未唯への手紙

未唯への手紙

ピザの歴史 ピザハット

2015年09月05日 | 4.歴史
『ピザの歴史』より

ピザハットは、フランクとダンのカーニー兄弟が1958年に創業した。彼らのビジネスは大成功し、10年後には310店舗にまで増えていた。この店では中西部と南部で人気の、薄いクラストにスパイシーソースのピザを売っていたが、店舗が拡大するにつれ、もちっとした生地を好む北東部の客の好みにも応えなければならなくなった。ピザの種類の多さとファミリー向けの雰囲気、そして、あまり大きくない町に戦略的にレストランを開店していったことが、ピザハットの成功の秘密だった。

ピザハットは赤い屋根をつけたキノコのようにあちこちに増え(1973年に店舗の大きさとして10×20メートルの基準が採用された)、1977年にはアメリカ国内と海外を合わせ3400店舗に拡大した(海外進出の開始は1968年)。この年、フランク・カーニーはピザハットをペプシコ[ペプシコーラで知られる大手食品・飲料会社]に3億ドルで売却したが(兄のダンは1973年にピザハットの事業を離れていた)、それ以降もレストランの開店は続いた。

そして1980年代になると、国内外の市場の支配を確実にするため、さらに多くの店舗を開店し、できるだけ多くの土地にピザを届けようという野心的なキャンペーンに乗りだした。この拡大で、ピザハットは家族向けレストランの割合を減らし、フードコー卜の「ピザハット・エクスプレス」、空港の「ピザハット・キオスク」、また、カフェテリアや病院への出店を増やすことになった。ピザハット、タコベル、ケンタッキーフライドチキン(KFC)が二緒になったレストランを開店したところもある。

この再編計画には、デリバリーピザの最大手であるドミノ・ピザに対抗しようという果敢な試みも含まれた。たとえば、アメリカの主要都市に代表電話番号を登録し、客が電話をかけると自動的に最寄りの店舗にまわされるようにした。また、注文をコンピュータファイルにデータとして残し、将来の参考にできるようにした。そして、何度も繰り返されるいたずら電話を従業貝がチェックできるようにした。もちろん、こうしたきめ細かい戦略は功を奏して、ピザハットのピザを買う消費者の数は増えていった。

1980年代には、世界的知名度を上げるためのキャンペーンにも打って出た。冷戦の末期から、ピザハットは熱心に社会主義国に働きかけていた。1988年にはその努力が実り、中国に進出した最初のピザ・チェーンとして、中国人向けのレストランを北京に開店する(それまで中国でピザを買えるのは外国人旅行者だけだった)。

同じ年にはソ連への進出も模索し、1990年にモスクワに1号店を開店している。これはピザの提供だけでなく、レストラン事業としての展開も意図したものだ。ロシア人は塩気の強い食べ物を好むので、トッピングする食材にはサーモンやイワシも加えた。宣伝にミハイル・ゴルバチョフ[旧ソ連の初代にして最後の大統領]を起用するなどマーケティングに力を入れたものの、ピザハットは旧ソ連ではあまり成功できなかった。それでも、ピザハット・ポーランドが最近になってロシアのフランチャイズを買い取り、野心的な拡大計画を練っている。

ピザハットが征服に失敗したもうひとつの国がイタリアだった。1990年代初めにパルマにフランチャイズ店を開こうとしたが、失敗に終わる。しかし、ロシアとイタリアは、ほんのふたつの例外にすぎない。

現在、ピザハットはアメリカに8000店、世界90か国に4000店と、圧倒的な店舗数を誇る。その世界的な拡大の成功に続き、今度は宇宙へのデリバリーでも食品業界のリーダーになると誓った。1999年にはその言葉どおり「宇宙の商業化」のパイオニアとなり、長さ60メートルほどの胴体にピザハットのロゴが描かれた「プロトン」ロケットが、2000年に打ち上げられた。2001年には、ロシアの食品科学者と協力して、国際宇宙ステーションに初めてのピザを送り届けている。

1997年、ペプシコはピザハットを含むレストラン部門を分離させ、トリコン・グローバル・レストランという独立した企業として上場した。トリコンは2002年にヨークシャー・グローバル・レストランを買収し、ヤム!ブランズに社名を変更する(ヤム!は夕コベルとKFCほかのレストランも所有する)。これによって世界に3万4000店を展開する巨大なレストラン企業の一部となったピザハットは、50年で世界最大のピザ帝国を築いた。

