未唯への手紙

未唯への手紙

車は変わらないと

2015年09月19日 | 5.その他
車は変わらないと

 車は高速で走る必要がなくなると、バスみたいな形になる。真っ四角。

 タイヤ軸にバッテリーを付けて、制御できるのであれば、ドライブシャフトは要らない。いくえあでも最小回転半径が変えられます。だけど、半重力制御ができないと、さほどの進化は望めない。飛ぶ車はインチキです。

レイキャビックのアアールトの図書館

 アイルランドのレイキャビックにも、アアールトが1968年に作った図書館があります。。天井が高く、自然光が差し込む、気持ちのいい空間。

未唯空間1.5「未唯空間」のコメント

 未唯空間を作り出すのに、20年ぐらいかかりました。日々の思いを雑記帳に記載してきた。最初はノートから始まり、パソコンを使うようになり、全体が見渡せた。そこで、7つのジャンルと3つのテーマを決めて、カテゴリーをまとめてきた。トポロジーを活用して、配置の考えを使ってきた。

 思いから出た言語表現で空間をつくるということは、要素の関係性とかコンパクト性という、概念が必要になった。何しろ、言葉には意味があり、それは表の包含関係とは逆の関係になるので、一面的には扱えない。キーワード空間はクロスする空間として出て来た。

 未唯空間の目的は「全てを表現」すること。そこでの全てというのは「私は私の世界」での全域になる。全てを配置で行うと骨格がなくなるので、カテゴリーの中に階層を入れ込んだ。その上で、配置の自由度を加えたので、様々な表現が可能になった。

 未唯空間を仕事で考えた時にベースになったのが、内と外との循環だった。それを表現することで、配置がつながった。それがサファイア循環で、{考え、行動}×{部分、全体}の基本構造を持っている。その循環を連鎖させることで、未知の領域まで拡張することができる。

未唯空間1.6「分化から統合」のコメント

 未唯空間は、社会とか歴史の事例を織り込んだ「未唯宇宙」に進化した。これは未唯空間のように、ベクトルではなく、無限次元空間上に配置される形になる。目的を絞ることで、目に見える次元にすることができる。つまり、社会構造そのものになる。これを「存在の力」で問題をハッキリさせていくことになる。

 それを具体的なカタチで社会に見せていく。そのために、ICTを用いて、社会を分析すると同時に、新しい社会のソーシャルインフラの使い方を示すと同時に、個人が分化するのに、何から始めたらいいのかを示す。

 分化された個人をいかに、統合に向けていくかを次に示す。そのために、地域にコミュニティを創造し、そこに、地域の知識と意識を蓄える。共同意思で行動することで、外の世界である企業と行政を変えていく。

 分化と統合の結果として、社会の位相化を実現する。今までのプロセスから分かるように、個人が分化し、中間の存在のコミュニティに集めて、サファイア循環で統合していく。

カーシェアリングと電気自動車

2015年09月19日 | 1.私
『自動車業界の動向と仕組みがよ~くわかる本』より ⇒ クルマは地域のインフラのモノ。地域コミュニティでカーシェアリングすべき。それで初めて、電気自動車とか水素自動車が有効な手段になりうる。

メーカーを脅かすカーシェアリング

 カーシェアリングはあらかじめ登録した会員が、必要な時に一定金額を支払って利用するシステムです。長時間で長距離の運転をする際は、コスト的にもレンタカーの方が安く済みます。

 カーシェアリングとは何か

  カーシェアリングは、あらかじめ登録した会員に車を貸し出すシステムです。もともとはヨーロッパで始まりましたが、その後、アメリカや日本に広まりました。

  カーシェアリングは、車を所有するよりも経費がかかりません。車を所有する場合は、取得に多額のお金を払い、その他に税金、保険、駐車場代、車検、整備費用などがかかります。しかし、実際に車を使用するのは一日に数時間程度で、利用しない人になると、月に数時間程度となります。したがって、同一の自動車を一人で使うよりも多数の人が利用すれば、最大限にその車を活用することができるようになります。

  カーシェアリングの車を利用する人は必要なときに一定金額を支払って利用するため、利用するたびに、鉄道やバス、タクシーと比較して、安い場合に車を利用しようというようにコスト意識を持つようになります。なお、日本の法律ではカーシェアリングで使用される車は、レンタカーと同様の扱いであるため、同じように「わ」ナンバーが使われます。

 レンタカーとの違いは?

