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多元社会と一党体制のせめぎ合い

『「中国共産党」論』より 揺れる中国--変わる社会と変わりにくい体制 中国は本当に民主化の道を辿るか

以上に示してきた社会状況の変化は、まさにダイナミックに変容する社会と、変容を認めつつも体制安定を懸命に図ろうとする国家とが厳しい緊張関係にあることを示している。中国語流に表現するならば、生きるために生活の権利を主張しようとする民衆の声(=維権)と社会安定を最優先しようとする権力当局の主張(=維穏)の確執というふうに見ることができるだろう。

体制移行論的に言うならば、格差や腐敗などの深刻化、民衆暴動の頻発、権利意識を持った市民の台頭など、まさに民主化に向けての移行が進み始めたと言えるかもしれない。

いみじくも中国内政の専門家、ケビン・オブライアンたちが主張しているロジックである。すなわち市民・住民暴動が普遍化する事態となれば、地方のガバナンス機能は麻揮し、通常の政策執行も困難となる。その場合、党中央は国家の類廃を防ぐために多党制の導入を含むドラスティックな改革を実施せざるを得なくなる。

また、大規模事件が増加することになれば、中央が民衆の要望に応え切れない局面も徐々に増加することになる。それにつれて、それまで断片的であった抗議の矛先は、徐々に中央へと結集していくことになるだろう、というものである。

このロジックは十分すぎるほど理解できる。しかし、私はこのような解釈をとらない。その主な理由は三つある。

一つは、共産党当局の批判勢力に対する徹底した弾圧、特に分断統治である。共産党は中国の歴史の中でしばしば体制を転覆した農民暴動を、そして冷戦崩壊の過程でのソ連や東欧諸国の共産党崩壊を徹底的に研究し、いかに生き残るかを熟慮してきた。天安門事件では党内指導部が分裂し、危うく反体制の学生や知識人と党内の分裂勢力が結合するところであった。党当局は、その後はこの経験も十分に生かし、社会の不満分子になりそうな貧困層、中間層、西側の影響を受けた市民層、知識人、党内傍流勢力などが結びついていかないよう細かく注意し、それぞれに対してそれぞれの「飴と鞭」を使い分け、不穏な動きは「芽のうちに摘む」ことをしっかり行ってきた。

一九九九年の法輪功の弾圧、中国民主党結党の動きの弾圧、チベット・新疆における少数民族の弾圧、その後の劉暁波、胡佳、浦志強ら開明的学者・弁護士・NGO関係リーダーら知識人の弾圧、ソーシャルメディアの広がりに対する分断、こうした動きは裾野を広げながら末端まで行き渡っている。

一般的に言えば、社会の様々な要求や意見が噴出してきたことで、安定は揺らいでおり、従来のままの上からのハードな統治による社会安定の確保は困難になってきている。しかし、実にきめ細かい抑圧のネットワークの構築によって、統治のメカニズムを強化しているのである。

その証拠に、治安維持に充てる公共安全予算の金額はここ数年大幅な増加を遂げている。例えば、二〇〇八年に公共安全の総予算は四〇九七億元であったが、二○一〇年には五一四〇億元、二○一二年は七〇一八億元、そして二〇一五年は一兆五四一九億元にまで達し、国防費予算ハハハ六億元を上回る数値となっている(表3-1)。

二つには、執政政党としての共産党自身の「自己脱皮」である。共産党は言うまでもなく、もともと共産主義イデオロギーを柱とした革命・階級政党であった。しかしプラグマティストであった小平とその末裔は、共産党の看板は外さないままでほぼ見事に自らを「換骨奪胎」してしまった。「社会主義市場経済論」(国家体制としての社会主義を維持しつつ、市場経済の方式を導入するための方針)は「党が指導する市場経済主義」と言い換えられるだろうし、「三つの代表」論は長く主張してきた階級政党としての共産党の位置づけを放棄し国民政党への転換を図るものであった。

これにより資本家、各界のエリートたちの入党は容易になった。そして、共産主義イデオロギーは愛国ナショナリズムに取って代わられた。共産党は実質的な意味ではこれまでの自分自身を自ら解体してしまったと言ってよいだろう。それは言い換えるなら、中国が歩んで来た、またこれから歩む文脈の中で求められるニーズに合わせた適応とも言えるものかもしれない。その意味では共産党はこれからも社会の変化に応じて次々と「自己脱皮」していく可能性がある。

三つには、本章で中国の政治体制のキーワードとしてきた「カスケード型権威主義体制」に関わることである。「カスケード型権威主義体制」からの移行は、政治体制全体が同じ内容とテンポで変容するのではなく、不均等な形で変容していくと見るべきだろう。

共産党が自らを「換骨奪胎」したように地方政権も客観的条件と主体的力量が備わってくれば、共産党体制の堅持を主張しながら「換骨奪胎」して実質的な体制変容を行うかもしれない。一つには経済開発で行ったような実験区(試点)を政治でも応用することが考えられる。

現在上海で試みられている「自由貿易区」は金融・貿易の一層の自由化という面と同時に、行政改革、法制改革、人事改革、公共サービス政府の建設といった面があり、政治体制改革につながる可能性を持っている。このように社会と国家の緊張は決して緩やかにはなっていないが、しかし、社会安定を確保しながら、段階的に社会と国家が(ーモニーをとれるような新たな枠組みづくりが模索されていることも確かなのである。

以上の理由から、少なくとも習近平時代においては、ドラスティックな体制の移行、及び体制移行を前提とした多党制の導入の可能性はほとんどないと考えられる。ただ、党による安定を前提とした、制限つきの「民主化」はありえるかもしれない。党内民主化、法に基づく富の公平な分配、社会のニーズ・民衆の声を政策に反映させるメカニズムの構築などに限定された民主化である。

こうした中国の民主化のゆくえについては第五章に譲るが、ここまでの議論からも明らかなように、階層、生活、価値などの多様化とともに実質的に進んでいる多元社会と一党体制とのジレンマをいかに解決していくかが、いずれにしても今後は大きく問われてくるだろう。すなわち社会と国家の間の緊張をどう処理していくのかという問題である。

ひとまず目下の共産党には「エリー卜の党」、つまり既得権益集団の利益代弁の党に化した共産党をどのようにして真に「勤労者・大衆・市民の意思を反映できる党」に変えていくのかということが求められているのではないだろうか。
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中国共産党 三つの大規模性と四つの断層性

