を過ごしたのでしょう。

  多くのガロアはアイデアを持ったまま、亡くなっていく。つながったことはガロアにはどうでもいいことだった。

 『シリア難民』

  その「荷」は生きている。アラブとかアフリカの人には、西洋の連中が決めた国境は最初からなかった。自分の属しているウンマとか部族だけがあった。新しいカタチに流れていくのでしょう。

  それにしても、バルト三国に名前が似ているという認識しかなかった、エリトリア。史上最も平等主義的な解放闘争は、なぜ独裁国家に堕ちている。話題にも上らない。国家が機能していない。

  世界に「居場所」を求めていく。ハンガリーもレバノンもアイルランドも多くの国民が外へ出て行った。ギリシャに居る姪から言われたことがある。ギリシャ第二の都市は「メルボルン」。そう考えると、日本は例外です。この国を基準に考えては、世界の答えは出ない。
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「これ以上ベッドがない」--混乱するスウェーデン 1/50が1/7を負担

『シリア難民』より 世界に「居場所」を求めて

翌日からハーシムには新しい日課ができた。朝起きるとまず、移民庁のウェブサイトにログインして、審査の結果が出たかどうか調べるのだ。決定が下されるには数週間かかると聞いていたが、今からチェックしても別にいいはずだと思った。しかし一か月ほどたつと、「別にいい」とは思えなくなってきた。何度チェックしても、何の変化もない。夏が秋になり、ハーシムはだんだんと心配になってきた。何か間違いがあったのだろうか。ボウザングは彼の話を信じなかったのだろうか。

政治情勢も助けにならなかった。秋が深まると、それまで以上に多くの難民がヨーロッパに押し寄せてきた。スウェーデンはその先進的な政策のために、不当に大きな重荷を負いつづけていた。2015年のこのときまでに、ヨーロッパに来た移民約80万人のうち、少なくとも7人に1人をスウェーデンが引き受けていたのだ。スウェーデンの人口はヨーロッパ全体の50分の1にすぎないにもかかわらず、だ。

すでに12万人以上がスウェーデンに来ていたが、その数は年末までに17万人を超えると移民庁は考えていた。夏は週4000人のペースだったが、今は週1万人だ。この急増は主にアフガニスタン人が原因だった。2015年の最後の数週間は、シリア人よりも多くのアフガニスタン人がスウェーデンにやってきた。しかし出身がどこであれ、移民庁への影響は同じだった。以前は申請から2~3か月で難民認定の可否がわかったのに、今は一人で2年かかるケースもある。

政治家は短気になった。世論調査では、極右のスウェーデン民主党(最初期のメンバーにはネオナチ関係者がいる)が、ぐんぐん支持を伸ばしていた。最大野党の保守党(正式名称は穏健党)は、シリア人への永住権付与に終止符を打つことを提案。すると社会民主党を中心とする中道左派政権も、数か月以内に永住権政策に終止符を打つと約束した。そうなれば家族の呼び寄せも制限されるだろう。ハーシムはパニックに陥った。その前にハーシムは永住権を取得できるのか。スウェーデンのシステムのパンク状態を考えると、無理なような気がした。

実際、難民認定希望者があまりに多いため、移民庁は軍に助けを求めた。通常は自然災害や海外での人道支援に携わる、市民緊急事態庁(MSB)の協力も得た。しかし2015年11月初めまでに、もはや新たな宿泊場所は確保できなくなり、五つの受け入れセンターでは床で眠らなければならない人たちが生まれた。一部のセンターでは、職員を4倍に増やしたにもかかわらず、多くはダブルシフトや休日出勤が必要だった。ハーシムがスウェーデンに到着したときに受けたような一時面接は、段階的になくなっていった。そんな余裕はなくなったのだ。

移民庁の職員は、この世の終わり的な話しぶりだった。「とにかくもうスペースがない」と、広報官は言った。「今はとにかく、雨風を防げる場所を探すので精一杯だ」。ヨーロッパ各地の状況を見てきた私に言わせれば、スウェーデンの状況は、レスボスなどと比べてずっと落ち着いていて、秩序だっていた。レスボスでは、行政のサポートはゼロに近く、難民たちは雨の中を歩いたり眠ったりする。

スウェーデンで長年難民問題を担当してきた職員でさえ、未曾有の規模に動揺していた。「こんなにたくさんの人を見たのは初めてだ」と、ストックホルムの二つの大型受け入れセンターで働くづアラン職員は言った。「もう国内には空きベッドがなさそうだ。彼らを送る町がない」

