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二泊三日の考える時間の確保

二泊三日の考える時間の確保

 入院したことを想定して、二泊三日で考えるだけの日にしましょう。月曜日の10時から水曜日の10時までの期限付きです。病室の代わりに自分の部屋を見立てます。

10.3「共通意識」

 10.3「共通意識」はかなり変えないといけない。ありきたりのことだけを書いているだけです。題名からして、最終テーマとは思えない。

考えながら寝る習慣

 寝る時には、考えながら、寝るようにしましょう。それぐらいしかない。そうすれば、死ぬ時も考えながら死ぬことができるかもしれない。格好いい!

 朝は、まずは赤いダイアリーでしょう。

 とりあえずは、来週の月曜日から部屋の中で「入院」しましょう。車を使わない生活になります。散歩は可能です。来週の水曜日は病院です。11時半だから、10時明けで可能です。水曜日までは世の中も連休だから、丁度いいかもしれない。

胸の検査

 朝、起きる気がなくなる時は胸のモヤモヤの場合が多い。胸の違和感の原因を入院検査でハッキリさせましょう。

赤いダイアリー

 今日の夜は入力です。

 モレスキンのダイアリーの今日の日の日付は書かれていない。この辺はいい加減です。

第10章の進め方

 第10章は次につなげるために、言葉をドンドン飛ばします。この後がないから、跳ばせるだけ飛ばしていかないとダメです。それに伴って、内容も飛ばします。私の発想力が問われます。

他者の承認は無用

 色々なコメントにしても、他者の承認を求めないことで、かなり、楽になりました。反応を気にしない。だから、「いいね!」がゼロが最高です。

10.5「変節点」

 これは私でないと言えないでしょう。自分が生まれてきたことで、意味を考えた時に、何かが起こるはずです。その確信があるのは私だけです。世界は私の世界だから。それはあくまでも、変節するという意識。その証明は私が生まれてきたことしかない。

6台目のキンドル?

 キンドルのFire HD6のサイズが魅力的ですね。9月30日販売のHD8だと、ストレージが128GBまで拡張できます。重さが311gです。

本の処理

 選択基準をコンパクトにしたのと、岡崎図書館は止めたので、豊田市図書館から借りてきた新刊書の処理を終えました。
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OCR化した6冊

『ケースに学ぶ マーケティング』

 ポジショニング ドトールとスターバックスのマーケティング戦略

 この章で学ぶこと

 ケース:ドトールとスターバックス

  私たちの生活のなかでのカフェ

  日本におけるカフエの普及

  セルフサービス・カフェチェーンの登場

  スターバックスの進出

  ドトールのマーケティング戦略

  スターバックスのマーケティング戦略

  コーヒー飲用の多様化

 ケースに学ぶ

  STPのなかのポジショニング

  知覚マップとポジショニング

  ポジショニングと持続的競争優位

  市場ダイナミズムヘのポジショニング対応

『チャーチル』

 戦争の到来 一九三三-四〇年

『自動車業界の動向と仕組みがよ~くわかる本』

 販売促進と販売方法の変遷

  車の販売促進

  ディーラーの販売方式の変遷

 メーカーを脅かす力ーシェアリング

  カーシェアリングとは何か

  レンタカーとの違いは?

