goo

クリスマスの生活

 クリスマスの生活

  クリスマスもインスタントラーメン。ファミマチキン位は付けて欲しい。
  昨日、奥さんの誕生日で買った、ザッハトルテ。セブンイレブンは不正解。ファミマよりも50円高くて、美味しくない、とのこと。なぜ、スタバは出さないのか。シンプルで好きなのに。

 生きることは考えること

  未唯宇宙第7章生活編の前半の四項目で生活の四つの面がハッキリした。考える。存在する。生きる。生活する。池田晶子さんの「生きることは考えること。考えるのは生きること」の影響をかなり受けている!

 OCR化した本の感想

  『新市民革命入門』

   まあ、サファイア循環の小さい方に当たります。地域の拠点としてのコミュニティでの商売と知識と意識、そして、武器としてのSNSまで書いて欲しい。

   重要なポイントは市民の覚醒とその動機でしょう。

  『ロシアの歴史を知るための50章』

   飢饉は農業集団化の結果であり、その最大の被害はウクライナであった。ソホクリスに次はどこへ行きたいかと味噌煮込みを食べながら、聞かれた時に浮かんだのがウクライナで会った。ロシアの境界線をバルトから縦にトルコまで下る夢を語った。ウクライナ動乱の半年前だった。

   大祖国戦争はスターリンにとっては共産主義よりも民族主義の方が強いことを実感すると同時に、スラブ民族は国家に依存しないと存在できないと実感した戦いであった。

   ソ連と中国の関係は朝鮮戦争で複雑になった。核戦争を避けたいソ連、核戦争を辞さない中国、そして、当事者でありながら、単なるコマになってしまった北朝鮮。何千万人を犠牲にしながら、物事は進んでいった。

  『戦艦武蔵』

   象徴としての大和一艦なら理解できるが、なぜ、武蔵まで作ったのかを知りたかった。海で戦うのであれば、ドイツのように、潜水艦を大量に作ることが米国に対抗する手段であった気がする。

   攻撃機を三機も搭乗できる技術があったのに。海軍の中に潜水艦を低く見る傾向があったのは確かです。真珠湾攻撃の時に、存在を示すために特殊潜航艇を出したのは、その裏返しの真理なのでしょう。捕虜第一号の酒巻少尉の息子が中学の同級生の中に居た。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

なぜ新戦艦武蔵を造ったか

『戦艦武蔵』より 戦艦武蔵の建造

なぜ新戦艦を造ったか

 とはいえ、日本海軍部内では、のちの大和型に至る新戦艦計画の段階ですでに、将来の戦争が戦艦から飛行機に移ることは一部で予見されていた。

 新戦艦設計作業中の一九三四~三六年に連合艦隊司令長官を務めた高橋三吉大将は三六年ごろ、将来の艦隊の主力は戦艦から飛行機へと移るのではないかと考え、海軍首脳の人々にそう話したところ、「君は航空戦隊司令官〔在任一九二八~二九年。海軍初の空母部隊一をやっていたからそう思うのだ、恰かも末次〔信正〕大将が嘗て潜水戦隊司令官をやったので潜水艦の価値を過大視するようなものだ。海軍首脳部では今や「長門」の二倍位の大戦艦で主砲一八吋を搭載するようなものを計画しているのだ」と聞かされたと、敗戦後の一九五八年に回想している(高橋信一編『我が海軍と高橋三吉』)。一部の先駆的な若手航空士官の放言ではない。

 高橋は「これに対し私はまだ航空主力論を強く主張しなかったのを今でも残念に思って居る」と書いているが、これは敗戦後の結果論である。彼が三六年の段階で「強く航空主力論を主張しなかった」のは、続けて「当時艦隊で考えて居った「制空権下の艦隊決戦」という意味は、戦闘機隊を以て彼我上空を制し、爆撃機隊、雷撃機隊を以て敵を攻撃しつつ漸次水上部隊の戦闘に導き、それと呼応して更に水中〔潜水艦〕航空の全攻撃力を以て敵を撃滅するという意味で決戦は巨砲に侯つなどとは最早考えて居らなかった」と述べているように、来たるべき決戦は水上・航空・水中の総力を挙げて行うことになっていたからである。艦隊決戦が航空母艦中心となるのは実際の対米戦開始後である。

 そうである以上、戦艦についても「「長門」の二倍位の大戦艦」もあるに越したことはなかった。前出の中沢佑が新戦艦の速力不足に抗議して辞表を出そうとまでしたのは、この「制空権下の艦隊決戦」という作戦構想が画餅に帰しかねなかったからである。