その成功へのレシピには、製品の製造・流通の厳しい管理も含まれる。1970年代から、ピザハットは個人経営のフランチャイズ店よりも大きなチェーンを取り込む路線を選び、個人のフランチャイズ店を買い戻して統合を進め、少数の事業ユニットにまとめていった。ピザハット自らが所有するのはそのうち約半数のレストランだ。

適応能力の高さも、ピザハットが成功した理由のひとつだった。アメリカ国内でイタリア系のビジネスが強い地域に進出するときには、消費者がすでにピザとして理解しているものから離れすぎないように新しいクラストやソースのレシピを考案した。そして、競争相手をつぶすことまではできなかったものの(北東部には多くの小さなピッツェリアが今も存続している。イタリア風、ギリシア風のピザが変わらず好まれているからだ)、一部の地域ではシェアを拡大することに成功した。たとえば、イタリア系移民の多いニュージャージー州では全国平均の2倍の量を売り上げている。

アメリカ国内では地域ごとに適応を続け、生地のタイプや形を変えるだけでなぐ、新しい世代の消費者にアピールしようと方向転換を図っている。いわゆる「エコ・ブーマー」(ベビーブーム世代の子供たち)はたっぷりチーズがのったピザを好み、生地にもチーズが入ったものを喜ぶ。そこでピザハットが考えたのが、生地の耳部分にチーズを詰めたチーズクラストだった。クラストをちぎって食べれば、一口サイズのチーズスナックにもなるものだ。

ピザハットは世界においても、進出した先々の国の食文化に合わせてさまざまな商品を作りだした。ウェブサイトを見ると、1996年に開店したインドの店舗では、インド風のピザを提供している。ベジタリアン向けと一般向けにメニューを分け、定番のペパロニとエクストラチーズに加え、マトン・シーク・ケバブ、コリアンダー、パニール(近東地域で作られるチーズ)をトッピングしたピザもある。インドはピザハットが大成功を収めた国ではないが、メニューの豊富さを見ると、新しい客にアピールしようというピザハットの熱意だけでなく、インド人の好みに合わせようとした結果、ピザのレパートリーの思わぬ拡大につながったことがわかる。

ポーランドでは、地元の味覚と世界の味覚の両方を取りそろえて客を集めようとしている。メニューにはマルゲリータ、ペパロニ・ピザ、ハワイアンピザのような定番もあるが、主役はもっと世界を意識しためずらしいピザだ。マラケシュ、ベルリン、オスロ、ドバイ、バルセロナなど世界の都市の名前をつけたピザで、食の世界ツアーを提供している(「バルセロナ」はピザの上にパエリヤをのせたもので、トマト、豆、米、エビを使う)。その一方で、ポーランドの都市の名前をつけたピザは、冒険は避けたいと考える客のためになじみのあるトッピングを使っている(「クラクフ」はキルバサ[ポーランドのにんにく入り煉製ソーセージ]と、キャベツの酢漬けをのせている)。

また、通常のピザハットはアルコール類を出さないのだが(ファミリー向けのレストランだから、あるいは宗教的な理由から)、ポーランドの店舗ではワイン、ビール、カクテルも出しているので、ピザと一緒にテキーラ・サンライズかジントニックでも飲みたいという客には喜ばれる。

ピザハットのようなチェーン・レストランがその土地のトレンドを取り入れているのか、あるいは新しい習慣をつくり出しているのかは議論が分かれるところだが、チェーン店が提供する規格化されているはずのピザは、実際にはありきたりでもなければ、心がこもっていないわけでもない。ピザハットの国外店舗は、驚くほどクリエイティブで斬新な発想のピザを世界に紹介している。

日本人の二十世紀 為政者は手の内を明かさない

2015年09月05日 | 4.歴史
『「文藝春秋」で読む戦後70年』より 日本人の二十世紀 司馬遼太郎

この戦争を境にして、日本人は十九世紀後半に自家製で身につけたリアリズムを失ってしまったのではないかという気がしないでもありません。日本海海戦でロシアの旗艦「スワロフ」が燃え上がって舵をこわし、ぐるぐると回り始めたときに、戦争のすべてがおわるのですが、しかしそこから国民の思考が地に着かない、つまり時代はそこから悪くなっていったように思います。その後の、あるいはいまの日本の諸問題に連なっていくことだと思うのです。