だが、中期的には、状況はさほど悲観的ではない。政府は体育館などの公共施設に、6万6000人分の滞在スペースを確保できると見ている。これらの施設の半分近くは、さほど大規模な改修をしなくても宿泊施設に転用できる。しかし短期的には、強欲な(とされる)不動産所有者の問題と放火の危険性、そして保健・安全法令上の問題から、すぐに使えるスベースは見つけにくくなっていた。すでに難民の滞在施設が放火される事件が起きていた。民間の不動産所有者は、物件を貸すにあたり、政府に法外な家賃を要求した。一方、スウェーデン南部にテント村を開設する計画が遅れているのは、議会の怠慢のせいだと移民庁は非難していた。

こうした混乱が、スウェーデンにアイデンティティーの危機をもたらした。こんなに多くの外国人を受け入れつづけたら、スウェーデンは自国民のケアに手がまわらなくなると、不安を煽る者もいた。スウェーデン民主党は、レスボス島に来た難民たちに、あなたたちのせいで「私たちの社会は崩壊しつつある」とし、スウェーデンに来ないよう警告するチラシを配った。その数時間後、保守党は、難民に対する国境管理強化を呼びかけ、社会民主党政権はその要請に応えることに決めた。

その一方で、難民を保護する義務を放棄すれば、それこそスウェーデン型社会民主主義の中核的理念を捨てることになると考える人もいた。「私たちの社会は、人はみな同じ権利を持つという理念に基づき構築されている」と、スウェーデン弁護士会のアンネ・ラームペリ事務局長は言う。彼女はストックホルム中央駅で、新たに到着する難民たちに法的なアドバイスをしていた。「ただ、今は難民たちに宿泊場所さえ提供できない状況にある」

けれどもこの問題は、スウェーデンが保護基準を下げれば解決できるものではないと、ラームペリは言う。そうではなく、世界で最も豊かな大陸であるヨーロッパ全体が、スウェーデン並みに保護基準を高めることこそが解決策であるべきだ。「私たちが直面している危機は、ヨルダンやレバノンが直面している危機とは大きく異なる」と、ラームペリは言う。これらの国では、難民が人口の大きな割合を占めるようになった。「EU加盟国が結束すれば、私たちは(莫大な数の難民を)受け入れられる。ヨーロッパ大陸の人口は5億人だ。もちろんやればできる。しかし結束がない。ドイツやスウェーデンのような国ばかりではない」

この騒ぎの中で、ハーシムの心は塞いでいった。

弟が家族を連れてドイツにたどり着いたと聞いても、明るい気持ちになれなかった。もちろん、よかったと思ったけれど、自分も家族を連れてくるべきだったのだろうかと思ってしまった。弟にできたなら、自分にもできたのではないか。

ハイアムのもう一人の姉がシリアの役所で逮捕され、消息不明になったと聞くと、ハーシムはますます暗い気分になった。ハーシムはアサドの地下牢にいたことがあるから、そこでどんな恐ろしいことが彼女を待っているか知っていた。エジプトのハイアムは取り乱していて、ハーシムは妻を慰められないことがつらかった。エジプトに戻ることさえ考えた。家族がいちばん彼を必要としているときに一緒にいられないなら、難民認定を受けることに何の意味があるだろう。

そこでさらにショックなことが起きた。そもそもハーシムがエジプトを出ようと決めた理由の一つは、UNHCRを通じて第三国定住できる見込みがなかったからだ。ところが申請から2年たって、ついにUNHCRから面談の呼び出しがあったのだ。しかしハーシムがすでにヨーロッパに渡ったことがわかると、取り消されてしまった。面談が行われても、実際に第三国定住が決まるまでには何か月もかかるだろう。それでも今のハーシムにとって、その知らせはひどく残酷なものに感じられた。

再びPTSDの症状が出るようになり、ハーシムはほとんど反射的に移民庁のウェブサイトを調べるようになった。毎日が毎時間になり、そのたびに落胆した。朝食前にウェブサイトをチェックして、がっかり。朝食後にチェックして、またがっかり。昼食前も、昼食後も調べては、その度に落胆していた。
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シリア難民 難民と移民を分けることが無意味である3つの理由

