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移動の不自由を解決する方策 小さい交通

『<小さな交通>が都市を変える』より 移動の権利 移動の自由が侵されている

コンパクトシティ

 そこで、第3波はこの自動車支配の構造そのものを変えようという発想から生まれた。それはコンパクトシティに代表される動きである。コンパクトシティは、その意味では、単に交通政策ではなく、スプロールした自動車依存の都市そのものを否定するという、現代都市に対する真っ向からの挑戦である。コンパクトシティは、市民は都心に高密に住み、重要な施設も歩ける範囲に配置され、日常生活は徒歩ですませ、少し遠くに出かけるときは公共交通を利用することができる、という都市像である。新規開発でコンパクトシティを実現した例では、アメリカのニューアーバニズムの思想で開発されたフロリダ州のシーサイドなどが知られているが、日本のように人口減少が今後長期的に続く地域では、もはやニュータウンの需要はない。コンパクトシティが理想だとしたら、既成市街地を改造してコンパクトにする他はない。ところが、すでにスプロールした都市をコンパクトにしようとすると、空間再編は都市全体に及び、多くの市民の生活と財産に関わるだけに実現は難しく、これを解決する有効な方法が示されているわけではない。実現性はひとまず保留しても、コンパクトシティの目標像としてよく言われる「歩いてくらせる町」が本当に意味のある目標かどうかも検討を要する。まず、歴史的に見ると「歩ける範囲で生活が完結する」という理念は、決してコンパクトシティが初めて言い出したことではない。それは1924年にアメリカの社会・教育運動家で地域計画研究者であったクラレンス・ペリーが提唱した「近隣住区論」で主張された。近隣住区は幹線道路で囲まれ(通過交通が入らなぃということ)、人口は5000-6000人程度で、約60ha(半径400mほど)を想定する。近隣住区の中には小学校、教会、コミュニティセンター、公園などが配置され、隣接する住区とのあいだに商店を配置する。まさに歩ける範囲に商店を置く考え方であった。この考え方は、日本では初期の住宅公団などの住宅団地に適用され、住区ごとに一通りの商業機能をもたせようと、小さな八百屋や肉屋や花屋、そして内科や歯科などの診療所を計画した。ところが、多くはすぐ寂れてしまった。というのも遠くても品揃えの豊富な店ができると、消費者はそちらに行ってしまうからである。

 現代の都市には豊富なモノやサービスが溢れている。それが大都市が人々を引き寄せる大きな魅力となっている。その状況は公団住宅が計画されたころよりさらに進展している。だから、仮にコンパクトシティができても、人々の行動はコンパクトシティの範囲内にとうてい収まりきらないだろう。自動車所有を禁止でもしない限り近隣の商店は維持できないだろう。高齢社会と言っても、全員が高齢者になるわけでも、高齢者全員が車をもたなくなるわけでもない。むしろ身体機能が衰えた高齢者は、車が使えれば、若者以上に歩いて行けるところより、車で行けるところを選ぶだろうと予想される。

 コンパクトシティが制度的に実現可能で、居住者の半分が地元の商店で買物をするという協定に参加するという仮定(そうすれば近隣の商店街は維持される)をしても、それでもコンパクトシティをもって高齢社会に対応するという解決策は無謀である。なぜなら、都市の構造を作り替える前に、超高齢社会はすぐそこまできているからである。

自動車を共有する(カーシェアリング)

 都市の形態をコンパクトにする方法も、都市内公共交通網を充実する方法も、いずれも自家用車に過度に依存した都市構造を変えようという大胆な意図をもった施策である。しかし、産業構造から、人々のライフスタイルにまで浸透した自家用車利用を変えることはそう簡単ではない。そこで、次に考えられる方法は、とりあえず自動車社会を受け入れたうえで、自動車を経済的に利用するにはどうすればよいかを考えることである。すなわち、自動車は使うが、自動車を世帯や個人で所有せずに、複数の人たちで共有(シェアリング)して、必要なときだけ利用するというものである。これが、4番目の解決法である。共有することで世帯の出費が減り、自宅の敷地を浪費する駐車場も不要になり、ひいては自動車利用そのものも減ることが期待できる。第1章でタイムズ24によるシェアリングシステムを紹介したが、すでに大小様々な試みがなされている。所有することから共用することへの意識改革が緩やかに起こっている現代日本では、今後も増え、日本の社会構造に適した方式が定着するだろう。特に日本の都市の郊外はスプロールしたと言っても北米や豪州の低密度な郊外とは異なり、自転車さえあればなんとかなる地域が多く、自家用車の稼働率はそれほど高くない。自動車所有の社会的ステータスも下がりつつあることも考えると、カーシェアリングの将来性は大きいと言ってよいだろう。

 ただ、自動車の共用システムをいくら普及させても、そもそも自動車免許をもたない3分の2の日本人や、身体的理由で運転ができない人には意味はないのだからこれは万能ではない。

物やサービスを配達する

 5番目の方法は、必要とする人にサービスや物を直接配達することである。そうすれば、個人が買物や用事のために移動しないですますことができる。高齢者が増え、自分の力での移動が困難な人が増えるのだから、確実に需要かおる。第1章で紹介した移動スーパーや移動市役所、コンビニの配達ビジネスを待ち望む人は多いだろう。

 問題があるとすれば、特に高齢者を家に閉じ込めてしまうことである。人間は身体をもった存在であり、身体を動かすことは生命維持にとっても、精神活動にとっても必須のことなので、家にいれば何でも届く状態は高齢者にとって必ずしも望ましいとは言えない。がっては、炊事・洗濯・掃除など、家庭生活のなかにも肉体労働が様々あり、家庭生活の近代化はそれらを機械で代替して、辛い家事労働から解放することであった。しかし、肉体労働をしなくなると、今度は身体のほうが不調をきたすようになる。いわゆる生活習慣病もそのひとつである。家に閉じこもりきりになると、短期間に全身の身体機能が低下する。「日常の「生活が不活発」なことが原因で起きる全身の機能低下」は「生活不活発病」と呼ばれている。実は要介護の状態になる人の多くが、この「生活不活発病」が原因であり、その数は脳卒中などの病気が原因で身体が不自由になる場合を上回るという。

 家に閉じこもりきりになる理由は身体的理由だけではなく、「身体が不自由な人」として人前に出ることを恥ずかしく思うからでもある。いろいろな能力を持った人たちが堂々と街に出られるような都市文化が求められるが、デザインもそれを支援できる。ウィルの「カッコいいデザイン」は、このことを理解した戦略である。

