『<小さな交通>が都市を変える』より 移動の権利 移動の自由が侵されている
コンパクトシティ
そこで、第3波はこの自動車支配の構造そのものを変えようという発想から生まれた。それはコンパクトシティに代表される動きである。コンパクトシティは、その意味では、単に交通政策ではなく、スプロールした自動車依存の都市そのものを否定するという、現代都市に対する真っ向からの挑戦である。コンパクトシティは、市民は都心に高密に住み、重要な施設も歩ける範囲に配置され、日常生活は徒歩ですませ、少し遠くに出かけるときは公共交通を利用することができる、という都市像である。新規開発でコンパクトシティを実現した例では、アメリカのニューアーバニズムの思想で開発されたフロリダ州のシーサイドなどが知られているが、日本のように人口減少が今後長期的に続く地域では、もはやニュータウンの需要はない。コンパクトシティが理想だとしたら、既成市街地を改造してコンパクトにする他はない。ところが、すでにスプロールした都市をコンパクトにしようとすると、空間再編は都市全体に及び、多くの市民の生活と財産に関わるだけに実現は難しく、これを解決する有効な方法が示されているわけではない。実現性はひとまず保留しても、コンパクトシティの目標像としてよく言われる「歩いてくらせる町」が本当に意味のある目標かどうかも検討を要する。まず、歴史的に見ると「歩ける範囲で生活が完結する」という理念は、決してコンパクトシティが初めて言い出したことではない。それは1924年にアメリカの社会・教育運動家で地域計画研究者であったクラレンス・ペリーが提唱した「近隣住区論」で主張された。近隣住区は幹線道路で囲まれ(通過交通が入らなぃということ)、人口は5000-6000人程度で、約60ha(半径400mほど)を想定する。近隣住区の中には小学校、教会、コミュニティセンター、公園などが配置され、隣接する住区とのあいだに商店を配置する。まさに歩ける範囲に商店を置く考え方であった。この考え方は、日本では初期の住宅公団などの住宅団地に適用され、住区ごとに一通りの商業機能をもたせようと、小さな八百屋や肉屋や花屋、そして内科や歯科などの診療所を計画した。ところが、多くはすぐ寂れてしまった。というのも遠くても品揃えの豊富な店ができると、消費者はそちらに行ってしまうからである。
現代の都市には豊富なモノやサービスが溢れている。それが大都市が人々を引き寄せる大きな魅力となっている。その状況は公団住宅が計画されたころよりさらに進展している。だから、仮にコンパクトシティができても、人々の行動はコンパクトシティの範囲内にとうてい収まりきらないだろう。自動車所有を禁止でもしない限り近隣の商店は維持できないだろう。高齢社会と言っても、全員が高齢者になるわけでも、高齢者全員が車をもたなくなるわけでもない。むしろ身体機能が衰えた高齢者は、車が使えれば、若者以上に歩いて行けるところより、車で行けるところを選ぶだろうと予想される。
コンパクトシティが制度的に実現可能で、居住者の半分が地元の商店で買物をするという協定に参加するという仮定(そうすれば近隣の商店街は維持される)をしても、それでもコンパクトシティをもって高齢社会に対応するという解決策は無謀である。なぜなら、都市の構造を作り替える前に、超高齢社会はすぐそこまできているからである。
自動車を共有する(カーシェアリング)
都市の形態をコンパクトにする方法も、都市内公共交通網を充実する方法も、いずれも自家用車に過度に依存した都市構造を変えようという大胆な意図をもった施策である。しかし、産業構造から、人々のライフスタイルにまで浸透した自家用車利用を変えることはそう簡単ではない。そこで、次に考えられる方法は、とりあえず自動車社会を受け入れたうえで、自動車を経済的に利用するにはどうすればよいかを考えることである。すなわち、自動車は使うが、自動車を世帯や個人で所有せずに、複数の人たちで共有(シェアリング)して、必要なときだけ利用するというものである。これが、4番目の解決法である。共有することで世帯の出費が減り、自宅の敷地を浪費する駐車場も不要になり、ひいては自動車利用そのものも減ることが期待できる。第1章でタイムズ24によるシェアリングシステムを紹介したが、すでに大小様々な試みがなされている。所有することから共用することへの意識改革が緩やかに起こっている現代日本では、今後も増え、日本の社会構造に適した方式が定着するだろう。特に日本の都市の郊外はスプロールしたと言っても北米や豪州の低密度な郊外とは異なり、自転車さえあればなんとかなる地域が多く、自家用車の稼働率はそれほど高くない。自動車所有の社会的ステータスも下がりつつあることも考えると、カーシェアリングの将来性は大きいと言ってよいだろう。
