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全握に行こうと思っていた

人生の締切

 締切仕事レッスンに人生という締切がかかれていない。これは片手落ち。

全握に行こうと思っていた

 今日は名古屋で乃木坂の全握です。8時48分のバスに乗っていくことも考えたけど、会場に行っても、グッツを買うことしかできません。混雑を見てもしょうがない。絶対に今日は混雑します。

 それと大きいのは、生ちゃんが来ていないことです。明日の個悪は予約制だから来るでしょう。

朝の行動に躊躇する

 足が吊りますね。何回も。全体にだるい。午前中は起きられない。

サイゼリアで本の処理作業

 サイゼリアで10冊の処理をしたけど、1冊もOCR対象はなかった。豊田市から借りるとそんなもんでしょう。

体調不良って何なの?

 全握はここに来て、体調不調が多いですね。主役の橋本まで休むとは。個悪を優先したんでしょう。若月はミニライブを休んで、握手会に出るみたいです。それに対してのコメントは「ムリしないで」「休んでいいから」「また、来るから」。ファンはやさしい。

他の天体への移動

 他の天体への移動は、この地球にやってきた方法を使えばいい。皆、うすうすは知っているでしょうけど、言わないですね。

OCR化した本の感想

 『好きなことだけで生きる』

  好きかどうかで決める。今、あまりにも内なる世界に居る。少し、動き回ろうか。行きつけのカフェがスタバだから、学生と女性で混んでいて、考える環境ではない。では、どこへ行けばいいのか。

  原点の「宇宙の旅人」に徹しようか。

 『ミクロ動機とマクロ行動』

  なぜ、原爆を使わなかったのか。アメリカの行動原理から考える不思議ですね。やはり、当時のソ連との関係なんでしょう。情報がダダ漏れになっていた。マッカーシーの赤狩りが遅かったのかもしれない。

  朝鮮戦争とベトナム戦争はアジア人種相手だったけど、その背後にそれが居たから、使わなかったんでしょう。時の毛沢東は原爆が中国に対して、使われても構わなかった。1億人ぐらいを犠牲にすれば、世界の世論でアメリカを追い詰められると思っていたんでしょう。思考のレベルが違いすぎる。

 『紙の世界史』

  イスラム世界があったから、「紙」も「ギリシャ文明」も伝わった。西洋も日本もそのパラメーターを理解できていない。次の文明は統べたが融合されたモノでアルコとを願う。
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最も注目すべき出来事は、起きなかった出来事

『ミクロ動機とマクロ行動』より 驚くべき60年--ヒロシマの遺産

 驚くべき60年--ヒロシマの遺産

 過去半世紀で最も注目すべき出来事は、起きなかった出来事である。怒りに任せて核兵器の使用に至ることが、過去60年間に一度もなかった。

 なんとすばらしい成果だろう。いや、成果と言うのがおかしければ、なんとすばらしい幸運だろう。かつてイギリスの小説家チャールズ・パーシー・スノーは、核保有国が核武装を削減しない限り、10年以内に核戦争が勃発することは「数学的に確実」だと述べた。この発言は1960年に『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面に掲載されたが、当時、これを大げさだと感じた人はいなかったにちがいない。

 今日では、数学的確実性は4倍以上になっている。だが核戦争は起きていない。今後60年間もこの状態を続けることができるだろうか。

 核兵器の軍事的有効性にせよ、それが引き起こす潜在的恐怖にせよ、一度たりとも疑問視されたことはない。それなのに一度も使われなかったという輝かしい成果の大半は、「タブー」のおかげにちがいない。第52代国務長官を努めたジョン・フォスター・ダレスは1953年に早くもそのことを見抜き、核兵器をめぐるタブーは遺憾だと述べた。