 「スマートグリッド」と電気自動車

  スマートグリッドとは

  大統領が「スマートグリッド」を提案

  エネルギーインフラは分散型

 現代自動車の競争力

  現代自動車の概要

  現代自動車の競争力

 三菱自動車の『アイ・ミーブ』

  三菱自動車は二〇〇九年度に、電気自動車「アイ・ミーブ」を発表しました。二〇一三年九月現在で、世界累計販売台数は約一万六八〇〇台です。

  電池技術の蓄積が社内にあった

  「アイ・ミーブ」はシティコミューターー

 日産の『リーフ』

  排気量が大きいのに低価格

  三菱自動車と共同でEV開発

 自動車の販売業務に求められる人材

  自動車の販売業務

  アフターサービスが既存顧客の維持につながる

『世界大戦と危険な半島』

 独ソに勝った! チトー大統領一代記

  第二次大戦の終わりまで~ナチス・ドイツを追い返す

  ソ連との和解まで~スターリンをビビらせ、ソ連に謝らせる

  民族融和の実験~最期までユーゴをまとめ切る

 ヨーロッパの病人、オスマン・トルコ

 従軍記者トロツキーの見たバルカン戦争

『戦後サブカル年代記』

 『宇宙戦艦ヤマト』の浮上

 敗戦の構図を裏返す

 『エヴァンゲリオン』の父と母

 どの「世界」が終わるのか

 地域活性化としての戦争

 バブル敗戦からの復興を夢みて

『イスラーム国』

 アラブの革命

 イスラーム国の未来

 トルコが抱える問題

 シリアの「覚醒評議会」

 失敗、あるいは成功の可能性

 パレスチナ問題
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アラブの革命

『イスラーム国』より

アラブの革命 ⇒ 2010年7月のエジプトで、ガイドのアムロさんと話していた時に、変革があることは感じたが、「イスラーム国」まで考えられなかった。

二〇一一年初頭、現代アラブ史の大きな転換点となった「アラブの春」と呼ばれることになるアラブ諸国における革命が起こり、複数の独裁政権が打倒された。これこそ、イスラーム主義者が数十年間待ちわびた事態であった。

この民衆革命は、全世界にとっても、ジハード主義者にとっても驚きであった。当時多くのアナリストは「これにより過激なジハード主義組織や、厳格なイスラーム主義は終焉を迎える」と考えた。ジハード主義、イスラーム主義のイデオロギーそのものがその役割を終えた、というのがその理由であった。独裁政権を倒したのは、「民主的でリべラルな世俗国家」の建設を掲げた平和的な民衆運動であり、これにより、「武力による独裁政権の打倒こそ唯一の解決」と説いたジハード主義者の主張は覆されたというのである。

西欧諸国は、「ジハード主義と、彼らが主張する暴力による体制打倒の考えは終焉を迎えた」とする分析が正しいことを願った。そして、西欧諸国政府は革命を成し遂げた指導者たちを祝福した。一方アルカーイダは当初、革命を論評することなく沈黙を保った。アルカーイダは革命の推移を注意深く追い、それが成功するか、失敗するかを見極めていたのである。

では、他のジハード主義組織は、革命に関しどのような反応を見せたのであろうか。彼らの反応を見ることは、旧勢力(アルカーイダ)と新勢力の思想の違い、そして厳格なイスラーム主義運動の新しい波を見ることでもある。

二〇一一年二月、イスラーム国の「戦闘担当省」は、エジプトで起きている抗争を批判し、「汚れた悪魔的な世俗主義」や「不信仰の民主主義」、民族主義や国家主義といった非イスラーム的イデオロギーに影響されないように呼びかけた。イスラーム国は、アラブ革命の波に否定的であり、これまでの「悪」よりさらに悪い事態をもたらすことのないよう警告した。

「信仰者たちの長」ムッラー・ムハンマド・ウマルのような、旧世代を代表する人物の反応は対照的であった。彼は二〇一一年二月一四日に声明を発表、「革命と革命家」に敬意を表し、「アフガニスタンのイスラーム首長国は、エジプト民衆のさらなる成功、これまで以上の勝利をアッラーに祈りたい」と述べ、独立したイスラーム主義の政府を樹立し、外国人による策謀を破壊するよう訴えた。

ムッラー・ウマルは、この革命を「イスラーム主義者が権力を得るための機会」と捉え、それは現実のものとなった。チュニジア、エジプト、リビアの革命の成功から数カ月後、各国の社会で最も力を持っているのはイスラーム主義者であることが明らかになった。彼らは当初から国政選挙、大統領選挙で勝利したが、ムッラー・ウマルが警告した「外国人による策謀」は、リビアとエジプトにもたらされた。