『シリア難民』より その「荷」は生きている 「第2の海」サハラを越える砂漠ルート 寛容なヨーロッパの不寛容な主張 エリトリア--史上最も平等主義的な解放闘争は、なぜ独裁国家に堕ちたのか? ⇒ エリトリアの実態は知らされていない。

アガデスを経由してリビアに来る人々はどうか。西サハラルートを利用する人の大多数は、紛争を逃れてきたわけではない。それなのになぜ、彼らは、地獄のような扱いを受けるとわかっているリビアを目指すのか。

ある意味で、メイ英内相らの主張は正しい。西アフリカ出身の移民(2015年にヨーロッパに来た密航者の4分の以下)は、お金、仕事、そしてよりよい生活を求めている゜アガデスの入り組んだ路地で、そして砂漠のルートで、故郷を出てきたのは仕事を探すためだとはっきり認める人たちに、私は大勢出会った。セネガルにはもう溶接するものがないのだと言う溶接工。機械工の仕事がないと言うナイジェリア人のエンジニア。やはりナイジェリア人のポール・オヒオヤは牧師でもあり、配管工の仕事を必死で探していた。1951年難民条約(難民とは迫害を逃れてきた人と定義している)によれば、彼らはみな、ヨーロッパで保護を受ける権利がない。

だから「この人たちは難民ではない」という、メイらヨーロッパの人々の主張は正しい。また、UNHCRが「難民」という用語の使い方に柔軟な姿勢を示しつつ、難民条約に該当する人を保護対象者として優先するのは正しい。あらゆる移民に疑いの目が向けられるなか、国連が最弱者の保護を優先するのは道理にかなっている。たとえそれが、同じくらい同情を必要とする人々を犠牲にすることになったとしても。

しかし現実的に考えると、経済移民をこのように厳しく定義するのは、長い目で見たときあまりプラスにならない。

まず、これほど長く壮絶な旅をしてでも仕事を探す人たちを、「怠惰な社会保障のたかり屋」と決めつけることはできない。それどころか彼らは、生粋のヨーロッパ人なら賞賛される優れた技能の持ち主だ。ヨーロッパで少子高齢化が進めば、こうした勤勉な人々が働く余地は生じるだろうし、彼らが必要とされる場面もあるだろう。

第2に、牧師で配管工のポール・オヒオヤのような人たちは、たしかに母国ナイジェリアを出た直後は経済移民と呼べるかもしれない。しかしリビアに数週間滞在している間に、彼らは難民に近い存在になる。このことについては次章で詳述するので、ここでは簡単に述べておく。リビア内戦と、この国で移民労働者が受ける極悪非道な扱いを考えると、移民たちはリビアに到着した瞬間から危険な状態に置かれると考えることができる。だから彼らは、なんとしてでもリビアから逃げなくてはならなくなる。このとき砂漠の道を戻れば、再び盗賊にあったり、誘拐されたり、脱水症状で命を落とす危険性がある。それを考えると、船でヨーロッパを目指すほうが、わずかに安上がりで、成功する確率も高い。

経済移民を厳しく定義することがプラスにならない第3の理由は、ヨーロッパがどう定義しようと、彼らはヨーロッパを目指しつづけることだ。ポール・オヒオヤの言葉はそれを雄弁に物語っている。彼は地中海で命を落としかけたところを、チュニジアの沿岸警備隊に助けられた。「あなたは戦争ではなく貧困を逃れてきたので、国連は第三国定住を認めてくれないと思いますよ」と、私は彼に言ってみた。

だが、オヒオヤはそんなこと気にかけていないようだった。ヨーロッパは彼を経済移民だとして切り捨てるかもしれない。だが彼は必死であり、自分にはほかのみんなと同じように保護される権利があると思っている。「あなたたちは、私たちにも滞在を認める必要がある」と彼は言った。「私たちにも未来があることを示してくれる必要がある」。もしヨーロッパがそれをしないなら、大変なことになるとオヒオヤは予言する。「あなたたちは移民から逃れることはできない。私たちは危険をおかしてでも、ヨーロッパを目指すことをやめないからだ」

ヨーロッパの右派は、彼らがこうした考えを捨ててくれることを祈るかもしれない。一方、左派は移民にも「よい移民」と「悪い移民」がいると主張し、オヒオヤのような移民は、シリア難民よりも保護を受ける権利が乏しいと考えるかもしれない。

