『ピザの歴史』より
ピザハットは、フランクとダンのカーニー兄弟が1958年に創業した。彼らのビジネスは大成功し、10年後には310店舗にまで増えていた。この店では中西部と南部で人気の、薄いクラストにスパイシーソースのピザを売っていたが、店舗が拡大するにつれ、もちっとした生地を好む北東部の客の好みにも応えなければならなくなった。ピザの種類の多さとファミリー向けの雰囲気、そして、あまり大きくない町に戦略的にレストランを開店していったことが、ピザハットの成功の秘密だった。
ピザハットは赤い屋根をつけたキノコのようにあちこちに増え(1973年に店舗の大きさとして10×20メートルの基準が採用された)、1977年にはアメリカ国内と海外を合わせ3400店舗に拡大した(海外進出の開始は1968年)。この年、フランク・カーニーはピザハットをペプシコ[ペプシコーラで知られる大手食品・飲料会社]に3億ドルで売却したが(兄のダンは1973年にピザハットの事業を離れていた)、それ以降もレストランの開店は続いた。
そして1980年代になると、国内外の市場の支配を確実にするため、さらに多くの店舗を開店し、できるだけ多くの土地にピザを届けようという野心的なキャンペーンに乗りだした。この拡大で、ピザハットは家族向けレストランの割合を減らし、フードコー卜の「ピザハット・エクスプレス」、空港の「ピザハット・キオスク」、また、カフェテリアや病院への出店を増やすことになった。ピザハット、タコベル、ケンタッキーフライドチキン(KFC)が二緒になったレストランを開店したところもある。
この再編計画には、デリバリーピザの最大手であるドミノ・ピザに対抗しようという果敢な試みも含まれた。たとえば、アメリカの主要都市に代表電話番号を登録し、客が電話をかけると自動的に最寄りの店舗にまわされるようにした。また、注文をコンピュータファイルにデータとして残し、将来の参考にできるようにした。そして、何度も繰り返されるいたずら電話を従業貝がチェックできるようにした。もちろん、こうしたきめ細かい戦略は功を奏して、ピザハットのピザを買う消費者の数は増えていった。
1980年代には、世界的知名度を上げるためのキャンペーンにも打って出た。冷戦の末期から、ピザハットは熱心に社会主義国に働きかけていた。1988年にはその努力が実り、中国に進出した最初のピザ・チェーンとして、中国人向けのレストランを北京に開店する(それまで中国でピザを買えるのは外国人旅行者だけだった)。
同じ年にはソ連への進出も模索し、1990年にモスクワに1号店を開店している。これはピザの提供だけでなく、レストラン事業としての展開も意図したものだ。ロシア人は塩気の強い食べ物を好むので、トッピングする食材にはサーモンやイワシも加えた。宣伝にミハイル・ゴルバチョフ[旧ソ連の初代にして最後の大統領]を起用するなどマーケティングに力を入れたものの、ピザハットは旧ソ連ではあまり成功できなかった。それでも、ピザハット・ポーランドが最近になってロシアのフランチャイズを買い取り、野心的な拡大計画を練っている。
ピザハットが征服に失敗したもうひとつの国がイタリアだった。1990年代初めにパルマにフランチャイズ店を開こうとしたが、失敗に終わる。しかし、ロシアとイタリアは、ほんのふたつの例外にすぎない。
現在、ピザハットはアメリカに8000店、世界90か国に4000店と、圧倒的な店舗数を誇る。その世界的な拡大の成功に続き、今度は宇宙へのデリバリーでも食品業界のリーダーになると誓った。1999年にはその言葉どおり「宇宙の商業化」のパイオニアとなり、長さ60メートルほどの胴体にピザハットのロゴが描かれた「プロトン」ロケットが、2000年に打ち上げられた。2001年には、ロシアの食品科学者と協力して、国際宇宙ステーションに初めてのピザを送り届けている。