  車を持たない人は、まだカーシェアリングは一般的な手段ではなく、レンタカーを使うことが多いと思われます。カーシェアリングは、主婦が子どもの送迎に使用するなど、短時間の利用に使用されます。長時間で長距離の運転をする際は、コスト的にもレンタカーの方が安く済みます。つまり、カーシェアリングとレンタカーは「走行距離」によって使い分けられています。また、「車種」によって使い分けるユーザーも多いです。カーシェアリングでは軽自動車が多いため、買い物などに便利ですが、多くの荷物を運ぶ際には、大型バンなどの車種を選べるレンタカーが便利です。ポルシェ、ペンツ、BMWに乗りたい人は、やはりレンタカーを選択するでしょう。カーシェアリングとレンタカーは、いずれにしろ、車は所有するものではなく、利用するものというユーザーの意識変化を表したシステムです。したがって、レンタカーにカーシェアリングが加わったことにより、自動車メーカーは自動車をますます販売しにくくなってきており、カーシェアリングは自動車メーカーを脅かすシステムといえましょう。

  コンビニエンスストアもカーシェアリング業界に参入し、ファミリーマートの駐車場にもカーシェアリング用の軽自動車が置かれるようになりました。そのほかに、タイムズ24、オリックス自動車、日本駐車場開発などもカーシェアリング業界に参入しています。各社はサービスに特徴を出し、競争することによって、さらに市場を拡大していくことと思われます。

三菱自動車の『アイ・ミーブ』

 三菱自動車は二〇〇九年度に、電気自動車「アイ・ミーブ」を発表しました。二〇一三年九月現在で、世界累計販売台数は約一万六八〇〇台です。

 電池技術の蓄積が社内にあった

  三菱自動車が電気自動車事業への参入を決定したのは、二〇〇五年です。鉛蓄電池を中心に、四〇年間研究開発をしてきた蓄積が社内にありました。そして、一九九〇年代初めにソニーがリチウムイオン電池を開発したのを契機に、三菱自動車も自動車用電池の研究を始めました。開発上の課題は、リチウムイオン電池の性能を高め、かつ安全性も確保するということにありました。車体に載せる電池のユニットは、小さいほうが車体が軽くなりますが、走行距離を延ばすには多くの電池を積む必要があります。「アイ・ミーブ」は、軽自動車の「アイ」に電池を搭載して開発された車です。「アイ」は、ホイールベースは軽自動車ですが、小型車並みの室内スペースを持っている車です。

  「アイ・ミーブ」のモーターとインバータの開発は、明電舎によって行われました。車のエンジンに相当するのが電池とモーター、トランスミツンョンに相当するのがインバータであるため、自動車の基幹部品であるモーターとインバータの開発を社外に出すことは、三菱自動車にとっても勇気のいることでした。これが実現できたのも、三菱自動車と明電舎の信頼関係によるところでしょう。

  三菱自動車は二〇〇九年六月に、電気自動車「アイ・ミーブ」を発表しました。価格は約四六〇万円と高価です。一回の充電で一二〇~一八〇キロメートル走行できます。生産台数を制限しているのが、販売価格の半分を占めるリチウムイオン電池の供給量です。三菱自動車は、三菱商事とGSユアサの合弁会社である「リチウムエナジージャパン」から電池を供給されています。

 「アイ・ミーブ」はシティコミューターー

  「アイ・ミーブ」が公道を走るようになりましたが、事故もなく安全性の面で問題がないようです。安全性の確保には、三菱自動車独自の電池制御技術が関連しています。軽自動車の「アイーミーブ」のライバルは、大きい乗用車タイプの日産の「リーフ」です。しかし、電気自動車の使われ方のコンセプトが両者で異なります。「リーフ」はガソリン車を代替する個人使用を念頭に置いていますが、「アイ・ミーブ」は都市部での日常的な足代わりとしての位置付けで、カーシェアリングも重要な販売促進手段です。