小さい交通

 そこで登場するのが6番目の方法である。自家用車以外の移動手段で、公共交通と徒歩の中間的交通手段、つまり本書の主題である〈小さい交通〉を充実させることである。

 運動能力が十分ある人にとっては、〈小さい乗り物〉の代表は自転車である。軽く、小さく、高速で、安定した走りができる。例えば、3kmの距離は、歩けば35分から45分かかるが、自転車ならば10分もあれば行ける。自動車に比べて駐車(駐輪)する場所にも困らない。筋力が弱い人には電動アシストつき自転車もある。身体機能がもっと低下した人なら、四輪の電動アシスト自転車やノヽンドバイクであれば難なく乗ることができる。四輪や三輪のものは安定感かおり、低速走行であってもバランスを維持できる。ただ、折りたたんで持ち込むほどの軽量のものは未だ開発されていない。

 このように〈小さい交通〉は徒歩より速く、遠くまで移動できる。それは、公共交通の駅までの移動や、自動車免許や自動車を持だない人の移動や、歩くには遠い用先への移動に便利である。それは、公共交通網を補い、公共交通の活用を促し、経営の健全化につながる。それは自分でできることは自分でしたい人のための移動手段である。しかも体を適度に動かすので、身体を活性化する。ジムに行かなくても健康になれる。〈小さい交通〉は、これまでの徒歩、公共交通、自家用車に続き、かつまったくタイプが異なる第4の交通である。〈大きい交通〉と歩行のあいだに、きめ細かに対応するく小さい交通〉を挟まないと、社会的分断と格差が広がる。

 〈小さい交通〉の効果を、新潟県長岡市を事例にして試算してみよう。長岡市は、市街地かおる程度コンパクトにまとまっているが、典型的な自動車依存の地方都市である。人口分布と生鮮食料品店の関係を見ると、店舗から250~500mの距離帯に住む人口が最も多く、ついで250~ァ50mの距離帯に住む人口が続き、生鮮食料品店から半径1km以内に人口の半分以上が居住している。多くの人にとっては気軽に歩いて行ける距離に生鮮食料品店があるわけでもない。もし、各家庭に使いやすい小さい乗り物があれば、買物難民人口(生鮮食料品店から500m以上離れた場所に居住する人口)のうち、およそ半数が生鮮食料品店へ日常的にアクセスすることが可能になる。
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富山ライトレールのトータルデザイン

『シビックプライド2』より ライトレールのデリバリー作戦 富山県富山市

トータルデザインという方法

 そうしたデリバリーのスタートは、富山市のLRT事業計画に合わせてのものだったが、立山連峰をバックに最新の低床型LRT車両が、富山の市街地を軽快に走っているシーンなど、私ですら10年前には想像もしていなかった。

 富山ライトレールのトータルデザインには、厳しい時間的な制約があった。準備と基本計画に1年、実施デザインに1年、工事の監理で1年。公共交通の計画としては、大変タイトなスケジュールであった。

 「富山をどう表現するか…」が、デザインを進めるにあたって、私が一番悩んだところである。富山の豊かな自然、北前船の歴史や岩瀬のまち並み、アルミやガラスなどの地場産業、世界ポスタートリエンナーレトヤマなどで知られる「デザインのまち富山」など、表現要素は多数ある。トータルデザインという手法で、それを官民一体となった総合的な取り組みとして示すことが目標であった。

 私自身、全国でいろいろなプロジェクトに関係しているが、トータルデザインチームに参画するという経験はなく、最初は少し戸惑った。しかし、より良いものをデザインしようというチーム目標がしっかりとしていたので、作業もスムーズに進んだ。

 まずは路線の基本コンセプトをTOYAMAクリエイティブラインとし、快適性、地域性、先進性、情報発信をキーワードにトータルデザインの指針をまとめた。その次に、具体的なデザインの手法の中にどのような市民参加があり、地元企業の参画が考えられるかの検討を行った。市民参加の手法としては、車両デザインの最終イメージにおける市民アンケート、車両の愛称の公募、電停に設置したベンチのドネーション(寄付)による市民協賛といった枠組みを設けた。また、地元企業には、地域特性をテーマにした地元デザイナーによる電停個性化スペースの企画型ビジュアルヘのスポンサードなど、新たな広告手法に協力してもらった。ハード面もソフト面も都市の環境デザインとなるように、富山ならではの卜-タルデザインの計画が練られた。

車両と電停のデザイン

 私がデザインを担当し、時間を要したのは、車両のカラーリング。当時富山県には真っ赤なボディカラーの新型LRTのアイトラムが高岡で運行を始めており、その強い印象からか、赤に対照的な色が良いといった意見もあった。私自身は、立山の新雪のイメージが念頭にあり、スノーホワイトにこだわり続けた。

 そのホワイトについて議論となった委員会では、雪の印象の強い富山にあえて白い車両?との意見もあったが、寒い、辛い、過酷な除雪などのネガティブな雪のイメージではなく、美しい新雪のスノーホワイトをベースとして、富山の豊かな自然を表現した7色の衣を身につけることで、北陸富山の暗いイメージを払拭してみたいと考えた。その結果、車両デザインを決める最終市民アンケートにおいて、新しいデザインの方向性が「デザインのまち」富山の市民に評価され、モダンなデザイン案が採択された。ユニバーサルデザインに配慮したモダンで洗練されたインテリアにも高い評価が集まり、その後の高い乗車率にもつながった。

 電停広告の計画も新たな挑戦であった。白く綺麗な車両が停車する電停に雑な広告だけは設置したくない思いで、地元デザイン協会に協力を依頼し、地元デザイナーの参加を公募の形で募った。

 このようにして実現したのが15名による15の個性ある電停広告、「富山ライトレール個性化壁デザイン」である。広告とは言っても、協賛いただいた地元企業の名称を小さく表示しているだけだ。当初は担当者からも本当に売れるのか?との心配もあったが、富山の企業の寛大さも手伝い、企業価値を高める広告として評価いただき、地域の新たな取り組みに貢献する企業というメッセージが表現された。この手法は、次なるLRT事業である市内電車環状線化計画においても活用され、ペンチドネーション、電停個性化壁が、地域の歴史と関係させるドネーション広告と合わせて販売されている。