1997年、ペプシコはピザハットを含むレストラン部門を分離させ、トリコン・グローバル・レストランという独立した企業として上場した。トリコンは2002年にヨークシャー・グローバル・レストランを買収し、ヤム!ブランズに社名を変更する(ヤム!は夕コベルとKFCほかのレストランも所有する)。これによって世界に3万4000店を展開する巨大なレストラン企業の一部となったピザハットは、50年で世界最大のピザ帝国を築いた。
その成功へのレシピには、製品の製造・流通の厳しい管理も含まれる。1970年代から、ピザハットは個人経営のフランチャイズ店よりも大きなチェーンを取り込む路線を選び、個人のフランチャイズ店を買い戻して統合を進め、少数の事業ユニットにまとめていった。ピザハット自らが所有するのはそのうち約半数のレストランだ。
適応能力の高さも、ピザハットが成功した理由のひとつだった。アメリカ国内でイタリア系のビジネスが強い地域に進出するときには、消費者がすでにピザとして理解しているものから離れすぎないように新しいクラストやソースのレシピを考案した。そして、競争相手をつぶすことまではできなかったものの(北東部には多くの小さなピッツェリアが今も存続している。イタリア風、ギリシア風のピザが変わらず好まれているからだ)、一部の地域ではシェアを拡大することに成功した。たとえば、イタリア系移民の多いニュージャージー州では全国平均の2倍の量を売り上げている。
アメリカ国内では地域ごとに適応を続け、生地のタイプや形を変えるだけでなぐ、新しい世代の消費者にアピールしようと方向転換を図っている。いわゆる「エコ・ブーマー」(ベビーブーム世代の子供たち)はたっぷりチーズがのったピザを好み、生地にもチーズが入ったものを喜ぶ。そこでピザハットが考えたのが、生地の耳部分にチーズを詰めたチーズクラストだった。クラストをちぎって食べれば、一口サイズのチーズスナックにもなるものだ。
ピザハットは世界においても、進出した先々の国の食文化に合わせてさまざまな商品を作りだした。ウェブサイトを見ると、1996年に開店したインドの店舗では、インド風のピザを提供している。ベジタリアン向けと一般向けにメニューを分け、定番のペパロニとエクストラチーズに加え、マトン・シーク・ケバブ、コリアンダー、パニール(近東地域で作られるチーズ)をトッピングしたピザもある。インドはピザハットが大成功を収めた国ではないが、メニューの豊富さを見ると、新しい客にアピールしようというピザハットの熱意だけでなく、インド人の好みに合わせようとした結果、ピザのレパートリーの思わぬ拡大につながったことがわかる。
ポーランドでは、地元の味覚と世界の味覚の両方を取りそろえて客を集めようとしている。メニューにはマルゲリータ、ペパロニ・ピザ、ハワイアンピザのような定番もあるが、主役はもっと世界を意識しためずらしいピザだ。マラケシュ、ベルリン、オスロ、ドバイ、バルセロナなど世界の都市の名前をつけたピザで、食の世界ツアーを提供している(「バルセロナ」はピザの上にパエリヤをのせたもので、トマト、豆、米、エビを使う)。その一方で、ポーランドの都市の名前をつけたピザは、冒険は避けたいと考える客のためになじみのあるトッピングを使っている(「クラクフ」はキルバサ[ポーランドのにんにく入り煉製ソーセージ]と、キャベツの酢漬けをのせている)。
また、通常のピザハットはアルコール類を出さないのだが(ファミリー向けのレストランだから、あるいは宗教的な理由から)、ポーランドの店舗ではワイン、ビール、カクテルも出しているので、ピザと一緒にテキーラ・サンライズかジントニックでも飲みたいという客には喜ばれる。
ピザハットのようなチェーン・レストランがその土地のトレンドを取り入れているのか、あるいは新しい習慣をつくり出しているのかは議論が分かれるところだが、チェーン店が提供する規格化されているはずのピザは、実際にはありきたりでもなければ、心がこもっていないわけでもない。ピザハットの国外店舗は、驚くほどクリエイティブで斬新な発想のピザを世界に紹介している。