『「中国共産党」論』より 揺れる中国--変わる社会と変わりにくい体制 中国は本当に民主化の道を辿るか

中国は他の国々と異なった、はるかに変わりにくい構造的特徴を持っている。この点を体制移行の問題においても考慮せざるを得ない。私はかつてその変わりにくい政治社会の特徴を「三つの大規模性と四つの断層性」の重なり合った「重断層社会」と特徴づけたことがある(『中国--溶変する社会主義大国』東京大学出版会、一九九二年)。

すでに四半世紀の時を経て、社会全体が量的にも質的にも目を見張るほどの変化を実現したが、これらの関係性という点では、「重断層社会」論の理解は今なお形を変えながら機能しており、中国の社会的特徴を見る上で有効な「切り口」であると考えている。

前者「三つの大規模性」とは、人口、領土、思想の大規模性である。これらが政策、ビヘイビアのみならず政治社会構造にも深く影響を及ぼすと考えた。人口の大規模性は、例えば改革開放の経済近代化の推進に際して「一人っ子」政策を採用せざるを得なかったこと、領土の大規模性は安全保障、統治ガバナンスに、思想の大規模性は過去の歴史にこだわる「中華民族の偉大な復興」の主張などに影響している。

後者「四つの断層性」は、①都市と農村、②エリートと民衆、③関係と制度、④政治と経済の断層性である。これらも前者同様に政治社会構造を規定する重要な要因になる。都市・農村の戸籍制度、近代的都市化を重要課題にし続ける現実は①を、共産党の執政権の独占と特権化は②を、依然として物事を処理する基軸に「関係」があり、繰り返し強調される制度化も容易に進まない現実は③を、国と国との政治的対立がしばしば経済関係を阻害する現実は④を示唆している。

このような「三つの大規模性と四つの断層性」は、政治体制の実際の特徴に反映されていると同時に、体制移行にも大きな影響をもたらしている。

例えば都市と農村の断層性は、正式な都市戸籍を持たない膨大な農民工を生み出し、あるいは農村の社会保障・教育制度のはなはだしい遅れなど、歪んだ市民社会を形成し、教養と権利意識に目覚めたいわゆる「市民」の創出とは異質な現象となっている。

また、九〇〇〇万人弱に及ぶ膨大な党員を擁する共産党の多くは、名誉、幹部としての訓練、特別の待遇などを受け、エリートとしての強い意識を抱いている。その上、党員の家族・親族、共青団、総工会、婦女連合会などの下部組織などを合計するならば、少なく見積もっても四億人以上は直接的、間接的に共産党に関係し、何らかの利益を得ているがいると考えられる。これ自体が柔軟ではあるが強力な体制維持装置となっている。無論彼らの中にも様々な考え方や異なった利害関係があることは言うまでもないが、共産党体制批判にまで発展して政治体制転換の主体になるとは考えにくい。

あるいは改革開放以来、一貫して制度化が強調されてきたにもかかわらず、依然として物事を決める鍵は、「関係」(コネクション)だと言われている。制度化が強まっていけば社会の予測可能性が高まる。制度化の進み具合は政治的近代化、体制移行の重要な指標であるのだが、前述したように「共産党の指導」が「法治」の上位にある限り、法やルールによるチェック・アンド・バランスのメカニズムを効果的に機能させることは難しく、制度化を進ませるネックになるだろう。

さらに政治と経済の関係で言えば、もともと先のような体制移行論には、経済成長に伴い中間層が増大し、彼らが政治・社会経験を蓄積することによって市民意識に目覚め、民主主義の推進力になるといった前提があった。しかし、中国のこの間の状況を概観するなら経済的に豊かになっていく層が政治的な改革の担い手にはなっていない。まさに経済と政治が容易に直接連動していない典型例である。

さらに、ここまで見てきたような「三つの大規模性と四つの断層性」に加えて、社会の変化が必ずしも制度の変容に直接反映しない「制度の曖昧性」についても、経済学者の加藤弘之が著書『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』(NTT出版、二○一三年)の中で四点にまとめて鋭く指摘している。

 ①組織の曖昧さ:中央集権的な官僚組織があり、ピラミッド型の組織構造が存在している。しかし、組織間の相互関係は必ずしも明確とはいえず一つの組織が時には二重の身分と二重の目的を持つことがある。

 ②責任の曖昧さ:上下の命令系統が存在する組織では、自らの持つ権限を上から下に、さらにその下へと「請け負わせる」連鎖の構造がある。

 ③ルールの曖昧さ:法律・政策規定は、執行主体の自由度を担保するために、意識的に曖昧にされる。法律・政策の解釈については、グレーゾーンの幅が大きく、解釈の正しさはときと場所によって変化する。

 ④目標モデルの曖昧さ一将来予測を立てることがむずかしい課題について、あえて明確な目標を立てない。

これらの「曖昧性」は、社会の変容に対応して制度やルールがつくられ機能し、新しい問題が起こり、それに対処するために次々と細分化されていく欧米的システムと異なって、社会と制度の間にある種クッションのような作用を持つ「曖昧性」なのである。この点に関しても、加藤は戦前の中国経済学者、柏祐賢(著作に『経済秩序個性論-中国経済の研究』人文書林、一九四七年)が、中国経済の本質は「包」(日本語では「請負」)の倫理規律にあると喝破し、「包」が中国経済の制度的特質を捉える視点を提供しているという興味深い指摘をしている。

「『包』とは『指定した内容の完成を担保するなら、あとはあなたの自由にしてよい』という意昧であり、(中略)不確実性が高いとき、請負方式はとりわけ有効性を発揮する方式だと考えられている。(中略)『包』とは、契約の不完全性を補う一つの手段として捉えることができる」(前掲『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』)

私はここで改革開放路線の推進の中で、農村で農家経営請負制(包干到戸)が、省・市・県レベルで財政請負責任制が、行政のトップでは省長・市長・県長らの行政長請負責任生産制(首長承包責任制)が広く実施されたことを思い出す。

具体的には農村での生産も、各地方の財政関係者も、さらには各行政のトップも、政府や上級など相手側との関係において、最低限の請負関係をつくり、ノルマ(責任)を果たし、それ以外は独自の考える計画、取り組みが可能になるといった枠組みにおかれていたのである。
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全宇宙でたった一人、自分という宿命

『自分という奇蹟』より

東洋における「運命と宿命」の違い

 ところで、私は中村さんがお亡くなりになった後、お書きになったものをまた改めて読み返しているうちに、「運命」と「宿命」について書いておられるのが目につきました。

 運命と宿命、どちらも同じような感じがしますし、ラテン語にしてもギリシャ語にしてもサンスクリット語や英語にしても大体、運命と宿命というふうに分けて考えない。ところが、東洋には、あるいは中国なんでしょうか、日本もそうですけれども、運命と宿命という二つの表現があります。