  しかし、「アイ・ミーブ」にしろ、続いて発表された日産「リーフ」も、爆発的ヒットとはなっていません。一般ユーザーは、電気自動車のエコロジーに賛同するというよりも、維持費の安さというエコノミーに反応するのであり、かつ、航続距離を心配することなく乗りたいため、電気自動車をまだ購買対象としていません。

日産の『リーフ』

 日産は電気自動車「リーフ」の販売を二〇一〇年末から日米欧で開始しました。「リーフ」は、電気自動車において世界一のシェアと販売台数を誇る電気自動車です。

 排気量が大きいのに低価格

  二〇〇九年八月、日産は電気自動車「リーフ」を発表し、販売は二〇一〇年の末から日米欧で開始されました。カルロス・ゴーンは、社内に蓄積のあったリチウムイオン電池の開発を継続させて、「リーフ」の開発へとつなげました。ゴーンは、ゼロ・エミッションカーという言葉で電気自動車「リーフ」を説明しています。つまり排出ガスゼロという意昧であり、実際にマフラーを持たない「リーフ」は、走行中、排出物は一切ないため、究極のエコカーといえます。三菱自動車の「アイ・ミーブ」は軽自動車ですが、日産の「リーフ」は五人乗りのスポーツセダンであり、グローバルに販売するには、より適しています。

  二〇一〇年一二月発売の「リーフ」の価格は一台三七六万円で、経済産業省の補助金を受ければ二九九万円で購入できます。日産はハイブリッド車ではトヨタやホンダに出遅れましたが、この電気自動車で自社の競争力を高めようとしています。三菱自動車の「アイ・ミーブ」の価格は四五九万九〇〇〇円で、補助金を受けると三二〇万円になります。したがって、日産自動車の電気自動車の方が大きいだけでなく、価格競争力もあります。リーフは排気量二リットルクラスで、最高時速は一四〇キロメートル以上となります。高性能のリチウムイオン電池を使い、一回の充電で一六〇キロメートル以上走行できます。電気自動車は、音が静かなだめ、歩行者が後ろから近づいて来る電気自動車に気づきにくい。そのため、リーフは時速三〇キロメートルまでの低速時に、スピーカーからモーター音に近い音を出す仕様となります。二〇一〇年一〇月から追浜工場で生産が開始されました。二〇一四年七月末、「リーフ」の世界累計販売台数が一三万台を突破し、世界の電気自動車のシェアの四五%を占め、世界一の販売台数を誇る電気自動車となりました。

 三菱自動車と共同でEV開発

  日産は三菱自動車と二〇一一年に合弁会社を設立し、軽自動車を共同開発し販売しています。そこからさらに踏み込んで、両社は軽自動車をベースにした電気自動車を共同開発・生産する計画です。電気自動車は二〇〇キロメートルを電気代三〇〇円程度で走行することができます。両社の共同開発によって電気軽自動車の価格を小型乗用車程度の価格に抑えることができれば、多くの一般ユーザーを取り込むことができます。



