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サファイア循環の発見

サファイア循環の発見

 循環の発見の所も、何故、循環が必要なのかの項目を入れ込みます。循環の考え方と配置の考え方はつながります。元になる考えです。
 販売店の所は、メーカーとお客様の中間と言うよりも、企業と地域の関係にしていく。そうしないと、社会との関係が出てこないし、メーカの役割も出てこない。販売店環境を重視ル野ではなく、中間の役割を明確にする。

アラブ社会の成り立ち

 アラブ社会は部族とか氏族の方が家族よりも上に位置する。

碌でもない社会

 本当にニュースというものがない。碌でもないことばかり。

OCR化した本の感想

 『観光立国の正体』

  ギリシャからトルコに入国した時に、通訳からトルコとは農業国から観光立国したと言われた。地域で自分たちの環境を良くしないと、来てもらえないという重いが伝わった。

  前のギリシャはストライキでトルコまでの国際列車が止り、バスでの入国になった。観光を守っていこうという重いがない。

  次に入ったエジプトでは、バスで沿道を見ると貧しさが表れ、遺跡を軍が警備しているが、観光客にたかっている。それを苦々しく見ている、通訳のアムロさんにこのままでエジプトはいいのかと尋ねたところ、必ず、変えますと応えられた。地域を守ることには勇気がいる!

 『紙の世界史』

  アレキサンドリア図書館がなければ、ギリシャの文化は伝わらなかった。都に入った船とか対象が持っている「本」を全て、複写して、原本を収めさせた。そのアレキサンドリア図書館を一神教のキリスト教徒が襲撃して、本を燃やす場面では泣けてきた。

  紙で思い出すのが、ベルギーの書籍事情。ベルギーでは紙そのものが高いので、本が少ないと聞いた。中世以降に燃料で燃やし尽くしてしまった。石油が出てきて、余裕が出てきた。やはり、電子書籍の時代にしていかないと。

  それにしても、「紙」はなくならないと言いたいみたい。
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紙の世界の変化

『紙の世界史』より 変化し続ける世界 ⇒ 電子書籍はグーテンベルクを超える変化を及ぼす。一冊の本からバラバラにされたコンテンツ。個人の視点で統合された、私的空間を作り出す。最終的に「知のカプセル」を生み出す。

変化が起こるときにはいつも、勝者と、敗者と、まったく影響を受けない第三者がいる。

一九六九年から一貫して紙の卸売りに携わってきたハリー・グールドは、紙ビジネスの未来についてこう語っている。「卸売り業者の数は今よりもずっと減るでしょうね。もっとも、スチールやアルミニウムのような商品の卸売り業者だと、最後の五業者に残れれば、そこそこ儲けることはできるんですよ」。グールドは製紙業界についてもいくつか予測を立てていて、小さな製紙会社は生き残るし、アート紙も安定して売れ続けるだろうという。「オフィス用紙の売上は年に三パーセントぐらい落ちるでしょうが、三パーセントならさほど深刻な数字ではないですし、競争が減れば価格が上がるということもありえます」。ビジネス用のレターヘッドの販売数は減っても、私信用の便隻、とくに高品質のリネン紙が使われた便僕は今後もよく売れるという。そしてグールドによれば、「おむつと紙袋は不況に強い」そうだ。

デジタル時代の勝者のなかでも大勝利を収めているのが、包装用のボール紙と段ボールである。オンライン・ショッピングの隆盛とともにパッケージ業界は活況を呈し、このことが歴史上はじめて、世界の製紙に占める「情報」用紙の割合が半分以下という事態を引き起こした。いや、正確には歴史上二度めだ。蔡倫以前の古代中国では、紙の用途のほとんどは包装だった。

ハリー・グールドは最後にこういった。「紙が消滅することはけっしてないでしょう」

たしかに紙は、多少の縮小はあったにせよ、今のところ、わたしたちの文化に確固たる地位を確保している。ミッチェル・ケイパーはいった。「現時点で、紙にはまだコンピュータ画面より優位な点がいくっもあります。まず折り曲げられること。寿命が長いこと。これは紙の特性を備えた代替物がないからです。わたしは、紙はこれからもずっとあると思っていますよ。永遠という意味ではありませんが」

