『原子力支援』より
ソ連は、リビアヘの民生用原子力技術の最大の供給国だった。一九七五年五月五日に協定が締結されて、両国の協力関係が始まった。協定は、ソ連はリビアに一〇メガワットの研究用原子炉を建設し、タジュラ原子力研究センター(TNRC)の設立を支援するという内容だった。一九八一年四月、ソ連から届いた最初の高濃縮ウラン(一一・五キロ)がリビアに到着し、それを燃料として八月に原子炉が稼働を開始した。TNRCは、リビアがひそかに進めていた核兵器プログラムの拠点となり、それは二○○三年にリビアが計画を放棄するまで続いた。TNRCではひそかにウラン転換やガス遠心分離機を使ったウラン濃縮、プルトニウム分離が行なわれていたとされる。
TNRCがまだ建設中だった一九七七年一二月、ソ連は追加の原子力支援協定をリビアと結び、地中海沿岸に四四〇メガワットの原発をつくることになった。西側の情報源によると、そのためにはソ連の輸出用原子炉の標準型である加圧水型原子炉を二基送りこむ必要があった。しかしいざ輸入する段階になってリビアがソ連との「大きな問題」に直面し、タジュラ以後の原子力取引は勢いを失う。協定は一九八六年に失効し、リビアに原子炉が届くことはなかった。
ソ連とリビアのパートナーシップ強化
ソ連による対リビア原子力支援は一九七五年に始まり、一九八六年に終了した。これはなぜか? 過去の資料からは、ソ連には戦略的パートナーシップ強化の意図があったことがうかがえる。一九七〇年代以前は、ソ連とリビアの関係に友好的な空気はまったくなかった。一九五一年に即位したリビア国王イドリース一世は西側諸国寄りの立場をとっていたし、一九六九年に無血革命で権力の座についたムアンマル・カダフィ大佐も当初はソ連と距離を置いていた。そのころソ連はエジプトと密接な同盟関係にあり、リビアとの関係改善は重視していなかった。ところが一九七二年、エジプ卜のアソワル・サダト大統領が対ソ連政策を一八○度転換する。そこでソ連はリビアとの距離を縮めることにした。一九七四年五月にリビア代表団がモスクワを訪問したとき、コスイギン首相はこう述べている。「両国の協力をさまざまな側面から検討し、ソビエト=リビア関係拡大の可能性について意見を交換したい。大いなる可能性が広がっていると我々は考える」。さらにトリポリで行なわれた二国間協議に続いて、次のような共同コミュニケが発表された。「ソ連とリビア・アラブ共和国は、両国の友情と協力を深め、発展させることを外交の重要任務と位置づけていた」。
ソ連にとって、リビアとの関係改善に欠かせなかったのが原子力支援だった。リビアとの距離を縮め、地域での影響力を強める手段だったのである。ソ連指導部の発言もそれを裏づけている。たとえば一九七四年五月、コスイギンは次のように発言した。「我々は両国の協力をさまざまな側面から検討したい……協力体制をより長期的で安定したものにするために、協定を結ぶ用意がある。協調行動が、両国の相互理解と信頼の強化につながるだろう」。コスイギンの言う協力には、むろん原子力分野での協力も含まれていた。この発言からわずか数カ月後、ソ連はリビアと最初の原子力支援協定を締結する。
ところが一九八〇年代に入ると、ソ連はリビアとの関係に興味を失ってくる。カダフィ大佐は行動の予測がつかず、周辺のアラブ諸国としょっちゅう摩擦を起こしていた。一九八五年に政権を握ったミハイル・ゴルバチョフは、リビアとの距離を縮めすぎると、ほかの優先事項に支障が出ると考えた。早くも一九八三年から、ソ連はリビアとの関係強化をうたった正式な条約を拒否し、常軌を逸したリビア指導者と「一定の距離を置く」態度を取っている。一九八六年三月と四月、リビアがアメリカ軍の空爆を受けたときも、ソ連は直接支援の手を差しのべなかった。ソ連がリビアとの関係強化を望まなくなったことで、平和的な原子力支援活動もすべて終了した。ソ連は、軍事同盟を視野に入れてリビアに接近していたようだ。エジプトから追放されたソ連は、北アフリカにパートナーを求めていた。なかでもリビアは戦略的な位置関係にあり、同盟国として重要な存在になりそうだった。地中海に面しているので海軍の寄港地ができるし、国内各地の飛行場も、サハラ砂漠以南で軍事行動を展開するときの足がかりになる。ただソ連がリビアとの協力関係強化を重視する最大の理由は、この地域でのアメリカの影響力を削ぐことだった。