チャーチルには見えたものが、他の者たちには見えなかった

2015年09月19日 | 4.歴史
『チャーチル』より 戦争の到来 一九三三-四〇年

 チャーチルには見えたものが、他の者たちには見えなかった。一九三〇年代前半のイギリスの政治における重要な問題とは帝国と経済のそれであって、戦略云々の問題ではなかった。その二つとも、増大する軍事的な危機から派生したものであった。インド帝国内の権力をその各地域内で選出された議会に委譲するために立案されたインド政府法案は、一九三二年から三五年にかけて、挙国一致政府の保守党系議員の情熱と偏見の多くをとらえていた。チャーチルはこの法案の通過に断固として反対し、結果的に、党内での孤立を深めてしまうことになった。彼は経済問題にはあまり巻き込まれなかったけれども、徴税と経費支出は、ヒトラー時代の初めの頃には、政府の政治戦略を決定する要因であった。チャーチルに見えていたのは軍事的な必要のみであった。彼の敵たちは--とりわけ一九三一年から三七年にかけて大蔵大臣をつとめたネヴィル・チェンバレンは--失業、産業の衰微、輸出の低下、給与バランスの悪さなどの重荷に苦しめられていた。今から振り返ってみると、国の安全に対する関心のなさゆえに、彼らを責めることにもなる。時代の現実からすると、税収入による資金は輸入違約金、輸出助成金、失業援助金、そして予算の均衡維持のために使いたいという願いが、彼らの側にあったという説明になるだろうか。

 チャーチルの掲げる目的の一貫性とその見事な弁説は、庶民院の多数に対して保守党がもっていた指導力を弱め始めていた。ミュンヘン論争をめぐる投票のときには、三〇人の保守党員が棄権してし--彼らはすでに内閣から離脱し、チャーチルと歩調を合わせて、公式の宥和政策に反対する立場をとったのである。にもかかわらず、彼らは少数派にとどまった。チェンバレンはドイツとの対決を危機化させることを拒み続け、多くの党員も国民もその拒否の姿勢を支持した。おまけに、チェンバレンの側にもそれなりの理由があった。しぶしぶとは言いながらも、国家経済に対する予算編成上のダメージがどうあれ、再武装化か差し迫った必要事項であることを受け容れざるを得なくなっていたのである。戦闘機司令部は一九三八年までには、ドイツ空軍の配備したいかなるものにも対抗できる数百機の新型の、高速の、重装備したハリケーン機やスピットファイア機を確保しつつあったし、それと並行して、空軍省のひとつの部署であった英国防空部は、早期警戒レーダー観測所の国内ネットワークと、警告シグナルと戦闘機の対応を組み合わせるのに必要な管理センターの双方を早急に完成しつつあった。一九三八年のチャーチルは、ある意味では、自分よりも前に出ようとしていたのであった。再武装のペースが許す以上に英国の防衛力があがるまでは、先延ばしする方がいいドイツとの対決を、彼は要求し続けたのである。

 ただ、ヒトラーの方もペースをあげつつあった。一九三九年三月一五日、チェコスロヴァキア本土を占領するために、彼の軍はズデーテン地方から東へ向かった。その夜、彼はプラ(で眠る。チェコスロヴァキアのうちのチェコ側はドイツの保護領とみなされ、スロヴァキアはドイツの傀儡国家となった。三月二五日になるとチェンバレンは、ヒトラーによるミュンヘン合意の放棄を侮辱と受けとめ、「苦い杯」というチャーチルの警告が嘘ではなかったことを認めて、ポーランドに対する--間違いなく、ヒトラーによる侵略の次の目標であったー外交的な保障の手を差しのべることになったが、これは、もしポーランドの人々が攻撃されたら、イギリスは軍事行動に出るということであった。フランスも賛同した。同じことをするように求められたソヴィエト・ロシアは、ポーランドの人々が同意しそうにない条件をつけた。ドイツは、ポーランドの人々に、ダンツィヒの--ヴェルサイユ条約まった。そこには何人かの元閣僚も含まれていたが--アントニー・イーデンやダフ・クーパーなどによって、ポーランド領内にある「自由都市」とされた場所の--ドイツヘの再統合を認めるように迫った。ポーランド側はためらった。ヒトラーは軍事配備に手をつけた。五月、六月、七月にわたって、イギリスとフランスは、相互支援の計画をめぐって、ロシアとだらだらと話し合った。進展らしきものはほとんどなかった。八月になるとスターリンが、外相ヴィアチェスラフ・モロトフを使って、直接ヒトラーに接近した。ソ連は、ドイツと同じように、ポーランドの人々に対して不満をかかえていた。ヴェルサイユ条約は、ロシアの人々が自分たちのものだと思っていた地域をポーランドに与えてしまい、人々はそれを保持するために戦い、勝利していた。八月二二日、モロトフとヨアヒム・フォン・リッベントロップ(ヒトラーの外務大臣)は不可侵条約に署名する。そこには、いざ戦争となった場合には、この二つの国の間でポーランドを分割するという秘密条項が含まれていた。二つの前線で戦う危険から解放されたヒトラーは、戦闘に打ってでる決断をした。ワルシャワとのさらなる交渉をしないまま、彼は九月一日に侵略をしかけた。三方でドイツ側と対抗したポーランド軍は、あっと言う間に崩壊した。