 宿命というのは人間が背負って生まれてきて、それを一切変えることができないようなものというような解説もあるそうです。運命というものは、これもまた人間をのせて動いていくものでありますけれども、偶然性が左右する部分だけ変わる可能性もあるのだと、こういうことを書いておられて、なるほどと思いました。

 「運」と言いますと、なにか運命というものとちょっと違って感じられるところが不思議です。運がいい、運が悪い。それから運がついてきたとも言いますし、開運のおまじないとか、そういう神社仏閣もあります。

 運が開ける、というわけですから、運のほうはかなり変わる。何かによって変わる可能性がある。しかし宿命というのはなかなか変わらない。なかなかどころか、決して変わらない”。

 たとえば交通事故なんかでも、あと一秒早くその場を抜けるか一秒遅く抜けるかで、衝突せずにすんだはずなのに、ということがあります。たった一秒が命を左右する、まさに運とはそういうものかなと思いますが、中村さんがお書きになっている運命というのは、人間全体が共通して背負っている条件、こういうことを運命という大きなことでおっしゃっているように思えました。

 たとえば、私たちが命あるものとして生まれてくる。地上に命あるものはたくさんいるわけです。草にも木にも命がある。そして虫も動物もみんな命あるものです。その命あるものの中でわれわれは人間、人として生まれてきた。このことは私たちの運命である。ということは、共通の運命を私もあなたも背負っていることなんだ、運命を共有しているのだ、運命の共同体という乗物の同じ乗組員なのだと。

 この地球という大きな惑星の上に私たちが生まれた。これも大きな運命の一つである。民族とか人種とか、時代を隔てずに私たちは地球という乗物の上に人間として生まれた。もっと狭く言いますと、たとえば日本人としてここに生まれた。あるいは、昭和に生まれて平成に生きているという、こういうこともたくさんの人だちと同じように共通の条件として背負っている。つまり運命の共同、共通の運命を担っている。このことは実は本当に不思議なことなのであって、得難い大変なことなのであると、こういうふうにおっしゃっています。

 そして、私たちがそのような大きな運命の手のひらの上にのっている者同士であるということを意識するならば、運命の共同体の中に生きている者同士としての連帯感や、あるいは家族のような感情が生まれてくるのではないかと言うのですが、これは非常に大事なことなんです。

 同じ仲間であり、そして家族としての人々、こういうふうに考えますと、その間に確かにある濃密な連帯感というものを感じる、あるいは理解することができます。そのためには私たちは運命というものの一つの手のひらの上にのっている、自分たちはその運命を出ることができない、不自由な存在であるということを深く自覚する。こういうことが必要だということなのです。

いかに生きるかより、まず生きる

 というのは、近代の生みの親であるデカルトのそうした発言には先行する言葉があって、それより前の時代、すなわち中世に、もっぱら広く人々の間に広がっていたものの考え方、人間観というものは、神学者でかつ思想家であったトマス・アクィナスが言った、「われあり故にわれ思う」という言葉でした。

 デカルトはそれをひっくり返して、そうではないんだ、生きているだけでは意味がないんだ、まず思惟することにおいて人間の価値がある、人間は考える存在なのだと、こういうふうに言ったわけですが、アクィナスの言葉をひっくり返した、その大胆な発言が、最近、私にはなんとなく色あせて見えるようになってきました。

 人間は、どのように生きるかを問われません。まず生きる。一日生き、十日生き、一年生き、十年生きるだけでも人間としての大きな価値があるのではなかろうか。その上で、恵まれた野心や体力、才能、そのようなものを与えられて生まれてきた人間は、自分の心の赴くままに、世のため人のため、偉大な業績を成せばよい。財を積み、発明をする、そして人類に貢献すればよい。そのことを、私たちは仰ぎ見て拍手する必要はない。それはその人にとっての喜びである。そのような素質を与えられて生まれてきたことを、英雄偉人は謙虚に感謝すべきなのではないか--。

 逆に、何事も成さずに一生を平凡な人間として過ごす人間も、あるいは、犯罪や不幸な事件を重ねて刑務所の塀の中で生涯を終えるような人々も、あるいは植物人間と言われて一生ベッドの上で生きていく人間も、「生きている」ということにおいて、人間としての第一の値打ちというものをきちんとすでに果たしている。生まれてきて、自ら自分の命を捨てたりすることなく、五年生きた、十年生きた、三十年生きた、そのことだけでも、人間としての大きな生きる値打ちは果たしていると、私は思います。

 余力があれば、ということなのです。余力があれば努力し、世のため人のために戦えばよい、頑張ればよい。でも、それができなくて、周りの人から、極楽トンボとけなされ、あるいは犯罪者と言われたとしても、生きて生き続けて、今、生きているということに、人間の値打ちはある。

 「存在」というものに、まず、人間の価値の第一歩を置く、という考え方をもう一度思い返し、トマス・アクィナスの「われあり故にわれ思う」という言葉の重さをかみしめることこそ、今、私たちには必要なのではなかろうか。どのように生きるかということは、二番目でいいという考え方を私は持っています。

全宇宙でたった一人、自分という宿命

 こういう大きな運命というもののほかにもう一つ、人間には宿命というものがあります。

 宿命というのも非常に暗いイメージがあって私は好きではないのですけれども、それでもそれを否定できないことがあるのは確かです。それというのも人間というものは一人一人違って生まれてくるということなのです。「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、これは俺ひとりが偉いんだという言葉ではなくて、自分はほかの人と違う。万人いても、万人一人一人がたった一人の自己である。ほかの人たちと違ったものを背負って生まれてくる。それ故にこそ自ずから尊いのだということなのです。

 百万人いたら百万通りの人間がいる。遺伝子も違えば性格も違う。顔かたちも違えば心持ちも違う。その差というのは、まさに兄弟であろうと親子であろうと、やっぱり違うのです。たった一人、この大きな地球上に、あるいは全宇宙の中でたった一人しかいない自分、これを宿命というふうに考えざるを得ないような気がするのです。そういうものを背負って私たちは生まれてくるのだ

 そう考えますと、宿命とか運命とかいうのは非常に古くさいもののように感じられますけれども、実は運命を意識することで私たちは他人を自分たちの一部のように感じ、宿命を自覚することでその宿命の枠の中で宿命を背負いつつ、それでもその途中でその宿命を放棄することなく営々と歩み続けて、五年生きる、十年生きる、三十年生きる、五十年生きる--。