 海戦の主役を戦艦と航空機のどちらにするかはともかく、高橋が現役の連合艦隊司令長官として一九三六年の大衆雑誌『日の出』(新潮社)で「日本は、いまだ嘗て米国のモンロー主義を否定したこともなければ、英国の欧州における指導的勢力たることに難くせをつけたこともない。にも拘らず、彼等が日本の東洋における優位を認めないとすると、それは彼等がながいあひだ有色人種に対してゐた理由なき優越感と解するほかはない」とアジアの指導者たる自国の正義を叫び(本書一四頁で紹介した、北岡伸一のいう「妥協が困難」な「理念」とはこういったもの)、万一米英と戦争になっても「短刀で大業物と渡り合へと云はれれば、結構立派に渡り合って見せる」と国民に大見得を切っていた(高橋「我に必勝の信念あり」)のは事実である。海軍にとっては飛行機だろうが戦艦だろうが先立つもの--予算の獲得が必要であり、そのためには納税者たる国民の支持が不可欠だったのだ。

大和・武蔵は国民のため?

 日本海軍が「量より質」の考え方に基づいて膨大なエネルギーと予算を投じ、結果的にはほとんど役に立たなかった大和型戦艦を極秘裏に建造したことは、いっけん国民不在のきわめて独善的な行動にみえる。

 たとえば、一九三四年一〇月三一日、軍縮条約の廃棄を原則的に確認した元帥会議で軍令部第一部長・嶋田繁太郎少将が行った説明には「〔軍縮〕協定不成立の場合、生起することあるべき建艦競争の対策としては、我は現在条約維持の場合に要すべき海軍経費と大差なき範囲において特徴ある兵力を整備し国防の安固を期しうる成算がある」との一節があったという(「戦艦武蔵建造記録」刊行委員会編『戦艦武蔵建造記録 大和型戦艦の全貌』)。この説明には「新戦艦の計画をにおわせた」という解釈があり、そうであるならば「量より質」の大和型建造は、軍の最高指導者間ですら秘密の構想だった、ということになろう。

 しかし興味深いことに、戦艦(主力艦)についてほぼ同じ意味のことを、現役の海軍大将・末次信正(軍事参議官)が一九三六年の一般向け講演で国民に向かい、「無条約になれば主力艦は三万五千噸、巡洋艦は」万噸と云った様な艦型の拘束がなくなるから、自国の国情に合った艦を造り得る、今迄は同じ型の艦を造るから数の競争になる。今後は、自分の好きな経済的且つ効果的なものを造るのであるから、必ずしも数の競争をしなくてもいゝのであります」(『海軍大将末次信正閣下述 軍縮決裂と我等の覚悟』)と直接訴えかけていたのである。

 巨大戦艦構想は確かに極秘だったが、この講演を同時代の聴く人が聴けば、ははあ、これは量(「数」)より質の巨艦を造るつもりだ、と察知できたのではないだろうが。なお、末次は続けて、今日の海軍軍備は飛行機や潜水艦なども進歩しているので、「是等海上兵力を構成する諸要素を綜合大観すると、主力艦丈がものを云ふのではないから、其の国情に応じて種々の組合はせが出来る」、つまり貧乏な日本の「国情」に合わせて工夫したい、と訴えている。彼とて、とにかく戦艦だけをたくさん造りたいなどと言っていたわけではない。

 末次は、当時の海軍部内で対米英協調、ロンドン条約締結に強硬に反対した、いわゆる艦隊派の頭目として、今日の歴史家の間で評判のきわめて悪い人物である。だが彼は日本国民に対し、金食い虫の戦艦は「経済的且つ効果的なもの」とする、これからの戦争は戦艦だけでもない、国家財政に過度の負担はかけない、だからどうか軍艦を造らせてくれと、それなりに筋道立った理屈に基づき理解を求めていたのである。このことが大和型の設計上、コスト計算がやかましく言われた背景となっている。

 翌三七年、末次は予備役に編入されて海軍部内での発言権を失うが、その後は内閣参議・内務大臣に就任するなど、海軍軍人の中では国民との接触面が多かった。彼が中国における権益擁護と海軍軍縮の問題は不可分--権益を守りたいなら海軍軍備は必要不可欠、と述べていたことは先に紹介したが、末次にとっての軍備とは、あくまでも国民の理解と協力を得た上で整備すべきものであった。そのためならば、国民に対しても極秘のはずの大和型戦艦建造を自ら進んで「におわせた」のである。海軍にとっては予算獲得こそが最優先課題なのであり、機密保持はその後であったとも言える。