ラッピング車両によるデリバリー作戦

 富山ライトレール開業から続いているイべントや季節のラッピング車両の装飾には、幼稚園児から高校生、主婦のサークルまで多くの市民が参加している。カッコ良いLRTのまちづくりに「参加しています!」という具体的な参加意識が多くの市民サポーターや、新たな地域の自慢と誇りにつながっている。

 沿線にある県立高校のデザイン科の生徒たちには、開業初年度からデリバリーにかかわってもらった。取り組みは話題を呼び、全国メディアにも取り上げてもらえる評価へとつながった。予算がない中でどのようにデザインを認知してもらうか、参加する高校生にどのように自慢と誇りを持ってもらうか。試行錯誤の連続の中から、仕掛けているメンバーも参加しているメンバーも楽しめて、バックアップしている企業のメッセージにもなり得る取り組みが出てきた。そのひとつであるバレンタインデーの企画では、フィルム販売の大手メーカーの中川ケミカルにお願いして、在庫で処分前の端材フィルムを提供してもらい、女子高生か可愛いハートをたくさんつくって、みんなで車両に貼った。ラッピングにあたっては、陳腐なデザインにならないように、一定のデザインコードをつくりその範囲で自由に制作してもらっている。こうした市民に前面に出てもらう取り組みが、メディアのアンテナに触れ、多方面に富山を発信できた。その後も多くの市民にデザインデリバリーの仕掛けに参画してもらい、多くの市民サポーターが生まれた。

 企画した多数のデリバリー作戦は、ほとんど手弁当状態であったが、私も楽しいし、参加してもらっているみなさんの笑顔と「また参加します」という反響もあった。富山市からの出向職員のみなさんの頑張り、市内電車環状線開業後も続く多くの参画とサポートにより、トータルデザインは成功とともに認知されたのである。

これからのデザイン戦略の可能性

 2014年5月、富山市はシビックプライドプロジェクトとして「富山市はじまる」をキーワードに、新たなキャッチフレーズとなる、「AMAZING TOYAMA」のキャンペーンをスタートした。もっともっと富山を感じて、新鮮な発見と驚きを体感してもらう新デザイン戦略でもある。

 私もそのメンバーとして動き出しているが、富山は2015年の北陸新幹線開業、その後のLRTの南北接続、並行在来線の問題などと課題も多い一方で、新たなデザイン戦略の可能性もよリ大きくなっている。

 とりわけ模索しているのは公共交通のもうひとつの要、バス事業である。全国の主要都市を見ても、バスに関しては事業者ごとにデザインもシステムも違うことが多く、非常に複雑でデザイン整理が進んでいないのが現状だ。2015年春には、富山駅前の新しいバスロータリーも運用が始まっており、LRTの南北接続の時期に向けて、富山のバスシステムと車両デザインが各方面から注目される。バス事業はそのための新しい展開となるデザインデリバリーのチャレンジでもあり、行政支援の切り口と民間企業のサポートで、新たなデザイン戦略ができないだろうかと取り組んでいるところである。

 富山の都市環境を、デザインをキーワードとして成熟させていくことが私たちに求められた使命だ。富山に暮らす人々にどれだけデザインによるデリパリーに共感してもらえるか。それを楽しんで、伝えて、自慢してもらって、ようやく評価してもらえると私は思う。
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ソ連の対リビア原子力支援(一九七五~一九八六年)

『原子力支援』より

ソ連は、リビアヘの民生用原子力技術の最大の供給国だった。一九七五年五月五日に協定が締結されて、両国の協力関係が始まった。協定は、ソ連はリビアに一〇メガワットの研究用原子炉を建設し、タジュラ原子力研究センター(TNRC)の設立を支援するという内容だった。一九八一年四月、ソ連から届いた最初の高濃縮ウラン(一一・五キロ)がリビアに到着し、それを燃料として八月に原子炉が稼働を開始した。TNRCは、リビアがひそかに進めていた核兵器プログラムの拠点となり、それは二○○三年にリビアが計画を放棄するまで続いた。TNRCではひそかにウラン転換やガス遠心分離機を使ったウラン濃縮、プルトニウム分離が行なわれていたとされる。

TNRCがまだ建設中だった一九七七年一二月、ソ連は追加の原子力支援協定をリビアと結び、地中海沿岸に四四〇メガワットの原発をつくることになった。西側の情報源によると、そのためにはソ連の輸出用原子炉の標準型である加圧水型原子炉を二基送りこむ必要があった。しかしいざ輸入する段階になってリビアがソ連との「大きな問題」に直面し、タジュラ以後の原子力取引は勢いを失う。協定は一九八六年に失効し、リビアに原子炉が届くことはなかった。

ソ連とリビアのパートナーシップ強化

 ソ連による対リビア原子力支援は一九七五年に始まり、一九八六年に終了した。これはなぜか? 過去の資料からは、ソ連には戦略的パートナーシップ強化の意図があったことがうかがえる。一九七〇年代以前は、ソ連とリビアの関係に友好的な空気はまったくなかった。一九五一年に即位したリビア国王イドリース一世は西側諸国寄りの立場をとっていたし、一九六九年に無血革命で権力の座についたムアンマル・カダフィ大佐も当初はソ連と距離を置いていた。そのころソ連はエジプトと密接な同盟関係にあり、リビアとの関係改善は重視していなかった。ところが一九七二年、エジプ卜のアソワル・サダト大統領が対ソ連政策を一八○度転換する。そこでソ連はリビアとの距離を縮めることにした。一九七四年五月にリビア代表団がモスクワを訪問したとき、コスイギン首相はこう述べている。「両国の協力をさまざまな側面から検討し、ソビエト=リビア関係拡大の可能性について意見を交換したい。大いなる可能性が広がっていると我々は考える」。さらにトリポリで行なわれた二国間協議に続いて、次のような共同コミュニケが発表された。「ソ連とリビア・アラブ共和国は、両国の友情と協力を深め、発展させることを外交の重要任務と位置づけていた」。

 ソ連にとって、リビアとの関係改善に欠かせなかったのが原子力支援だった。リビアとの距離を縮め、地域での影響力を強める手段だったのである。ソ連指導部の発言もそれを裏づけている。たとえば一九七四年五月、コスイギンは次のように発言した。「我々は両国の協力をさまざまな側面から検討したい……協力体制をより長期的で安定したものにするために、協定を結ぶ用意がある。協調行動が、両国の相互理解と信頼の強化につながるだろう」。コスイギンの言う協力には、むろん原子力分野での協力も含まれていた。この発言からわずか数カ月後、ソ連はリビアと最初の原子力支援協定を締結する。

