未唯への手紙
未唯への手紙
『そして、私たちは愛に帰る』ドイツとトルコを結ぶ第二世代
『ワールドシネマ・スタディーズ』より ドイツとトルコを結ぶ第二世代の物語
三組の親子の葛藤は、移民第二世代のかかえる苦悩とそれを克服しようとする、それぞれのあらがいを映し出す。これは現代のヨーロッパの多くの都市に見られるテーマであり、映画はこの問題を活写している。現代の若者をとりまいているのはどのような世界で、この世界はどのように成立したのか。この世界を生きていくために逃れることのできない苦悩を、ファティ・アキン監督は、どのように克服していこうとするのか、彼の描く世界像をたどっていく。
うす暗い街角、ブレーメンの裏町を、数人の男が罵声を発しながら駆ける。男たちのことばはトルコ語で、同国出身の娼婦を追っている。映画は、こんな場面からはじまる。
ドイツの都市で、トルコ系の人々の姿を目にすることはめずらしくない。この映画は、その上うな卜ルコ系の人々が、ドイツ社会のなかで、どのような居場所をみつけているのか、その居場所を得るためにどのような葛藤をかかえているのかを考えさせる。物語は、トルコ系ドイツ人の第二世代の男性を中心に、三組の親子をめぐって展開する。ドイツとトルコという、二つの文化のライフスタイルや価値をめぐるすれ違いが、親と子の感じ方や考え方の違いと重なって描き出される。
子どもは、ときに親と違う視線で世界を見る。だが、移民の第一世代と第二世代の場合は、その違いはラディカルにあらわれる。いま、自分が生きている世界への入り方が、親と子で大きく異なるからである。トルコ系の人々が、どのような経緯でドイツに暮らすようになったのか、見ていこう。
トルコ系の人が多くドイツに生活する現在の状況は、ドイツ政府がトルコから労働者を募ったことに起因する。そのときドイツにやってきた労働者が、現在、子供や孫の世代を迎えているのである。
ドイツは一九五〇年代半ばから、「経済の奇跡」と呼ばれる高度経済成長期にはいり、深刻な労働力不足に陥った。高度経済成長期、日本では地方から工業地帯への人口移動によって労働力需要を満たしたが、西ヨーロッパの国々では、外国に労働力を求めた。二国間協定にもとづいて行う労働者募集がそれである。ドイツ政府は、一九五五年、イタリアとの協定を皮切りに、ギリシャ、スペインとも協定を結び、四番目の相手国としてトルコとの協定を一九六一年に結んだ。
トルコで募集に応じた志願者たちは、アンカラやイスタンブールで審査を受けた。とくにドイツから派遣された医師の健康診断は厳しく、申し分なく健康な人だけが、ドイツの各都市に送られた。トルコからきた外国人労働者は、南欧出身者に比べて、まじめによく働いたことが知られている。
政府は、外国人労働者の募集を一九七三年に停止する。石油危機も起こったこの年は、高度経済成長期の終焉を印すことになった。募集停止によって、外国人労働者人口の極端な右肩上がりは抑制されたが、外国人人口そのものは減少することなく、その後もゆるやかな増加を続けた。労働者の多くが、仕事がなくなっても故国に帰らずに、そのままドイツに留まるようになったからである。彼らは、いったん帰国すれば再びドイツで働くことができなくなることを考慮して、次の仕事を探しながら滞在を続けた。滞在の長期化にともなって、トルコから家族を呼び寄せて、ドイツで家族生活をいとなむようになった。こうして、トルコ人家族がドイツ人家族の隣人として、集合住宅やスーパーマーケット、学校や病院、役場や公園など、あらゆる生活場面に関わりをもつようになっていった。