 大和・武蔵建造が始まった一九三七年、海軍は国民に向けて軍事予算の確保を訴える宣伝パンフレットの中で、次のように述べていた。

  〔議会の〕協賛を経たる海軍予算に就ては海軍に職を奉ずる者は何人も之等国防費は究極するに国民全般の辛労心血より生れ出たる貴重なる結晶であることを瞬時も忘るることなく之を使用する上に於ても出来得る限り節約を旨とし最大の効果を挙ぐることを心掛けて居る次第である。(海軍省海軍軍事普及部『予算上ょり見たる帝国海軍』〈同部、一九三七年〉)

 海軍が国民にこうした懇願ともとれる宣伝をしていたのは、二度の軍縮に伴う人員・予算削減と、昭和恐慌による農村疲弊の記憶がいまだ生々しかったからだろう。

 とはいえ、私は、海軍が組織防衛の論理、「お家」の欲得だけでこの話をしていたのではないと思っている。ここまで引用してきた海軍作製の諸宣伝パンフレット中の記述は、軍人だちが、海軍とは国益擁護という国民からの負託を受けた組織、つまり国民のための組織であると本気で信じていたことの証しでもあるからだ。

 国のために軍艦を造ることと、海軍のために予算を取ることとは、彼らの中でまったく矛盾していない。海軍が大和・武蔵の建造に膨大なエネルギーを発揮し得たのは、末次のような人々が納税者たる国民への使命感と、組織利益拡充の欲望を同時に強く持っていたからこそであった。しかし軍事予算が議会の承認を必要とする以上、窮極的には国民が戦艦はいらないといえば造れない。そこで機密保持を後回しにしてでも「大和型建造は畢竟国民のためだ」と解釈できるような説得が行われたのである。

 次の戦争を用意し、結果的に一九四五年の無残な敗戦をもたらしたのは、軍人たちのさもしい私益追求のみではなく、大陸権益は絶対擁護されねばならない、それが国民のためだという正義感、使命感であった。それらが組織の強力な推進力となったのは、当時誰にも否定できない正義であったからに他ならない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ロシアに未来はあるか

『ロシアの歴史を知るための50章』より

ロシア革命とは復古的な革命でもあった。農民革命で共同体が蘇った。パリ・コンミューンの再現どころか、ソヴィエトは「聖なるルーシ」を求め、モスクワを「第三のローマ」と信じるような勢力に支えられた。もともとはヴォルガの革命家であるレーニンもまた、異端派の宗教ネットワークこそソヴィエトの本質であることを、秘書で古儀式派研究者でもあるポンチ=ブルエビッチ(最初のソヴィエト政府の官房長官)を通じて、ソヴィエト運動が古儀式派の環境で生じたことを理解していた。スターリンもソヴィエトは純ロシア現象であると見た。「全権力をソヴィエト」へと言ったとき、マルクス主義者が驚いたわけである。こうしてロシア革命とは古い信仰に忠実な農民兵の反乱であった。第一次世界大戦末、700万人いた農民兵はソヴィエトを通じて土地を得た。レーニンはこの土着的運動をフィンランドの隠れ家で書いた『国家と革命』のなかでマルクスの言うパリ・コミューンの再来であると解説した。

しかし革命の夢は長くは続かない。権力をとると直ちに生じたのはインフレと穀物不足。レーニンとトロッキーが中心となった政権は、直ちに食糧独裁を宣言、穀物と馬を持つ農民に負担を求めた。トロツキーは赤軍形成に際し旧軍将校団の協力を求め、ソヴィエト活動家としばしば衝突した。ソヴィエトは衰退するか、共産党と名を変えた権力党とぶつかるかした。労働者反対派のシュリャプニコフやメドヅェージェフなど古儀式派系活動家は、トロツキーの党運営に抗議、とくに労働組合まで軍の支配とすることに抵抗した。1920~21年の党内闘争はこのような状況の所産であったが、地域では「コムニストなきソヴィエト」運動がウラル・シベリアなどで広がった。

ロシア革命とはその意味では最初から「裏切られた革命」であった。1928~1929年の農村で生じたスターリン官僚と共産党右派との戦いでは、赤軍の幹部となっていた活動家が工業化を求め、スターリンの工業化路線に賛意を表明する。それでも1932~1933年に広範囲な飢饉が襲うと、赤軍やスターリン系党地方幹部も不満を表明する。スターリンは欧米協調の外交路線でかろうじてこの危機を乗り切ると、1937年前後の大粛清でこの体制を一掃する。

第二次世界大戦での赤軍をよく見ると、少なくとも戦闘では冬戦争、1941年6月のように敗北の連続である。しかし聖なるルーシ、モスクワまで脅威にさらされると兵士は反撃に転じる。こうして1812年のナポレオンと同様ヒトラーも結局敗北する。正教を復活させて勝ったのは古いロシア、「大祖国戦争」であることを神学校出のスターリンはよく了解していた。ロシアとは幾重もの皮に覆われた存在である。その表皮を剥いていくとさらに古い核がある。ロシア革命同様ソ連崩壊にもこのロシア史の分裂した意識が姿を現す。