 核兵器は今日もなお呪われた兵器であり、ダレスが苛立った1950年代初め以上に呪われている。核兵器は特別な存在とされるが、その特別さのほとんどは、特別だと認識されていることに由来する。他の兵器の大半は「通常」兵器と呼ばれるが、この言葉には2つの意味がある。ひとつは「ふつうの、おなじみの、昔からある」という意味で、食べ物から着る物、住まいに至るまで何にでも使える。より興味深い意味を持つようになるのは、盟約、協定、合意などで使われる場合だ。要するに、核兵器は他の兵器とはちがうという了解が成立しているのである。

 核兵器の途方もない破壊力が、通常兵器をはるかに凌ぐことほまちがいない。だがアイゼンハワー政権の終わり頃には、最大級の通常兵器を下回る程度の爆発力しか持たない核兵器も作れるようになっていた。こうした「小粒」の核兵器は、広島やビキニ級の核兵器につきまとうタブーに染まっていないと考える連中もいた。だがその頃にはすでに核兵器は他の兵器と峻別されており、規模が小さいというだけでは、呪いから逃れられなかったのである。

 この50年の間に根を下ろしたこうした姿勢、あるいは合意、あるいは伝統は、大切に守るべき財産である。この財産がずっと守られるという保証はない。現在あるいは将来の核保有国がこの合意を共有するとは限らないのである。核兵器の使用を抑制する現在の姿勢を維持するにはどうすればよいか、これを脅かすのはどのような政策や活勁か、抑制の放棄や消滅が起きるのはどのようなときか、どのような制度や取り決めが抑制を強化または弱体化するのかといった問題は、検討する価値が大いにあるだろう。そもそも、この抑制はどのようにして生まれたのか。必然だったのか、入念な構想の結果なのか、幸運の賜物なのか。また今後数十年にわたりしっかりと維持されるのか、それとも脆弱なのか。これらも検討する必要があろう。この伝統を堅持し、できればまだ核兵器を持っていない国にも広めていくことは、発効後屈年が経過し、運用検討が継続的に行われている核兵器不拡散条約(NPT)の強化に劣らず重要である。

 核兵器の使用に至ったかもしれない最初の事態は、朝鮮戦争の初期段階だった。アメリカ軍と韓国軍は朝鮮半島南端の釜山の防御線まで後退を余儀なくされ、抵抗も撤退もできない窮地に陥った。アメリカでは核兵器の使用が公に議論されるようになり、イギリスから時の首相クレメント・アトリーがワシントンに飛んでくる。韓国で核兵器を使わないよう懇請するためだった。この訪問の意図は公然の事実だったし、また広く宣伝もされた。イギリスは、核兵器開発において自分たちはアメリカのパートナーだったと自認しており、アメリカの意思決定に意見を述べる正当な理由があるとイギリス議会は判断したのだった。

 釜山防御線が絶望的な状況になったら核兵器を使っていたかもしれないが、仁川上陸作戦が成功したため、ひとまず問題は片付いた。だがすくなくとも核兵器の使用は議論の対象になったのであり、結果的に使われなかっただけである。

 あのときに韓国で核兵器を使わなかった理由はおそらくたくさんあるのだろう。だが核兵器が「使える」兵器だと誇示し、不使用の伝統を培う可能性を摘んでしまうことにどのような影響があるのか、当時のアメリカ政府や国民が真剣に考えたという記憶はない。

 朝鮮戦争では、その後に中国が参戦してアメリカ軍が後退を余儀なくされた際にも、血なまぐさい消耗戦が続いた(その結果ようやく板門店で停戦交渉が始まった)際にも、核兵器は使われなかった。戦争がもっと長引いていたら核兵器が使われたかどうか、使われたとしたらどこでどのように使われたか、北朝鮮または中国であのとき核兵器が使われたらその後の歴史はどう変わったかといったことは、言うまでもなく、推測の対象でしかない。戦場ではなく中国で核兵器を使うと脅していたら、停戦交渉に何らかの影響を与えたかどうかも、もちろんわからない。