ことばや信仰、食物や生活習慣の違いは、さまざまな出会いとともに、数えきれないすれ違いや無理解も引き起こす。第一世代にとって、それはしばしば片い経験として記憶される。だが、第二世代にとって、世界はさらに複雑である。家庭では、トルコ語を話し、故郷の生活や風景を最善のものと考えている両親に育てられているのに、学校では、ドイツ語を使い、ドイツの制度や文化を学ぶことを求められる。家庭で絶対的に強い立場にある父親が、いったん外に出ると、ひじょうに弱い立場におかれることを理解するのは容易ではない。第二世代は、家庭の内と外で、異なる価値のなかで成長していくことを余儀なくされている。第二世代のドイツ人社会に対する考え方やドイツ人との関わり方は、第一世代とは大きく異なるものになっていく。
このことは、もちろんドイツ人の親子関係にも影響を及ぼす。トルコ系の子どもとともに学ぶ経験は、親世代が経験しなかった若年世代の新しい経験である。それゆえ子どものトルコ系との友人関係は、親が理解しにくい側面もある。そうしたずれが、親と子のライフスタイルや文化的な価値をめぐる考え方の違いを、露見させることにもなる。
主要な登場人物は、三組の親子六人である。一組目の親子は、娼婦街に出入りする初老の男(アリ)とその息子(ネジャッ)である。アリとは対照的に、ネジャットは知的な大学教授で、ハンブルクに住む。休日に父を訪問するが、娼婦に金を払って同居させるような父を嫌悪する気持ちをおさえきれない。アリの年齢や風体は、外国人労働者として渡独した男の老後を描き出す。年金生活で金には困っていないが、金だけが彼を支えている。父と子のライフスタイルは、まったく異なっている。
二組目の親子は、アリと同居する娼婦(イエテル)とその娘ティテン)である。イェテルは、娘の将米だけを楽しみに、娼婦として稼いだ金を娘の学費として送金している。アイテンはイスタンブールの大学生だが、政治運動に奔走している。学費を送ってくれる母親は、店員として働いていると信じて、母を頼ってドイツに逃亡する。
三組目の親子は、ドイツ人学生(ロッテ)とその母(スザンヌ)である。衝動的で未熟なロッテは、アイテンに魅せられて盲目的に彼女を支援し、母親と衝突する。ロッテは、母親のミドルクラス的なライフスタイルを嫌悪する。一方のスザンヌは、娘と衝突しながら、娘の影響のもとに、時間をかけて卜ルコの友人に心をひらいていく。
三組の親子の葛藤は、移民第二世代のかかえる苦悩とそれを克服しようとする、それぞれのあらがいを映し出す。これは現代のヨーロッパの多くの都市に見られるテーマであり、映画はこの問題を活写している。現代の若者をとりまいているのはどのような世界で、この世界はどのように成立したのか。この世界を生きていくために逃れることのできない苦悩を、ファティ・アキン監督は、どのように克服していこうとするのか、彼の描く世界像をたどっていく。
うす暗い街角、ブレーメンの裏町を、数人の男が罵声を発しながら駆ける。男たちのことばはトルコ語で、同国出身の娼婦を追っている。映画は、こんな場面からはじまる。
ドイツの都市で、トルコ系の人々の姿を目にすることはめずらしくない。この映画は、その上うな卜ルコ系の人々が、ドイツ社会のなかで、どのような居場所をみつけているのか、その居場所を得るためにどのような葛藤をかかえているのかを考えさせる。物語は、トルコ系ドイツ人の第二世代の男性を中心に、三組の親子をめぐって展開する。ドイツとトルコという、二つの文化のライフスタイルや価値をめぐるすれ違いが、親と子の感じ方や考え方の違いと重なって描き出される。
子どもは、ときに親と違う視線で世界を見る。だが、移民の第一世代と第二世代の場合は、その違いはラディカルにあらわれる。いま、自分が生きている世界への入り方が、親と子で大きく異なるからである。トルコ系の人々が、どのような経緯でドイツに暮らすようになったのか、見ていこう。
トルコ系の人が多くドイツに生活する現在の状況は、ドイツ政府がトルコから労働者を募ったことに起因する。そのときドイツにやってきた労働者が、現在、子供や孫の世代を迎えているのである。