ウサーマ・ビンラーディンと副官のアイマン・ザワーヒリーは、チュニジアの革命の間沈黙を保っていた。そして二〇一一年の二月にエジプトのホスニ・ムバーラク(政権が打倒されるという大事件に際しても、二人は何の動きも見せなかった。ザワーヒリーは、数十年にもわたってムバーラク打倒を画策し、一九九五年にはエチオピアの首都アディスアペバでは暗殺未遂事件を起こしていたにもかかわらず、である。

ザワーヒリーは、ムバーラク政権が打倒されて一週間後、タハリール広場で一〇〇万人のエジプト民衆が「勝利の金曜日」を祝っていた時になり声明を発表した。それは長い音声声明で、退屈な印象を受けるものだった。それは「エジプト問題の根源」(一七九八年のナポレオン・ボナパルトの侵攻までも含んでいた)という講義だった。声明発表の目的は、タイトルにある通り、エジプト民衆が成し遂げたことに対する祝福と抱負を述べることであったとされたが、それは実際に起きた出来事とはかけ離れた、古い内容であった。ムバーラク政権退陣と崩壊に対する言及すらなかった。声明発表の遅れは、アルカーイダがこの声明を受け取り発表するまで、安全上の理由で時間を要してしまったことを意味しているようであった。ザワーヒリー達が、SNSやインターネットを「外国諜報機関に監視されている」として信頼していなかったのも一因だろう。

私が得た情報では、インターネットに発表されるこれらの声明は、アルカーイダのメンバーが、パキスタンのインターネットカフェにこっそり持ち込み、アップロードを行なっているとのことである。ビンラーディンを取り巻く状況は、彼の副官よりも厳しかった。彼はアボタバードの隔離された家に隠れており、諜報機関に逆探知されないよう、あらゆる通信機器を遠ざけていた。

一九九六年、私がトラボラの洞窟でビンラーディンに出会ったとき、彼はこう語った。「私は通信機器を一切使わないことにしている。携帯電話やコンピューター、すべてだ。アメリカや他の諜報機関に勘付かれるのでね」

二〇〇七年にアフガニスタンのアルカーイダの正式な支部となった「マグリブ諸国のアルカーイダ」(アルジェリァを中心にマグリブ諸国で活動しているサラフィー・ジハード主義組織)は、すべてのアラブ革命を熱烈に賞賛した。二〇一一年一月一三日に発表した声明は、チュニジアの人々にシャリーアの施行を推奨するものだった。同年二月二四日に発表された長文の声明では、「リビアの革命家たち」に次のようなメッセージを送った。

「ベンガジ(リビア北東部に位置する主要な港湾都市)、ダルナ(リビア東部に位置し、地中海に面する港町)、卜リポリ(リビアの北西部に位置し、地中海に面したリビアの首都)、トブルクの英雄たちよ、解放されたワルファッラ(部族)、ザンターン、マカールハ、タワーレクの人々よ。私達はあなた方の革命、ウマル・ムフタール(リビアの偉大なジハード指導者)の子孫を四〇年以上にもわたり抑圧し虐待したリビアの圧政者に対する革命を、喜びをもって注視している」

アルカーイダとイスラーム国の最大の意見の相違は、イスラーム国が、極めて厳格なイスラーム主義に則った政策・立場を取り、ジハード主義に属さない反体制運動はすべて支持しない意向を示したことである。たとえその運動がスンナ派ムスリムに率いられていたとしても、彼らは支持を拒否した。アルカーイダと「ヌスラ戦線」はシリアのジハード主義勢力として出現し、革命家としてのダイナミックな役割を果たした。なぜなら両者は、最終的には他のイスラーム主義勢力、非イスラーム主義勢力に勝利し、支配権を確立できると信じていたためである。一方イスラーム国は、自らに忠誠を誓わない、あるいは厳格なシャリーアの適用を行なわない勢力は、それがたとえジハード主義勢力であろうと「不信仰者」と決めつけた。
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エヴァンゲリオン・テレビ・シリーズの最終二話 どの「世界」が終わるのか