 ところが一九八〇年代に入ると、ソ連はリビアとの関係に興味を失ってくる。カダフィ大佐は行動の予測がつかず、周辺のアラブ諸国としょっちゅう摩擦を起こしていた。一九八五年に政権を握ったミハイル・ゴルバチョフは、リビアとの距離を縮めすぎると、ほかの優先事項に支障が出ると考えた。早くも一九八三年から、ソ連はリビアとの関係強化をうたった正式な条約を拒否し、常軌を逸したリビア指導者と「一定の距離を置く」態度を取っている。一九八六年三月と四月、リビアがアメリカ軍の空爆を受けたときも、ソ連は直接支援の手を差しのべなかった。ソ連がリビアとの関係強化を望まなくなったことで、平和的な原子力支援活動もすべて終了した。ソ連は、軍事同盟を視野に入れてリビアに接近していたようだ。エジプトから追放されたソ連は、北アフリカにパートナーを求めていた。なかでもリビアは戦略的な位置関係にあり、同盟国として重要な存在になりそうだった。地中海に面しているので海軍の寄港地ができるし、国内各地の飛行場も、サハラ砂漠以南で軍事行動を展開するときの足がかりになる。ただソ連がリビアとの協力関係強化を重視する最大の理由は、この地域でのアメリカの影響力を削ぐことだった。

アメリカを牽制する

 原子力支援が始まったとき、ソ連とリビアはどちらもアメリカを敵に回しており、どちらの国の指導者も折りに触れて「アメリカ帝国主義」を激しく非難していた。一九八〇年代、ソ連は同じ超大国のアメリカに競争意識を向け、リビアもアメリカとの外交を断絶してにらみあっていた。カダフィは一九七四年五月、リビアとソ連の友情はアメリカに対抗する共通の利害に支えられていると語った。リビアは「アメリカが中東で開始した外交攻勢」から自国を守る必要があり、ソ連は宿敵アメリカに対して「戦略的優位」を確保したがっていた。

 こうした共通の利害を背景に、ソ連はリビアとの関係強化を図る。ただし両国がともに脅威を感じているというだけでは、パートナーシップを結ぶにはいささか弱い。ソ連とリビアの原子力支援が、両国の関係強化、ひいてはアメリカの牽制に不可欠な手段と見なされていたことは、一次文献から明らかである。一九七五年の原子力協定に向けて、その土台づくりのために行なわれた一九七二年三月の二国間協議では、ソ連とリビアがともに「帝国主義との……戦いを成功させるうえで[二国間の]友情がきわめて重要である」ことに触れていた。一九七五年五月、協定調印のためのトリポリ行きを直前に控えたときも、コスイギンは「共通の敵との戦い」に勝利するには協力強化が必要だと発言している。

 ソ連がリビアと第二次原子力協定を結び、タジュラ原子炉を建設したときも、こうした対米感情は続いていた。一九八一年四月、ソ連のブレジネフ書記長は、リビアとの原子力支援および全般的な関係はアメリカの影響力に対抗するうえで欠かせないと述べた。「帝国主義の抑圧と攻撃に対抗し、人民の権利と自由を勝ちとる戦いにおいて、我々は同志であり戦友である……我々ソ連の人間は、[アメリカ帝国主義に対して]リビアがとる原則的な立場を高く評価する……あなたがたは、帝国主義の策謀と人民の権利侵害につねに立ちむかってい乱」。さらに一九八二年五月、原子力支援でリビアと協議中だった閣僚会議議長のニコライ・チーホノフはこうも発言した。「反帝国主義闘争における両国の目標を統一することが……両国関係の強固な基盤となる。我々の協力は最終的にその高邁な目標に向かわねばならない」。

 リビアを強化することが、アメリカの勢力と影響力を削ぐことになる。ソ連はそう信じていた。民生用原子力プログラムを通じてエネルギー生産能力を拡大すれば、経済成長も容易になる。そうすれば共通の敵(アメリカ)もリビアに影響力をふるったり、攻撃的になったりすることが難しくなると考えたのである。

 しかし一九八五年にゴルバチョフが書記長に就任すると、ソ連がアメリカを牽制する意味が失われた。ゴルバチョフの掲げた「新思考」外交は、冷戦の緊張を緩和し、アメリカおよび西側との関係改善をめざすものだったからだ。一九八五年一一月、ゴルバチョフはレーガン大統領と初の会談を行ない、両国の関係を温めるための対話を開始した。両首脳は一九八六年一〇月にもアイスランドで会談したが、このとき中距離核戦力の全廃に関する基本合意がなされ、両者は個人的にも親密な関係を築いた。一九八六年、ソ連がリビアに二基の原子炉を供給する協定が立ち消えになったのは、ひとえに米ソのこの雪どけが原因である。

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「社会的課題」の妄想から「構想」

『「ビジネスプロヂュース」戦略』より いかにして「構想」するか

妄想を始める起点は「社会的課題」

 日本の大企業で求められているのは、数億~数十億円規模の事業創造ではない。大企業を支える柱の一つとなり得る、数百億、数千億円規模に育つ事業創造だ。だが、ここ十年、二十年と、そうした事業創造があまり行われていない。

 新たな事業が大きく育たない理由の一つは、成熟した各業界内だけでビジネスを行おうとするからだ。新たな事業を大きく成長させるためには、既存の業界を超えて企業が連携し、新たな業界をつくるような構想が必要になる。

 しかし、事業創造のために構想しろと言われても、何から考え始めればいいのか分からない。そこで、発想の起点となるポイントと、それをどう広げていくかについて考えてみよう。

 発想の起点として比較的考えやすいのは、社会的課題の解決である。

 日本は社会的課題の最先進国と言われるように、少子化、高齢化、過疎化、医療問題、環境問題、労働問題など、数多の社会的課題を抱えている。こうした社会的課題を自社の技術やサービスで解決できないかと考えてみる。

 我々は、その社会的課題が大きければ大きいほど、解決策の市場規模は大きくなると考えている。日本の社会的課題を解決できれば、それを海外に横展開することもできる。数カ国に展開できれば、日本市場の数倍の売上、利益になるかもしれない。