しかし、いずれどちらも、いわゆる経済移民を吸収する最善の方法を考えなくてはならなくなるだろう。彼らは過酷な砂漠を越えて、リビアの戦場をくぐり抜け、おんぼろの船で地中海に乗り出す強靭な意志の持ち主だ。その意志を彼らが簡単に曲げるとは思えない。彼らは故郷でのたれ死ぬよりも、ヨーロッパを目指して死ぬほうがましだと思っている。その「必死度」は、ヨーロッパの孤立主義よりもはるかに強いこどが、いずれわかるだろう。一部の識者が指摘するように、気候変動によって北方に移住しようとする人が増えればなおさらだ。

経済移民に対する応急措置として、貧困国に対する開発援助の拡大が唱えられることがある。アフリカで雇用と投資が増えれば、故郷にとどまる人が増えるはずだというのだ。たしかに経済成長が何十年も続けば、移民は減るだろう。しかし社会学者のハイン・デハースの研究が示すように、短中期的には、国内総生産(GDP)がわずかに増えると、密航業者や運び屋にお金を払える人が増えて、移民は増える。デハースが引用した統計によると、年間所得が先進国の平均所得の4分の1程度まで増えたとき初めて、その国からの移民は減りはじめる。しかしそのレペルに達するまでには長い年月がかかり、21世紀初めの移民問題の解決策にはならない。

多くのヨーロッパ諸国が、フェンスを設置したり、海をパトロールしたりして、この問題を封じ込めようとしてきた。しかしこの方法は、穴が多い国境に(たとえばモロッコからリビアヘ)移民たちを向かわせるだけだ。経済移民たちの言葉を聞くかぎり、彼らを思いとどまらせるためには、こうした小手先の障害を設ける以上の措置が必要だ。なにしろ多くは、自分にはこうした旅をする権利があると考えているのだ。

アガデスのバス停で、カメルーン人のジョエル・ゴメスは、自分たちはアフリカを植民地化した人々がやったことを真似しているにすぎないと言った。

「白人はビザなしで海路アフリカにやってきた」と、ゴメスは言う。「私たちは白人から旅のやり方を学んだんだ」
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天才ガロア20歳の生涯

『ガロア理論超入門』より ⇒ 何百人のガロアがいたんでしょう。教養部で「群論」から「ガロア理論」を聞いた時に、スッキリと自分の中に入ってきた。

あなたはどういうきっかけで、「ガロア理論」に興味をもたれたのでしょうか。じつは圧倒的に多いとされるのが、ガロア本人に対する興味・関心です。こうなると、まだガロアのことを知らないという方も、どんな少年だったのか気になってきますね。ここでは、ガロアの生涯をざっと見ていくことにしましょう。

ガロアは、1811年10月25日に生まれ、1832年5月31日に亡くなりました。つまり、たった20年と7ヶ月の人生だったのです。そんな短いガロアの生涯ですが、その中身はまさに激烈でした。

ガロアは、今でいうなら高校生という年齢で、数学上の大発見を成しとげました。ところが、なぜか次々と不運に引き寄せられていったのです。当時の数学者に認められるチャンスはことごとく潰え、政治活動に傾倒し、逮捕投獄され、初恋には破れ、あげくには決闘で命を落としてしまったのです。そんなガロアが、死の直前に書き残したものが、今日でいうところの「ガロア理論」です。

激しいガロアの生涯の中でも、とりわけ衝撃的なのは決闘で亡くなったことです。ガロア自身も認めるような「つまらない決闘」だっただけに、なおさら悲哀が募ります。政治的陰謀とか、恋愛がらみとか、さらには自らの死で政治決起を図る目的だったとか、いろいろな説があるようですが、真相は定かではありません。

 「泣かないで。 20歳で死ぬのには、大変な勇気がいるのだから」

これは悲報を聞いて駆けつけた弟に、ガロアがかけたとされる言葉です。この言葉を最後に、天才数学者ガロアの生涯は閉じてしまいました。後世多くの数学者が、若すぎたその死を惜しんでいます。でも当時その死を悲しんだのは、家族や友人や政治活動を共にした仲間だけでした。そもそもガロアが天才数学者だなんて、誰も気づいてはいなかったのです。

ガロアは、生前よくこんなことを語っていたそうです。

 「不滅なものは人間の思い出のうちにある」

どのような文脈で語られた言葉かは定かではありませんが、ガロアにとって亡くなった父の存在は大きかったようです。

じつはガロアは、最後の望みを託した論文まで、理解不能と拒絶されていました。その重要性を自覚していただけに、ガロアの無念さはいかばかりだったでしょうか。このままいけば、自らの死とともに、発見された内容もまた消滅する運命にあったのです。

