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なぜ新戦艦武蔵を造ったか

『戦艦武蔵』より 戦艦武蔵の建造

なぜ新戦艦を造ったか

 とはいえ、日本海軍部内では、のちの大和型に至る新戦艦計画の段階ですでに、将来の戦争が戦艦から飛行機に移ることは一部で予見されていた。

 新戦艦設計作業中の一九三四~三六年に連合艦隊司令長官を務めた高橋三吉大将は三六年ごろ、将来の艦隊の主力は戦艦から飛行機へと移るのではないかと考え、海軍首脳の人々にそう話したところ、「君は航空戦隊司令官〔在任一九二八~二九年。海軍初の空母部隊一をやっていたからそう思うのだ、恰かも末次〔信正〕大将が嘗て潜水戦隊司令官をやったので潜水艦の価値を過大視するようなものだ。海軍首脳部では今や「長門」の二倍位の大戦艦で主砲一八吋を搭載するようなものを計画しているのだ」と聞かされたと、敗戦後の一九五八年に回想している(高橋信一編『我が海軍と高橋三吉』)。一部の先駆的な若手航空士官の放言ではない。

 高橋は「これに対し私はまだ航空主力論を強く主張しなかったのを今でも残念に思って居る」と書いているが、これは敗戦後の結果論である。彼が三六年の段階で「強く航空主力論を主張しなかった」のは、続けて「当時艦隊で考えて居った「制空権下の艦隊決戦」という意味は、戦闘機隊を以て彼我上空を制し、爆撃機隊、雷撃機隊を以て敵を攻撃しつつ漸次水上部隊の戦闘に導き、それと呼応して更に水中〔潜水艦〕航空の全攻撃力を以て敵を撃滅するという意味で決戦は巨砲に侯つなどとは最早考えて居らなかった」と述べているように、来たるべき決戦は水上・航空・水中の総力を挙げて行うことになっていたからである。艦隊決戦が航空母艦中心となるのは実際の対米戦開始後である。

 そうである以上、戦艦についても「「長門」の二倍位の大戦艦」もあるに越したことはなかった。前出の中沢佑が新戦艦の速力不足に抗議して辞表を出そうとまでしたのは、この「制空権下の艦隊決戦」という作戦構想が画餅に帰しかねなかったからである。

 海戦の主役を戦艦と航空機のどちらにするかはともかく、高橋が現役の連合艦隊司令長官として一九三六年の大衆雑誌『日の出』(新潮社)で「日本は、いまだ嘗て米国のモンロー主義を否定したこともなければ、英国の欧州における指導的勢力たることに難くせをつけたこともない。にも拘らず、彼等が日本の東洋における優位を認めないとすると、それは彼等がながいあひだ有色人種に対してゐた理由なき優越感と解するほかはない」とアジアの指導者たる自国の正義を叫び(本書一四頁で紹介した、北岡伸一のいう「妥協が困難」な「理念」とはこういったもの)、万一米英と戦争になっても「短刀で大業物と渡り合へと云はれれば、結構立派に渡り合って見せる」と国民に大見得を切っていた(高橋「我に必勝の信念あり」)のは事実である。海軍にとっては飛行機だろうが戦艦だろうが先立つもの--予算の獲得が必要であり、そのためには納税者たる国民の支持が不可欠だったのだ。

大和・武蔵は国民のため?

 日本海軍が「量より質」の考え方に基づいて膨大なエネルギーと予算を投じ、結果的にはほとんど役に立たなかった大和型戦艦を極秘裏に建造したことは、いっけん国民不在のきわめて独善的な行動にみえる。

 たとえば、一九三四年一〇月三一日、軍縮条約の廃棄を原則的に確認した元帥会議で軍令部第一部長・嶋田繁太郎少将が行った説明には「〔軍縮〕協定不成立の場合、生起することあるべき建艦競争の対策としては、我は現在条約維持の場合に要すべき海軍経費と大差なき範囲において特徴ある兵力を整備し国防の安固を期しうる成算がある」との一節があったという(「戦艦武蔵建造記録」刊行委員会編『戦艦武蔵建造記録 大和型戦艦の全貌』)。この説明には「新戦艦の計画をにおわせた」という解釈があり、そうであるならば「量より質」の大和型建造は、軍の最高指導者間ですら秘密の構想だった、ということになろう。