 社会的課題を解決するという目的の事業創造であれば、他業界の企業と連携しやすいという利点もある。社会的課題というのは大きな問題であるがゆえに、一社ではとうてい解決できない。だから業界を超えていくつもの企業が連携することに意味がある。

 一緒に、この社会的課題を解決しませんか」

 そう声をかけられれば、無下に断るわけにはいかないだろう。

 さらにその社会的課題の解決の取り組みについて、もし政府や自治体の協力も得られているという説明ができれば、説明を聞いた企業の担当者も社内できちんと、しかも前向きに検討せざるを得ない。

「技術のバラ売り」から「大きな絵を描く」ヘ

 一つ一つの技術をそのまま大企業に紹介していく過程で、おもしろいことに気がついた。大企業は大学の技術そのものにも興味は示すものの、それだけだと小さな協力関係にしか発展しないということだった。また実は、大企業の社内にも「製品化はされていないが類似の技術」が多く眠っており、どれがすごい技術なのか自分たちでは判断がつかなくなっていたということも分かった。

 そこで、一つ一つのバラバラだった技術を三つ、四つとつなげてストーリー化して提案してみた。これが実現できることでこれが実現でき、それによってこんなことが可能になりますといった「わらしべ長者」のような空想話もなかにはあったが、予想以上に企業に受け入れられ、単品の技術の話よりも圧倒的におもしろがってもらえるようになった。

 複数の技術をつなげるという発想は、定義により個々の研究者では難しい。なぜなら、それぞれの技術の担当は別な研究者となるわけなので、相互の技術の詳細な中身は、知らない、いやそれ以上に興味がなかったりする。それが他部門・他分野の技術であればなおさらだ。しかも、複数の技術を組み合わせる場合にはどちらかの技術が主でどちらかの技術が従とならなければならないが、そういう発想は対等の研究者同士では大変難しい。

 つまり技術を組み合わせる、しかもそれが三つも四つもとなり、さらには、その用途もまったく研究者が想定していなかった分野のものだと、大企業から見てもかなり斬新な技術(の塊)に見えるということだ。

 このときヒントにしたのが、スタンフォード大学のスタンフォード研究所(Stanford Research Institute)から非営利組織として独立したSRIインターナショナルだ。ここには幅広い研究分野を横断的に話し合う場があり、様々な企業人も参加していて、想像もしなかった技術の組み合わせや事業のストーリーが生み出されていたが、当時、日本企業からも、そうした産学連携の場があるとありかたいという話を聞いていた。それはまさに融合領域の技術革新のニーズであると我々は確信したのである。

企業が重視していた社会的テーマとは

 企業が大学と産学連携で研究を行いたい分野というのは、二〇〇七年当時では、次の三つに集約できた。

 一つ目は、「環境エネルギー」分野で、太陽光や風力といった発電から送電、蓄電、省于不といった技術の研究。二つ目は「ライフサイエンス」分野。健康や医療、介護を含めた生活に密接した技術。そして三つ目が「ヒューマンサイエンス(人間工学)」分野。手になじみやすい機器とか、使いやすくするための科学的工夫といったものであった。スマートフォンの強みの源泉というとピンとくる読者も多いに違いない。

 いずれも、将来に向けて重要になる研究テーマではあるが、すぐに製品化が期待できるような研究テーマではないため、研究目的を設定しにくく、各社が単独では手をつけづらいという共通点があった。

 環境エネルギーは、現在、多くの大学で研究が行われているように、大学として研究しやすいテーマであるため、企業側もテーマ次第で連携しやすい。

 ライフサイエンスは、早稲田大学には医学部がないものの、当時、東京女子医科大学と協力関係があり、共同講座も行われていたため、何かおもしろいものが生まれそうな予感があった。

 人間工学は、早稲田大学には人間科学部と理工学部があるので、この二つの学部が融合すると何かおもしろいことができそうだという発想がもとになっている。

 こうした企業側のニーズをまとめて、早稲田大学にご提案した。個別の研究もいいが、融合的研究を推進すべきであり、必要に応じて複数の企業を大学が束ねる形で大掛かりなコンソーシアム等を構成しながら新分野の開拓を手掛けるべきであると。

 早稲田大学も喜んでくれて、当時の白井克彦総長からは、まさにこれこそ大学が果たすべき役割としてふさわしいというお言葉をいただいた。
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物流管理で少子高齢化とオムニチャネル

『戦略思考の物流管理入門』より 時事問題に関心を持つ

少子高齢化

 (1)国内市場の縮小

  少子高齢化の問題は日頃ニュースで取り上げられているので、皆さんも関心をもってこの問題に接しておられることでしょう。

  今や少子高齢化の状況には、歯止めが掛からなくなってきています。統計によれば、2014年の年齢別人口構成は、総人口の約26%が65歳以上となっています。26年後の2040年には、その割合は約36%に達すると予想されています。総人口も減り続け、2014年の約1億2,700万人から。2040年には1億700万人に減少すると予測されています。

  総人口減少と高齢人口増加の状況下で、日本の国内市場が縮小していくことは間違いないでしょう。そうなれば、人の移動もさることながら、物の移動も減少するわけで、物流関係者は物量減少社会を踏まえて、何をすべきか考える時に差し掛かっていると言えます。また、少子高齢化のマイナス面だけでなく、時代に即したサービスの開発が必要です。例えば、既存のサービスとしてはスーパーなどで行っている、遠出が難しい高齢者の増加に合わせた買い物代行や買い物後の配送サービスなどがあります。またそうした配送サービスと組み合わせた、一人暮らしの高齢者の見守りサービスなども存在します。顧客の各世帯と物理的につながることが出来るのが物流の特徴でもありますから、その利点を生かしたサービスを開発することは、社会的にも意義のあることだと思います。

  物流業の変遷の歴史を考えると、昔の運送業は物を大量に運ぶことが使命でしたが、ある時から小口宅配が始まったり、時間指定配送、代金引換サービスなど徐々に付加価値を高めてきています。今後、何らかの付加価値物流サービスが開発されれば、新たな需要が創造されるチャンスもあるでしょう。