ただ、自動車の共用システムをいくら普及させても、そもそも自動車免許をもたない3分の2の日本人や、身体的理由で運転ができない人には意味はないのだからこれは万能ではない。
物やサービスを配達する
5番目の方法は、必要とする人にサービスや物を直接配達することである。そうすれば、個人が買物や用事のために移動しないですますことができる。高齢者が増え、自分の力での移動が困難な人が増えるのだから、確実に需要かおる。第1章で紹介した移動スーパーや移動市役所、コンビニの配達ビジネスを待ち望む人は多いだろう。
問題があるとすれば、特に高齢者を家に閉じ込めてしまうことである。人間は身体をもった存在であり、身体を動かすことは生命維持にとっても、精神活動にとっても必須のことなので、家にいれば何でも届く状態は高齢者にとって必ずしも望ましいとは言えない。がっては、炊事・洗濯・掃除など、家庭生活のなかにも肉体労働が様々あり、家庭生活の近代化はそれらを機械で代替して、辛い家事労働から解放することであった。しかし、肉体労働をしなくなると、今度は身体のほうが不調をきたすようになる。いわゆる生活習慣病もそのひとつである。家に閉じこもりきりになると、短期間に全身の身体機能が低下する。「日常の「生活が不活発」なことが原因で起きる全身の機能低下」は「生活不活発病」と呼ばれている。実は要介護の状態になる人の多くが、この「生活不活発病」が原因であり、その数は脳卒中などの病気が原因で身体が不自由になる場合を上回るという。
家に閉じこもりきりになる理由は身体的理由だけではなく、「身体が不自由な人」として人前に出ることを恥ずかしく思うからでもある。いろいろな能力を持った人たちが堂々と街に出られるような都市文化が求められるが、デザインもそれを支援できる。ウィルの「カッコいいデザイン」は、このことを理解した戦略である。
小さい交通
そこで登場するのが6番目の方法である。自家用車以外の移動手段で、公共交通と徒歩の中間的交通手段、つまり本書の主題である〈小さい交通〉を充実させることである。
運動能力が十分ある人にとっては、〈小さい乗り物〉の代表は自転車である。軽く、小さく、高速で、安定した走りができる。例えば、3kmの距離は、歩けば35分から45分かかるが、自転車ならば10分もあれば行ける。自動車に比べて駐車(駐輪)する場所にも困らない。筋力が弱い人には電動アシストつき自転車もある。身体機能がもっと低下した人なら、四輪の電動アシスト自転車やノヽンドバイクであれば難なく乗ることができる。四輪や三輪のものは安定感かおり、低速走行であってもバランスを維持できる。ただ、折りたたんで持ち込むほどの軽量のものは未だ開発されていない。
このように〈小さい交通〉は徒歩より速く、遠くまで移動できる。それは、公共交通の駅までの移動や、自動車免許や自動車を持だない人の移動や、歩くには遠い用先への移動に便利である。それは、公共交通網を補い、公共交通の活用を促し、経営の健全化につながる。それは自分でできることは自分でしたい人のための移動手段である。しかも体を適度に動かすので、身体を活性化する。ジムに行かなくても健康になれる。〈小さい交通〉は、これまでの徒歩、公共交通、自家用車に続き、かつまったくタイプが異なる第4の交通である。〈大きい交通〉と歩行のあいだに、きめ細かに対応するく小さい交通〉を挟まないと、社会的分断と格差が広がる。
〈小さい交通〉の効果を、新潟県長岡市を事例にして試算してみよう。長岡市は、市街地かおる程度コンパクトにまとまっているが、典型的な自動車依存の地方都市である。人口分布と生鮮食料品店の関係を見ると、店舗から250~500mの距離帯に住む人口が最も多く、ついで250~ァ50mの距離帯に住む人口が続き、生鮮食料品店から半径1km以内に人口の半分以上が居住している。多くの人にとっては気軽に歩いて行ける距離に生鮮食料品店があるわけでもない。もし、各家庭に使いやすい小さい乗り物があれば、買物難民人口(生鮮食料品店から500m以上離れた場所に居住する人口)のうち、およそ半数が生鮮食料品店へ日常的にアクセスすることが可能になる。
コンパクトシティ