 こういうふうに生きてきた自分というものをいとおしく、なんと健気な存在であろうかと、こんなふうに感嘆せざるを得ないところがあるのです。そういうところからしか自分への肯定、自分への愛、あ’るいは自分の命が大事、命の尊さという実感は生まれてこないと思います。
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日本の議論で欠落しているマグロ問題の視角

『農林水産の経済学』より マグロの国際政治学

マグロやウナギなどの漁業資源の崩壊危機が叫ばれるようになって久しいが、当事者は皆、どうすればよいのかはわかっていると言っても過言ではない。経済学を含めた科学的知見に基づいて資源状態を把握しながら、獲り過ぎないように漁業を行えばよいのである。しかし、国際的な漁業資源管理の問題はそれほど単純ではなく、そうした合理的な判断を妨げる国際政治上のインセンティブ構造が存在する。それと併せて、資源状態を明らかにする資源管理科学の科学的不確実性がその妨げになっているということももちろんあるが、そうした科学的知見の創出、同知見の管理への適用を含めた、より広い国際政治の問題として捉えない限り、国際マグロ資源管理の本質は見えてこない。それを本章で示していきたい。

日本では「政治」というととかく、合理的意思決定を妨げる「汚い」ものとして捉えがちである。しかし、国際漁業資源管理は国際政治の問題である、ということはそうした「汚い」ものを扱うということではない。本章を通じて強調しておきたいのは、そうした合理的意思決定をするにも、それを可能にする政治的パワーが必要となるということである。そうした政治的パワーを獲得し資源竹理を成功させるためにも、その国際政治的側面を理解しなければならないのである。

さらに、日本で漁業資源管理の問題を語るうえで欠落している重要な視角がもう一つある。それは、マグロの資源管理を環境問題として捉える視角であり、21世紀の漁業資源管理を考えるうえで必要不可欠なものとなっている。たとえば、マグロは水産業を支えているだけでなく、食物連鎖の頂点に立つ魚種の一つとして海洋生態系の保全にも寄与している。それを大量に漁獲すると、直接捕食している魚類等が大幅に増加するだけでなく、いわゆる栄養カスケード効果(trophic cascade)によってその影響が食物連鎖で伝播していき、生態系に悪影響を及ぼしかねないことが懸念されている。他にも、マグロ漁を行うとサメやウミガメ、海鳥を混獲してしまうため(混獲される動物種は漁法や海域によって異なる)、それによる直接の生態系への忠影響(資源劣化)、そして前述した栄養カスケード効果による間接的な悪影響も懸念されている。事実、ミナミマグロを狙った漁業によって絶滅危惧種の海鳥が混獲され続けている。マグロを効率的に漁獲するために用いられている人目集魚装置(ブイ等)はマグロの回遊ルートを変更してしまう恐れがあるが、その生態系への影響もわかっていない。海洋投棄・廃棄された漁具と接触することで海洋生物が死亡してしまういわゆるゴーストフィッシングの実態もまったく把握できていない。ここで挙げたものを含めたマグロ漁業に関連する環境問題は、マグロの巨大消費国である日本ではほとんど認知されていないのが現状である。

マグロ属には8つの魚種があり、その中には日本人にお馴染みの高級マグロである大西洋クロマグロ、太平洋クロマグロ、ミナミマグロや、手頃なメバチマグロ、ビンナガマグロ、ツナ缶としてよく食べるカツオが含まれる(他にコシナガと大西洋マグロ)。回遊海域を指して、前者3種を温帯性マグロ、後者3種を熱帯性マグロと呼ぶ。総じて、マグロ資源は減少の一途をたどっているが、特に温帯性マグロの資源量が激減している。ミナミマグロの資源量は1980年代から一貫して初期資源量の5%以下に落ち込んだまま推移している可能性が非常に大きい。

国際管理の観点からいえば、マグロ類は排他的経済水域や公海にまたがって非常に広範な海洋を回遊する高度回遊性魚種である。したがって、マグロ資源を排他的に利用するのは不可能であり、かつ消費しようとすれば競合する共有プール財(CPR : Common Pool Resources)である。さらに資源動態の再現、あるいは資源評価の際の科学的不確実性が非常に大きいことや、管理規制の遵守状況を監視することが難しいのが特徴である。また、1990年代から、サメ漁のフィンニング、混獲される動物種の減少、マグロ資源の減少に歯止めがかからないことなどを問題視した国や環境NGOが、それらの問題をワシントン条約やボン条約など、それまで漁業資源管理との関連があまり意識されてこなかった場に持ち込むようになってきている。さらに国際漁業法に関連している国際法・国際機関としては、「海の憲法」と呼ばれる国連海洋法条約、その他の海洋関係条約、国際海事機関があり、また、漁業補助金を介して国際貿易機関とも相互連関がある。総じて見れば、国際漁業資源ガバナンスはいわゆる重層的ガバナンスの典型例である。

本章ではマグロの国際管理を対象とした国際政治学の基礎文献を中心にレビューを行い、その政策的含意と今後の研究課題を示していきたい。まずマグロの国際管理と、同管理における科学と政治の関係を概観した後、マグロがCPRであることから生じる管理の難しさとそれを克服するための方法、また、国際漁業資源管理をめぐる国際交渉に参加する国がどのような意思決定を行っているかを理論化した脆弱性反応モデルを論じる。また、国際漁業資源ガバナンスにおける制度間相互連関を、漁業補助金と混獲の問題を事例に取り上げる。最後にマグロ問題における重要アクターである環境NGOと、環境NGOによるイニシアチブとして成功を収めているMSCを論じる。
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Dr.マリオの世界にいる

Dr.マリオの世界

 Dr.マリオの世界は彼が進むことで世界が出来ていく。それでいて、空間が限られている。壁があるとその向こうには行けない。あたかも、そこが世界の端のようにしている。壁の向こうには世界があるはずだと誰も考えない。

 昔、大西洋は途中からなくなっていた。スペイン人はアフリカの海岸伝いに、アジアまで行き、コロンブスがアメリカ大陸に行くことで、向こうの世界があることが分かった。

 これはDr.マリオの世界だけでなく、私の周りも同じです。私が行く時に、急ごしらえで作り上げられる平面の世界。そこにいる人間は生まれた時からの歴史を持っているような顔をしているけど、実際は、そこで作られたシナリオだけで済んでいる。ご苦労なことです。