アメリカを牽制する
原子力支援が始まったとき、ソ連とリビアはどちらもアメリカを敵に回しており、どちらの国の指導者も折りに触れて「アメリカ帝国主義」を激しく非難していた。一九八〇年代、ソ連は同じ超大国のアメリカに競争意識を向け、リビアもアメリカとの外交を断絶してにらみあっていた。カダフィは一九七四年五月、リビアとソ連の友情はアメリカに対抗する共通の利害に支えられていると語った。リビアは「アメリカが中東で開始した外交攻勢」から自国を守る必要があり、ソ連は宿敵アメリカに対して「戦略的優位」を確保したがっていた。
こうした共通の利害を背景に、ソ連はリビアとの関係強化を図る。ただし両国がともに脅威を感じているというだけでは、パートナーシップを結ぶにはいささか弱い。ソ連とリビアの原子力支援が、両国の関係強化、ひいてはアメリカの牽制に不可欠な手段と見なされていたことは、一次文献から明らかである。一九七五年の原子力協定に向けて、その土台づくりのために行なわれた一九七二年三月の二国間協議では、ソ連とリビアがともに「帝国主義との……戦いを成功させるうえで[二国間の]友情がきわめて重要である」ことに触れていた。一九七五年五月、協定調印のためのトリポリ行きを直前に控えたときも、コスイギンは「共通の敵との戦い」に勝利するには協力強化が必要だと発言している。
ソ連がリビアと第二次原子力協定を結び、タジュラ原子炉を建設したときも、こうした対米感情は続いていた。一九八一年四月、ソ連のブレジネフ書記長は、リビアとの原子力支援および全般的な関係はアメリカの影響力に対抗するうえで欠かせないと述べた。「帝国主義の抑圧と攻撃に対抗し、人民の権利と自由を勝ちとる戦いにおいて、我々は同志であり戦友である……我々ソ連の人間は、[アメリカ帝国主義に対して]リビアがとる原則的な立場を高く評価する……あなたがたは、帝国主義の策謀と人民の権利侵害につねに立ちむかってい乱」。さらに一九八二年五月、原子力支援でリビアと協議中だった閣僚会議議長のニコライ・チーホノフはこうも発言した。「反帝国主義闘争における両国の目標を統一することが……両国関係の強固な基盤となる。我々の協力は最終的にその高邁な目標に向かわねばならない」。
リビアを強化することが、アメリカの勢力と影響力を削ぐことになる。ソ連はそう信じていた。民生用原子力プログラムを通じてエネルギー生産能力を拡大すれば、経済成長も容易になる。そうすれば共通の敵(アメリカ)もリビアに影響力をふるったり、攻撃的になったりすることが難しくなると考えたのである。
しかし一九八五年にゴルバチョフが書記長に就任すると、ソ連がアメリカを牽制する意味が失われた。ゴルバチョフの掲げた「新思考」外交は、冷戦の緊張を緩和し、アメリカおよび西側との関係改善をめざすものだったからだ。一九八五年一一月、ゴルバチョフはレーガン大統領と初の会談を行ない、両国の関係を温めるための対話を開始した。両首脳は一九八六年一〇月にもアイスランドで会談したが、このとき中距離核戦力の全廃に関する基本合意がなされ、両者は個人的にも親密な関係を築いた。一九八六年、ソ連がリビアに二基の原子炉を供給する協定が立ち消えになったのは、ひとえに米ソのこの雪どけが原因である。