 ケネディ政権、ジョンソン政権で国家安全保障担当大統領補佐官を務めたマクジョージ・バンディの著書『危険と存続--原爆をめぐる初期50年間の選択』では、核兵器の使用をめぐって、アイゼンハワー大統領とダレス国務長官の興味深いストーリーが展開される。1953年2月H日の国家安全保障会議では、「ダレス国務長官が、原爆の不使用に関する精神的な問題を論じた……核兵器の誤った特別扱いをやめるすべきだというのが彼の主張だった」という。どんな措置が特別扱いを打ら切ることにつながるか、また、何をすれば、あるいは何をしなければ抑制の伝統が維持・強化されるかについて、政府部内でどのような検討が行われたか、私は知らない。とはいえ、核兵器の特別扱いが誤りであるにせよ、それが現実に存在し、かつ好ましくないと国務長官が考えていたこと、さらには国家安全保障会議全体も当然ながら同意見だと信じ込んでいたことはあきらかである。

 ダレス国務長官は、1953年10月7日にも「これらの兵器の使用に関するタブーを断固取り除かなければならない」と述べた。その数週間後にアイゼンハワー大統領は、国家安全保障会議の公式文書に「戦争行為が万一発生した場合には、アメリカは他の武器と同じく核兵器も使える状態にあるものとみなす」と表記することに同意した。とはいえこれは、事実の表明というよりは修辞的表現と受けとるべきだろう。タブーというものは、捨てると明言したところで消滅するわけではないからだ。明言した当人の頭の中からも、である。半年後に開かれた北大西洋条約機構(NATO)首脳会議では、アメリカは核兵器について「もはや通常兵器になったものとして扱うべきである」との立場をとった。とはいえこれもまた、口に出したからといってそうなるものでもない。暗黙の了解は、往々にして明示的な合意よりも排除しにくい。実際に捨てることのできる紙の上ではなく、自分でもどうにもならない意識の中に存在するからだ。

 バンディによれば、核兵器を通常兵器扱いしようという意図の下での最後の公式発言は、台湾海峡危機の際になされた。1955年3月12日にアイゼンハワー大統領が、質問に答えて「いかなる戦闘においても、厳密に軍事標的に対して厳密に軍事目的に限って使用することができるのであれば、弾丸その他を使うようには核兵器を使ってはならないとすべき理由は見当たらない」と述べたのである。バンディは、この発言は政策決定というよりは一種の檄文だと述べているが、そのとおりだと思う。

 アイゼンハワーは、金門島ひいては台湾を守るために、本気で核兵器を使うっもりだったのだろうか。結局、使う必要はなかった。台湾向けにこれ見よがしに核弾頭が輸送されたが、これは言うまでもなく脅しのためである。はったりは危険だとダレスは考えていた。アメリカが核兵器を使わないまま中国が台湾を征服するようなことがもしあれば、タブーをいよいよ破りがたいものにしてしまうからだ。ダレスにしてみれば、金門島はタブーを一掃する絶好のチャンスだった。純粋に防御の目的で、標的を敵軍に限定し、民問人のいない海か海岸堡で短距離核弾頭を使うーそれならアイゼンハワーは許可するだろうし、ヨーロッパの同盟国も容認するだろう。そして核兵器は、「弾丸その他を使うように」使える武器だということを証明できるはずだ、という胸算用である。だが中国はその機会を与えなかった。
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絶望の次の中東へ 歴代政権が落ち続ける穴

『中東の絶望、そのリアル』より 絶望の次の中東へ

アテネのパルテノンは人工美の典型としてしばしば取り上げられる。だが、私にとっては、ヨルダンのペトラにはかなわないと思う。ペトラは、巨大な岩盤をくり抜いて造った秘密の峡谷だ。遠くからは赤く見えるが、青、黄色とピンクなどの色彩が渦を巻いて、しかもデザイン的に完全にバランスと調和の取れた墓所が連なっている。ペトラが建立されたのは紀元前312年だが、どうして忘れ去られていたのか謎であるし、またどうして再発見されたのかも謎だった。ペトラはかつて人口3万の都市だったが、その場所は1812年までヨーロッパ人には、全く知られていなかったのだ。エルサレムの旧市内の薄暗い路地を通って、聖墳墓教会まで歩くのも好きだった。そこにはキリストが傑刑となった場所が急な階段の上にあり、またキリストの墓所が長いあいだ足場を組まれたまま放置されていた場所でもある。誰がこの聖地を修繕するべきか、論争が終わらなかったからだ。