来週から4回連続の「二泊三日の旅」

 来週の月曜日の10時から二泊三日の旅を家で行います。ダイアリの世界です。そして、5週目はカテーテルの検査手術の二泊三日

 籠城のために、朝食として、食パンを買ったけど、昼食をどうするかです。歩いて、セブンイレブンに毎回行きましょうか。

VW不正問題は腑に落ちない

 まだ、腑に落ちない。排ガス対策を制御で行うことは有効な手段であったが、加藤所長からはエンジンには「素がいい、シンプルな構造」を求められていた。走行パターンに限定したものはやはり弱い。このエンジン屋の発想は気に入っていた。

 それはドイツでも一緒のはず。だから、ごまかすとかの次元を超えた、規制を超えた、「これが最適解だ」という思いがあったような気がしている。今はそんなことが言えるはずがない。
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親同居未婚者の今後

『女性活躍後進国ニッポン』より

前項で「子育てしながら女性が働ける環境が整っていないこと」、そして「男性が仕事、女性が家事」という意識が根強く残っていることが、少子化の大きな要因だというロジックを示しました。若い人の雇用が不安定化する中で、妻子を養って豊かな生活を送る収入を得ている未婚男性の数が激減しています。一人の男性の収入で結婚して子どもを育てて人並みの生活を送れる「可能性」が減っているのです。

では、結婚していない人はどうしているのでしょうか。独身者と聞くと一人で自立して生活している人を想像しますが、欧米とは違って、日本では一人暮らしの未婚者は少数です。二〇歳から三四歳までの未婚者の八割近くは親と同居しています。私は以前、親元で暮らす豊かな未婚者を「パラサイト・シングル」と名づけましたが、今では、収入が少ないので独立しようにもできず、親と同居をせざるを得ない未婚者が増えています。

私は、二〇〇〇年頃から、正規雇用でない未婚者のインタビュー調査を続けてきました(『希望格差社会--「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』筑摩書房、二〇〇四年参照)。「将来の希望は」と聞くと、ほとんどの非正規雇用の女性は、「結婚して主婦になって子どもを育て、夫が引退後は趣味で暮らしたい」などと、伝統的な性別役割分業型の家族を作りたいと答えていました。非正規の仕事では収入が低く、昇進も見込めず、雇用継続の保証もありません。だから、親と同居しながら、せめて収入が安定した男性と出会うことを望んでいるのです。もちろん、希望が叶い主婦になるケースもあります。しかし、前項で述べたように、そのような男性の数には限りがありますから、親と同居したまま、年齢を重ねる人も多数残ることになります。

一方、非正規雇用の男性は結婚を諦め始めています。「どうせ、俺の収入では結婚してくれる相手はいない」という声を何度も聞きました。「結婚相手が自分の母親のように家で働きづめで、生活も楽にならないのをみるのはかわいそうだ」と言う自営業の跡継ぎ男性もいました。男性も、女性と同じように伝統的で、結婚するなら自分の収入で一家の生活を支えなくてはならない、できないから自分は結婚できない、と思い込んでいるのです。

親はもっと保守的です。いくら本人同士がよくても、娘の親は正社員ではない男性との結婚をなかなか認めませんし、息子の親は、嫁は家事・育児・介護を全部するのが当然と考えている人がまだ多いのです。これでは、少子化は止まりません。

少子化対策のため、若年者の雇用状況を改善することは当然ですが、「男は仕事、女は家事」という固定的な意識も変えていかなければ、結婚は増えません。伝統的な性別役割分業の家族がいけないというわけではありません。でも、多くの人がそのような家族を作れなくなっているのも事実です。若者が男女ともに非正規雇用であっても、子どもを育てて人並みの生活ができるような環境を整える必要があるのです。

今、中年親同居未婚者が増え続けています。三五歳から四四歳までで親と同居している未婚者は、二〇一二年現在、三〇五万人います。その中での失業者や非正規雇用者の比率は、同世代の既婚男性や一人暮らしの人に比べ高いことが分かっています。その人たちは、今は七〇歳前後の親の家に住み、親の年金があるので生活できます。しかし、この中年親同居未婚者の生活は持続可能ではありません。数十年後、親が亡くなり住宅が老朽化したときにどうなるのか、実は誰も想像できないのです。低収入、そして低年金で孤立し、頼れる家族がだれもいない高齢者が今後急速に増えていきます。このままだと、きっと大きな社会問題になるでしょう。

亡くなった時に遺体を引き取る家族がいない、いわゆる「孤立死」は、年に約三万人以上に上ると言われています(NHKスペシャル取材班『無縁社会』文春文庫、二〇一二年)。このまま未婚化か進めば、二〇年後には、孤立死の人数は年二〇万人以上になると私は予測しています(拙著『「家族」難民--生涯未婚率二五%社会の衝撃』朝日新聞出版、二○一四年)。

将来起こる可能性が高いシングル化に伴う社会問題を防止するためにも、男女共同参画社会の実現が必要なのです。
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24時間働く男、8時間しか働けない女

『キャリア官僚 採用・人事のからくり』より 女性活用はどこまで進むか 女性キャリアが明かす女性活用の実態

のっけから厳しい現状認識を突きつけられた恰好だが、話がやや抽象的にすぎたせいか、男女の格差を誇張して話しているようにも聞こえた。霞が関が改革の過渡期にあるとしても、出世を求める以上は、ある程度男並みの働き方をしなければ、それ相応の地位は得られないと感じたからだ。

しかし、仕事と両立させるべき育児に関するAの次の指摘を耳にして、はっと虚を衝かれる思いがした。

 「ペビーシッター代って、どのくらいかかると思いますか? いくつかのレペルがあるので 一概に言えませんが、夜遅くまで見てもらうと年間でざっと三百万円。それに子供を送り迎えするタクシー代を含めると、プラス数十万円はかかります。先輩たちが男並みの残業をして頑張った点は敬意を表しますが、こうした外部化する費用をどう受け入れるか。給料の多くをベビーシッター代に充て、それでも男並みに働いてより上をめざすかと言われると、私たちの世代ではやはり疑問を感じますね」

ベビーシッターという言葉を聞くと、子供を預けっ放しにして、親は子の面倒見から完全に解放される印象を受ける。が、Aによれば、ミルクを何時に、何ミリリットルとか、細々としたことを事前に書いて説明するのが大変。いざ預ける段になっても、タオルが必要ですとか、ご飯の時に何をどのくらい食べさせるか教えてくださいとか、いろいろな注文が出され、それなら自分でやったほうが早いと思うことがある」そうで、育児に潜む見えない負担の重さを矢継ぎ早に説明した。