そこで、第3波はこの自動車支配の構造そのものを変えようという発想から生まれた。それはコンパクトシティに代表される動きである。コンパクトシティは、その意味では、単に交通政策ではなく、スプロールした自動車依存の都市そのものを否定するという、現代都市に対する真っ向からの挑戦である。コンパクトシティは、市民は都心に高密に住み、重要な施設も歩ける範囲に配置され、日常生活は徒歩ですませ、少し遠くに出かけるときは公共交通を利用することができる、という都市像である。新規開発でコンパクトシティを実現した例では、アメリカのニューアーバニズムの思想で開発されたフロリダ州のシーサイドなどが知られているが、日本のように人口減少が今後長期的に続く地域では、もはやニュータウンの需要はない。コンパクトシティが理想だとしたら、既成市街地を改造してコンパクトにする他はない。ところが、すでにスプロールした都市をコンパクトにしようとすると、空間再編は都市全体に及び、多くの市民の生活と財産に関わるだけに実現は難しく、これを解決する有効な方法が示されているわけではない。実現性はひとまず保留しても、コンパクトシティの目標像としてよく言われる「歩いてくらせる町」が本当に意味のある目標かどうかも検討を要する。まず、歴史的に見ると「歩ける範囲で生活が完結する」という理念は、決してコンパクトシティが初めて言い出したことではない。それは1924年にアメリカの社会・教育運動家で地域計画研究者であったクラレンス・ペリーが提唱した「近隣住区論」で主張された。近隣住区は幹線道路で囲まれ(通過交通が入らなぃということ)、人口は5000-6000人程度で、約60ha(半径400mほど)を想定する。近隣住区の中には小学校、教会、コミュニティセンター、公園などが配置され、隣接する住区とのあいだに商店を配置する。まさに歩ける範囲に商店を置く考え方であった。この考え方は、日本では初期の住宅公団などの住宅団地に適用され、住区ごとに一通りの商業機能をもたせようと、小さな八百屋や肉屋や花屋、そして内科や歯科などの診療所を計画した。ところが、多くはすぐ寂れてしまった。というのも遠くても品揃えの豊富な店ができると、消費者はそちらに行ってしまうからである。
現代の都市には豊富なモノやサービスが溢れている。それが大都市が人々を引き寄せる大きな魅力となっている。その状況は公団住宅が計画されたころよりさらに進展している。だから、仮にコンパクトシティができても、人々の行動はコンパクトシティの範囲内にとうてい収まりきらないだろう。自動車所有を禁止でもしない限り近隣の商店は維持できないだろう。高齢社会と言っても、全員が高齢者になるわけでも、高齢者全員が車をもたなくなるわけでもない。むしろ身体機能が衰えた高齢者は、車が使えれば、若者以上に歩いて行けるところより、車で行けるところを選ぶだろうと予想される。
コンパクトシティが制度的に実現可能で、居住者の半分が地元の商店で買物をするという協定に参加するという仮定(そうすれば近隣の商店街は維持される)をしても、それでもコンパクトシティをもって高齢社会に対応するという解決策は無謀である。なぜなら、都市の構造を作り替える前に、超高齢社会はすぐそこまできているからである。
自動車を共有する(カーシェアリング)
都市の形態をコンパクトにする方法も、都市内公共交通網を充実する方法も、いずれも自家用車に過度に依存した都市構造を変えようという大胆な意図をもった施策である。しかし、産業構造から、人々のライフスタイルにまで浸透した自家用車利用を変えることはそう簡単ではない。そこで、次に考えられる方法は、とりあえず自動車社会を受け入れたうえで、自動車を経済的に利用するにはどうすればよいかを考えることである。すなわち、自動車は使うが、自動車を世帯や個人で所有せずに、複数の人たちで共有(シェアリング)して、必要なときだけ利用するというものである。これが、4番目の解決法である。共有することで世帯の出費が減り、自宅の敷地を浪費する駐車場も不要になり、ひいては自動車利用そのものも減ることが期待できる。第1章でタイムズ24によるシェアリングシステムを紹介したが、すでに大小様々な試みがなされている。所有することから共用することへの意識改革が緩やかに起こっている現代日本では、今後も増え、日本の社会構造に適した方式が定着するだろう。特に日本の都市の郊外はスプロールしたと言っても北米や豪州の低密度な郊外とは異なり、自転車さえあればなんとかなる地域が多く、自家用車の稼働率はそれほど高くない。自動車所有の社会的ステータスも下がりつつあることも考えると、カーシェアリングの将来性は大きいと言ってよいだろう。