紙にはもうひとつ利点がある。電子工学の専門用語を使えば「セキュア」、非常に安全性が高いことだ。電子メールにはハッキング、不正アクセス、改竃という危険がつきまとうが、紙にはその心配がない。アメリカ国家安全保障局(NSA)を内部告発したエドワード・スノーデンが、NSAによる一般市民の監視の実体をジャーナリストのグレン・グリーンウォルドに暴露しはじめたときに、ふたりが恐れたのは政府に通信内容を傍受されることだった。これは充分に根拠のある危惧で、会って話すことはできても、部屋が盗聴されている可能性もある。高度に暗号化された電子メールを送ったとしても、それすら安全とはいいきれない。結局、ふたりは座って手書きのメモを渡し合うことにした。紙なら破けるし、燃やせる。そう、紙のもうひとつの利点とは破壊のしやすさ--電子情報とは比べものにならないほどの--なのだ。

皮肉なことに、デジタル機器を使用したコミュニケーションが人間と文明にもたらす破滅的な影響について書かれた多くの紙の本が出版されている。それらの本は、わたしたちは記憶力や、ひとつのことを考え続ける能力や、じっくりと考えて、ひとつのアイデアから正しい道を探りあてる能力を失っていくと警告する。情報伝達の方法が口伝えから書き言葉へと変わったときにも、まさに同じ警告がなされた。プラトンやソクラテスが討論していたころの警告にもある程度の真実があったし、現代においてもまた同じくだ。携帯を片手になんでもかんでもグーグルで検索しようとする無礼な相手と会話していると、プラトンの『パイドロス』のなかでソクラテスがいっていたことが、とてもよく理解できる。「書かれた言葉というものは人々に忘れやすさの種を植えつけるだろう。人は書いてあるものに頼り、記憶力を働かせることをやめてしまう。もはや自分の頭を探ってなにかを思い出そうとはしない……そんなものは真の知恵ではないのだ」

「そんなものは真の知恵ではない」。インターネットから拾ってきた話を得々と披露する人を見るたび、そう思うのではないか? 検索エンジンに頼りきっている人を見るたび、書き言葉をあてにする人々についてプラトンが語った言葉がよみがえってこないか? 「彼らはいろいろなことを知っているように見えるが、ほとんどなにも知らない」。けれど、書き言葉が確立されても人間の対話と知の追求は続き、やがて書き言葉は便利であることが証明された。紀元前一世紀の詩人ホラティウスは「リッテラ・スクリプト・マネト」「書かれた言葉はとどまる」という言葉を残した。

デジタル時代に消えゆくであろうものを予測するまえに、口承文化が今も生き残っているということを思い出してみるのもいいだろう。新刊本の販売促進で最初におこなわれるイベントが著者による朗読会であったりするのは、人には耳で聞いたものを読みたくなる傾向があるからだろう。オーディオブックも人気となっている。

今なお受け継がれている口承の伝統はたくさんある。アフリカの語り部。特異なリズムとライムで即興の歌詞を競い合う、トリニダードのカリプソ・ミュLンシャン。独特の覚えやすい韻律で死者のために唱える「カディッシュ」のような古代ユダヤから伝わる祈り。口承の伝統ではリズムとライムが記憶の補助に不可欠である。

バスク地方には「ベラチョラリ」と呼ばれる即興詩人が即興詩を競う伝統行事がある。バスクの詩歌もリズムと韻の踏み方が特徴的で、バスク地方の千四百人もの人が参加する行事だ。さらにいえば、どんな文化でも詩それ自体が、書かれた形で続いてきた口承文学の実例である。書かれた詩がもつ口承の特性を疑う同きには、アイルランドの詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツ本人による詩の朗誦の古い録音を聴くことをお勧めする。

人間が生まれながらにして人とのつながりを求める生き物なのはあきらかだ。脳のなかには、人間をもっとも社会性の高い動物にしている部分、他者とつながりたいという欲求を起こさせる部分が存在する。わたしたちの脳はそのように進化してきた。遺伝コードにその部分が組み込まれていて、人間の進化につれて強まると思われる。つながりを求めるのは生存に利する形質だからだ。人間が話し言葉を、つぎに書き言葉を発明した理由はそこにある。さらに紙を、印刷を、電子機器を発明したのも同じ理由からだった。これは進化であって、革命ではない。