 (2)ドライバーの不足

  今、ドライバー不足が進行しており、物流関係者の間で問題となっています。ドライバーの年齢も人口構成と共に高齢化しており、若手ドライバーが不足してきています。統計によると、運転免許保有者総数に対する30歳未満保有者数の構成率は、平成15年には21.1%だったものが、平成25年には14.8%に減少しています。少子高齢化に加え、若年層の自動車離れも要因として挙げられます。高齢ドライバーもいずれは引退していくので、このままの傾向が続くとより慢性的なドライバー不足になります。

  こうしたドライバー不足は、物流料金やサービスにも当然影響してきます。ドライバーの給与を引き上げないと求人への応募者は増えないでしょうから、運賃上昇要因になります。稼働可能なトラックの絶対数が減ってしまうと、荷主によるトラックの奪い合いが起き、それも運賃上昇要因になるでしょう。またネット通販において注文翌日配送サービスが当然になってきている中、さらに即日配送を増やす計画を持つ企業も出て来ていますが、ドライバー不足になればこうした即配サービスにも影響がでる可能性があります。

  こうした現状に対して国としても免許制度を変更しようという動きが出ています(2014年7月警察庁案)。今まで18歳では総重量5トン未満のトラックしか運転できなかったものを、7.5トン未満まで運転できる様に変更する案も出ています。この案が国会で可決されれば、18歳のトラックドライバーがより大きなトラックに乗車可能になりますので、高卒者が運送会社就職後に即戦力化しやすい状況になるでしょう。

オムニチャネル

 (1)ネット販売の増加

  日本の消費者向け電子商取引は増加傾向にあります。この利用度を測る指標として、「EC化率」というものがあります。EC化率(EC = Electronic Commerce)とは、全商取引金額に対する電子商取引金額の割合を示す指標です。日本の消費者向け(BtoC)EC化率は、2008年には1.3%でしたが、5年後の2013年には3.7%にまで高まっています。また、その市場規模は11.2兆円になっています。アメリカの同指標は2013年に5.7%ですから、日本も同様の率まで上昇することは十分考えられます。

  消費者向けのEC化率が上昇することにより、多頻度小口配送がさらに進むと考えられます。またネット通販企業各社の納品のスピード競争も激しくなるでしょう。その一方でドライバー不足問題も発生しているため、輸送手段の奪,い合いや運送コストの上昇といった問題も起きると考えられます。

 (2)オムニチャネルという概念

  最近、小売業で「オムニチャネル」という手法が使われています。これは、小売業の実店舗、インターネット通信販売、ソーシャルメディアを総合的に運用する仕組みを指します。かつて「クリック・アンド・モルタル」と呼ぱれていた概念に近いものです。実店舗で実物を見ながら買い物する楽しさと安心を提供すると同時に、ネット通販の利便性を組み合わせ、さらにソーシャルメディアで情報発信・情報交換を行って、これら全てが相乗効果を発揮できるのが大きなメリットです。

  こうしたオムニチャネル化が進む背景の一つには、「ショールーミング」という現象も影響しています。ショールーミングとは、実店舗を商品の確認の場として利用し購入はネット上で行うという、実店舗をまるでショールームの様に利用することを指します。ご承知の様にAmazon.comや楽天市場などを初めとするネット通販の勢いが増しており、消費者は価格比較サイトと組み合わせて低価格で製品を購入できる環境が出来上がりました。しかし通販では実物を確認できないので、「想像していたのと実物が違う」という購入不安は残ります。「安く買いたい」「購入不安は取り除きたい」という消費者心理が、ショールーミングに向かってしまう訳です。特にメーカーの大量販売品は、様々な小売店やネットショップで同じものを販売しているので、こうしたショールーミングが起き易いと言えます。そこで、こうしたショールーミングヘの対抗策として、家電量販店や百貨店などでもオムニチャネルを構築する動きが出ています。

 (3)オムニチャネルと物流

  ではこのオムニチャネル化か物流にどう影響してくるのでしょうか。

  オムニチャネルでは、実店舗とネット販売の垣根を無くし、2つを融合させて相乗効果を発揮することが狙いです。今実際にオムニチャネルを活用しているアパレル業界のユナイテッドアローズを例に挙げれば、次のようなサービスを行っています。

   ① 各実店舗の在庫状況が、ネット上で確認できる。

   ② ネット上で在庫の取り置きサービスを行っている。

   ③ 店舗に在庫が無くても、他店から取り寄せや宅配ができる。

  まず①については、顧客がネット上で事前に実店舗の在庫状況を知ることが出来るので、「店に行ったが商品が無かった」という無駄足を顧客に踏ませることなく、在庫のある店舗へ顧客を誘導することが出来ます。②のサービスは、ネット上で在庫を取り置きして、指定の店舗でその商品を試着してから購入できるというサービスです。ネット通販ならではの、商品を購入前に手に取って確かめられないという不安感を払拭できます。また③については一見当たり前の様に聞こえますが、店の立場から見れば、昔の様にショップ店員が別店舗に電話をかけまくって在庫を探すといった手間を省くことができます。つまりこうしたサービスを提供することが顧客利便性の向上と同時に、店側のムダな在庫管理の手間を省くことにもなります。

  オムニチャネルを活用する中で、全店舗と物流倉庫の在庫情報をオープンにすれば、店舗裏のスペース(バックヤード)に在庫を蓄えておく必要も無くなるかも知れません。有名な商業ビルのテナント店舗の賃借料は安いとは言えませんので、バックヤードのスベースは最小限にして、売り場の面積を広げる方が望ましいことです。オムニチャネル化により、バックヤードから物流倉庫に在庫を集約して、必要な分だけを倉庫から店に送るといった運用も可能になるでしょう。
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クリ菓子産業に特化した小布施町と中津川市

『クリと日本文明』より

クリ菓子産業に特化した二地域

 長野県上高井郡小布施町と岐阜県中津川市は、中部地方にあって互いに隣接した県内にある。小布施町は日本海に流出する千曲川(信濃川)の上流(東経一三八度一九分、北緯三六度四一分、市役所標高三五三メートル)に、中津川市は太平洋側に流出する木曽川の上流(東経一三七度三〇分、北緯三五度二九分、同三二三メートル)に位置している。

小布施町と中津川市

 小布施町は人ロ一万一四七七人(二〇〇五=平成十七年)、長野県で第二の規模を持つ長野盆地(「善光寺平」)に位置し、千曲川右岸の沖積低地、小布施扇状地、雁田火山からなる。土地利用は町域の四十二パーセントが畑で、ついで山林十五パーセント、宅地十一パーセントで、田は九パーセントにすぎない(平成十七年度の都市計画基礎調査)。