現実問題として、Aの前後の期を見回しても、恒常的な長時間労働に限界を感じるなどして官僚に見切りをつけるキャリアが散見される。辞めて弁護士になったり、専業主婦に収まったり、退官後のパターンはさまざまだが、日々の生活を乗り切る工夫がどこかで限界に達し、霞が関を去らざるを得ない実態が依然として改善されていないようだ。

他省庁との単純な比較は難しいが、医療から年金、保険、福祉、労働まで、幅広い領域をカバーする厚労省特有の事情も考慮する必要がある。限られた人員の割に業務量が膨大で、しかもキャリアのポストが少なく、結果的にキャリア官僚に仕事の負担や人事のしわ寄せが行きやすい現状も、頭から否定できないものがあるように思う。

 「女性の活躍をスローガンに、ただ『育てよ、働けよ』と言われても、それは無理な話ですよ。霞が関における男性の長時間労働をやめない限り、育児というハンディを背負う女性との競争は決してフェアではない。あえて言えば、『二十四時間働きます』という男性と、『今は八時間またはそれより短い時間しか働けません』という女性の評価とを、どこかで明確にしていかないと、女性の活躍は絵に描いた餅に終わるのではないでしょうか」

そうAは働き方の縮図を指摘してみせたが、言わんとするポイントは二回の真理を突いている。最近は男性が育児を引き受ける「イクメン」も話題になるが、まだまだ絶対数としては限られた話で、育児が女性中心に行われているのは疑問の余地がない。だとすれば、「二十四時間働きます」対「八時間しか働けません」の男女の。格差〃を、職場の中で少しでも折り合いをつけていくことが必要になり、そのための業務改善策が今ほど求められている時はない。

 「いや、業務改善のグループは毎年のようにできて、何度もやっているんです。厚生労働省という役所柄、トップが率先して方針を出し、実際の検討はボトムアップで若手にやらせるものの、実施の段階に入ると途端にうまくいかなくなる。本当に業務改善は何度もやっているのに、そのたびに失敗しているのが実態なんです」

Aはそこまで厳しい認識を示したうえで、最後の切り札ともいえる業務改善のあり方を、こう語った。

 「課長クラスには、いつも上ばかり見ている。ヒラメ々のような人がたくさんいる。真の改革を進めようとするなら、そうした管理職の評価基準に『業務改善』という項目を、ぜひ入れてほしいと思いますね」

霞が関のワークライフバランスを阻む三つのハードル

では、本人が仕事へのモチペーションを落とさず、育児中心の生活との両立を図るうえで、いったい何かネックになっているのだろう。Aにプライオリティを含め、いくつかのハードルを挙げてもらったところ、考える暇もなく以下の三点が口を突いて出た。

 一、男性職員も含めた働き方の見直し

 二、国会質疑対応

 三、財務省の予算ヒアリング

一の男性職員との関係は、これまで書いてきた「二十四時間働きます」か、「八時間しか働けません」に象徴的に表れている。男社会である霞が関の労働慣行を抜本的に改革しないと、Aをはじめ女性官僚が求める職場環境はなかなか実現しない。

そこは、政治による公務員制度改革の今後に期待せざるを得ないが、Aの言う「男性職員も含めた働き方の見直し」にはもっと日本的な、セクシャルハラスメントの意味合いも含まれている。当然、官僚の仕事は夜の世界の付き合いも、政策や法律をスムーズに動かしていくための潤滑油の役割を果たすことがあるが、それがともするとセクハラにつながる一面を秘めているという。

「省内の男性、とくに上司や先輩との付き合いだけでなく、国会議員との会合の場も〝オジさんワールド〟になりがちです。夜の世界で『お酌しません』はタブーで、それに合わせられる人が上に行き、無視する人は出世にマイナスなのは明らか。その程度のことはいちいち気にするなという見方もあるでしょうが、それこそが男性的な働き方を前提条件に考えている証拠ではないでしょうか」

二つ目の国会質疑対応は、男性官僚にとっても古くて新しい課題であり、年々女性官僚が右肩上がりで増えている今日、ますます重い課題になっているのは容易に想像がつく。この問題のネックは、国会議員が国会での質問要旨を前日の夜にならないと役所に通告しない慣例が長く続いていることで、男女を問わず官僚の間で常に不満をもって語られる現実がある。

国会開会中は深夜まで質問取りや答弁作成に追いまくられ、気がつくと朝になっている。始発電車で帰宅し、シャワーを浴びてまた役所にとんぼ返りという生活が、来る日も来る日も続くことになり、この問題は男性より女性のほうが深刻とみて、Aはこう話す。

「ひと言でシャワーを浴びてとんぼ返りといいますが、もう少し正確にいうとこういうパターンになります。まず、自宅に帰るや倒れるように寝て一五分、それからシャワーを浴び、着替えをし、パンとジュースの食事を摂って、すべて合わせた家の滞在時間は四五分間。このパターンは男女とも同じかもしれませんが、男性の場合は役所の休憩所や職場に簡易ベッドを置いて仮眠し、役所の売店でワイシャツやネクタイを買って身支度を整えることができても、さすがにそれは女性には無理ですからねえ」

国会質疑対応の実情を聞くと、いかに官僚が「国民全体の奉仕者」であり、「政治に対する選択肢の提供者」とはいえ、残業のための残業を強いられる理不尽さを感じないわけにはいかない。まして、女性キャリアが妊娠中や育児の真っ只中であることを考えると、一日、二日ならともかく国会開会中ずっとこのパターンを繰り返していくのは、もはや不可能といわざるを得ない。

三つ目の財務省の予算ヒアリングも国会対応と同じような問題を抱える。伝統的に官庁の中の官庁といわれる財務省は、予算編成権を握っていることもあって他省庁に対して一段上の立場にあり、主計官や主査の都合でヒアリングが行われる。そのため、他省庁の各局各課は、主計官僚の都合に合わせて「待機、待機」を余儀なくされ、主計局の廊下で長時間待たされることが秋から年末にかけての年中行事のようになっている。

Aがヤリ玉に挙げたこれらのネックは、二〇一四年六月、中央省庁で働く三十~四十代の女性官僚有志が、子育て中でも仕事と両立できる働き方をめざし、加藤勝信内閣人事局長に手渡した提言の中に詳しく書かれているので、後段で詳述したい。
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雑談の「場」がないのならつくり出す