ピザハットは、フランクとダンのカーニー兄弟が1958年に創業した。彼らのビジネスは大成功し、10年後には310店舗にまで増えていた。この店では中西部と南部で人気の、薄いクラストにスパイシーソースのピザを売っていたが、店舗が拡大するにつれ、もちっとした生地を好む北東部の客の好みにも応えなければならなくなった。ピザの種類の多さとファミリー向けの雰囲気、そして、あまり大きくない町に戦略的にレストランを開店していったことが、ピザハットの成功の秘密だった。
ピザハットは赤い屋根をつけたキノコのようにあちこちに増え(1973年に店舗の大きさとして10×20メートルの基準が採用された)、1977年にはアメリカ国内と海外を合わせ3400店舗に拡大した(海外進出の開始は1968年)。この年、フランク・カーニーはピザハットをペプシコ[ペプシコーラで知られる大手食品・飲料会社]に3億ドルで売却したが(兄のダンは1973年にピザハットの事業を離れていた)、それ以降もレストランの開店は続いた。
そして1980年代になると、国内外の市場の支配を確実にするため、さらに多くの店舗を開店し、できるだけ多くの土地にピザを届けようという野心的なキャンペーンに乗りだした。この拡大で、ピザハットは家族向けレストランの割合を減らし、フードコー卜の「ピザハット・エクスプレス」、空港の「ピザハット・キオスク」、また、カフェテリアや病院への出店を増やすことになった。ピザハット、タコベル、ケンタッキーフライドチキン(KFC)が二緒になったレストランを開店したところもある。
この再編計画には、デリバリーピザの最大手であるドミノ・ピザに対抗しようという果敢な試みも含まれた。たとえば、アメリカの主要都市に代表電話番号を登録し、客が電話をかけると自動的に最寄りの店舗にまわされるようにした。また、注文をコンピュータファイルにデータとして残し、将来の参考にできるようにした。そして、何度も繰り返されるいたずら電話を従業貝がチェックできるようにした。もちろん、こうしたきめ細かい戦略は功を奏して、ピザハットのピザを買う消費者の数は増えていった。
1980年代には、世界的知名度を上げるためのキャンペーンにも打って出た。冷戦の末期から、ピザハットは熱心に社会主義国に働きかけていた。1988年にはその努力が実り、中国に進出した最初のピザ・チェーンとして、中国人向けのレストランを北京に開店する(それまで中国でピザを買えるのは外国人旅行者だけだった)。
同じ年にはソ連への進出も模索し、1990年にモスクワに1号店を開店している。これはピザの提供だけでなく、レストラン事業としての展開も意図したものだ。ロシア人は塩気の強い食べ物を好むので、トッピングする食材にはサーモンやイワシも加えた。宣伝にミハイル・ゴルバチョフ[旧ソ連の初代にして最後の大統領]を起用するなどマーケティングに力を入れたものの、ピザハットは旧ソ連ではあまり成功できなかった。それでも、ピザハット・ポーランドが最近になってロシアのフランチャイズを買い取り、野心的な拡大計画を練っている。
ピザハットが征服に失敗したもうひとつの国がイタリアだった。1990年代初めにパルマにフランチャイズ店を開こうとしたが、失敗に終わる。しかし、ロシアとイタリアは、ほんのふたつの例外にすぎない。
現在、ピザハットはアメリカに8000店、世界90か国に4000店と、圧倒的な店舗数を誇る。その世界的な拡大の成功に続き、今度は宇宙へのデリバリーでも食品業界のリーダーになると誓った。1999年にはその言葉どおり「宇宙の商業化」のパイオニアとなり、長さ60メートルほどの胴体にピザハットのロゴが描かれた「プロトン」ロケットが、2000年に打ち上げられた。2001年には、ロシアの食品科学者と協力して、国際宇宙ステーションに初めてのピザを送り届けている。