 それにもかかわらず、チェンバレンは、ポーランドに対する保障を前面に打ち出すことをためらってしまった。フランスも同様。彼が提案したのは、かりにドイツが部隊の撤収に同意する用意があるならば、会議を招集しようということであった。それには、庶民院も我慢しきれなかった。労働党の議員たちによる宣戦布告の要求が功を奏した。チェンバレン内閣の同僚たちにしても、ほぼ全員が宥和派であったにもかかわらず、個人的には同調した。九月二日、チェンバレンは最後通告を翌朝出すことに同意した。それに対する反応がベルリンからなかったとき、イギリスはひとつの世紀のうちにドイツと二度目の戦争に突入することになった。同じ日の午後、フランスの最後通告も何の反応もないまま期限を過ぎてしまった。

 九月一日には戦時内閣での地位を約束されていたチャーチルは、この緊迫した時期には発言や行動を抑えていて、友人たちには、自分は内閣の一員だからと説明していた。しかし、チェンバレンの方はその提案をすぐには実行に移さなかった。彼がチャーチルを海軍大臣に任命したのは、最後通告が切れたあとのことである。チャーチルにはなすべきことがほとんど見つからなかった。九月一七日、ロシアによる侵略も受けていたポーランドの破壊をドイツが進めたときにも、英仏の軍は動員をきっちりと進めてはいたものの、両国とも空と海で対ドイツの動きをとることはなかった。秋になると、「見かけの戦争」が始まった。フランス軍は敵側と向かい合うマジノ・ラインを配備し、小規模の英国海外派遣軍がフランスにおもむいた。厳しい冬と冷たい春を通して、連合軍側はダークフリート線の砲撃と中間地帯への攻撃に抑えていた。その一方で、ロシアはバルト海諸国を占領し、対フィンランド攻撃に出ていたが、連合国側はこの国の勇敢な抵抗をひとつの支えとして真剣に受けとめていた。しかし、その支援ができる前に、フィンランドは降伏してしまった。ほどなくヒトラーはバルト海と北海作戦に着手して、一九四〇年四月九日にはデンマークとノルウェーに侵攻してしまう。小国デンマークはあっと言う間に侵略されてしまった。ノルウェーの地理は、その勇敢な軍隊が、仏英の助けをかりて、もっと長期にわたって抵抗を続けることを可能にした。その活動はチャーチルの熱い想いをかきたてることになったが、英国海軍はナルヴィクでの第二海戦で圧倒的な勝利をおさめ、ドイツの海上艦隊の大きさを半分割してしまうことになった。しかしながら、陸上での軍事行動は精彩を欠くものであった。それがだらだら続くうちに、ドイツ側が徐々に有利になり始めると、国民と庶民院の双方が現行の指導体制に対する不満を口にし始めて、チェンバレンも最早それを黙殺できなくなってきた。議会でノルウェーをめぐる議論が始まったのは、一九四〇年五月七日のこと。二日間の激論のあと、不信任の有効投票にたどりついた。チェンバレンは屈辱を味わい、辞任を求める怒鳴り声を耳にしながら議場をあとにした。五月九日には、新たな挙党一致内閣の支持を勝ちとろうとしたものの、労働党は彼のもとでは動かないことを明白にした。

ドトールとスターバックスのマーケティング戦略

2015年09月19日 | 7.生活
『ケースに学ぶ マーケティング』より ドトールとスターバックスのマーケティング戦略 ⇒ スタバに関しては、15年間のお客様としての経験があります。お金に換算するとざっと、300万円ぐらいは使っている。一番気に入っているのは、「おお客様ひとり」への対応です。