友人シュバリエと弟アルフレッドが尽力したおかげで、ガロアの残した成果は奇跡的に数学者の目にとまることになりました。その重要性は次第に認められ、ガロアの残した「ガロア理論」は不滅のものとなったのです。

こんな壮絶なガロアの生涯を、もう少しだけ詳しく振り返ってみることにしましょう。

ガロアが数学を始めたきっかけは、まるで小説さながらです。何と成績不振で落第したことが、その契機となったのです。どうせ同じ学年を繰り返すのなら、ためしに別の教科を学んでみようとでも考えたのでしょうか。とにかく落第したことで、数学の授業を受けることになったのです。人生、何かどうなるか分かったものではありません。この選択が、ガロアの運命を変えてしまったのです。通常なら2年間かけて学ぶはずのルジャンドルの幾何学の本を、ガロアは何と2日間で読んでしまったそうです。それからというもの、ガロアは狂気にとりつかれたかのように、数学に熱中するようになったのです。

天才の人生が、人もうらやむようなものとは限りません。ガロアの場合も、順風満帆の人生からはほど遠いものでした。まず、入学を熱望していたエコール・ポリテクニークの受験には、2度とも失敗してしまいます。受験は2回までと決められていたので、ガロアの望みは完全に絶たれてしまったのです。

そもそも2度目の受験の直前には、何と父親が自殺していたのです。父親は人望厚き人柄で、15年間の長きにわたって町長を務めていました。それが政治的陰謀に巻き込まれ、精神的に追いつめられていったようです。父親の不幸な死を目の当たりにして、ガロアは心にどれほど深い傷を負ったことでしょうか。自分や家族に対する悪意のようなものを感じたとしても、何ら不思議ではありません。

ガロアの書いた論文も、不幸な顛末をたどりました。恩師のリシヤールが、ガロアの論文をコーシーに託したところまではうまくいきました。コーシーは、当時のフランスの第一級の数学者です。ところがそのコーシーは、突如として亡命し、ガロアの前から姿を消してしまったのです。

ガロアはコーシーに渡した論文を書き直して、今度はフランス学士院に提出しました。その論文は審査のためにフーリエに送られたのですが、何と今度はそのフーリエが急死してしまったのです。このため論文の行方も分からなくなってしまいました。

論文が紛失されたこともあり、学士院のポアッソンの勧めで、ガロアはもう一度新たに論文を書き上げました。ところが、さんざん待たされたあげくの回答は、何と「理解できない」というものだったのです。ガロアの怒りが頂点に達したのは、いうまでもありません。ちなみに死の直前に書き直していたのは、このとき返却された論文です。これが後に「ガロア理論」とよばれるようになったのです。

コーシー、フーリエ、ポアッソンと著名な数学者に認められる機会がありながら、期待だけもたせてみんなガロアの前から去っていったのです。

ガロアは数学を研究する一方で、政治活動にも傾倒していきました。当時の支配階級への反抗心を募らせていったようです。やがてある事件で逮捕され、ついには投獄されてしまいます。友人のシュバリエや弟のアルフレッド、姉のナタリーは何度か面会に訪れたそうですが、母親のマリーは一度も足を運ばなかったということです。

パリ市内でコレラが流行したことで、ガロアは監獄から燎養所に移されました。そこでガロアは、今度は失恋を経験することになります。療養所の医師の娘ステファニーヘの一方的な思いは、完全に拒絶されてしまったのです。絶望したガロアは自暴自棄になったのか、最終的には決闘で命を落としてしまいました。

ガロアの遺した論文は、遺言にしたがってガウスやヤコービに送られました。目を通したか否かは定かではありませんが、理解されなかったのは確実です。やがてその写しがリウヴィルの手に渡り、自身が編集する雑誌「純粋・応用数学雑誌」に掲載されました。ようやく認められる機会が訪れたのです。それはガロアの死後14年もたってからのことでした。とはいえ、さしたる反響もなく、ようやく理解できる者が現れたのは、何と40年近くもたってからのことです。数学者ジョルダンがガロアの論文を判読し、「置換論」を書き上げたのです。そのジョルダンは、自らの著作を次のように称したということです。
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