1997年、ペプシコはピザハットを含むレストラン部門を分離させ、トリコン・グローバル・レストランという独立した企業として上場した。トリコンは2002年にヨークシャー・グローバル・レストランを買収し、ヤム!ブランズに社名を変更する(ヤム!は夕コベルとKFCほかのレストランも所有する)。これによって世界に3万4000店を展開する巨大なレストラン企業の一部となったピザハットは、50年で世界最大のピザ帝国を築いた。
その成功へのレシピには、製品の製造・流通の厳しい管理も含まれる。1970年代から、ピザハットは個人経営のフランチャイズ店よりも大きなチェーンを取り込む路線を選び、個人のフランチャイズ店を買い戻して統合を進め、少数の事業ユニットにまとめていった。ピザハット自らが所有するのはそのうち約半数のレストランだ。
適応能力の高さも、ピザハットが成功した理由のひとつだった。アメリカ国内でイタリア系のビジネスが強い地域に進出するときには、消費者がすでにピザとして理解しているものから離れすぎないように新しいクラストやソースのレシピを考案した。そして、競争相手をつぶすことまではできなかったものの(北東部には多くの小さなピッツェリアが今も存続している。イタリア風、ギリシア風のピザが変わらず好まれているからだ)、一部の地域ではシェアを拡大することに成功した。たとえば、イタリア系移民の多いニュージャージー州では全国平均の2倍の量を売り上げている。
アメリカ国内では地域ごとに適応を続け、生地のタイプや形を変えるだけでなぐ、新しい世代の消費者にアピールしようと方向転換を図っている。いわゆる「エコ・ブーマー」(ベビーブーム世代の子供たち)はたっぷりチーズがのったピザを好み、生地にもチーズが入ったものを喜ぶ。そこでピザハットが考えたのが、生地の耳部分にチーズを詰めたチーズクラストだった。クラストをちぎって食べれば、一口サイズのチーズスナックにもなるものだ。
ピザハットは世界においても、進出した先々の国の食文化に合わせてさまざまな商品を作りだした。ウェブサイトを見ると、1996年に開店したインドの店舗では、インド風のピザを提供している。ベジタリアン向けと一般向けにメニューを分け、定番のペパロニとエクストラチーズに加え、マトン・シーク・ケバブ、コリアンダー、パニール(近東地域で作られるチーズ)をトッピングしたピザもある。インドはピザハットが大成功を収めた国ではないが、メニューの豊富さを見ると、新しい客にアピールしようというピザハットの熱意だけでなく、インド人の好みに合わせようとした結果、ピザのレパートリーの思わぬ拡大につながったことがわかる。
ポーランドでは、地元の味覚と世界の味覚の両方を取りそろえて客を集めようとしている。メニューにはマルゲリータ、ペパロニ・ピザ、ハワイアンピザのような定番もあるが、主役はもっと世界を意識しためずらしいピザだ。マラケシュ、ベルリン、オスロ、ドバイ、バルセロナなど世界の都市の名前をつけたピザで、食の世界ツアーを提供している(「バルセロナ」はピザの上にパエリヤをのせたもので、トマト、豆、米、エビを使う)。その一方で、ポーランドの都市の名前をつけたピザは、冒険は避けたいと考える客のためになじみのあるトッピングを使っている(「クラクフ」はキルバサ[ポーランドのにんにく入り煉製ソーセージ]と、キャベツの酢漬けをのせている)。
また、通常のピザハットはアルコール類を出さないのだが(ファミリー向けのレストランだから、あるいは宗教的な理由から)、ポーランドの店舗ではワイン、ビール、カクテルも出しているので、ピザと一緒にテキーラ・サンライズかジントニックでも飲みたいという客には喜ばれる。
ピザハットのようなチェーン・レストランがその土地のトレンドを取り入れているのか、あるいは新しい習慣をつくり出しているのかは議論が分かれるところだが、チェーン店が提供する規格化されているはずのピザは、実際にはありきたりでもなければ、心がこもっていないわけでもない。ピザハットの国外店舗は、驚くほどクリエイティブで斬新な発想のピザを世界に紹介している。