城壁に囲まれたダマスカス旧市内にあるアル・ハミデア市場を一人で歩き回るのも楽しかった。家具、特に真珠をちりばめたタンス、真諭の水差しと燭台、年代物の地球儀、そして、装飾を施したドアなどを見物することができた。ハミデア市場の、砕いたピスタチオをトッピングしたバニラ・アイスクリームの味も忘れられない。イエメンのサヌアの旧市街には、掘り出し物を探すのが楽しいバザールがあった。ジャンビーヤという刃の曲がった短剣、フランキンセンスなどのスパイス、ナツメヤシ、噛みタバコに似た興奮剤のカートなどが並んでいた。

サヌアは、過去20年の間にこの地域に起こったことの象徴だ。私は、しばしばここに出かけた。そしてカフェに陣取って、リラックスした雰囲気の中でイエメン人と会話するのを常としていた。1回の出張のたびに、私は数週間サヌアにとどまった。そして特に計画もなければ、安全確保のネットワークを張ることもなく、毎日のように外出して取材をしていた。雑談から地域事情が浮かび上がり、(プニング的な事件から状況を学ぶことができた。だが、今は、1年にI回から2回行くだけになってしまったし、通りを歩き回るのも安全ではなくなった。同じ場所に長時間いると目立ってしまうからだ。そうすれば、誘拐かAK47自動小銃のターゲットになる。私としては、選べるのであれば後者の方がいい。今日の誘拐というのは、断頭か、溺死か、火刑を意味するからだ。復讐の女神が中東で解き放たれたとき、邪悪な何かが私の最悪の想像を超えて現れる。

中東で享けた人生の喜びは、恐怖と入れ替えられてしまった。特に、イラクとシリアでは全域で人々の生活を暗くしていた。ヨーロッパに100万単位で難民が流入するのは、このためだ。ブッシュ大統領の蒔いた民主主義の種が芽を出し、あるいは「アラブの春」が開花していたのなら、多くの家族があらゆる危険を冒してこの地を後にするようなことはなかった。多くの地域で、すべての希望が失われた。まず、そのことを理解すべきだ。カダフィ政権崩壊の後でリビアに暮らすのは怖いことだ。仕事はない、物を売ることもできない、子どもは学校に行けない、そして誘拐や強盗やテロの危険を考えると車の運転もできない。つまり、人々が幸福を追求したり最低限の豊かさを持ったりできる場所ではない。純粋な混沌があるだけだ。そしてイラクとシリアでは、状況はより悪化している。

以前この地域を支配していた独裁者たちは、自分たちの権力を守るために、若い世代を潰し続けた。その結果が、教育を受けていない若者の群れであり、彼らはISのビデオにある暴力や、自ら目撃した暴力に慣らされていった。そしてトルコ、ヨルダン、レバノンなどの劣悪な環境の難民キャンプで、そしてヨーロッパヘ向かう長い行進を続けるなかで、畑や鉄道駅で野宿を続けた。そうすることで、人間性を奪われていった。

ある悪名高いISのビデオがある。チェチェンの闘士が自分の息子にピストルを手渡し、その男の子は彼らの前でひざまずいている数人の囚人を撃つのだ。こ ・ この子どもたちが20代から30代になる時、私は50代か60代になっているだろう。アメリカでは殺人を犯した服役囚が出獄する時には、年老いた無力な人間となっており、再犯をする体力は残っていないかもしれない。だが、この少年たちはやがて働き盛りの殺人者になるかもしれないのだ。