書き言葉については、発達の初期段階である絵文字や象形文字への回帰も見られている。道路標識、女性トイレや男性トイレの案内。デジタル・コミュニケーションにおいては、「エモーション」--感情を表す「エモーション・アイコン」の略--と呼ばれる顔文字の活用も増加している。わたしたちはなぜ発達の初期段階の文字に立ち返ろうとするのか? なぜ「ハッピー」を意味する②のような感情の絵文字が、二+一世紀のデジタル言語にどんどん仲間入りしているのか? それは、変化と変化に対する抵抗はつねに手を取り合って進むからなのだ。
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『コーラン』の写本

『紙の世界史』より イスラム世界で開花した写本

イスラム世界で開花した写本

 七世紀前半のイスラム教の創始を境にアラブ社会で文字が使用される機会は増えていく。『コーラン』は預言者ムハンマドに啓示された神の言葉と信じられていたが、ムハンマドはアラビア半島のほとんどの人と同様、読み書きができなかったので神の言葉を書記官に口述筆記させた。イスラム教が広まると『コーラン』の写本への需要が高まり、一冊ずつ丹精こめて正確に書き写すことが求められた。神の言葉は音節のひとつさえ誤記するわけにはいかない。しかも、聖典の書写面それ自体が美しくなければならない。これがアラビア書道の始まりである。

 ムハンマドの存命中、『コーラン』の複写はほんの数部しかなく、そのなかの言葉は詩と同じく口承されていた。イスラム教が時代を問わず暗記を重要視してきたのはそうした理由からだ。しかし、ムハンマドの死から一年経った六三三年、おびただしい数の「ハーフィズ」すなわち「『コーラン』を詰んじる者」が戦死すると、もはや口承では頼りないと指導者たちは考えた。『コーラン』の写本はもっとたくさん必要だ。そこで書記官をその作業にあたらせた。こうして、粗雑な殴り書きだったアラビア語の文字は、ムハンマドの死から百三十年が過ぎたアッバース朝カリフの時代には、いまだかつてない流麗な書体をもつ文字へと変わっていた。

 イスラムの書家になるのは社会的地位の高い男で、学者が書家を兼ねることもあり、当時の歴史に名が残されている者も多い。『コーラン』を書き写した偉大な書家は聖者として崇められた。実際、『コーラン』には神は人間にペンを与えたと書かれており、書くことは神から授かった才だと示唆している。形を崩したアラビア語の字体の数は増し、十世紀には、ゆるやかな曲線や渦巻きを特徴とするもの、角が目立つもの、水平の線を強調したものなど、その数は二十に達した。

 イスラム教徒は遠征の過程で数多くの学問の拠点と接触し、遠征するたびに知識を向上させた。中央アジアでは中国人から製紙と錬金術を習い、エジプトやシリアの人々からは商業を学んだ。ギリシア人からは水力工学を、北アフリカやスペインやシチリア島ではローマの土木工学--橋、ダム、水路の建設や灌漑--を学んだ。

 アラブ人が歴史のもっと早い時期に製紙と出会っていたとしても、いや、出会っていたのかもしれないが、それを利用することはほとんどなかっただろう。だが、彼らが中央アジアで紙を作りはじめたのは、帝国の領土とイスラム教の勢力の拡張に邁進しているときだ。その勢いを補佐するには紙が必要だった。帝国運営の基盤たる官僚制にも、新たに学ぼうとしているたくさんのこと、絵画や科学、ますます豊かになっていく文化にも紙は不可欠だったのだ。

 ボストン大学でイスラムおよびアジア美術を研究するジョナサン・ブルーム教授は、「知識社会」とは「大多数の人々が一様に読み書きできる」社会であると定義し、イスラム帝国は史上初の真の知識社会だったと認めている。イスラム教徒は、アラビア文字は少数の知識階級の特権ではなく一般大衆の権利であると、裕福な人にも貧しい人にも信心深い人にもそうでない人にも与えられているものだと考えた。

 アッバース朝の初代カリフの時代は記録用の書写素材はまだパピルスである。パピルスは六四一年にエジプトを征服してからは入手しやすくなっていた。記録ずみの用紙を保管する方法は、ルーズリーフ式に綴じるか丸めるかのどちらかしかなかった。そこで政府高官のハーリド・バルマクは、パピルスの全記録を冊子本にするように命じた。これはシリアで従来から採用されていた保管様式だ。紙面がほつれやすいパピルスはコデックスの綴じ方には向かなかったため、アッバース朝はシリアに倣って羊皮紙を使いはしめた。

