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二泊三日シミュレーション

二泊三日シミュレーション

 二泊三日シミュレーションを使って、一週間分のダイアリを入れました。ついに、外へは出掛けなかった。

10.1「多くの人が生きられる」

 多くの人がいます。それらをマスで扱うことが多い。それでは環境問題は人を何らかの形で減らすことしか、解決方法がありません。これが最初から気に食わなかった。自分のことを考えた時に、そこには一人の世界が在る。社会では一人ひとりの世界が在る。人が多面化すると同時に、作る人と消費する人の区別をなくしたらどうなるか。そんな社会の仕組みがなぜ、できないのか。

 自分から考え始めた時に、人は与えられるのではなく、自ら生きている意味から考えること、それを共有することで個人の役割が果たせるのではないか。現実の組織の世界に個人が立ち向かうことは成り立たない。その時に、中間となるものがあり、一面では個人を育て、他面では組織に当たっていく。

 従来の組織に従属したり、依存したりするのではなく、個人の存在から考えていく。数学でいうと、座標系が合って、点があるのではなく、点から近傍を作りあげていく。配荒木から配置の考えに変えていく。その時に、国は統合ということだけで存在することになる。つまり、事務局のようなものです。

 個人が活きられるためには、自分たちは点であることに目覚めることです。中間であるコミュニティに集って、知恵と意識を集めると同時に、互いの状況をオープンにして、状況を把握していく。そのコミュニティでの意思融合をはかり、確固たる地域を作り上げる。

10.2「歴史哲学」

 新しい環境社会を作るためには、ニーチェのように意思の哲学から見ていく。国民国家は自由を得るために、存在の哲学を作り上げてきた。そして、フッサールの現象学から、存在を真剣に考えるようになり、ウィットゲンシュタインで方向を見誤ってしまった。存在の哲学から、自由だけでなく、トレードオフの関係にある平等も実現するために、根底を見直していく。

 個人の生きていく力を作り上げるために、自らが言葉を発する環境を作り上げる。そのために、アラン・ケイとかジョブスは市民のためのツールとネットワークを作り上げてきた。市民が主役になるスタイルである。作って、消費することから、高度サービスの循環型のマーケティングに変えていく。

 地球規模の課題を解決するためには、組織は限界を超えなければならないし、市民はソーシャルを用いて、地域を自らの合わせた形で再構成していく。そのアイデアの元は哲学と数学が先行する。

 国民国家はヘーゲルの歴史哲学が示すように、自由を得るプロセスであった。それがグローバル化と多様化で格差が拡大して、平等がなくなった。企業も消費を前提としたモノ作りでは循環しなくなった。グーグルのように、地域インフラにただ乗りして、平等を配る企業も出て来た。国家を超えた、多様な価値観が前提となる。
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多元社会と一党体制のせめぎ合い

『「中国共産党」論』より 揺れる中国--変わる社会と変わりにくい体制 中国は本当に民主化の道を辿るか

以上に示してきた社会状況の変化は、まさにダイナミックに変容する社会と、変容を認めつつも体制安定を懸命に図ろうとする国家とが厳しい緊張関係にあることを示している。中国語流に表現するならば、生きるために生活の権利を主張しようとする民衆の声(=維権)と社会安定を最優先しようとする権力当局の主張(=維穏)の確執というふうに見ることができるだろう。

体制移行論的に言うならば、格差や腐敗などの深刻化、民衆暴動の頻発、権利意識を持った市民の台頭など、まさに民主化に向けての移行が進み始めたと言えるかもしれない。

いみじくも中国内政の専門家、ケビン・オブライアンたちが主張しているロジックである。すなわち市民・住民暴動が普遍化する事態となれば、地方のガバナンス機能は麻揮し、通常の政策執行も困難となる。その場合、党中央は国家の類廃を防ぐために多党制の導入を含むドラスティックな改革を実施せざるを得なくなる。

また、大規模事件が増加することになれば、中央が民衆の要望に応え切れない局面も徐々に増加することになる。それにつれて、それまで断片的であった抗議の矛先は、徐々に中央へと結集していくことになるだろう、というものである。