 しかし興味深いことに、戦艦(主力艦)についてほぼ同じ意味のことを、現役の海軍大将・末次信正(軍事参議官)が一九三六年の一般向け講演で国民に向かい、「無条約になれば主力艦は三万五千噸、巡洋艦は」万噸と云った様な艦型の拘束がなくなるから、自国の国情に合った艦を造り得る、今迄は同じ型の艦を造るから数の競争になる。今後は、自分の好きな経済的且つ効果的なものを造るのであるから、必ずしも数の競争をしなくてもいゝのであります」(『海軍大将末次信正閣下述 軍縮決裂と我等の覚悟』)と直接訴えかけていたのである。

 巨大戦艦構想は確かに極秘だったが、この講演を同時代の聴く人が聴けば、ははあ、これは量(「数」)より質の巨艦を造るつもりだ、と察知できたのではないだろうが。なお、末次は続けて、今日の海軍軍備は飛行機や潜水艦なども進歩しているので、「是等海上兵力を構成する諸要素を綜合大観すると、主力艦丈がものを云ふのではないから、其の国情に応じて種々の組合はせが出来る」、つまり貧乏な日本の「国情」に合わせて工夫したい、と訴えている。彼とて、とにかく戦艦だけをたくさん造りたいなどと言っていたわけではない。

 末次は、当時の海軍部内で対米英協調、ロンドン条約締結に強硬に反対した、いわゆる艦隊派の頭目として、今日の歴史家の間で評判のきわめて悪い人物である。だが彼は日本国民に対し、金食い虫の戦艦は「経済的且つ効果的なもの」とする、これからの戦争は戦艦だけでもない、国家財政に過度の負担はかけない、だからどうか軍艦を造らせてくれと、それなりに筋道立った理屈に基づき理解を求めていたのである。このことが大和型の設計上、コスト計算がやかましく言われた背景となっている。

 翌三七年、末次は予備役に編入されて海軍部内での発言権を失うが、その後は内閣参議・内務大臣に就任するなど、海軍軍人の中では国民との接触面が多かった。彼が中国における権益擁護と海軍軍縮の問題は不可分--権益を守りたいなら海軍軍備は必要不可欠、と述べていたことは先に紹介したが、末次にとっての軍備とは、あくまでも国民の理解と協力を得た上で整備すべきものであった。そのためならば、国民に対しても極秘のはずの大和型戦艦建造を自ら進んで「におわせた」のである。海軍にとっては予算獲得こそが最優先課題なのであり、機密保持はその後であったとも言える。

 大和・武蔵建造が始まった一九三七年、海軍は国民に向けて軍事予算の確保を訴える宣伝パンフレットの中で、次のように述べていた。

  〔議会の〕協賛を経たる海軍予算に就ては海軍に職を奉ずる者は何人も之等国防費は究極するに国民全般の辛労心血より生れ出たる貴重なる結晶であることを瞬時も忘るることなく之を使用する上に於ても出来得る限り節約を旨とし最大の効果を挙ぐることを心掛けて居る次第である。(海軍省海軍軍事普及部『予算上ょり見たる帝国海軍』〈同部、一九三七年〉)

 海軍が国民にこうした懇願ともとれる宣伝をしていたのは、二度の軍縮に伴う人員・予算削減と、昭和恐慌による農村疲弊の記憶がいまだ生々しかったからだろう。

 とはいえ、私は、海軍が組織防衛の論理、「お家」の欲得だけでこの話をしていたのではないと思っている。ここまで引用してきた海軍作製の諸宣伝パンフレット中の記述は、軍人だちが、海軍とは国益擁護という国民からの負託を受けた組織、つまり国民のための組織であると本気で信じていたことの証しでもあるからだ。

 国のために軍艦を造ることと、海軍のために予算を取ることとは、彼らの中でまったく矛盾していない。海軍が大和・武蔵の建造に膨大なエネルギーを発揮し得たのは、末次のような人々が納税者たる国民への使命感と、組織利益拡充の欲望を同時に強く持っていたからこそであった。しかし軍事予算が議会の承認を必要とする以上、窮極的には国民が戦艦はいらないといえば造れない。そこで機密保持を後回しにしてでも「大和型建造は畢竟国民のためだ」と解釈できるような説得が行われたのである。

 次の戦争を用意し、結果的に一九四五年の無残な敗戦をもたらしたのは、軍人たちのさもしい私益追求のみではなく、大陸権益は絶対擁護されねばならない、それが国民のためだという正義感、使命感であった。それらが組織の強力な推進力となったのは、当時誰にも否定できない正義であったからに他ならない。

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