ソ連邦とは形式的には地名のない国家であって、どの民族もソヴィエト的統治を採用すれば参加可能であった。憲法はソ連からの離脱の自由もうたっていて、この条項は無意味なものに思われたが、1991年末ソ連はこの規定に従って、つまりは合法的に崩壊したのであって「陰謀」の所産では必ずしもない。15の共和国がそれぞれ主権を主張する形でこのソ連国家の崩壊過程が進行していた。

ソ連崩壊は、四半世紀後の現代もまた議論の焦点である。プーチンがこれを「地政学的破局」と言ったことを引き合いに出してソ連社会主義という「未練学派(E・H・カー)にしがみつく論者が、ロシアなどで時折見られる。西側でもこれを逆引用して、ロシアがソ連回帰に戻っているという議論がある。プーチン自身は、この引用の後に「ソ連に戻りたいものは頭脳がない」と付加していることは都合よく読み飛ばされがちだ。歴史の法則性にこだわる論者にこのような考えが見られる。

しかしその1991年を1917年の政治過程と比較すると有意義な認識が得られそうだ。ペレストロイカを始めたゴルバチョフらは、1916年末に宮廷クーデタを考えていた二月革命の指導者たちと同様「体制転換」までは構想していなかった。しかし始まってみると「下」に新しい権力核が生じ、「上」の企図とは別の政治力学が展開される。1917年のソヴィエト運動は、1991年の共和国の主権を呼号する共産党民族派同様、「上」の、あるいは改革指導部の思惑を超えてしまう。1917年9月のクーデタを考えていた将軍たちは、1991年8月のゴルバチョフ周辺の保守派と同様な思惑で動いた。しかしそれ自体がまた「革命派」を鼓舞し、事態を真逆の方向へ動かしたのである。いずれについても回想などには「陰謀」や「裏切り」を論難する議論が後を絶たない。しかし生じたことは歴史の現実なのである。

ペレストロイカが始まった時、これを主導した指導者ゴルバチョフは「歴史の見直し」を始め、それまでのイデオロギー化した歴史に別れを告げた。新しい歴史や解釈が現れ、ロシアーソ連とは「予測できない過去を持つ国」であるという評価がはやった。その意味でロシアの歴史研究とは常に未完の企画だと言えよう。

自由化が始まった80年代後半以降「予想できない過去」を持つ国から、ソ連や冷戦史料などの認識や情報が流れ出しだのは偶然ではなかった。この過程はプーチン時代になって奔流は止まりかけたものの、それでも史料公開の流れは完全に終わったわけではない。ロシアや旧ソ連国内でも若手研究者たちが立場を超え研究を進めている。

同時にロシアはその相貌を急速に変えてきた。「もっと社会主義を」で始まった改革運動だが、ソ連崩壊前後は「民主ロシア」が輝いた。やがて経済を中心に民営化をすすめる「自由ロシア」を経てプーチン政権での「保守的ロシア」へとキーワードも変化している。ロシアの変動はあたかも円環のようである。エリツィンがいった「好きなだけ主権を」といった崩壊容認論は過去となり、国家統合がすすむにつれ崩壊が社格となってきた。ソ連崩壊は「20世紀最大の地政学的悲劇」と言ったのは、巷間言われるプーチン大統領ではなく、どうやらウクライナの政治家であったようだが、ロシアもまた崩壊の経験をした後は安定が価値となった。

兄弟国家であるウクライナはロシアにとって反面教師でもある。第40章でも言うように、正教的イデオロギーを嫌ったレーニンがロシア革命後、小ロシア、新ロシアなどと呼ばれた地域をベースに作った行政単位=共和国がウクライナであった。当時クリミアはロシア領、カトリック系の西ウクライナも当初は別の国であった。そのウクライナが輝いていたのは軍産部門からでてきたブレジネフのソ連期であった。しかし1992年に独立して以降のウクライナ史とは、国民国家形成どころか、むしろ分裂と崩壊の歴史であったと言っても誇張とは言い切れない。

ソ連末期のウクライナ共産党官僚から初代大統領だったレオニードークラフチュクは独立25年目の2016年9月、ウクライナは1954年フルシチョフ第一書記によってクリミアを押し付けられたのだと発言、一部で注目されている。フルシチョフが、ウクライナ共産党第一書記アレクセイ・キリチェンコに対し、クリミアには水も食糧もないから、これをウクライナに併合するようにすすめた、というのである。結局、ソ連最高会議でウクライナがクリミアを領有するように押し付けたのが真相だ、と語った。ウクライナとロシアの和解への動きと理解したい。