このロジックは十分すぎるほど理解できる。しかし、私はこのような解釈をとらない。その主な理由は三つある。

一つは、共産党当局の批判勢力に対する徹底した弾圧、特に分断統治である。共産党は中国の歴史の中でしばしば体制を転覆した農民暴動を、そして冷戦崩壊の過程でのソ連や東欧諸国の共産党崩壊を徹底的に研究し、いかに生き残るかを熟慮してきた。天安門事件では党内指導部が分裂し、危うく反体制の学生や知識人と党内の分裂勢力が結合するところであった。党当局は、その後はこの経験も十分に生かし、社会の不満分子になりそうな貧困層、中間層、西側の影響を受けた市民層、知識人、党内傍流勢力などが結びついていかないよう細かく注意し、それぞれに対してそれぞれの「飴と鞭」を使い分け、不穏な動きは「芽のうちに摘む」ことをしっかり行ってきた。

一九九九年の法輪功の弾圧、中国民主党結党の動きの弾圧、チベット・新疆における少数民族の弾圧、その後の劉暁波、胡佳、浦志強ら開明的学者・弁護士・NGO関係リーダーら知識人の弾圧、ソーシャルメディアの広がりに対する分断、こうした動きは裾野を広げながら末端まで行き渡っている。

一般的に言えば、社会の様々な要求や意見が噴出してきたことで、安定は揺らいでおり、従来のままの上からのハードな統治による社会安定の確保は困難になってきている。しかし、実にきめ細かい抑圧のネットワークの構築によって、統治のメカニズムを強化しているのである。

その証拠に、治安維持に充てる公共安全予算の金額はここ数年大幅な増加を遂げている。例えば、二〇〇八年に公共安全の総予算は四〇九七億元であったが、二○一〇年には五一四〇億元、二○一二年は七〇一八億元、そして二〇一五年は一兆五四一九億元にまで達し、国防費予算ハハハ六億元を上回る数値となっている(表3-1)。

二つには、執政政党としての共産党自身の「自己脱皮」である。共産党は言うまでもなく、もともと共産主義イデオロギーを柱とした革命・階級政党であった。しかしプラグマティストであった小平とその末裔は、共産党の看板は外さないままでほぼ見事に自らを「換骨奪胎」してしまった。「社会主義市場経済論」(国家体制としての社会主義を維持しつつ、市場経済の方式を導入するための方針)は「党が指導する市場経済主義」と言い換えられるだろうし、「三つの代表」論は長く主張してきた階級政党としての共産党の位置づけを放棄し国民政党への転換を図るものであった。

これにより資本家、各界のエリートたちの入党は容易になった。そして、共産主義イデオロギーは愛国ナショナリズムに取って代わられた。共産党は実質的な意味ではこれまでの自分自身を自ら解体してしまったと言ってよいだろう。それは言い換えるなら、中国が歩んで来た、またこれから歩む文脈の中で求められるニーズに合わせた適応とも言えるものかもしれない。その意味では共産党はこれからも社会の変化に応じて次々と「自己脱皮」していく可能性がある。

三つには、本章で中国の政治体制のキーワードとしてきた「カスケード型権威主義体制」に関わることである。「カスケード型権威主義体制」からの移行は、政治体制全体が同じ内容とテンポで変容するのではなく、不均等な形で変容していくと見るべきだろう。

共産党が自らを「換骨奪胎」したように地方政権も客観的条件と主体的力量が備わってくれば、共産党体制の堅持を主張しながら「換骨奪胎」して実質的な体制変容を行うかもしれない。一つには経済開発で行ったような実験区(試点)を政治でも応用することが考えられる。

現在上海で試みられている「自由貿易区」は金融・貿易の一層の自由化という面と同時に、行政改革、法制改革、人事改革、公共サービス政府の建設といった面があり、政治体制改革につながる可能性を持っている。このように社会と国家の緊張は決して緩やかにはなっていないが、しかし、社会安定を確保しながら、段階的に社会と国家が(ーモニーをとれるような新たな枠組みづくりが模索されていることも確かなのである。