 七八六年、第三代カリフの息子のハールーン・アル-ラシードが権力を握った。「アル-ラシード」は「正統」を意味する尊称だ。ハールーンの治世の二十三年間は、彼の生涯においてもその後の歴史を通してもイスラム帝国に惜しみない称賛が与えられた時期だった。十九世紀のイギリスの詩人、アルフレッド・ロード・テニスンまでが「誉れあるハールーン・アル-ラシード」に触れている。しかし、現実には拷問と暴虐と大殺戮がおこなわれていた。一方で、ハールーンはアラブ文化の大展開を進めたことでも知られており、そうした功績の一例が行政官のアル-ファドル・アル-ヤフヤーによる公務の促進で、アルーファドルは図書館に保管される記録文書を羊皮紙から紙に切り替えたことで知られる。

 アラブ人は羊皮紙を捨てたわけではなく、パピルスさえ簡単には手放さなかった。ユーフラテス川の河畔でパピルス草の栽培を試みたほどで、そのためにナイル川のデルタ地帯からエジプト人の専門家まで雇ったが、やがて、パピルスでは国内の需要を満たせないこと、安くて軽くて丈夫な紙なら需要を満たすことができると気づいた。紙にはもうひとつ、不正を防ぐという大きな利点があった。羊皮紙やパピルスの文書ならたやすく改京できたが、紙の文書となるとそうはいかなかった。

 羊皮紙やパピルスの役目を紙にさせるためには数々の変更を余儀なくされる。だが、アラブ社会ではまだインクの製造工程も整っておらず、叔目家や占記竹は各自でインクを作っていた。おまけにそれは羊皮紙用だから、紙を蝕む酸の含量が高い。紙への切り替えにともなってインクが油煙墨に替えられた。油煙墨は中国人が好んだ黒色炭素インクである。この新種のインクは「ミダード」と呼ばれた。

 書写素材が紙になると書体も変化し、専門家でなくても読解しやすいように一語一語のあいだにスペースをとった新しい書体が採用された。

 イスラムの書記官の元祖である『コーラン』を書き写す男たちは、紙が導入されてからも聖典の書写には、長持ちするという理由で羊皮紙を使うことに固執したが、帝国の領土拡大の結果として聖典以外にも複写の必要が増し、そちらは紙に切り替えられた。イスラム帝国の拡大とともに書記者「クタブ」は官僚組織における中心的な存在となっていく。建前では書記者は事務仕事をする役人にすぎないが、政治を動かす大きな力をもった補佐官や顧問となる者も現れた。行政文書では提供される情報もさることながら、優雅な体裁と美しい書字が重視され、書記官には詩から民話、『コーラン』にいたるまで豊富な知識が求められた。
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ブルガーゲマインデという地域経営組織

『観光立国の正体』より 地域全体の価値向上を目指せ ⇒ 観光立国のベースは地域です。トルコの観光地の治安は地元が守っている。

ブルガーゲマインデという地域経営組織

 スイスの各市町村における地域経営の基盤となっているのが「ブルガーゲマインデ」と呼ばれる組織です。ブルガーとはドイツ語で市民ご任民のことです。役所や役場のような行政機関とは違う住民主体の独自組織なのですが、強いて訳すなら「住民自治経営組織」のようなニュアンスでしょうか。

 かつてスイスの山岳地方は貧しく、満足に働ける場所がありませんでした。そこで住民同士が協力して自分たちの持つ土地や資源を活かすことで新しい仕事をつくり、地域全体の経営をするための組織として始まりました。そもそもスイスに限らずヨーロッパの地方都市には、近代以前から続く自治組織の伝統が根強く残っています。ツェルマットのブルガーゲマインデも四〇〇年以上もの歴史を有し、村の基本的な経営方針を決めるにあたっては、今でも大きな影響力と権限を持っています。

 現在でも観光・リソート地としてのツェルマットの経営の中心的な役割を果たしているのが、実はこのブルガーゲマインデです。もちろん行政機関としては村役場の役割も大きいのですが、行政主導ではなく、官と民がそれぞれフラットな立場で地域にとって最もメリットのある方向性で運営を進めています。ブルガーゲマインデと村役場が両輪となり、地域内の幅広い業種・分野の意見を反映させ、連携も密接に取ることで地域経営を潤滑に機能させているのです。