 江戸中期頃までの畑地利用は大小の小麦、栗、黍、大豆、碗豆などの穀物中心で、中期頃から綿花や菜種、幕末には蚕種製造や養蚕などの商業的農業が発展した。明治時代の末頃から一九三五(昭和一〇)年頃までの農業は米と養蚕が中心であったが、昭和恐慌を経て養蚕からリンゴヘの切り替えが進み、第二次世界大戦後にはリンゴの村といわれるまでの発展をみた。そして高度成長期以降は、果樹の価格変動や労働力対策等の面からリンゴの他、ブドウ、アンズ、クリなどを加えた多角的な果樹栽培地域としての性格を強めてきた(内山、一九九六、一三九頁)。もちろん、このように発展してきた自然的基盤としては、内陸の乾燥盆地で寒暖の差が大きく(最高気温が三十五度、最低はマイナス十五度)、年間の降水量は九〇〇ミリメートルで、全国的にも極めて雨量の少ない地域である点も見逃せない(市川、二〇〇二)。

 農業を中心に展開してきた小布施町の産業別就業人口割合は、一九六五年当時第一次産業四十九・七パーセント、第二次二十一・三パーセント、第三次二十九・〇パーセントであった。しかしその後産業構造の転換が進み、八五年にはそれぞれ三十二・三パーセント、三十四・一パーセント、三十四・六パーセントへ、さらに二〇〇五年では二十三・八パーセント、二十七・九パーセント、四十八・二パーセントとなり、第三次産業従事者の割合は一九六五年当時の第一次産業従事者の割合と入れ替わった。現在、町全体の産業大分類別事業所別就業人口構成では、製造業と卸・小売業がそれぞれ二十六パーセント、二十八パーセントを占め、ついで医療・福祉十二賢、建設業一〇パーセント、サービス業八パーセント、飲食店・宿泊業八賢、その他となっている(二〇〇八=平成十八年度事業所統計調査)。二〇〇五年の工業統計調査によれば、食料の製造品出荷額は三十一億一〇九九万円で製造品総出荷額(九十五億一〇九二万円)の三十二・七パーセントを占め、第二位のプラスチック(十九・九パーセント)、第三位の電子(三・四パーセント)を上回り、第一位である。食料の製造品出荷額のうちではクリ菓子関連企業が七十七パーセント(約二十四億円)を占める。

 中津川市は、人口八万三七三六人(二〇〇五年)の市である(合併前の二〇〇四年の旧中津川市の人口は五万五二七三人)。岐阜県の東南端に位置し、東は木曽山脈、南は三河高原に囲まれ、中央をほぼ東西に木曽川が流れている。中津川市の市街地は、最高地点の恵那山(二一九一メートル)の前山の麓に開けた扇状地(開哲扇状地)上に発達している(写真2)。市域の土地利用は農地は六・九七パーセントで、森林が七十九・二四パーセントを占める。

 しかし中津川市の中心部についていえば、江戸時代に整備された中山道の宿場(中津川宿)で、しかも飛騨街道(南北街道)が交差する位置にあり、交通の要衝地として発展してきた。十八世紀末の中津川宿は家屋数一七五戸、その三分の一は商家で六斎市が開かれ、商業の中心地・物資の集散地としてにぎわい、十八屋の間家、大津屋の菅井家、鳶野屋の平吉屋などの豪商が恵那郡北部や木曽谷地方、さらに名古屋・京都大阪方面にも販売網を拡大して、取引や物資の輸送を行っていた(渡辺、一九九九)。一八四三(天保十四)年に中山道沿いの妻篭の家の数が八十三軒、馬篭が六十九軒、落合が七十五軒であった時に、中津川は二二八軒に達していた。

 明治以降の中津川は、生糸の輸出を背景に養蚕ブームの下で製糸業等の工業化が進んだ。昭和の恐慌期を経て戦後は現在の三菱電機名古屋製作所の分工場(三菱電機中津川製作所の前身)の疎開などにより、工業の転換がはかられてきた。交通面では一九六八年に中央線(現・JR中央線)の中津川-名古屋間の複線電化が行われ、中部圏開発区域に編入され(中津川市統計書平成十八年版)、また八五年には国道19号のバイパス、前後して中央自動車道の上下線が開通しか。こうした中で九三(平成三)年には中京学院大が開校、さらに二〇〇五(平成十七)年には長野県山口村を併合して新中津川市が誕生した。

 産業別就業人口構成は一九五五(昭和三〇)年当時、第一次産業三十七・二パーセント、第二次三〇・三パーセント、第三次三十二・五パーセントであった。しかし、七五年に十八・一パーセント、四十一・四パーセント、四十一・○パーセント、さらに二〇〇五年には六・四竹、四十一・一パーセント、五十二・五パーセントとなり、小布施町以上に大きな変化が招来された。現在、産業分類別事業所数・従業者数構成比(二〇〇六年)では卸・小売業(二十五・一パーセント)が多く、次いで製造業(十五・一パーセント)、建設業(十四・七パーセント)、飲食・宿泊業(十四・三パーセント)の順であるが、従業者数では製造業(三十七・七パーセント)が最も多く、次いで卸売・小売り業(十九・六パーセント)、建設業(九・二パーセント)の順となっている。
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豊田市図書館の27冊

290『図解・表解 世界の地理』

335.13『グレートカンパニー』優れた経営者が数字よりも大切にしている5つの条件

913.6『小説の書き方』

162.56『アステカ王国の生贄の祭祀』血・花・笑・戦

518.8『シビックプライド2【国内篇】』都市と市民のかかわりをデザインする

915.6『歌の旅びと 下」五木寛之』NHKラジオ深夜便のトークエッセイ

681.8『<小さい交通>が都市を変える』マルチ・モビリティ・シティをめざして

596.7『COFFEE BOOK』コーヒーの基礎知識・バリスタテクニック・100のレシピ

762.35『ナディア・ブーランジェ』名音楽家を育てた“マドモアゼル”

031.5『ギネス世界記録2016』

910.26『平凡パンチ 五木寛之』時代を駆け抜ける作家

526.9『ドバイ<超>超高層都市』21世紀の建築論

316.4『「テロに屈するな!」に屈するな』声高に叫ばれる「正義」が危機を加速させる。

367.1『女性活躍後進国ニッポン』女性の活躍で、経済も社会も元気になる!