以上の理由から、少なくとも習近平時代においては、ドラスティックな体制の移行、及び体制移行を前提とした多党制の導入の可能性はほとんどないと考えられる。ただ、党による安定を前提とした、制限つきの「民主化」はありえるかもしれない。党内民主化、法に基づく富の公平な分配、社会のニーズ・民衆の声を政策に反映させるメカニズムの構築などに限定された民主化である。

こうした中国の民主化のゆくえについては第五章に譲るが、ここまでの議論からも明らかなように、階層、生活、価値などの多様化とともに実質的に進んでいる多元社会と一党体制とのジレンマをいかに解決していくかが、いずれにしても今後は大きく問われてくるだろう。すなわち社会と国家の間の緊張をどう処理していくのかという問題である。

ひとまず目下の共産党には「エリー卜の党」、つまり既得権益集団の利益代弁の党に化した共産党をどのようにして真に「勤労者・大衆・市民の意思を反映できる党」に変えていくのかということが求められているのではないだろうか。
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中国共産党 三つの大規模性と四つの断層性

『「中国共産党」論』より 揺れる中国--変わる社会と変わりにくい体制 中国は本当に民主化の道を辿るか

中国は他の国々と異なった、はるかに変わりにくい構造的特徴を持っている。この点を体制移行の問題においても考慮せざるを得ない。私はかつてその変わりにくい政治社会の特徴を「三つの大規模性と四つの断層性」の重なり合った「重断層社会」と特徴づけたことがある(『中国--溶変する社会主義大国』東京大学出版会、一九九二年)。

すでに四半世紀の時を経て、社会全体が量的にも質的にも目を見張るほどの変化を実現したが、これらの関係性という点では、「重断層社会」論の理解は今なお形を変えながら機能しており、中国の社会的特徴を見る上で有効な「切り口」であると考えている。

前者「三つの大規模性」とは、人口、領土、思想の大規模性である。これらが政策、ビヘイビアのみならず政治社会構造にも深く影響を及ぼすと考えた。人口の大規模性は、例えば改革開放の経済近代化の推進に際して「一人っ子」政策を採用せざるを得なかったこと、領土の大規模性は安全保障、統治ガバナンスに、思想の大規模性は過去の歴史にこだわる「中華民族の偉大な復興」の主張などに影響している。

後者「四つの断層性」は、①都市と農村、②エリートと民衆、③関係と制度、④政治と経済の断層性である。これらも前者同様に政治社会構造を規定する重要な要因になる。都市・農村の戸籍制度、近代的都市化を重要課題にし続ける現実は①を、共産党の執政権の独占と特権化は②を、依然として物事を処理する基軸に「関係」があり、繰り返し強調される制度化も容易に進まない現実は③を、国と国との政治的対立がしばしば経済関係を阻害する現実は④を示唆している。

このような「三つの大規模性と四つの断層性」は、政治体制の実際の特徴に反映されていると同時に、体制移行にも大きな影響をもたらしている。

例えば都市と農村の断層性は、正式な都市戸籍を持たない膨大な農民工を生み出し、あるいは農村の社会保障・教育制度のはなはだしい遅れなど、歪んだ市民社会を形成し、教養と権利意識に目覚めたいわゆる「市民」の創出とは異質な現象となっている。

また、九〇〇〇万人弱に及ぶ膨大な党員を擁する共産党の多くは、名誉、幹部としての訓練、特別の待遇などを受け、エリートとしての強い意識を抱いている。その上、党員の家族・親族、共青団、総工会、婦女連合会などの下部組織などを合計するならば、少なく見積もっても四億人以上は直接的、間接的に共産党に関係し、何らかの利益を得ているがいると考えられる。これ自体が柔軟ではあるが強力な体制維持装置となっている。無論彼らの中にも様々な考え方や異なった利害関係があることは言うまでもないが、共産党体制批判にまで発展して政治体制転換の主体になるとは考えにくい。