ドトールのマーケティング戦略

 1962年、24歳のときコーヒー豆の焙煎加工と卸売業を行う会社としてドトールコーヒーを設立した。社名のドトールは彼がブラジル・サンパウロで働いていたときの住所からとって名づけられた。

 鳥羽氏がセルフサービス式のドトールを創業するヒントとなったのは、1971年に参加した業界主催のヨーロッパ視察旅行だった。パリのカフェでは同じコーヒーに対し、立ち飲みと着席とでは異なる価格が設定されていて、出勤前のビジネスマンたちは安い立ち飲みコーヒーを飲んで仕事に向かっていた。また、ドイツでは人々がコーヒー豆をカフェの店頭で買っていた。このようにヨーロッパではカフェは日常生活に密着したものとして存在しており、コーヒーが普及しつつある日本においても、日本人の生活に密着したカフェが必要であると感じ、それをドトールとして具現化したのである。

 ビジネスマンに負担のない価格で毎日おいしいコーヒーを飲んでもらい、日々の生活に安らぎと活力を感じてもらいたいという思いから始まったドトールでは、150円という低価格とおいしさを両立させるためにさまざまな工夫がなされている。

 コーヒーの価格をこれまでの半分に設定しても利益の出る店にするためには、単純に倍以上のお客さんに来てもらう必要がある。そのためには毎日通ってもらえる味の提供とともに、客を待たせない仕組みづくりは必要となる。ドトールでは店内の機械化を積極的に進めることで1店舗当たりの平均社員数が0.7人(スターバックスは1.9人)と人件費を抑えつつも、来店客数を増やして高回転率を維持しており、これによって狭くても利益の出る店舗となっている。この仕組みを実現するためには、カウンターでいかに素早くコーヒーを提供できるかがポイントになる。経験の浅いアルバイトでもおいしいコーヒーを提供できるようドイツ製フルオートマチックのコーヒー・メーカーを導入したり、軽食用のパンを焼く機械や食洗機などを積極的に導入することで、彼らが効率よく働けるように工夫している。

 それと同時に毎日飲めるおいしいコーヒーを実現するために世界11カ国から品質の高い豆を購入し、自社で直火式焙煎を行う仕組みを構築した。この直火式焙煎は人手と時間がかかるため、大手企業は通常、熱風焙煎を用いるが、コーヒーのおいしさを実現するためには妥協できない点であった。この仕組みは品質を維持できる一方、調達コストが割高になる。そのため売上原価は50%と、26.5%のスターバックスと比較して非常に高くなっている。そこには、コーヒー豆の焙煎・卸から出発した同社のこだわりが感じられる。

 また、忙しいビジネスマンに手軽に食べてもらえるようにと、コーヒーと一緒に販売する軽食にも力を入れている。オープン当初から売っている「ジャーマンドック」は、ヨーロッパ視察の際にドイツで食べたフランクフルトの昧を再現するために、国内のソーセージ、パン、マスタード・メーカーと共同で開発したもので、ドトールの朝の定番となっている。1998年から登場した「ミラノサンド」も手軽なランチの定番として、メニューを変えつつも現在まで販売されている。

 店舗に関しては、「安らぎと活力」を提供できるよう色彩心理学で母性愛を示すクリーム色と活力を示す赤茶色を基調にしており、明るく清潔で快適な店舗デザインとなっている。近年は公共の場での受動喫煙の防止がうたわれる健康増進法(2003年から施行)に対応して、店内の分煙も積極的に進められており、タバコを吸わない人たちにとっても気軽に利用できるようになった。

 ドトールでは「頑張る人の頑張らない時間」というブランド・メッセージを2010年より発信している。忙しくて時問がないビジネスマンたちに短時間でリフレッシュしてもらえるようなちょっとした息抜きの場を提供できるよう、コーヒーからサイドメニュー、店舗設計に至るまでさまざまな工夫がなされているのである。