同様に独立後のロシアもまた、チェチェンなどの分離主義による国家崩壊におびえる歴史もあった。一体純粋「ロシア人」なるものは存在するのか。宗教以外でロシア人を束ねるものは何か。イスラム教徒はロシアにおいて何者か。国家にとって少数民族や宗教はどう共存できるのか。ウクライナ危機とクリミア併合以降、ふたたび「ロシアとは何か」という問いがだされるが、しかし容易に回答はない。

歴史研究は危機によって触発される。その意味ではロシア史も常に再解釈され、読み直され、そして読み替えられる。読者はこのような素材として本書を利用していただければこれに越した編者の喜びはない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ソ連と中国--同盟、対抗、そして戦略的パートナーシップヘ

『ロシアの歴史を知るための50章』より

緊張を孕んだ同盟

 1949年に中国共産党政権が成立してから50年代の後半まで、ソ連と中国は表面上「一枚岩」に見えた。しかし、第二次世界大戦後、中国共産党が政権を掌握することが決定的になるまで、ソ連はその性格と実力に対して懐疑的であった。ソ連が中国共産党を本格的に支持するようになったのは、1949年に入ってからである。1~2月のミコヤン訪中と6~8月の劉少奇訪ソにより、中国共産党は「向ソ一辺倒」を宣言、冷戦のなかでソ連を中心とする東側陣営の大国となった。しかし、歴史的に蓄積されてきた民族感情の対立や国境問題など、潜在的不安定要因が常に存在していた。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約が締結されたとはいえ、両国の関係は当初から「緊張を孕んだ同盟」であった。

 このことは、建国後まもない1950年に勃発した朝鮮戦争に端的に現れている。北朝鮮の指導者金日成が発動したこの戦争は、スターリンの同意を得たものである。だがアメリカなど国連軍の介入は予想外であった。イデオロギーよりも安全保障のため、毛沢東は北朝鮮支援を決定し、朝鮮半島で米中「熱戦」が始まることとなる。スターリンは第三次世界大戦への危惧のために、朝鮮戦争を引き延ばそうとし、北朝鮮と中国に対して強硬な態度をとっていた。1951年に金日成の停戦要請を拒否し、さらに翌1952年に周恩来に対しては、アジアでミニ国連を組織してアメリカに対抗することさえ提案していたのである。朝鮮戦争の停戦協定が結ばれたのは、スターリン没後の1953年7月であった。

関係の亀裂から対立へ

 東側の絶対的権威であったスターリンの死後、ソ連の積極的援助のもと中国は1953年に第一次五ヵ年計画に着手し、1955年に一気に社会主義改造を実行する。他方、ソ連は権力闘争のなかで非スターリン化か進み、1956年2月のソ連共産党第二十回党大会でフルシチョフによるスターリン批判と平和共存路線の提起がなされたが、これこそが中ソ対立の起源となった。

 ソ連のスターリン批判に対して、中国は当初2月の『人民日報』社説では評価したものの、4月の論文では、スターリンヘの賛否両論を併記した。そして中国の社会主義化における矛盾は、スターリンのやり方をそのまま踏襲したからだと考えるようになっていく。同月、毛沢東は「十大関係論」で対ソ独自路線を打ち出した。またポーランドとハンガリーでの10月の動乱に積極的に関与し、社会主義国家間でも平和共存の原則を適用すべきだと主張する一方、ハンガリーでは、ソ連の武力介入を進言した。

 1957年10月、ソ連と中国の間で核技術の提供を含む国防新技術についての協定が調印される。翌11月、モスクワでのロシア革命40周年記念式典に参加するため訪ソした毛沢東は、「東風は西風を圧す」と主張、核戦争で世界人口が半分になっても社会主義は生き残ると、フルシチョフの平和共存政策を暗に批判する講演を行った。この後、中ソ関係に亀裂を広げる一連の重大な出来事が生じた。

 1958年に中国は、ソ連による連合艦隊の創設の提案を主権侵害だとして峻拒した。また内政面でも「大躍進」や人民公社など、ソ連モデルではない、中国独自の社会主義建設へと邁進するようになる。こうしたなかで、1959年、ソ連から国防新技術に関する協定の破棄が通告される。1960年4月、中国は『人民日報』と『紅旗』の共同社説「レーニン主義万歳」を発表し、中ソ論争が表面化する。6月、ソ連は中国に派遣していた専門家を全員引き揚げた。1961年以降中ソ貿易は著しく減少した。