ただ、自動車の共用システムをいくら普及させても、そもそも自動車免許をもたない3分の2の日本人や、身体的理由で運転ができない人には意味はないのだからこれは万能ではない。
物やサービスを配達する
5番目の方法は、必要とする人にサービスや物を直接配達することである。そうすれば、個人が買物や用事のために移動しないですますことができる。高齢者が増え、自分の力での移動が困難な人が増えるのだから、確実に需要かおる。第1章で紹介した移動スーパーや移動市役所、コンビニの配達ビジネスを待ち望む人は多いだろう。
問題があるとすれば、特に高齢者を家に閉じ込めてしまうことである。人間は身体をもった存在であり、身体を動かすことは生命維持にとっても、精神活動にとっても必須のことなので、家にいれば何でも届く状態は高齢者にとって必ずしも望ましいとは言えない。がっては、炊事・洗濯・掃除など、家庭生活のなかにも肉体労働が様々あり、家庭生活の近代化はそれらを機械で代替して、辛い家事労働から解放することであった。しかし、肉体労働をしなくなると、今度は身体のほうが不調をきたすようになる。いわゆる生活習慣病もそのひとつである。家に閉じこもりきりになると、短期間に全身の身体機能が低下する。「日常の「生活が不活発」なことが原因で起きる全身の機能低下」は「生活不活発病」と呼ばれている。実は要介護の状態になる人の多くが、この「生活不活発病」が原因であり、その数は脳卒中などの病気が原因で身体が不自由になる場合を上回るという。
家に閉じこもりきりになる理由は身体的理由だけではなく、「身体が不自由な人」として人前に出ることを恥ずかしく思うからでもある。いろいろな能力を持った人たちが堂々と街に出られるような都市文化が求められるが、デザインもそれを支援できる。ウィルの「カッコいいデザイン」は、このことを理解した戦略である。
小さい交通
そこで登場するのが6番目の方法である。自家用車以外の移動手段で、公共交通と徒歩の中間的交通手段、つまり本書の主題である〈小さい交通〉を充実させることである。
運動能力が十分ある人にとっては、〈小さい乗り物〉の代表は自転車である。軽く、小さく、高速で、安定した走りができる。例えば、3kmの距離は、歩けば35分から45分かかるが、自転車ならば10分もあれば行ける。自動車に比べて駐車(駐輪)する場所にも困らない。筋力が弱い人には電動アシストつき自転車もある。身体機能がもっと低下した人なら、四輪の電動アシスト自転車やノヽンドバイクであれば難なく乗ることができる。四輪や三輪のものは安定感かおり、低速走行であってもバランスを維持できる。ただ、折りたたんで持ち込むほどの軽量のものは未だ開発されていない。
このように〈小さい交通〉は徒歩より速く、遠くまで移動できる。それは、公共交通の駅までの移動や、自動車免許や自動車を持だない人の移動や、歩くには遠い用先への移動に便利である。それは、公共交通網を補い、公共交通の活用を促し、経営の健全化につながる。それは自分でできることは自分でしたい人のための移動手段である。しかも体を適度に動かすので、身体を活性化する。ジムに行かなくても健康になれる。〈小さい交通〉は、これまでの徒歩、公共交通、自家用車に続き、かつまったくタイプが異なる第4の交通である。〈大きい交通〉と歩行のあいだに、きめ細かに対応するく小さい交通〉を挟まないと、社会的分断と格差が広がる。
〈小さい交通〉の効果を、新潟県長岡市を事例にして試算してみよう。長岡市は、市街地かおる程度コンパクトにまとまっているが、典型的な自動車依存の地方都市である。人口分布と生鮮食料品店の関係を見ると、店舗から250~500mの距離帯に住む人口が最も多く、ついで250~ァ50mの距離帯に住む人口が続き、生鮮食料品店から半径1km以内に人口の半分以上が居住している。多くの人にとっては気軽に歩いて行ける距離に生鮮食料品店があるわけでもない。もし、各家庭に使いやすい小さい乗り物があれば、買物難民人口(生鮮食料品店から500m以上離れた場所に居住する人口)のうち、およそ半数が生鮮食料品店へ日常的にアクセスすることが可能になる。
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