『戦後サブカル年代記』より 『エヴァンゲリオン』の父と母 エヴァンゲリオン・テレビ・シリーズの最終二話 ⇒ 観ていて、この二話は好きだった。ヤマトと同様に、日常と非日常が同居していることに魅力を感じていた。「存在と無」の一つの局面を感じられた。

『エヴァンゲリオン』のテレビ・シリーズは、ロボットに乗れと父から命令されたシンジが、危機的状況で「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」と必死に自分にいい聞かせ出動した初回から、「僕はここにいてもいいんだ」と自分を認める最終回までの物語だった。だが、それは父の下で「使徒」と戦ううちにシンジが成長したことでそうなった、というわけではない。セカンドインパクト後、予想されるサードインパクトに備えてネルフが活動する設定は、宮台真司のいう「核戦争後の共同性」だっただろう。だが、ネルフに所属するシンジは、組織の権力者であるゲンドウ、直属の上司である葛城ミサトとの関係だけでなく、同じくエヴァンゲリオンの搭乗者であり同じ学校に通っている綾波レイ、惣流・アスカ・ラングレー、他の同級生たちとの関係にも悩んでいた。同作は「終わりなき日常」的な学園生活、いかにも中学生っぽい自意識の物語を含んでいたのだ。

テレビ・シリーズの最終二話のサブタイトルは、それぞれ「終わる世界」、「世界の中心でアイを叫んだけもの」となっていた。ここで語られるのは、サードインパクトの危機に人類がどう立ちむかうかという大状況の「世界」ではなく、僕のことを誰か認めてくれるのかどうか(自己承認欲求)という「私」的な「世界」だ。最終話では、ありえたかもしれないパラレルワールドとして、ただの学園ラブコメとなった二次創作的『エグァンゲリオン』の場面まで登場した。大状況の「世界」が終わるかどうかが関心の焦点だった視聴者は、最終二話で「私」的な「世界」での心理的結着を提示され、戸惑うしかなかった。二つの「世界」は、レベルが違っていたからだ。これは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の作中で「世界の終り」パートが、個人の脳内の閉じた物語だったことに近い。

無数の問いかけで主人公が追いつめられたあげく「おめでとう」の連呼で迎えられる儀式的な結末を、批評家・マンガ原作者・編集者の大塚英志は、まるで自己啓発セミナーだと厳しく批判した。これに対し、思想家の東浩紀は、従来のアニメの手法を洗練し、緻密に構築した前半を最終二話で壊してみせたのは「ジャンル規範から自由になること」だったと評価した。東の原稿は「庵野秀明は、いかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか?」(「ユリイカ」一九九六年八月号)と題されていたが、その意味でも大状況の「世界」の終わりとは別の終わりが提示されていたのだ。庵野本人は、次のように語っていた。

破滅願望っていうのはありますね、僕は。きれいに終わらせるのがつまらない。……昔からそうなんですよ。粘土とか、おもちゃとか、プラモデルとか、とにかく、リアルにつくって、完成させて、その後、必ず火をつけて燃やすんです。……キレイに完成したものっていうのは嫌いなんです。必ずどっか壊れてないと。(デェメージュ)一九九六年七月号。宮村優子との対談)

最終二話を作り直したものとして完結編『新世紀エヴァングリオン劇場版 Air/まごころを、君に」が劇場公開されたが、庵野の根本的な創作姿勢は変わっていなかった。劇場版の前半は、ゼーレに命じられた戦略自衛隊に襲撃されるネルフ、「汎用人型決戦兵器」同士の対決など、戦闘や暴力が見せ場になる。だが、後半になると、母性的な融合が地球を覆う、異様なイメージのスペクタクルが展開される。それは軍事的な戦いではなく、誰もがみんな一体となって「私」が失われる気持ちよさに溺れていいのかという、心理的な圧迫だ。人類の融合による争いの消滅は、SF版の「歴史の終わり」(本書第二章参照)ともいえるだろう。