ドイツは一九五〇年代半ばから、「経済の奇跡」と呼ばれる高度経済成長期にはいり、深刻な労働力不足に陥った。高度経済成長期、日本では地方から工業地帯への人口移動によって労働力需要を満たしたが、西ヨーロッパの国々では、外国に労働力を求めた。二国間協定にもとづいて行う労働者募集がそれである。ドイツ政府は、一九五五年、イタリアとの協定を皮切りに、ギリシャ、スペインとも協定を結び、四番目の相手国としてトルコとの協定を一九六一年に結んだ。
トルコで募集に応じた志願者たちは、アンカラやイスタンブールで審査を受けた。とくにドイツから派遣された医師の健康診断は厳しく、申し分なく健康な人だけが、ドイツの各都市に送られた。トルコからきた外国人労働者は、南欧出身者に比べて、まじめによく働いたことが知られている。
政府は、外国人労働者の募集を一九七三年に停止する。石油危機も起こったこの年は、高度経済成長期の終焉を印すことになった。募集停止によって、外国人労働者人口の極端な右肩上がりは抑制されたが、外国人人口そのものは減少することなく、その後もゆるやかな増加を続けた。労働者の多くが、仕事がなくなっても故国に帰らずに、そのままドイツに留まるようになったからである。彼らは、いったん帰国すれば再びドイツで働くことができなくなることを考慮して、次の仕事を探しながら滞在を続けた。滞在の長期化にともなって、トルコから家族を呼び寄せて、ドイツで家族生活をいとなむようになった。こうして、トルコ人家族がドイツ人家族の隣人として、集合住宅やスーパーマーケット、学校や病院、役場や公園など、あらゆる生活場面に関わりをもつようになっていった。
ことばや信仰、食物や生活習慣の違いは、さまざまな出会いとともに、数えきれないすれ違いや無理解も引き起こす。第一世代にとって、それはしばしば片い経験として記憶される。だが、第二世代にとって、世界はさらに複雑である。家庭では、トルコ語を話し、故郷の生活や風景を最善のものと考えている両親に育てられているのに、学校では、ドイツ語を使い、ドイツの制度や文化を学ぶことを求められる。家庭で絶対的に強い立場にある父親が、いったん外に出ると、ひじょうに弱い立場におかれることを理解するのは容易ではない。第二世代は、家庭の内と外で、異なる価値のなかで成長していくことを余儀なくされている。第二世代のドイツ人社会に対する考え方やドイツ人との関わり方は、第一世代とは大きく異なるものになっていく。
このことは、もちろんドイツ人の親子関係にも影響を及ぼす。トルコ系の子どもとともに学ぶ経験は、親世代が経験しなかった若年世代の新しい経験である。それゆえ子どものトルコ系との友人関係は、親が理解しにくい側面もある。そうしたずれが、親と子のライフスタイルや文化的な価値をめぐる考え方の違いを、露見させることにもなる。
主要な登場人物は、三組の親子六人である。一組目の親子は、娼婦街に出入りする初老の男(アリ)とその息子(ネジャッ)である。アリとは対照的に、ネジャットは知的な大学教授で、ハンブルクに住む。休日に父を訪問するが、娼婦に金を払って同居させるような父を嫌悪する気持ちをおさえきれない。アリの年齢や風体は、外国人労働者として渡独した男の老後を描き出す。年金生活で金には困っていないが、金だけが彼を支えている。父と子のライフスタイルは、まったく異なっている。
二組目の親子は、アリと同居する娼婦(イエテル)とその娘ティテン)である。イェテルは、娘の将米だけを楽しみに、娼婦として稼いだ金を娘の学費として送金している。アイテンはイスタンブールの大学生だが、政治運動に奔走している。学費を送ってくれる母親は、店員として働いていると信じて、母を頼ってドイツに逃亡する。
三組目の親子は、ドイツ人学生(ロッテ)とその母(スザンヌ)である。衝動的で未熟なロッテは、アイテンに魅せられて盲目的に彼女を支援し、母親と衝突する。ロッテは、母親のミドルクラス的なライフスタイルを嫌悪する。一方のスザンヌは、娘と衝突しながら、娘の影響のもとに、時間をかけて卜ルコの友人に心をひらいていく。
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