私が中東に来た頃、ジャーナリストは自由に動き回って取材ができ、イスラエルとアメリカを憎んでいるような闘士に会うことも許されていた。それは一種の免疫のようなものだった。2000年に、AFP通信社で働いていたとき、西岸に行ってパレスチナの闘士と話すのも、ガザに行って(マスのりIダーと話すのも、別にそこに恐怖はなかった。こうした連中は、自分とは明らかに違った。共通点は何もなかった。しかし、私がジャーナリストなので、一般的な良識とささやかな尊敬を持って待遇しなければならない、彼らはそう感じているようだった。連中は、私の意見を変えようと努力したが、その努力を通じて彼らのモノの見方を知ることができた。連中が、100%満足することはなかった。というのは、私の書く内容は連中の主張を完全に反映することはなかったからだ。それでも、連中は私と話すことを重視していた。それは彼らの主張を外部へと伝える唯一の手段だったからだ。

2006年以降の世界では、そうは行かない。ザルカウィは既にイラクで大量殺人を続けていた。そこに突然、インターネットがどこでも使えるようになった。ユーチューブや、他のプラットフォームを使ってビデオをアップロードすることは、子どもの遊びのように簡単になった。ザルカウィと彼の部下は考えた。

「どうして、我々は記者のインタビューに応じて、しかも記者のフィルターを通して物事を表現しなくてはならないのか? 我々はインターネットで直接、自分の言いたいことを正確に言うことができる。そして、西側のジャーナリストが決して見せない種類の動画ビデオをアップすることもできる」

少なくとも彼らのメガホンとしては、ジャーナリストは役に立たなくなった。しかしながら、モノとしての価値はあった。盗まれて、買われて、売られて、囚人と交換されるか、数百万ドルの身代金と交換できるという点で、貴重な存在になった。メジャーなアメリカのテレビ局の特派員として、私は世界で最悪の地域でフェラーりを走らせているように感じ始めていた。アメリカ(そして、英国)の方針は誘拐された国民に身代金を払わないことだ。情報機関は諜報活動を拡大しており、場所の特定能力や、諜報の能力は向上していた。そして特殊部隊が人質救出の急襲作戦を行うことはあった。だが、そのほとんどは致命的な失敗に終わっている。しかし、ヨーロッパの政府は身代金を支払う。そのために、大陸ヨーロッパからのジャーナリストは、ISと他の過激派グループの主要な目標になるのだ。

中東の次の10年で、激しい暴力が横行することは間違いない。だが、その暴力の多くは局地的な派閥抗争が主となるだろう。アメリカのイラク侵攻のような大規模なことは起きず、おそらくアメリカ人の関心も薄れるのではないだろうか。2015年、私が国際会議のためにアメリカに戻った時、私は人々が中東に関してほとんど気にかけていないことに気づいた。アメリカ人にとって中東は、ただひたすらに流血があふれている場所であり、利害関係の対象ではなくなっていた。そして、中東に関するニュースを新聞で読むのも、テレビニュースで聞くのも、もう嫌気がさしていた。とにかく、関わりたくないというのだ。

だが、イランにおける核取引のため、アメリカの関心は中東に戻った。15年にわたってイランの核開発能力を制限する合意は、2015年7月14日に署名された。署名を行ったのは、イランと六つの大国、つまりアメリカ、中国、ロシア、英国、フランスとドイツであった。そして、7月20日に国連安全保障理事会によっても、満場一致で承認されたのである。

本稿の時点では、この合意が機能するかどうかを占うのは時期尚早だ。だが、原則としてこの合意は理にかなっている。超大国であるアメリカは、敵対的な姿勢を取る大国から自身と同盟国を防衛するために外交努力をしなくてはならない。従って、世界の平和を増すための努力はどのようなものであれ、認められるべきだと考える。しかし、私はここで一つの注意喚起をしておきたい。核物質と遠心分離機に関する経過を追跡することは、比較的簡単な部分と思われる。問題は、この合意がシーア派イランを世界経済の舞台に再び登場させるということだ。それはスンニ派とシーア派の間で、地球規模での国力バランスが変わるということを意味する。そして、アメリカはそのバランスを保つ方法をわかっていない。イラクとシリアにおける我々の歴史は、そのことを証明している。結論を言えば、スンニ派とシーア派の関係を仲裁する責任はワシントンにはないということだ。