 またブルガーゲマインデは、地域の共有財産(山や森、放牧地等)の維持管理だけでなく、地域全体の経済的な価値を高め、収益性を向上させる役割も担っています。ブルガーゲマインデが一〇〇%出資した「マッターホルングループマネージメントAG(株式会社)」は地域を代表する民間企業として多くの事業を展開しています。例えば、ツェルマットで一番有名なフラッグシップホテル「グランドホテル・ツェルマッターホフ」は、もともと住民が乏しい資金を出し合い、更には自らの労働力を提供してブルガーゲマインデのメンバーが中心となって建設したものです。現在はこのホテルだけでなく、山岳ホテル「リッフェルハウス」やゴルナーグラート山頂にある「クルムホテルゴルナーグラート」、その他にも多くの山小屋レストラン、バー、売店等を経営しています。また、村内のロープウェイ・リフト等の索道会社には出資という形で経営参画しています。ブルガーゲマインデそのものが直接経営に乗り出すのではなく、各会社の株を持ち、それぞれの経営に大きな影響力を持っていますが、いずれにせよ住民主体の組織で運営の方針を決め、地域にとっての利益を最大化させ、雇用を確保しているわけです。

 このブルガーゲマインデこそ、スイスにおける地域振興のカギだと言えます。実際、日本から視察に来られた方々が一番感銘を受け興味を抱かれるのは、必ずと言っていいほど「地域経営のしくみと組織としてのブルガーゲマインデ」です。

 地域振興で重要なのは、その土地に住んでいる人が自ら責任を持って決断、実行できるしくみです。その意味では、今後の日本の観光ビジネスのみならず、地方創生時代の地域の経営を考える上でも、ブルガーゲマインデのあり方は参考になると思います。

スイスの観光局は自主財源を持った独立組織

 ブルガーゲマインデが「立場を超えた住民が主体的に参加するパブリックなテーブル」とするならば、そこで決まった方針に基づいて、具体的なマーケティングとブランディングを手がけるのが観光局です。例えばツェルマットの場合、観光局長をトップにマーケティング課、スポーツ・カルチャー・イベント課、インフォメーション課、総務課の四つの担当部署が組織内に置かれています。

 日本との大きな違いは、自主財源を持った独立組織だということです。観光局自体は行政傘下にはありませんが、「観光税」と「観光促進税」が直接的な収入となり活動資金になっています。観光税はいわゆる宿泊税のことで、一泊一人あたり二・五フラン(約三〇〇円)です。ただし、この財源は観光振興のための目的税なので、直接お客様に還元される分野にしか使えません。具体的にはウェブでの情報提供、パンフレットの製作・郵送費、ハイキングコースの整備、休憩用ベンチの設営費などです。もう一つの観光促進税は、村内で働く就業者の観光従事度に対して全ての企業から徴収される税金で、観光依存度が高い業種ほど税率も上がるしくみになっています。ちなみに、予算総額は日本円で約九億円です。人件費が占める割合が多いですが、予算のほとんどはマーケティング費用です。

 ツェルマット観光局のインフォメーション・カウンターでは、一般的な情報提供や宿泊手配などが主業務です。私も以前ここでカウンター業務を担当していました。これとは別に「スノー・アンド・アルパインセンター」というスポーツアクティビティに特化したオフィスがあり、スキー・スノーボードスクールや山岳ガイド協会の総合窓口になっています。そして、この二つの組織は密接に連携しています。

 インフォメーション業務で最も重要なのは、お客様にミスマッチを起こさせないことです。これは、かつて私がカウンター業務をしていた際にも細心の注意を払うように指導されました。満足度の高いサービスを供給するためには、予算や家族構成なども含めお客様が求めているニーズをしっかり把握することが不可欠です。

 もう一つ、サービスをする側の都合を決して優先させないことも大切です。日本の観光協会や案内所は観光サービスを提供する一元化された窓口になっていないため、現地発着型プログラムやツアーの予約を未だに受け付けないところが少なくありません。しかも、何故か日・祝日には窓口がお休みのところが多く、利用者のことを全く考えていない体制になっています。目の前のお客様をみすみす取り逃がしているわけです。

 現在、ツェルマットの全体的な観光戦略は五年毎に立案されています。観光戦略委員会は村内にある六つの組織、団体で構成されています。それは、ブルガーゲマインデと村役場、ツェルマット観光局、宿泊事業者協会、ロープウェイ会社、登山鉄道会社です。委員会では、これまでの事業総括から新しい目標指標が示され、事業計画が立てられています。
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