953.7『服従』

327.63『告発の正義』

133.3『観念論の教室』

317.3『キャリア官僚 採用・人事のからくり』激変する「出生コース」

367.7『心が安らぐ「老後のシンプル生活術」』精神科医が教える

379.9『「自分でグングン伸びる子」が育つ親の習慣』

392.1『自衛隊の転機』政治と軍事の矛盾を問う

687.06『ANAが大切にしている習慣』

914.6『自分という奇蹟』五木寛之』

312.1『戦後政治の証言者たち』オーラル・ヒストリーを往く

369.4『チャイルド・プア2』貧困の連鎖から逃れられない子どもたち

312.22『「中国共産党」論』習近平の野望と民主化のシナリオ

134.96『存在と時間1』ハイデガー 中山元訳
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3週間ごとの名古屋

3週間ごとの名古屋

 退社した、2月15日から、これだけは確実に行っている。当初は行って、帰ってくるだけだったけど、スタバに滞在するようになり、ハンズに行くようになり、最近は映画を入れるようになった。

 そのうちに、仙台の田代さんとかにも、名古屋で合えるようにしましょう。

 これだけが、世の中との接点ですね。

Iさんとの会話

 「お待ちしていました。今日、ちょっと蒸っとしていますよね。汗かいちゃう」

 「今日は映画に行ったり、本も二万冊達成したり」「じゃ、少し、ストップですか」「一回に30冊借りていたんですか」「そうなんですよね。そんなにたくさん借りれるんですね」「そうなんですね。すご~い」「島崎藤村の「夜明け前」を読んでいるですけど、難しすぎて、全然、進まなくって、一冊で二週間以上借りているですけど」

 「今日、何時まで居らっしゃるんですか」「分かりました。また、ちょっと、顔を出します」「9時ぐらいまでいらっしゃると言ったから」「これから映画ですか」

 (オレンジのタブレットの衝動買い)「そうなんですか。いいじゃないですか。今日もオレンジだし」

 (一日千円の暮らし)「スターバックスが大きいですね」「また、お待ちしています」「三週間後」「図書館戦争ですか」「読んだことないんですよ」「じゃ、チェックしてみます」「興味あります」「今日も一日、楽しい日を」

「向日葵の丘」のセリフ

 「幸せってなんだろう。どこにあるんだろう」「ここで、皆と一緒に映画を見られること。思い出を分かち合えること。それも一つの幸せかもしれない」

未唯へ

 これで止められるでしょう。昨日だと思えばいい。

やはり、家しかないでしょう

 やはり、家でやるしかないでしょう。それをいかにまとめるかです。パソコンを持ち出しても、刺激にはならない。時間を潰すだけです。

パートナーからのメール

 夕方の6時半に唐突に現われた。富山への訪問の感想です。販売店の促進力が強くて、メーカーの力を必要としていない。頼られないことの寂しさ。

 それに対する返答として、与えることよりももらうことを進めた。良い時によいところに遭遇していると思って、吸収することを進めた。当然、レスはない。
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岡崎市図書館の10冊

二万冊達成の影響なのか、本を読む気がしない。

仏教は小乗が正しいような気がしている。寄り添う仏陀が正しい!

豊田市図書館の2冊

 002『無学問のすすめ』

 210.7『昭和史の10大事件』

岡崎市図書館の10冊 

 188.7『浄土真宗は仏教なのか?』

 336.1『ビジネスプロヂュース戦略』3000億円の事業を生み出す なぜ、御社の新規事業はおおきくならないのか?

 611『農林水産の経済学』

 539.0『原子力支援』『原子力の平和利用」がなぜ世界に核兵器を拡散させたか

 410.8『エウクレイデス全集第2巻 原論Ⅶ-Ⅹ』古代ギリシャ科学の精髄が、現代に甦る! 世界初の近代語訳全集、邦訳で登場

 675.4『戦略思考の物流管理入門』キャリアアップを目指す人のための

 920.2『上海解放夏衍』夏衍自伝 終章

 369.3『原発避難白書』

 625.7『クリと日本文明』

 725『永沢まことの街歩きスケッチ入門』
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VW不正がどうしても合点が行かない

VW不正がどうしても合点が行かない

 VW不正がどうしても合点が行かない。米国EPAに填められたのではないか。欧州の走行パターンにあわせたものがカルフォルニア規制に当てはまらない。エンジン屋からの声が聞こえてこない。

 アメリカの走行パターンが欧州とはかなり異なる。にもかかわらず、同じECUのロジックですむはずがない。ヨーロッパで最適なものが米国規制に合わせるのは難しい。台数が少ないから、とりあえず、対応させるために行ったのか。日本の技術者を見ていると、そんなあんちょこなことはしない。

 アメリカのロサンゼルスと日本の走行パターンは大体一緒です。根源の所がモードがあっていないときは、技術者はなるべく素なものを作ろうとする。

 答が出るまでは粘り強く頑張る。そんなことが起こったのなら、それはエンジン屋が関与しないところだったんでしょう。

 25年ぐらい前にトヨタがディーゼルの開発を打ち切ったときの様子を思い出す。ディーゼルの連中はヤマハに行くか、別の商売を探すしかなかった。技術屋にとって、ディーゼルとガソリンは全く別物でした。それからちょっとして、八重樫さんのプリウスが始まり、そちらに回った人がいた。エンジン屋の田上さんはコイル数の計算を始めた。それによって、プリウスの片一方を作り上げた。技術屋は開き直ると凄い!と思ったものです。

 八重樫さんはきっちりと、プリウスを自分のモノにしたんですね。

スケッチみたいな写真

 スケッチみたいな写真を今度のオレンジタブレットで撮りましょう。スケッチのように写真が撮れたら面白いし、融通が利きます。修正も消しゴムでできます。

二万冊達成の影響

 二万冊達成の影響なのか、本を読む気がしない。何か空回りしている。

 インプットはいい加減にして、アウトプットにシフトしたいけど、言うほど簡単ではない。何かを止めないと踏ん切りがつかない。

大乗仏教は本意なのか

 仏教は小乗が正しいような気がしている。寄り添う仏陀が正しい! それをパートナーを通じて、証明したい。

 多分、「南無阿弥陀仏」があまりにもうまくいったからでしょう。何しろ、唱えていればいいだけなのだから。これでは目標にはなり得ない。
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