アメリカの見地からすれば、今回の合意はイランの核兵器製造能力を制限する。そのことは、アメリカにはよいことだ。しかしながら、中東という場所は、アメリカの歴代政権が滑り落ち続ける危険な穴であることがわかっている。仮にイランの合意が崩れるか、あるいは軍備拡大競争につながるのであれば、アメリカは知らず知らずの間に、自分がその穴に戻っていくことに気づくだろう。そうなれば、地域におけるイランのライバルであるサウジアラビアは自身で核開発計画に乗り出すか、別の国から核兵器を購入するだろう。その場合に、最も可能性があるのはパキスタンだ。それとは別に、ISやアルカイダによる大規模攻撃は、アメリカをイスラム世界での新たな戦争に引っ張り出すことを可能にする。中東は磁石だ。そして、アメリカはそこに簡単に吸い寄せられる因果があるのだ。
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独裁と「アラブの春」の幸福 オバマ大統領の矛盾

『中東の絶望、そのリアル』より 独裁と「アラブの春」の幸福 焼身自殺で点いた、チュニジア民衆反発の火 82歳、ムバラク大統領の愚行 ⇒ チュニジアでの「焼身自殺」という手段が、第三次ポエニ戦争でのカルタゴ市民の抵抗を思い起こさせたという説にロマンを感じる。ムスリムは焼身自殺を禁じているが、カルタゴ破壊はその前に起こっている。

抗議行動は、2011年2月17日の午前3時00分、パール広場での座り込みで始まった。エジプトと同じスタイルだった。機動隊と兵士は、催涙ガス弾とゴム弾を発射した。私がサルマニア医療センターに着いた時、取材班は事態に呆然としていた。負傷者の話によれば、デモ参加者はひざまずいて胸を露出し、兵士に撃てるものなら撃ってみろと挑発したのだという。兵士は、その通りにした。少なくとも4人の抗議行動参加者が死に、50人が負傷じた。そして、60人が行方不明になっていると報じられている。

バーレーンは、反乱の鎮圧方法のケーススタディーだ。政府はまず、オンラインで抗議行動を組織していた人々を捜査し、民衆扇動家の容疑者として逮捕した。そうして実際に群衆が行動に参加するのを阻止した。エジプトのタハリール広場の二の舞いにならないように、政府はパール広場をブルドーザーでならし、礎石を粉々にした。2月19日の時点までには、抗議行動の参加者は花を片手に平和のメッセージを叫ぶだけとなった。エジプトの場合とは異なり、オバマ大統領はバーレーンでの激しい取り締まり活動の間、何も発言しなかった。大統領の方針の矛盾は、すでに明らかとなっていた。なぜアメリカは、カイロのタハリール広場で起きた事態には同情的だったのに、バーレーンの君主政体がパール広場をブルドーザーでならしたとき、無関心を決め込んだのか? 中東の人々は、困惑するしかなかった。

現在に至るまで、リビアでは地獄の門が開いたままだ。リビアでの抗議行動は最初から、経済格差や宗教的な差別に対する抗議ではなく、ムアマルーカダフィの体制を打倒することを目指していた。そして、実弾の飛び交う戦いとなった。

クルーと私は、カイロに集まった。我々はリビアに入国するためのビザを持っていなかった。そしてエジプト側からは、国境の向こう側でリビア領をコントロールしている反乱軍がどのような態度をとってくるのか、全くわから’なかった。砂漠の民ベドウィンの密輸業者を雇ってリビアに密入国できないかと、私は考えた。素っ頓狂に聞こえるかもしれないが、私にはラクダの上で砂漠を横断するというアイデアが面白いと思えたのだ。誰が同行するか尋ねたとき、多くの手は上がらなかった。結構だ。自分一人で行く、私はそう言った。