『ANAが大切にしている習慣』より ANAでは「雑談」もコミュニケーションのひとつである

パイロットがハンガーで雑談するならば、私の若いころには、整備士はストーブを囲んで無駄話をし合ったものです。遮るものがない冬の空港での屋外作業では、耳は冷たく手もかじかみ、小さなネジを締めるのも一苦労でした。「ちょっと暖をとろう」と先輩から誘われ、ストーブを囲んで雑談をしていました。最近では裸火をたくことは難しくなってきましたが、昔の建設現場などではたき火を囲んで大工さんが話をされている光景をよく見かけました。こうした「場」は、航空業界以外にもあるのではないでしょうか。

工場なら休憩所とか、流通や小売業なら商品倉庫などになるのかもしれません。それぞれの体験を共有することで、工場ラインの不具合を直すことができたり、商品の扱いやお客さまのクレームなどに的確に対応できたことがあるでしょう。

しかし今の時代、飛行機が悪天候で飛ばないことは珍しくなりました。飛ぶ、飛ばないの判断も迅速にできるようになり、パイロットたちがハンガーに集まって待機するようなこともなくなりました。整備士の場合も防寒グッズが充実して環境改善も進みましたから、「ちょっと暖をとろう」ということが頻繁にはなくなりました。なにより昔のようにのんびりとした状況ではないことも確かです。このことは、どこの業界でも同じかもしれませんが、こうした「場」は次第になくなりつつあります。

また最近では、待ち時間になるとすぐにスマートフォンや携帯電話で、自分に必要な情報を収集したり、SNSで気の合った者同士、情報交換したりするのが一般的なようです。

そもそも「雑談」や「無駄話」というように、得てしてこうした会話やコミュニケーションを、会社は「雑」だとか「無駄」と切り捨てがちです。

しかし、私はチームにとって、そうした「場」は絶対に必要だと思っています。「雑談」は「雑多」だからこそ意味があります。「無駄話」を「無駄」にしてしまうことのないよう「暗黙知」として蓄えることです。

もしも「場」がないのならつくればいいのです。

最近では喫煙者が減りつつありますが、喫煙ルームがそうした「場」になるかもしれません。自動販売機があれば、その近くに小さなテーブルと椅子を置いてもいいでしょう。お弁当を食べるスペースがあれば、そこが雑談をしたり無駄話をしたりする「場」になります。

そしてここで大切なのは、「場」の数を少なくすることです。なぜかといえば、さまざまな部署の人が、そこに集まらざるを得なくなり、必然的に交流が深まるからです。

よく「風通しのいい職場」という言葉を耳にします。誰にでも自由にものが言える雰囲気は、こうした環境から生まれます。

しかし、いくら風通しがよくても「風」がなければ意味はありません。「場」をつくったとしても、誰も集まらず、雑談も無駄話もしないとなっては寂しい限りです。どんなことでもよいので、まずは率先して話しかけてみましょう。

こうした「場」は、物理的な場所に限りません。

どうして雑談や無駄話が重要かといえば、他者の経験を共有し、情報交換をして知識の幅を広げ、一人では不可能なこともチームでやれば可能になる、ということにつながるからでした。誰に対しても自由にものが言えることがなぜ大事かといえば、誰かが気づいたちょっとしたミスやエラーが重大な事故につながりかねないからでした。

そのため、ANAグループでは、こうした雑談や無駄話の中にある、勘違いや錯覚、ミス、エラーといった貴重なエッセンスを、社内のイントラネットで広く共有される仕組みをつくりました。できる限り多くの社員で共有しなければ意味がないのです。

例えば、パイロットが所属している部門では、「ECHO(Experience Can help Others)」という仕組みを持っています。日本語にすると「経験は他のものを救う」ということになるのでしょうか。エコーすなわち「こだま」や「響き渡る」という意味も込めた語呂合わせのネーミングにしています。勘違いや錯覚、ミス、間違い、エラーといった事例や、事故防止に役立つと思われる経験やアイデアを自発的に報告する仕組みというわけです。

整備部門では、「ヒヤリハット」や「TAKO(Team ANA Knowledge Operation)」、客室乗務員が所属している部門では「STEP(Safety Tip From Experience)」など、グループ全体で、たくさんの「場」をつくっています。

ミスやエラーなどの失敗事例を発信する「場」づくりで大切なことは、「免責性」「秘匿性」「独立性」「簡易性」「貢献性」と、発信された内容に対する措置が本人に確実に伝えられる「フィードバック」の6つです。

「免責性」とは、つまり、発信された情報が懲罰に使われるようでは、誰も発信をしないということです。

「秘匿性」とは、発信者を特定できるような情報は公開しないということです。Good Jobカードは、誰がしたかを紹介することは励みになりますが、エラーや失敗事例に「誰が」は必要ありません。大切なことは「何か起きたのか」が、タイムリーに発信されることです。

「独立性」とは、会社組織などから独立した組織で発信された情報を処理することです。情報の「場」づくりでは、簡単に発信できたりアクセスできる「簡易性」も大切です。

そして、「貢献性」ですが、やはり人間ですから自分の情報が何かの役に立っているということがわからなければ、発信しようという気すら起きないかもしれません。

新鮮さも大切です。WEBは古くなれば誰も見なくなりますから、常に最新情報に更新して、みんなが興味を持つ「場」にしておくことが大切です。
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自動車企業の巨人が提示する未来カー/ファン・ヴィーとアイ・ロード

『<小さな交通>が都市を変える』より ⇒ “外”から見ると、こう見えるんだ!

ファン・ヴィーは、スマートフォンにタイヤを4つつけたような未来カーであるが、同時に自動車を今まで以上に私的で親密な心地よいパーソナル空間に仕立てた。自動車でありながらも、バイクのような走行感覚と小回りを楽しめる実用化寸前のアイ・ロード。ともに未来の車のひとつの方向を示している。

日本の車社会の変化

 トヨタ自動車は、まぎれもなく日本の車社会を牽引してきた。現在では、世界最大手の自動車会社のひとつで、2014年には自動車の生産台数・販売台数ともに世界第1位になるなど、その存在感は圧倒的だ。しかしそのトヨタ自動車も、車社会の変化に伴い、新しい方向性への転換に迫られている。背景のひとつとしてあるのは、車の相対的地位の低下だ。これから人口が減少していくなかで、自動車保有者数が減り、確実に国内の生産台数は減少し、車の必要性が低い単身者や高齢者が世帯数で多数派を占めるようになる。かつて車は自由の象徴であり、いつでもどこでも移動できることに大きな価値があった。しかし、現代ではインターネットが発達し、遠く離れた場所の情報も瞬時に得ることができ、移動の必要性が減っている。また自動車は車体購入費やメンテナンスを考えると経済的負担が大きいため、保有のハードルが高い。そのため、20代の運転免許取得率、保有率ともに年々減少している。