ソ連は、リビアヘの民生用原子力技術の最大の供給国だった。一九七五年五月五日に協定が締結されて、両国の協力関係が始まった。協定は、ソ連はリビアに一〇メガワットの研究用原子炉を建設し、タジュラ原子力研究センター(TNRC)の設立を支援するという内容だった。一九八一年四月、ソ連から届いた最初の高濃縮ウラン(一一・五キロ)がリビアに到着し、それを燃料として八月に原子炉が稼働を開始した。TNRCは、リビアがひそかに進めていた核兵器プログラムの拠点となり、それは二○○三年にリビアが計画を放棄するまで続いた。TNRCではひそかにウラン転換やガス遠心分離機を使ったウラン濃縮、プルトニウム分離が行なわれていたとされる。
TNRCがまだ建設中だった一九七七年一二月、ソ連は追加の原子力支援協定をリビアと結び、地中海沿岸に四四〇メガワットの原発をつくることになった。西側の情報源によると、そのためにはソ連の輸出用原子炉の標準型である加圧水型原子炉を二基送りこむ必要があった。しかしいざ輸入する段階になってリビアがソ連との「大きな問題」に直面し、タジュラ以後の原子力取引は勢いを失う。協定は一九八六年に失効し、リビアに原子炉が届くことはなかった。
ソ連とリビアのパートナーシップ強化
ソ連による対リビア原子力支援は一九七五年に始まり、一九八六年に終了した。これはなぜか? 過去の資料からは、ソ連には戦略的パートナーシップ強化の意図があったことがうかがえる。一九七〇年代以前は、ソ連とリビアの関係に友好的な空気はまったくなかった。一九五一年に即位したリビア国王イドリース一世は西側諸国寄りの立場をとっていたし、一九六九年に無血革命で権力の座についたムアンマル・カダフィ大佐も当初はソ連と距離を置いていた。そのころソ連はエジプトと密接な同盟関係にあり、リビアとの関係改善は重視していなかった。ところが一九七二年、エジプ卜のアソワル・サダト大統領が対ソ連政策を一八○度転換する。そこでソ連はリビアとの距離を縮めることにした。一九七四年五月にリビア代表団がモスクワを訪問したとき、コスイギン首相はこう述べている。「両国の協力をさまざまな側面から検討し、ソビエト=リビア関係拡大の可能性について意見を交換したい。大いなる可能性が広がっていると我々は考える」。さらにトリポリで行なわれた二国間協議に続いて、次のような共同コミュニケが発表された。「ソ連とリビア・アラブ共和国は、両国の友情と協力を深め、発展させることを外交の重要任務と位置づけていた」。
ソ連にとって、リビアとの関係改善に欠かせなかったのが原子力支援だった。リビアとの距離を縮め、地域での影響力を強める手段だったのである。ソ連指導部の発言もそれを裏づけている。たとえば一九七四年五月、コスイギンは次のように発言した。「我々は両国の協力をさまざまな側面から検討したい……協力体制をより長期的で安定したものにするために、協定を結ぶ用意がある。協調行動が、両国の相互理解と信頼の強化につながるだろう」。コスイギンの言う協力には、むろん原子力分野での協力も含まれていた。この発言からわずか数カ月後、ソ連はリビアと最初の原子力支援協定を締結する。
ところが一九八〇年代に入ると、ソ連はリビアとの関係に興味を失ってくる。カダフィ大佐は行動の予測がつかず、周辺のアラブ諸国としょっちゅう摩擦を起こしていた。一九八五年に政権を握ったミハイル・ゴルバチョフは、リビアとの距離を縮めすぎると、ほかの優先事項に支障が出ると考えた。早くも一九八三年から、ソ連はリビアとの関係強化をうたった正式な条約を拒否し、常軌を逸したリビア指導者と「一定の距離を置く」態度を取っている。一九八六年三月と四月、リビアがアメリカ軍の空爆を受けたときも、ソ連は直接支援の手を差しのべなかった。ソ連がリビアとの関係強化を望まなくなったことで、平和的な原子力支援活動もすべて終了した。ソ連は、軍事同盟を視野に入れてリビアに接近していたようだ。エジプトから追放されたソ連は、北アフリカにパートナーを求めていた。なかでもリビアは戦略的な位置関係にあり、同盟国として重要な存在になりそうだった。地中海に面しているので海軍の寄港地ができるし、国内各地の飛行場も、サハラ砂漠以南で軍事行動を展開するときの足がかりになる。ただソ連がリビアとの協力関係強化を重視する最大の理由は、この地域でのアメリカの影響力を削ぐことだった。