 その後、中ソ論争が全面的に展開されるようになる。イデオロギー論争と党関係以外では、核兵器をめぐる戦争と平和の問題が重要な争点となった。具体的には、①「戦争と平和の問題」について中国側は、帝国主義と階級が存在する限り戦争は不可避であり、帝国主義と対決してのみ平和が守り得ると主張するのに対し、ソ連は社会主義国の団結を砦とする平和勢力の結集が第三次世界大戦を回避する可能性をもたらすのだと主張した。②核戦争について中国が、核兵器は「張り子の虎」であり、戦争の決定的要因は人民であると主張、米ソは核独占の地位を保持し、各国人民の革命闘争を抑圧しようと企んでいるとした。これに対しソ連は、東西間の戦争は不可避的に核戦争へと発展し、そうなれば人類文明を根底から破壊してしまうので、絶対に避けるべきだと主張した。③平和共存について中国が、平和共存は便宜上の戦術であり、国際共産主義運動の基本戦略とすることは誤りであると主張するのに対して、ソ連は核兵器が存在するなか、核戦争による人類の破滅か、平和共存の二つにIつしかあり得ないと主張した。

 このように中ソ論争が激化した背景には、1962年10月のキューバ危機、翌年7月の部分核停止条約の締結以外に、中国自身による核開発の進展、そして1964年10月に中国が核実験に成功したことがあると思われる。その10月フルシチョフ首相が失脚すると中国はこれを歓迎し、翌11月周恩来を団長とする代表団をモスクワヘ派遣し、ブレジネフら新しいソ連指導部と会談を行った。しかし関係改善となるどころか逆に対立が深刻化、国家間関係は断絶に近い状態にまで冷え込んだ。

軍事的対立と米中デタント

  966年に中国で文化大革命が始まり、外交も極左化していくなか、両国はベトナム戦争などをめぐってそれまで以上の論争と非難を交わした。とくにヨーロッパから中国へ帰国する途中の留学生か、赤の広場でレーニンの墓に献花した後に、毛沢東語録を朗読した1967年1月の赤の広場事件や、1968年の「プラハの春」に対するソ連の弾圧と「ブレジネフ・ドクトリン」などを契機に、相互の非難の激しさは増す一方であった。

 1969年3月、中ソ国境のウスリー江上のダマンスキー島(中国名は「珍宝島」)上で大規模な国境武力紛争が発生し、悪化した中ソ関係の度合いは極度にまで高まった。発端は中国による挑発であった。その意図は共産党の九全大会開催の前に、事件を利用してその激しい反ソ感情を一層刺激することによって国民を結束させることにあった。一方、ソ連も同年6月に開催される世界共産党会議を控えて、事件を中国の「冒険主義」を非難する絶好の材料としようとした。このような軍事的対決によって、当時中ソ間の核戦争が一触即発の可能性があると思われたほどであった。それでも9月、北京でコスイギンと周恩来は中ソ国境会談を行い、その結果、武力衝突は沈静化した。

 翌年10月、中国は「敵の敵は味方である」という米ソの矛盾を利用して米中関係を打開する戦略を出した。これが当時ベトナム戦争に苦しむアメリカと見事に戦略方針や利益が一致していたため、米中国交の正常化への動きが始まる。ただし、1971年のキッシンジャーの秘密訪中が公表されるまで、中国は表面的に米ソ双方を非難し続けた。

 1972年2月、ニクソン大統領の歴史的な中国訪問で、米中デタントが実現し、1979年に国交が正常化するが、その後、中国とソ連の対立は深刻化する。同年4月、中国は中ソ友好同盟相互援助条約を延長しないとソ連に通告した。

関係正常化への道のり

 1976年に毛沢束が死去し、中国はようやく文化大革命を収束する。鄙小平を中心に改革開放路線がとられ、82年に米ソのどちらにも頼らない「独立自主」外交方針をとった。同年3月、ブレジネフ書記長はタシケントで対中関係の改善を呼びかけ、9月、中国側は、①中ソ国境と中蒙国境におけるソ連軍の駐留、②ベトナムのカンボジア侵攻へのソ連の支持、③アフガニスタンのソ連軍の駐留、という「三大障害」の除去を前提条件として提出した。

 経済分野などでの関係改善が見られるようになるなかで、「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」を唱えるゴルバチョフが登場した後、政治面の関係改善も進展するようになる。1986年、ゴルバチョフが対中関係の正常化を提案し、また「三大障害」の解決にも具体的な動きを見せたこともあり、関係正常化のための首脳会談が開催されることとなった。1989年5月、ゴルバチョフは北京を訪れ、関係正常化を盛り込んだ共同コミュニケを発表した。もっとも改革の旗手であるゴルバチョフの訪中は民主化運動を刺激し、その直後の6月4日に「天安門事件」が発生する。