 車を購入する側の変化に加えて、自動車の生産にも大きな変化が生じている。近年、徐々に電気自動車(EV)が普及しているが、電気自動車は誰でも簡単に製造ができると言われている。自動車の製造で一番難しいと言われているのはエンジンであるが、電気自動車ではその必要がない。部品点数はガソリン自動車の1/3から1/10に減るという。しかも、電気自動車に使う主要部品のほとんどに汎用性があり、内外の様々なメーカーから調達可能である。そのため、中小企業だけでなく個人も含めて誰でも自動車の製造者になる可能性があるという。

 このように自動車を取り巻く社会構造が大きく変化するなかで、自動車生産を基幹としていたトヨタ自動車でも、未来のモビリティ社会をりードすべく、新しい方向の模索が始まっている。本書で紹介する小さい交通とは少し方向性が違うが、大手自動車会社の発想の一端を垣間見てみよう。

車そのものを変える

 今回話を伺った未来プロジェクト室は、トヨタ自動車の一部署で、新しいコンセプ卜を会社に提案していく役割を担っている。上述のような自動車社会の変化を受けて、次の時代のモビリティを探るべく1993年に設立された。今まで未来プロジェクト室から、膨大なアイデアが考案され、そのなかからいくつも実現されてきた

 そのひとつは、「自動車そのものの価値を変える」ということである。 2011年の東京モーターショーで「ファン・ヴィー(Fun-vii)]というコンセプトカーが発表された。これは、スマートフォンにタイヤを4つつけたような車である。ファン・ヴィーは車体全体がタッチパネルディスプレイになっているため、自分の好みに合わせて内装、外装の柄を瞬時に変えることができる。また、車体にタッチすることで、自動車の様々な操作を行い、電池残量や地図などの情報を得ることができる。まさにスマートフォンを使う感覚で、自動車が操作できる。トヨタフレンドというSNSなどのアプリケーションも搭載されており、車内にいながら携帯電話を使わなくとも友人に連絡することができる。これは自動車の存在そのものを今まで以上により私的で親密な、心地よい空間にするという考え方だと捉えられる。自動車が普及した当時は、自動車とは「いつでも自分だけの空間で好きなところへ移動ができる、自由の象徴」という存在であったが、ファン・ヴィーではその価値をさらに進め、極めようとしている。

 一方で、「自動車の走行感覚を大きく変える」というコンセプトの自動車も登場した。それが2013年に登場した「アイ・ロード(i-road)」である。アイ・ロードは、バイクと自動車のあいだのような乗り物だ。自動車のように全体が覆われていながらも、車幅が850mmとバイクと同程度しかない。一番特徴的なことは、その走行感覚だ。ドライバーのハンドル操作に合わせて、左右の前輪が上下に動き、コーナリングに最適な傾きになるよう、自動的に車体を制御している。つまり自動車でありながらも、バイクのような走行感覚を楽しむことができる。都市内の道路幅の小さな街路や、小さな駐車スペースであっても小回りが利くため、密集した都市の移動に適した自動車だとも言える。

 アイ・ロードは、自動車に興味をもたなくなった人々に対して、「自動車で走行する体験そのものを楽しんでもらいたい」「移動することに楽しさを見出してほしい」という思いのもとに考案されたものだ。現在、バイクや原付の使用者のほとんどが若い男性だというが、多くの女性にとっては身体が守られないバイクは抵抗感がある。しかし、自転車では長距離の走行が難しく、自動車では小回りが利かない。アイ・ロードは、そのような人にとって、今までの乗り物に代わるものとして考えられている。

 ファン・ヴィーやアイ・ロードはわれわれが関心をもっている〈小さい交通〉とは、少し方向の異なるものだ。〈小さい交通〉は、小さく、簡素な車体で低速であることに積極的な価値を見出すものであるが、ファン・ヴィーは「カプセル状の、私的な空間」という自動車の価値をさらに追求している。また、アイ・ロードは、車体が小さくなっても、自動車がもつスピード感は引きついでいる。電動になっても車体が小さくなっても、あくまでも小さな[自動車]でありたいという思いが強いのかもしれない。このような自動車の変化の方向性は、人々にどう受け止められるのだろうか。

車だけではない、交通全体の変化

 その一方で、自動車だけでなく、まちづくりと一体となって、総合的に交通を考える方向での検討もトヨタ自動車の別チームが始めている。

 それは豊田市を対象とした「ハーモ(Ha:mo)」というプロジェクトである。ハーモとは、自動車と公共交通を組み合わせたスマートフォンのアプリケーションによるルート案内サービスや、超小型電気自動車と電動アシスト自転車を利用したシェアリングシステムを提供するサービスである。車と公共交通を総合的な視点で最適に組み合わせることで、過度な自動車利用を控え、CO2削減や渋滞緩和に役立てようというものである。

 未来プロジェクト室でも同じように、交通システムを総合的に考える方向に舵を切ろうとしている。きっかけとなったのは、鎌倉などで実施したフューチャーセンターのイベントだ。ここでは将来的に利害関係者になると想定される多様な人々を招き入れ、創造的な対話が行われた。このとき初めて、未来プロジェクト室のメンバーが地方都市で暮らす住民と直接に対話をしたことで、交通に対する考え方は大きく変わったという。それはハードだけで解決するのではなく、人が使いこなせるかどうかなども含めて総合的に解決策を考えていかなければならないということだ。例えば、「高齢者の乗り物」といえば、従来ではお年寄りが何の苦労もなく使える乗り物と考えられてきた。しかし実際に高齢者と会話をしてみると、「本当は足腰を鍛えたいから、過度に乗り物に依存したくない」という意見が多いという。つまり今後は、人々の生活を総合的に見たときに、乗り物としてどんな機能が必要かを考えたうえで開発を進める必要があるということだ。

 今後どのような形で、未来プロジェクト室の考える都市交通の姿が提示されるのだろうか。今後の展開が興味深いところである。
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中村元の『存在と時間』

中村元の『存在と時間』

 ハイデッガー『存在と時間1』の中村元訳。思ってたとおり、詳しい解説付きだった。本文の倍はあります。そして分かりやすい。この分冊は8つ出るみたい。カントとニーチェの時も大変だった。また、解説をテキスト化しないといけない。存在も時間も少ししかないけど。

存在の力から語りましょう

 NPOはなぜ、存在から語ろうとしないのか。そうすれば、物事は簡単になるのに。前提条件を置きすぎです。それで行動を縛る必要はない。

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