スターバックスのマーケティング戦略

 スターバックスはコーヒー豆の挽き売り専門店として、アメリカ・シアトルで1971年に創業された。その当時、コーヒー豆はアラビカ種が良質とされていたが、それらのほとんどはヨーロッパで消費されており、アメリカでは品質の劣るロブスタ種のコーヒー豆加計費されていた。先進国といえどもアメリカのコーヒー文化はまだ未熟であった。

 そのようななか、実質的な創業者であるシュルツ氏は、コーヒー豆にこだわるスターバックスの虜になり、1982年に同社に入社する。その翌年、ミラノに出張したとき、彼はイタリアのカフエから大きな刺激を受けた。その1つが町中に何軒もあるエスプレッソ・バーであり、そこでお客を楽しませるバリスタの存在だった。もう1つはカフェラテである。シュルツ氏はエスプレッソにスチームミルクを入れたカフェラテの味が、これまでに飲んだことのあるコーヒーにミルクを注いだもの(カフェオレ)と大きく違うことを知る。こうした体験から、シュルツ氏はイタリアに根づくエスプレッソ文化をアメリカに広めたいと考えるようになり、カフエ業態の開発を目指した。

 スターバックスの名を冠しかカフェが本格的に展開されるのは、1987年からである。コーヒー豆の挽き売りからスタートしたスターバックスもドトールと同様、コーヒーの味にこだわりを持つ。トレーサビリティと品質管理を厳密に行うことで生産地の特徴的な風味特性を持つ希少価値の高いコーヒーのことをスベシャルティ・コーヒーというが、それを日本に広めたのはスターバックスである。

 同社の提供するコーヒードリンクは高品質のアラビカ種コーヒー豆から抽出したエスプレッソがベースとなっている。さらにミルクを無脂肪にしたり、キャラメルやバニラといったシロップを追加したりといったカスタマイズのサービスをつけることで、それぞれの顧客の好みに合ったコーヒーをつくることができる。

 ブレンドコーヒーやアイスコーヒーが主力商品のドトールに対し、スターバックスではカフェラテ(「スターバックスラテ」と呼ばれる)やそこにハニラシロップとキャラメルソースを加えた「キャラメル・マキアート」、フローズンドリンクの「フラペチーノ」など甘めのドリンクメニューが人気となっている。これらは通常のコーヒーよりも苦みの強いエスプレッソヘの敷居を低くさせるものであり、独特な苦みを敬遠してこれまでコーヒーを飲まなかったような消費者(とくに女性)にも広く受け入れられる要因となった。

 スターバックスの店内に入ると、カウンターでは緑のエプロンをつけたバリスタがコーヒーの注文を聞いてくれるが、彼らはコーヒーに関する研修を受けているため、コーヒー豆について質問しても快く答えてくれる。また、ドトールのコーヒーの提供は注文カウンターですぐに出されるクイックサービスだが、スターバックスの場合は注文するところとつくるところ、提供するところを別々に設けている。そのうえ、顧客のカスタマイズに対応しながら注文の1つひとつを丁寧につくっているため、注文してからコーヒーが出てくるまでに2~3分はかかるが、そこにはおいしいコーヒーを滝れることへのこだわりが感じられる。

 間接照明を活かした暗めの店内はコーヒーの香りで満たされており、座り心地のよいイスやソファが置かれている。このコーヒーの香りを大切にするために店内は禁煙になっている。バックに流れるジャズをはじめとする音楽も心地よく、1人で読書をしたり、友達とおしゃべりしたりと、スターバックスの店内ではゆったりとした時間を過ごすことができる。

 スターバックスのコンセプトは「サード・プレイス(第三の場)」である。「サード・プレイス」とは都市社会学者のオルデンバーグが提唱した言葉で、人々にはファースト・プレイスである自宅やセカンド・プレイスである職場・学校とは異なる第3の居場所に対するニーズがあるという。このサード・プレイスとして、スターバックスはとくにこれまでのカフェや喫茶店を敬遠していた女性たちがくつろげる空間を提供することに成功したのである。