あるいは改革開放以来、一貫して制度化が強調されてきたにもかかわらず、依然として物事を決める鍵は、「関係」(コネクション)だと言われている。制度化が強まっていけば社会の予測可能性が高まる。制度化の進み具合は政治的近代化、体制移行の重要な指標であるのだが、前述したように「共産党の指導」が「法治」の上位にある限り、法やルールによるチェック・アンド・バランスのメカニズムを効果的に機能させることは難しく、制度化を進ませるネックになるだろう。

さらに政治と経済の関係で言えば、もともと先のような体制移行論には、経済成長に伴い中間層が増大し、彼らが政治・社会経験を蓄積することによって市民意識に目覚め、民主主義の推進力になるといった前提があった。しかし、中国のこの間の状況を概観するなら経済的に豊かになっていく層が政治的な改革の担い手にはなっていない。まさに経済と政治が容易に直接連動していない典型例である。

さらに、ここまで見てきたような「三つの大規模性と四つの断層性」に加えて、社会の変化が必ずしも制度の変容に直接反映しない「制度の曖昧性」についても、経済学者の加藤弘之が著書『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』(NTT出版、二○一三年)の中で四点にまとめて鋭く指摘している。

 ①組織の曖昧さ:中央集権的な官僚組織があり、ピラミッド型の組織構造が存在している。しかし、組織間の相互関係は必ずしも明確とはいえず一つの組織が時には二重の身分と二重の目的を持つことがある。

 ②責任の曖昧さ:上下の命令系統が存在する組織では、自らの持つ権限を上から下に、さらにその下へと「請け負わせる」連鎖の構造がある。

 ③ルールの曖昧さ:法律・政策規定は、執行主体の自由度を担保するために、意識的に曖昧にされる。法律・政策の解釈については、グレーゾーンの幅が大きく、解釈の正しさはときと場所によって変化する。

 ④目標モデルの曖昧さ一将来予測を立てることがむずかしい課題について、あえて明確な目標を立てない。

これらの「曖昧性」は、社会の変容に対応して制度やルールがつくられ機能し、新しい問題が起こり、それに対処するために次々と細分化されていく欧米的システムと異なって、社会と制度の間にある種クッションのような作用を持つ「曖昧性」なのである。この点に関しても、加藤は戦前の中国経済学者、柏祐賢(著作に『経済秩序個性論-中国経済の研究』人文書林、一九四七年)が、中国経済の本質は「包」(日本語では「請負」)の倫理規律にあると喝破し、「包」が中国経済の制度的特質を捉える視点を提供しているという興味深い指摘をしている。

「『包』とは『指定した内容の完成を担保するなら、あとはあなたの自由にしてよい』という意昧であり、(中略)不確実性が高いとき、請負方式はとりわけ有効性を発揮する方式だと考えられている。(中略)『包』とは、契約の不完全性を補う一つの手段として捉えることができる」(前掲『「曖昧な制度」としての中国型資本主義』)

私はここで改革開放路線の推進の中で、農村で農家経営請負制(包干到戸)が、省・市・県レベルで財政請負責任制が、行政のトップでは省長・市長・県長らの行政長請負責任生産制(首長承包責任制)が広く実施されたことを思い出す。

具体的には農村での生産も、各地方の財政関係者も、さらには各行政のトップも、政府や上級など相手側との関係において、最低限の請負関係をつくり、ノルマ(責任)を果たし、それ以外は独自の考える計画、取り組みが可能になるといった枠組みにおかれていたのである。
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全宇宙でたった一人、自分という宿命

『自分という奇蹟』より

東洋における「運命と宿命」の違い

 ところで、私は中村さんがお亡くなりになった後、お書きになったものをまた改めて読み返しているうちに、「運命」と「宿命」について書いておられるのが目につきました。

 運命と宿命、どちらも同じような感じがしますし、ラテン語にしてもギリシャ語にしてもサンスクリット語や英語にしても大体、運命と宿命というふうに分けて考えない。ところが、東洋には、あるいは中国なんでしょうか、日本もそうですけれども、運命と宿命という二つの表現があります。

 宿命というのは人間が背負って生まれてきて、それを一切変えることができないようなものというような解説もあるそうです。運命というものは、これもまた人間をのせて動いていくものでありますけれども、偶然性が左右する部分だけ変わる可能性もあるのだと、こういうことを書いておられて、なるほどと思いました。

 「運」と言いますと、なにか運命というものとちょっと違って感じられるところが不思議です。運がいい、運が悪い。それから運がついてきたとも言いますし、開運のおまじないとか、そういう神社仏閣もあります。

 運が開ける、というわけですから、運のほうはかなり変わる。何かによって変わる可能性がある。しかし宿命というのはなかなか変わらない。なかなかどころか、決して変わらない”。

 たとえば交通事故なんかでも、あと一秒早くその場を抜けるか一秒遅く抜けるかで、衝突せずにすんだはずなのに、ということがあります。たった一秒が命を左右する、まさに運とはそういうものかなと思いますが、中村さんがお書きになっている運命というのは、人間全体が共通して背負っている条件、こういうことを運命という大きなことでおっしゃっているように思えました。

 たとえば、私たちが命あるものとして生まれてくる。地上に命あるものはたくさんいるわけです。草にも木にも命がある。そして虫も動物もみんな命あるものです。その命あるものの中でわれわれは人間、人として生まれてきた。このことは私たちの運命である。ということは、共通の運命を私もあなたも背負っていることなんだ、運命を共有しているのだ、運命の共同体という乗物の同じ乗組員なのだと。

 この地球という大きな惑星の上に私たちが生まれた。これも大きな運命の一つである。民族とか人種とか、時代を隔てずに私たちは地球という乗物の上に人間として生まれた。もっと狭く言いますと、たとえば日本人としてここに生まれた。あるいは、昭和に生まれて平成に生きているという、こういうこともたくさんの人だちと同じように共通の条件として背負っている。つまり運命の共同、共通の運命を担っている。このことは実は本当に不思議なことなのであって、得難い大変なことなのであると、こういうふうにおっしゃっています。

 そして、私たちがそのような大きな運命の手のひらの上にのっている者同士であるということを意識するならば、運命の共同体の中に生きている者同士としての連帯感や、あるいは家族のような感情が生まれてくるのではないかと言うのですが、これは非常に大事なことなんです。

 同じ仲間であり、そして家族としての人々、こういうふうに考えますと、その間に確かにある濃密な連帯感というものを感じる、あるいは理解することができます。そのためには私たちは運命というものの一つの手のひらの上にのっている、自分たちはその運命を出ることができない、不自由な存在であるということを深く自覚する。こういうことが必要だということなのです。

いかに生きるかより、まず生きる

 というのは、近代の生みの親であるデカルトのそうした発言には先行する言葉があって、それより前の時代、すなわち中世に、もっぱら広く人々の間に広がっていたものの考え方、人間観というものは、神学者でかつ思想家であったトマス・アクィナスが言った、「われあり故にわれ思う」という言葉でした。

 デカルトはそれをひっくり返して、そうではないんだ、生きているだけでは意味がないんだ、まず思惟することにおいて人間の価値がある、人間は考える存在なのだと、こういうふうに言ったわけですが、アクィナスの言葉をひっくり返した、その大胆な発言が、最近、私にはなんとなく色あせて見えるようになってきました。

 人間は、どのように生きるかを問われません。まず生きる。一日生き、十日生き、一年生き、十年生きるだけでも人間としての大きな価値があるのではなかろうか。その上で、恵まれた野心や体力、才能、そのようなものを与えられて生まれてきた人間は、自分の心の赴くままに、世のため人のため、偉大な業績を成せばよい。財を積み、発明をする、そして人類に貢献すればよい。そのことを、私たちは仰ぎ見て拍手する必要はない。それはその人にとっての喜びである。そのような素質を与えられて生まれてきたことを、英雄偉人は謙虚に感謝すべきなのではないか--。

 逆に、何事も成さずに一生を平凡な人間として過ごす人間も、あるいは、犯罪や不幸な事件を重ねて刑務所の塀の中で生涯を終えるような人々も、あるいは植物人間と言われて一生ベッドの上で生きていく人間も、「生きている」ということにおいて、人間としての第一の値打ちというものをきちんとすでに果たしている。生まれてきて、自ら自分の命を捨てたりすることなく、五年生きた、十年生きた、三十年生きた、そのことだけでも、人間としての大きな生きる値打ちは果たしていると、私は思います。

 余力があれば、ということなのです。余力があれば努力し、世のため人のために戦えばよい、頑張ればよい。でも、それができなくて、周りの人から、極楽トンボとけなされ、あるいは犯罪者と言われたとしても、生きて生き続けて、今、生きているということに、人間の値打ちはある。

 「存在」というものに、まず、人間の価値の第一歩を置く、という考え方をもう一度思い返し、トマス・アクィナスの「われあり故にわれ思う」という言葉の重さをかみしめることこそ、今、私たちには必要なのではなかろうか。どのように生きるかということは、二番目でいいという考え方を私は持っています。

全宇宙でたった一人、自分という宿命

 こういう大きな運命というもののほかにもう一つ、人間には宿命というものがあります。

 宿命というのも非常に暗いイメージがあって私は好きではないのですけれども、それでもそれを否定できないことがあるのは確かです。それというのも人間というものは一人一人違って生まれてくるということなのです。「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、これは俺ひとりが偉いんだという言葉ではなくて、自分はほかの人と違う。万人いても、万人一人一人がたった一人の自己である。ほかの人たちと違ったものを背負って生まれてくる。それ故にこそ自ずから尊いのだということなのです。

 百万人いたら百万通りの人間がいる。遺伝子も違えば性格も違う。顔かたちも違えば心持ちも違う。その差というのは、まさに兄弟であろうと親子であろうと、やっぱり違うのです。たった一人、この大きな地球上に、あるいは全宇宙の中でたった一人しかいない自分、これを宿命というふうに考えざるを得ないような気がするのです。そういうものを背負って私たちは生まれてくるのだ

 そう考えますと、宿命とか運命とかいうのは非常に古くさいもののように感じられますけれども、実は運命を意識することで私たちは他人を自分たちの一部のように感じ、宿命を自覚することでその宿命の枠の中で宿命を背負いつつ、それでもその途中でその宿命を放棄することなく営々と歩み続けて、五年生きる、十年生きる、三十年生きる、五十年生きる--。

 こういうふうに生きてきた自分というものをいとおしく、なんと健気な存在であろうかと、こんなふうに感嘆せざるを得ないところがあるのです。そういうところからしか自分への肯定、自分への愛、あ’るいは自分の命が大事、命の尊さという実感は生まれてこないと思います。
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日本の議論で欠落しているマグロ問題の視角

『農林水産の経済学』より マグロの国際政治学

マグロやウナギなどの漁業資源の崩壊危機が叫ばれるようになって久しいが、当事者は皆、どうすればよいのかはわかっていると言っても過言ではない。経済学を含めた科学的知見に基づいて資源状態を把握しながら、獲り過ぎないように漁業を行えばよいのである。しかし、国際的な漁業資源管理の問題はそれほど単純ではなく、そうした合理的な判断を妨げる国際政治上のインセンティブ構造が存在する。それと併せて、資源状態を明らかにする資源管理科学の科学的不確実性がその妨げになっているということももちろんあるが、そうした科学的知見の創出、同知見の管理への適用を含めた、より広い国際政治の問題として捉えない限り、国際マグロ資源管理の本質は見えてこない。それを本章で示していきたい。

日本では「政治」というととかく、合理的意思決定を妨げる「汚い」ものとして捉えがちである。しかし、国際漁業資源管理は国際政治の問題である、ということはそうした「汚い」ものを扱うということではない。本章を通じて強調しておきたいのは、そうした合理的意思決定をするにも、それを可能にする政治的パワーが必要となるということである。そうした政治的パワーを獲得し資源竹理を成功させるためにも、その国際政治的側面を理解しなければならないのである。

さらに、日本で漁業資源管理の問題を語るうえで欠落している重要な視角がもう一つある。それは、マグロの資源管理を環境問題として捉える視角であり、21世紀の漁業資源管理を考えるうえで必要不可欠なものとなっている。たとえば、マグロは水産業を支えているだけでなく、食物連鎖の頂点に立つ魚種の一つとして海洋生態系の保全にも寄与している。それを大量に漁獲すると、直接捕食している魚類等が大幅に増加するだけでなく、いわゆる栄養カスケード効果(trophic cascade)によってその影響が食物連鎖で伝播していき、生態系に悪影響を及ぼしかねないことが懸念されている。他にも、マグロ漁を行うとサメやウミガメ、海鳥を混獲してしまうため(混獲される動物種は漁法や海域によって異なる)、それによる直接の生態系への忠影響(資源劣化)、そして前述した栄養カスケード効果による間接的な悪影響も懸念されている。事実、ミナミマグロを狙った漁業によって絶滅危惧種の海鳥が混獲され続けている。マグロを効率的に漁獲するために用いられている人目集魚装置(ブイ等)はマグロの回遊ルートを変更してしまう恐れがあるが、その生態系への影響もわかっていない。海洋投棄・廃棄された漁具と接触することで海洋生物が死亡してしまういわゆるゴーストフィッシングの実態もまったく把握できていない。ここで挙げたものを含めたマグロ漁業に関連する環境問題は、マグロの巨大消費国である日本ではほとんど認知されていないのが現状である。

マグロ属には8つの魚種があり、その中には日本人にお馴染みの高級マグロである大西洋クロマグロ、太平洋クロマグロ、ミナミマグロや、手頃なメバチマグロ、ビンナガマグロ、ツナ缶としてよく食べるカツオが含まれる(他にコシナガと大西洋マグロ)。回遊海域を指して、前者3種を温帯性マグロ、後者3種を熱帯性マグロと呼ぶ。総じて、マグロ資源は減少の一途をたどっているが、特に温帯性マグロの資源量が激減している。ミナミマグロの資源量は1980年代から一貫して初期資源量の5%以下に落ち込んだまま推移している可能性が非常に大きい。

国際管理の観点からいえば、マグロ類は排他的経済水域や公海にまたがって非常に広範な海洋を回遊する高度回遊性魚種である。したがって、マグロ資源を排他的に利用するのは不可能であり、かつ消費しようとすれば競合する共有プール財(CPR : Common Pool Resources)である。さらに資源動態の再現、あるいは資源評価の際の科学的不確実性が非常に大きいことや、管理規制の遵守状況を監視することが難しいのが特徴である。また、1990年代から、サメ漁のフィンニング、混獲される動物種の減少、マグロ資源の減少に歯止めがかからないことなどを問題視した国や環境NGOが、それらの問題をワシントン条約やボン条約など、それまで漁業資源管理との関連があまり意識されてこなかった場に持ち込むようになってきている。さらに国際漁業法に関連している国際法・国際機関としては、「海の憲法」と呼ばれる国連海洋法条約、その他の海洋関係条約、国際海事機関があり、また、漁業補助金を介して国際貿易機関とも相互連関がある。総じて見れば、国際漁業資源ガバナンスはいわゆる重層的ガバナンスの典型例である。

本章ではマグロの国際管理を対象とした国際政治学の基礎文献を中心にレビューを行い、その政策的含意と今後の研究課題を示していきたい。まずマグロの国際管理と、同管理における科学と政治の関係を概観した後、マグロがCPRであることから生じる管理の難しさとそれを克服するための方法、また、国際漁業資源管理をめぐる国際交渉に参加する国がどのような意思決定を行っているかを理論化した脆弱性反応モデルを論じる。また、国際漁業資源ガバナンスにおける制度間相互連関を、漁業補助金と混獲の問題を事例に取り上げる。最後にマグロ問題における重要アクターである環境NGOと、環境NGOによるイニシアチブとして成功を収めているMSCを論じる。
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