私は衛星インターネット・ネットワークに接続することができる携帯型子機の使用法なら知っている。しかしビデオを編集して、それをコンピューターにアップロードする方法は知らなかった。クルーの人々は私にコーチしようとした。だが、私の技術的知識はあまりに初歩的だったので、うまくいくはずがないと判明した。結局、私の親友でカメラマンの、ジョン・クーイストラが、ムダな個人教授を続けるのはやめて、私に同行すると申し出てくれた。

我々は、リビアのトブルクまで90マイルの距離にあるエジプト北西の村サルームまで、400マイル(640キロ)の移動のためにタクシーを使った。サルームに到着したとき、我々はCNNのベン・ウェーデマンが既に国境を越えたと知らされた。私はカイロで仕事を始めたときウェーデマンのフリーのアシスタントとして働いたことがある。その縁もあって、やたらに競争意識が湧いてきた。リビアからエジプトに逃げてくる難民の群れが殺到するなか、国境のチェックポイントは混乱状態だった。だが、我々はようやく出国のスタンプを得て、二つの国を切り離している無人地帯に向かった。我々が越境しつつあるとボスに報告するために、NBCに電話をしようとした。だが、ここに電波は届いていなかった。ニューヨークとつながっていたら、危険だからやめろと言われていたかもしれない。そう思うと、電波がなくてよかった。リビア側に入ると、反乱軍が手招きをしていた。

最初、我々は動揺していた。というのは、クルマに乗り込むにあたって、連中が誘拐犯なのか、それとも友好的なのか全く見当がつかなかったからだ。だが、反乱軍とその同調者は、極めて協力的で思慮深かった。チュニジアでもエジプトでも、メディアの扱いが反乱側にいかに有利に働いたかを、彼らは見てきたからだった。我々がアルジャジーラのクルーであれば、トブルクまでタダで連れて行ってもらえただろう。だが我々は、ドライバー、食事、一杯のコーヒーの代金を調達するのにさえ苦労しなければならなかった。

ウェーデマンがリポートを始めたという話はまだなかった。ということは、我々は彼に追いつきつつあるのかもしれなかった。

最終的に我々は、第2次世界大戦の激戦地トブルクにたどり着いた。1941年、大部分がオーストラリア兵で構成された連合軍は、この地で枢軸軍に包囲された。だが、「砂漠の狐」として有名なエルヴィン・ロンメル率いる枢軸軍は、翌年に駆逐された。砂漠での戦いは海上の戦いに似ているというロンメルの観察を、私は思い出した。戦略上の拠点に人口はなく、距離は意味をもたない。陸上兵力は、一回の戦闘で100マイル(160キロ)前進することもあれば、後退することもあった。我々は、この後の数カ月にそれを何度も目撃することになる。

トブルクから、さらに290マイル西へ移動して、我々はリビアの2番目に大きな都市で反乱軍の本拠地、ベンガジに入った。途中で我々は、国営ラジオでカダフィのスピーチを聞いた。カダフィの話し方は、時に興奮したり時にダレたり、奇怪なトーンに終始していた。カダフィによれば、アメリカとビンラディンが共謀して反乱軍に幻覚剤の入ったネスカフェを飲ませ、連中の狂気を引き出しているという。ちなみに、リビアという国は一度イタリアの植民地になったことがあるために、ネスカフェのカプチーノがかかっていた。私はプラスチックのカップで出されたリビア風の甘いカプチーノに「はまった」ことがある。もっとも、ネスカフェに薬物が入っていたわけではない。リビアから発した最初のリポートで私は、カダフィが「正気ではない」と報じた。

ベンガジに着くと我々は、ウーゾ・ホテルに滞在した。そこには既に、メディアセンターが用意されていた。反乱軍は、普通の客を追い出して、部屋を将校とジャーナリストに割り当てていた。反乱軍のオフィスは1階にあった。我々が最前線に行きたい場合、私は指揮官の一人に同乗させてくれと頼む必要があった。
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