そのアニメによるスペクタクルの途中に実写が挿入され、映画を見る観客の姿が出てくる。スクリーンを観る人が、自分白身を観せられるような場面だ。また、全人類的な融合を拒否したシンジは、アスカとともに岸に打ち上げられる。個人と個人の関係を選んだというわけだが、シンジはアスカから「気持ち悪い」と拒絶され、映画は終わってしまう。劇場版でも物語上の伏線の多くは回収されないまま、結末では大状況ではなく「私」的レベルのほうが重視されていた。

テレビ・シリーズ最終二話について庵野は、書評家・翻訳家の大森望との対談でオタク批判の意図があったことを語っていた。

大森 (声優の)林原めぐみさんのラジオ番組で、正確には覚えてないですけれども、なぜああいう結末になったかについて、「おれはアニメオタク、アニメファンが観たいものを作ったんじやない。観なければならないものを作ったんだ」みたいなことをおっしやってましたよね。

庵野 ああ、そうですね。現実に帰れという言葉ですね。……ぼく自身もそうしようと思います。(「SFマガジン」一九九六年八月号)

その意味で、劇場版の観客を映したシーンも「現実に帰れ」というメッセージだったのだろう。庵野は同作の次に村上龍『ラブ&ホップ トパーズ2』(一九九六年)を原作にした実写映画を撮った。この小説は女子高生の援助交際を題材にしており、「終わりなき日常」のレベルに集中した物語だったといえる。『エヴァンゲリオン』で「核戦争後の共同性」のレベルを退ける態度をとった庵野にとって、撮らざるをえない映画だったのだろう。

『エヴァンゲリオン』では、複数レベルの「世界」の統合が失調し、分裂している。その分裂は、作品の完成度という観点からは破綻であった。だが、第三章でここまでたどってきた通り、「デカイ一発」か自殺かと夢想し、大地震と無差別テロの現実に不安になったこの時代の「終わり」をめぐるイメージの錯綜のなかでは、『エヴァンゲリオン』の分裂ぶりは、むしろ妙なリアリティを獲得していたのだ。一九九〇年代を代表するエンタテインメント作品となった『エヴァン」げリオン』に関しては、二十一世紀に設定やストーリーを改変した新劇場版シリーズが、製作されることになる。
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チトー大統領一代記 民族融和の実験~最期までユーゴをまとめ切る

『世界大戦と危険な半島』より 独ソに勝った! チトー大統領一代記

チトーは反共産主義宣伝には比較的寛容でした。チトー自身、スターリンから離れたいわけですから、反共産主義を多少は認めました。しかし、民族主義的宣伝は、やった者を殺しこそしませんでしたが、徹底的に弾圧しています。実際、チトーの没後、民族主義を認めたがゆえにユーゴは分裂していったのですから、どうしても抑える必要があったわけです。

一九六六年、チトーはランコビッチ内相を軟禁しました。コソボに少数民族として住んでいたアルバニア人を弾圧した責任を問うて、側近の内務大臣を、単に辞表を取り上げるのではなく、身柄を拘束するところまでやっています。当時、アルハニアのエンヴェル・ホッジャがチトーとことごとく対立していたのですが、「だからといって少数民族を弾圧したら、ユーゴがどうなるかわかっているのか」と断固たる処置を取りました。民族紛争の芽になるようなことをする者は絶対に許さないということです。

一九六七年、歴史学者のトゥジマンが、クロアチア民族主義を煽ったことでチトーの不興を買い、投獄されています。

一九六八年にプラハの春が起こると、チトーは翌年、全人民防衛を採用し、国民全員に有事のゲリラ戦を義務づけました。いつソ連が軍を侵入させても、国民全員が武器を取って戦うという、総力戦の戦時体制です。パルチザンを指揮して山岳ゲリラ戦でナチス・ドイツを追い返したチトーが、もう一度人口の一割を減らしてでもやるぞと言っているのですから、当然フルシチョフは攻めて来られませんでした。