冷戦終結後の中露関係

 米ソ首脳のマルタ会談で冷戦の終結が宣言され、ソ連が1991年8月クーデター後解体し、中国とロシアはともに市場経済に重点をおくようになった。ロシアは一応民主主義体制をとっているのとは対照的に、台頭する中国は未だ共産党の一党独裁を堅持している。もっとも国際関係においては両国とも、多極化を主導し、非同盟、非対立、第三国を対象としない関係とする、「戦略的パートナーシップ」という「新型大国関係」を標榜している。このような進展が、国際社会に如何なる影響を及ぼすか、今後も中口関係の行方は目が離せない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

交通のリローカル化--コンパクトタウンとタウンモビリティ

『新市民革命入門』より リローカリゼーションの時代へ 地域循環型経済と暮らしへの道 経済のリローカリゼーションは何をもたらすか

相互扶助のあるコミュニティの再生へ向けて、交通はどのような役割を果たしうるのでしょうか。自動車過剰社会となって、道路は車に乗っ取られ、コミュニティは分断され、中心市街地は空洞化してしまいました。交通のリローカル化とは、道路をコミュニティの人々に取り戻すことです。中心市街地への自動車乗り入れを規制し、周辺農漁業者との連携を取り戻し、自然との関係を取り戻し、人々が集まってコミュニケーションできる「コンパクトなまちづくり」を考える構想が世界で議論、実現されています。

それは、自動車をできる限り規制し、徒歩、電動車椅子、自転車、路面電車(LRT)、バスを中心とする新しいタウンモビリティを構築することにあります。とくに自転車とLRTは、新しいまちの公共交通機関として再評価され、新しいタウンモビリティの時代が起ころうとしています。

交通のリローカリゼーション(地域回帰)とは、「タウンモビリティ」(コミュニティ交通)を考えることです。タウンモビリティとは、新しいまちづくり(都市計画)の構想として、誰もが自由かつ安全に外に出かけられ、人々が出会い、コミュニケーションし、助け合い、周辺の農漁村や自然をも大切にできる、そうしたコミュニティの回復を目指せる交通のあり方を考えることです。

現在の日本は、一方では地方都市の中心市街地が深刻な空洞化に直面しており、「シャッター商店街」は地方都市を語る共通語になっています。車過剰社会は限界にきており、環境汚染のみならず、まち中の道路建設・補修工事や駐車場建設への投資コストも高くなっています。そうして建設された幅広い道路がまちを分断し、人々の出会いを遮り、コミュニティを破壊しています。

他方で、今後の地域社会(コミュニティ)を見渡すと、地方都市でこれから人口が増える見込みはきわめて低く、都心へ通勤するための郊外のニュータウンでも、巣立っていった子どもたちはどの程度戻ってくるか分かりません。人口減少、高齢化、ライフスタイルや価値観の変化、それによる世帯構成の変化などに対して、どのようなまちをつくればいいのか。

明確なのは、人口減少と高齢化の急進展です。日本の人口は五〇年足らずの間に四〇〇〇万人も減少します。高齢化率は二〇二五年には三三%に達します。三人に一人が高齢者となる「まち」のあり方とは、地域の企業や公共施設などの建物が高齢者対応型であるだけでは足りません。すべての住宅・施設が高齢者対応型であるだけでなく、まち全体が高齢者・障がい者対応型のバリアフリーのまちになっていなければならないことを意味します。それには道路・歩道をはじめ公共交通機関のあり方が最も重要な課題です。

新しいまちづくり計画構想として、国際的に「コンパクトシティ(タウン)」の考え方があります。ヒューマンスケールで個性のあるまちを目指し、「コミュニティ再生」と結びつけた「コンパクトなまちづくり」を追求するものです。その中核的テーマはタウンモビリティ(コミュニティ交通)です。自動車交通をできるだけ規制し、徒歩や自転車や路面電車を促進して地域の自然や景観を大切にしつつ、人々の出会いの場をつくり上げ、市街地の活性化をももたらすまちづくりです。

車過剰社会からの脱出

 「コンパクトシティ(タウン)」は、きわめて包括的な概念ですが、国際的にすでに長きにわたり議論され、具体化してきています。欧米では「コンパクトシティ」「サステイナブル・コミュニティ」「アーバンビレッジ」「スマートシティ」などと呼ばれているもので、これらは各々強調点に若干の違いはあるものの、ほぼ同じ系譜の考え方です。

 コンパクトシティとは、地球環境の改善(二酸化炭素等地球温暖化ガスの排出抑制など)に取り組みながら、同時に都市の再生にもつなげられる都市構想を目指すものです。具体的には市街地の範囲を限定し、高密度化させ、自然をできるだけ浸食しないようなまちづくりを行う、低成長時代への対応型都市構想でもあります。