アメリカを牽制する
原子力支援が始まったとき、ソ連とリビアはどちらもアメリカを敵に回しており、どちらの国の指導者も折りに触れて「アメリカ帝国主義」を激しく非難していた。一九八〇年代、ソ連は同じ超大国のアメリカに競争意識を向け、リビアもアメリカとの外交を断絶してにらみあっていた。カダフィは一九七四年五月、リビアとソ連の友情はアメリカに対抗する共通の利害に支えられていると語った。リビアは「アメリカが中東で開始した外交攻勢」から自国を守る必要があり、ソ連は宿敵アメリカに対して「戦略的優位」を確保したがっていた。
こうした共通の利害を背景に、ソ連はリビアとの関係強化を図る。ただし両国がともに脅威を感じているというだけでは、パートナーシップを結ぶにはいささか弱い。ソ連とリビアの原子力支援が、両国の関係強化、ひいてはアメリカの牽制に不可欠な手段と見なされていたことは、一次文献から明らかである。一九七五年の原子力協定に向けて、その土台づくりのために行なわれた一九七二年三月の二国間協議では、ソ連とリビアがともに「帝国主義との……戦いを成功させるうえで[二国間の]友情がきわめて重要である」ことに触れていた。一九七五年五月、協定調印のためのトリポリ行きを直前に控えたときも、コスイギンは「共通の敵との戦い」に勝利するには協力強化が必要だと発言している。
ソ連がリビアと第二次原子力協定を結び、タジュラ原子炉を建設したときも、こうした対米感情は続いていた。一九八一年四月、ソ連のブレジネフ書記長は、リビアとの原子力支援および全般的な関係はアメリカの影響力に対抗するうえで欠かせないと述べた。「帝国主義の抑圧と攻撃に対抗し、人民の権利と自由を勝ちとる戦いにおいて、我々は同志であり戦友である……我々ソ連の人間は、[アメリカ帝国主義に対して]リビアがとる原則的な立場を高く評価する……あなたがたは、帝国主義の策謀と人民の権利侵害につねに立ちむかってい乱」。さらに一九八二年五月、原子力支援でリビアと協議中だった閣僚会議議長のニコライ・チーホノフはこうも発言した。「反帝国主義闘争における両国の目標を統一することが……両国関係の強固な基盤となる。我々の協力は最終的にその高邁な目標に向かわねばならない」。
リビアを強化することが、アメリカの勢力と影響力を削ぐことになる。ソ連はそう信じていた。民生用原子力プログラムを通じてエネルギー生産能力を拡大すれば、経済成長も容易になる。そうすれば共通の敵(アメリカ)もリビアに影響力をふるったり、攻撃的になったりすることが難しくなると考えたのである。
しかし一九八五年にゴルバチョフが書記長に就任すると、ソ連がアメリカを牽制する意味が失われた。ゴルバチョフの掲げた「新思考」外交は、冷戦の緊張を緩和し、アメリカおよび西側との関係改善をめざすものだったからだ。一九八五年一一月、ゴルバチョフはレーガン大統領と初の会談を行ない、両国の関係を温めるための対話を開始した。両首脳は一九八六年一〇月にもアイスランドで会談したが、このとき中距離核戦力の全廃に関する基本合意がなされ、両者は個人的にも親密な関係を築いた。一九八六年、ソ連がリビアに二基の原子炉を供給する協定が立ち消えになったのは、ひとえに米ソのこの雪どけが原因である。
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