これまでに何度か触れたムスリム人の主要民族格上げは一九七一年に行われました。すると、クロアチアの党員たちが不満を言って騒いだので、幹部三人を解任し、一〇〇〇人以上の党員を除名しました。

クロアチア人としては、ムスリム人が自分らと対等の権利を持ったのが許せないことでした。「他人の幸せは許せない」のがバルカンの法則です。ユーゴの中ではセルビア人が政治的に強く、クロアチア人とスロベニア人は経済的に豊かなのですが、セルビア人は「なんで俺たちは貧乏なんだ」と思い、クロアチア人とスロベニア人は「なんで俺たちはセルビア人の言うことを聞かなきゃいけないんだ」と不平を言います。「あいつの幸せな顔をみるのが許せない」「あいつが不幸でなければ自分が不幸」で、「自分の幸せよりも他人の不幸」が大事です。

チトーが抑えこもうとしても、クロアチアはまだ止まりません。同年、外貨収入処分権、国連加盟、軍隊創設を要求します。要するに「独立させろ」という意味です。チトーはそんなものは当然認めません。

一九七六年、アメリカに大バカ者が登場します。ジミー・カーターが、まだ大統領にもなっていない選挙戦の途中でチトーを見捨てると宣言しました。「ソ連のユーゴ侵攻はアメリカを脅かさない」、ソ連さんお好きにどうぞ、ということです。カーターは在韓米軍も撤収させると言い出して、国防総省を驚愕させています。ガーターのこの発言と朴正煕大統領の暗殺は無関係ではありません。朝鮮半島とバルカン半島を同時に見捨てるというのですから、カーター政権はアメリカの安全保障にとって最悪の時代のひとつでした。

チトーの方はこの程度では負けませんが、寿命が来ます。一九八〇年、チトーは亡くなりました。同年、トゥジマンが「党と軍隊におけるセルビア人の比率が大きすぎる」と言ったことで有罪判決を受けています。この時点ではまだチトー主義が生きていました。しかし、このあと、チトー主義を批判するような民族主義運動が広がっていきました。

チトーの死の翌年、一九八一年三月四日、コソボで「学生食堂の食事がまずい」と暴動が起こり、コソボの共和国昇格を要求して、全土に騒乱が広がってしまいます。これではまるで、高橋留美子のマンガ『うる星やつら』で「我々は、学生食堂の改善を要求するー!」と叫ぶメガネ君そのものなのですが、これを大まじめにやって銃弾の飛び交う暴動にしてしまったのがコソボです。

チトーが始めた全人民防衛は、ユーゴ国民にとって義務であると同時に基本的人権でもありました。チトーが作った憲法条文を見てください。

ユーゴ憲法第二三八条

何人といえども、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国、またはその個別構成部分について、降伏文書を承認したり署名したりする権利を有しない。また占領されることを受け入れたり承認する権利を有しない。何人といえども祖国を攻撃する敵に対してユーゴ市民が戦うことを妨げる権利を有しない。かかる行為は違憲であり、国家反逆罪で処罰される。国家反逆罪は、人民に対する最も重大な犯罪であり、深刻な刑事犯行為として処罰される。

降伏してはいけない。ユーゴ全体はもちろん、一部であっても割譲してはいけない。占領軍を受け入れてはいけない。市民が武器を持って戦うことを邪魔してはいけない。このどれかひとつでもやったら死刑です。すべての人民は武器を持って、全員死ぬまで戦う義務があり、同時にそれは基本的人権である。憲法にこう書いてあります。

日本の隣国であるロシアの隣国、バルカン半島とはこういう場所です。ヨーロッパの人たちは、ここを主要問題として世界を動かしていました。日本は、隣の半島や大陸だけを見ていてはいけません。バルカン半島がわかって、初めて世界が見えてきます。
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