 欧州では、コンパクトシティヘの取り組みは、まず地球環境問題への対応から、自動車が排出する二酸化炭素削減から始まりました。次いで田園や自然環境保全などへと結びつき、人々の生活のあり方を問いかけるものとなり、それが都市間の国際的ネットワークの形成へとつながり、地域の持続可能性を高めるものとしてとらえられてきました。

 これに対して、日本のコンパクトシティ構想は、中心市街地の空洞化、郊外へのスプロール化、人口減少・高齢化への対応が発端となっています。具体的には中小規模の地方都市の中心市街地再生を目指すという考え方が中心となっています。

 EU(欧州連合)は一九九四年に欧州サステイナブルシティ&タウン・キャンペーンを行い、その一環として「オールボー憲章」を採択し、自治体の都市計画の柱として、以下のような具体的な提案を提示しました。これがその後コンパクトシティの構想の基本となってきました。

  ①より高い密度による、効果的な公共交通とエネルギーの供給

  ②ヒューマンスケールの開発

  ③複合機能の促進による、インナーエリアや計画的な新市街地開発における移動の必要性(交通需要)の減少

  ④自動車交通の必要性の減少

  ⑤徒歩・自転車や公共交通の促進

 日本では、一九九九年策定の阪神・淡路大震災後の神戸の復興計㈲書の中にコンパクトシティの概念が組み入れられていました。しかし、日本全国の自治体がコンパクトシティをキーワードに位置付けていくのは、二〇〇六年のいわゆる「まちづくり三法」の全面的見直し・改正後です。改正によって、これまで立地が原則自由に認められていた白地地域への大型ショッピングセンターや公共施設の誘致なども他の開発や立地と同様許認可の手続きを必要とすることとなりました。施設の郊外立地や市街地の拡大を基本的に抑制し、中心市街地への立地誘導を図ることを目指す方向への改正でした。この時の議論に使われた言葉がコンパクトシティでした。この概念は、青森市、金沢市、福井市、神戸市などの都市づくりのマスタープランとして導入されていきました。

自転車優先のまちづくり

 日本の交通政策は、大量の車をいかに効率よく捌くかに焦点があてられてきました。そのため道路は地域生活の中心としての役割を奪われ、単なる車の通路として認識されるようになってしまいました。車対策として、全国の自治体がとったことは、バイパスの建設と広い道路横断のための歩道橋の設置でした。

  自動車利用を前提とした道路政策によって、道幅はできるだけ広げられ、それがまちを分断してきました。空き地は駐車場となり、自動車を収容するための無機的な建造物に都市の貴重な空間を浪費する結果となり、隣人との触れ合いは阻害されてきました。

  自動車は、道路と駐車場のために巨大な空間を消費する空間浪費型の交通手段です。その空間処理のために莫大な財政が投資され、今や不効率となっています。さらに、自動車利用を前提とした都市では、自動車を利用しない人、利用できない人には住みにくいまちとなり、「社会的な格差(交通格差社会)」を生じさせることになりました。

  日本では、車の混雑・渋滞への取り組みとして、地方都市では市街地を貫通していた幹線道路のバイパスを建設していきました。このバイパス沿線や周辺に商業施設が開発されていき、さまざまな店舗がひしめき合うようになりました。一時はバイパス建設があたかも市街地拡大による地方都市発展の起爆剤と考えられるようになり、各地で続々とつくられていきました。

  しかし、バイパス周辺への大型商業施設の進出によって、中心市街地の商店街は急速に空洞化していき、シャッター街となっていきました。と同時に少子・高齢化に加え低成長、さらに若者は相変わらず都市へ流出することによって、購買力は拡大せず、外縁の農地を開発したスーパーなどのショッピングセンターも閉鎖されるところが目立つようになりました。大型空き店舗などが発生し、失業問題、後継店舗対策、取り壊し予算の発生などの問題が起こってきました。

  郊外への大型店進出によって、小売業の店舗面積は増大しましたが、これに比例して雇用数や販売額が増えてきたわけではありません。雇用数の伸び悩みは効率化と説明できるかもしれませんが、販売額の伸び悩みは所得の伸び悩みと人口減少という本質的問題によるものです。こうして市街地の空洞化と近隣のスーパーマーケットの閉鎖によって、障がい者・高齢者にとっては買物をする場が失われる「買物難民」の登場という事態さえ発生することにもなりました。

  買物難民をもたらしている理由には、郊外への大型店の進出のみならず、交通の利便性の衰退によります。これを回復するには、商店街の回復と活性化が必要ですが、同時に誰もが利用できるバリアフリーの公共交通の構築が必要なのです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )