『クリと日本文明』より
クリ菓子産業に特化した二地域
長野県上高井郡小布施町と岐阜県中津川市は、中部地方にあって互いに隣接した県内にある。小布施町は日本海に流出する千曲川(信濃川)の上流(東経一三八度一九分、北緯三六度四一分、市役所標高三五三メートル)に、中津川市は太平洋側に流出する木曽川の上流(東経一三七度三〇分、北緯三五度二九分、同三二三メートル)に位置している。
小布施町と中津川市
小布施町は人ロ一万一四七七人(二〇〇五=平成十七年)、長野県で第二の規模を持つ長野盆地(「善光寺平」)に位置し、千曲川右岸の沖積低地、小布施扇状地、雁田火山からなる。土地利用は町域の四十二パーセントが畑で、ついで山林十五パーセント、宅地十一パーセントで、田は九パーセントにすぎない(平成十七年度の都市計画基礎調査)。
江戸中期頃までの畑地利用は大小の小麦、栗、黍、大豆、碗豆などの穀物中心で、中期頃から綿花や菜種、幕末には蚕種製造や養蚕などの商業的農業が発展した。明治時代の末頃から一九三五(昭和一〇)年頃までの農業は米と養蚕が中心であったが、昭和恐慌を経て養蚕からリンゴヘの切り替えが進み、第二次世界大戦後にはリンゴの村といわれるまでの発展をみた。そして高度成長期以降は、果樹の価格変動や労働力対策等の面からリンゴの他、ブドウ、アンズ、クリなどを加えた多角的な果樹栽培地域としての性格を強めてきた(内山、一九九六、一三九頁)。もちろん、このように発展してきた自然的基盤としては、内陸の乾燥盆地で寒暖の差が大きく(最高気温が三十五度、最低はマイナス十五度)、年間の降水量は九〇〇ミリメートルで、全国的にも極めて雨量の少ない地域である点も見逃せない(市川、二〇〇二)。
農業を中心に展開してきた小布施町の産業別就業人口割合は、一九六五年当時第一次産業四十九・七パーセント、第二次二十一・三パーセント、第三次二十九・〇パーセントであった。しかしその後産業構造の転換が進み、八五年にはそれぞれ三十二・三パーセント、三十四・一パーセント、三十四・六パーセントへ、さらに二〇〇五年では二十三・八パーセント、二十七・九パーセント、四十八・二パーセントとなり、第三次産業従事者の割合は一九六五年当時の第一次産業従事者の割合と入れ替わった。現在、町全体の産業大分類別事業所別就業人口構成では、製造業と卸・小売業がそれぞれ二十六パーセント、二十八パーセントを占め、ついで医療・福祉十二賢、建設業一〇パーセント、サービス業八パーセント、飲食店・宿泊業八賢、その他となっている(二〇〇八=平成十八年度事業所統計調査)。二〇〇五年の工業統計調査によれば、食料の製造品出荷額は三十一億一〇九九万円で製造品総出荷額(九十五億一〇九二万円)の三十二・七パーセントを占め、第二位のプラスチック(十九・九パーセント)、第三位の電子(三・四パーセント)を上回り、第一位である。食料の製造品出荷額のうちではクリ菓子関連企業が七十七パーセント(約二十四億円)を占める。
中津川市は、人口八万三七三六人(二〇〇五年)の市である(合併前の二〇〇四年の旧中津川市の人口は五万五二七三人)。岐阜県の東南端に位置し、東は木曽山脈、南は三河高原に囲まれ、中央をほぼ東西に木曽川が流れている。中津川市の市街地は、最高地点の恵那山(二一九一メートル)の前山の麓に開けた扇状地(開哲扇状地)上に発達している(写真2)。市域の土地利用は農地は六・九七パーセントで、森林が七十九・二四パーセントを占める。
しかし中津川市の中心部についていえば、江戸時代に整備された中山道の宿場(中津川宿)で、しかも飛騨街道(南北街道)が交差する位置にあり、交通の要衝地として発展してきた。十八世紀末の中津川宿は家屋数一七五戸、その三分の一は商家で六斎市が開かれ、商業の中心地・物資の集散地としてにぎわい、十八屋の間家、大津屋の菅井家、鳶野屋の平吉屋などの豪商が恵那郡北部や木曽谷地方、さらに名古屋・京都大阪方面にも販売網を拡大して、取引や物資の輸送を行っていた(渡辺、一九九九)。一八四三(天保十四)年に中山道沿いの妻篭の家の数が八十三軒、馬篭が六十九軒、落合が七十五軒であった時に、中津川は二二八軒に達していた。
明治以降の中津川は、生糸の輸出を背景に養蚕ブームの下で製糸業等の工業化が進んだ。昭和の恐慌期を経て戦後は現在の三菱電機名古屋製作所の分工場(三菱電機中津川製作所の前身)の疎開などにより、工業の転換がはかられてきた。交通面では一九六八年に中央線(現・JR中央線)の中津川-名古屋間の複線電化が行われ、中部圏開発区域に編入され(中津川市統計書平成十八年版)、また八五年には国道19号のバイパス、前後して中央自動車道の上下線が開通しか。こうした中で九三(平成三)年には中京学院大が開校、さらに二〇〇五(平成十七)年には長野県山口村を併合して新中津川市が誕生した。
産業別就業人口構成は一九五五(昭和三〇)年当時、第一次産業三十七・二パーセント、第二次三〇・三パーセント、第三次三十二・五パーセントであった。しかし、七五年に十八・一パーセント、四十一・四パーセント、四十一・○パーセント、さらに二〇〇五年には六・四竹、四十一・一パーセント、五十二・五パーセントとなり、小布施町以上に大きな変化が招来された。現在、産業分類別事業所数・従業者数構成比(二〇〇六年)では卸・小売業(二十五・一パーセント)が多く、次いで製造業(十五・一パーセント)、建設業(十四・七パーセント)、飲食・宿泊業(十四・三パーセント)の順であるが、従業者数では製造業(三十七・七パーセント)が最も多く、次いで卸売・小売り業(十九・六パーセント)、建設業(九・二パーセント)の順となっている。
クリ菓子産業に特化した二地域
長野県上高井郡小布施町と岐阜県中津川市は、中部地方にあって互いに隣接した県内にある。小布施町は日本海に流出する千曲川(信濃川)の上流(東経一三八度一九分、北緯三六度四一分、市役所標高三五三メートル)に、中津川市は太平洋側に流出する木曽川の上流(東経一三七度三〇分、北緯三五度二九分、同三二三メートル)に位置している。
小布施町と中津川市
小布施町は人ロ一万一四七七人(二〇〇五=平成十七年)、長野県で第二の規模を持つ長野盆地(「善光寺平」)に位置し、千曲川右岸の沖積低地、小布施扇状地、雁田火山からなる。土地利用は町域の四十二パーセントが畑で、ついで山林十五パーセント、宅地十一パーセントで、田は九パーセントにすぎない(平成十七年度の都市計画基礎調査)。
江戸中期頃までの畑地利用は大小の小麦、栗、黍、大豆、碗豆などの穀物中心で、中期頃から綿花や菜種、幕末には蚕種製造や養蚕などの商業的農業が発展した。明治時代の末頃から一九三五(昭和一〇)年頃までの農業は米と養蚕が中心であったが、昭和恐慌を経て養蚕からリンゴヘの切り替えが進み、第二次世界大戦後にはリンゴの村といわれるまでの発展をみた。そして高度成長期以降は、果樹の価格変動や労働力対策等の面からリンゴの他、ブドウ、アンズ、クリなどを加えた多角的な果樹栽培地域としての性格を強めてきた(内山、一九九六、一三九頁)。もちろん、このように発展してきた自然的基盤としては、内陸の乾燥盆地で寒暖の差が大きく(最高気温が三十五度、最低はマイナス十五度)、年間の降水量は九〇〇ミリメートルで、全国的にも極めて雨量の少ない地域である点も見逃せない(市川、二〇〇二)。
農業を中心に展開してきた小布施町の産業別就業人口割合は、一九六五年当時第一次産業四十九・七パーセント、第二次二十一・三パーセント、第三次二十九・〇パーセントであった。しかしその後産業構造の転換が進み、八五年にはそれぞれ三十二・三パーセント、三十四・一パーセント、三十四・六パーセントへ、さらに二〇〇五年では二十三・八パーセント、二十七・九パーセント、四十八・二パーセントとなり、第三次産業従事者の割合は一九六五年当時の第一次産業従事者の割合と入れ替わった。現在、町全体の産業大分類別事業所別就業人口構成では、製造業と卸・小売業がそれぞれ二十六パーセント、二十八パーセントを占め、ついで医療・福祉十二賢、建設業一〇パーセント、サービス業八パーセント、飲食店・宿泊業八賢、その他となっている(二〇〇八=平成十八年度事業所統計調査)。二〇〇五年の工業統計調査によれば、食料の製造品出荷額は三十一億一〇九九万円で製造品総出荷額(九十五億一〇九二万円)の三十二・七パーセントを占め、第二位のプラスチック(十九・九パーセント)、第三位の電子(三・四パーセント)を上回り、第一位である。食料の製造品出荷額のうちではクリ菓子関連企業が七十七パーセント(約二十四億円)を占める。
中津川市は、人口八万三七三六人(二〇〇五年)の市である(合併前の二〇〇四年の旧中津川市の人口は五万五二七三人)。岐阜県の東南端に位置し、東は木曽山脈、南は三河高原に囲まれ、中央をほぼ東西に木曽川が流れている。中津川市の市街地は、最高地点の恵那山(二一九一メートル)の前山の麓に開けた扇状地(開哲扇状地)上に発達している(写真2)。市域の土地利用は農地は六・九七パーセントで、森林が七十九・二四パーセントを占める。
しかし中津川市の中心部についていえば、江戸時代に整備された中山道の宿場(中津川宿)で、しかも飛騨街道(南北街道)が交差する位置にあり、交通の要衝地として発展してきた。十八世紀末の中津川宿は家屋数一七五戸、その三分の一は商家で六斎市が開かれ、商業の中心地・物資の集散地としてにぎわい、十八屋の間家、大津屋の菅井家、鳶野屋の平吉屋などの豪商が恵那郡北部や木曽谷地方、さらに名古屋・京都大阪方面にも販売網を拡大して、取引や物資の輸送を行っていた(渡辺、一九九九)。一八四三(天保十四)年に中山道沿いの妻篭の家の数が八十三軒、馬篭が六十九軒、落合が七十五軒であった時に、中津川は二二八軒に達していた。
明治以降の中津川は、生糸の輸出を背景に養蚕ブームの下で製糸業等の工業化が進んだ。昭和の恐慌期を経て戦後は現在の三菱電機名古屋製作所の分工場(三菱電機中津川製作所の前身)の疎開などにより、工業の転換がはかられてきた。交通面では一九六八年に中央線(現・JR中央線)の中津川-名古屋間の複線電化が行われ、中部圏開発区域に編入され(中津川市統計書平成十八年版)、また八五年には国道19号のバイパス、前後して中央自動車道の上下線が開通しか。こうした中で九三(平成三)年には中京学院大が開校、さらに二〇〇五(平成十七)年には長野県山口村を併合して新中津川市が誕生した。
産業別就業人口構成は一九五五(昭和三〇)年当時、第一次産業三十七・二パーセント、第二次三〇・三パーセント、第三次三十二・五パーセントであった。しかし、七五年に十八・一パーセント、四十一・四パーセント、四十一・○パーセント、さらに二〇〇五年には六・四竹、四十一・一パーセント、五十二・五パーセントとなり、小布施町以上に大きな変化が招来された。現在、産業分類別事業所数・従業者数構成比(二〇〇六年)では卸・小売業(二十五・一パーセント)が多く、次いで製造業(十五・一パーセント)、建設業(十四・七パーセント)、飲食・宿泊業(十四・三パーセント)の順であるが、従業者数では製造業(三十七・七パーセント)が最も多く、次いで卸売・小売り業(十九・六パーセント)、建設業(九・二パーセント)の順となっている。
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