アメリカのポーツマスで小村寿太郎とロシアのウィッテとが日露の和平交渉をするものの、双方条件が合わない。ロシアは譲らない。樺太をよこせ、賠償金を出せと日本側は言う。再びロシア側は、そんなものは必要ない、もう一ペんやるならやるぞ、いくらでも陸軍の力はあるぞと。結局ルーズヴェルトの仲裁で、食卓の上にシャケの一匹でものせたらどうだ--シャケは樺太のことですが--その程度の条件で折り合った。

ところが戦勝の報道によって国民の頭がおかしくなっていました。賠償金を取らなかったではないかと反発して、日比谷公会堂に集り国民大会を開き、交番を焼き打ちしたりする。当時、徳富蘇峰が社長をしていた国民新聞も焼き打ちに遭う。蘇峰は政府の内部事情に詳しく、〝戦争を終わらせることで精いっぱいなんだ〟ということをよく知っていましたから、国民新聞の論調は小村の講和会議に賛成にまわり、結果、社屋を焼き打ちされた。

日比谷公会堂は可燃性の高いナショナリズムで燃え上がっていました。〝国民〟の名を冠した大会は、〝人民〟や〝国民〟をぬけぬけと代表することじたい、いかにいかがわしいものかを教えています。

ここから日本は曲がっていきます。要するに、この大会はカネを取れという趣旨であって、「政府は弱腰だ」「もっと賠償金を取れ」と叫ぶ。しかし、もっと取れと言っても、国家対国家が軍事的に衝突しているというリアリズムがあります。いまかろうじて勝ちの形勢ではあっても、もう一力月続いたら、満洲における日本軍は大敗していたでしょう。

ロシア側は奉天敗戦後、引き下がって陣を建て直し、訓練を受けて輸送されてくる兵員を待ち、弾薬を充実させています。そのときに平野に展開した日本軍はほとんど撃つ砲弾がなくなっている。訓練された正規将校は極めて少なくなり、いきのいい現役兵は極端に減っていました。

--国民は、正確な情報をもっていなかったんですね。

日本国の通弊というのは、為政者が手の内--とくに弱点--を国民に明かす修辞というか、さらにいえば勇気に乏しいことですね。この傾向は、ずっとつづきます。日露戦争の終末期にも、日本は紙一重で負ける、という手の内は、政府は明かしませんでした。明かせばロシアを利する、と考えたのでしょう。

戦争のことを好んで話しているのではありません。日本の二十世紀が戦争で開幕したことと、戦争がその国のわずかな長所と大きな短所をレントゲン写真のように映し出してくれるからです。

たとえば第一次大戦で、陸軍の輸送戦車などの兵器、また軍艦が石油で動くようになりました。石油を他から輸入するしかない大正時代の日本は、正直に手の内を明かして、列強なみの陸海軍はもてない、他から侵入をうけた場合のみの戦力にきりかえる。そう言うべきなのに、おくびにも漏らさず、昭和になって、軍備上の根底的な弱点を押しかくして、かえって軍部を中心にファナティシズムをはびこらせました。不正直というのは、国をほろぼすほどの力があるのですな。

--日露戦争はなぜ起こったのでしょう。

なぜ起こったのかは教科書に任せるとして、基本的には朝鮮半島問題をめぐる国際紛争でした。

朝鮮半島は、当時の国防論では地理的な形態として日本の脇腹に突きつけられた刃だと思っていた。その朝鮮に対し、既に洋務運動に目覚め近代化しつつある清国が、宗主国としていろいろ介入し始めた。日本はこれが怖かった。そして日清戦争を起こす。日本の勝利で、清朝は一応朝鮮から手を引いた。そこへ、真空地帯に空気が入ってくるようにしてロシアが入ってくる。ロシアは、まるで新天地を見出したかの如き振る舞いで、それがやはり日本にとって恐怖でした。結局ロシアを追っ払うためにいろいろなプロセスをへたあと戦争になってした。

いまから思えば、その後の日本の近代は、朝鮮半島を意識し過ぎたがために、基本的な過ちを犯していくことになります。この二十世紀初頭に、朝鮮半島などうち捨てておけばよかったという意見もあり得ます。海軍力さえ充実しておけば、朝鮮半島がロシアになったところで、そんなにおそろしい刃ではなかったかもしれない。しかし、当時の人間の地政学的感覚は、いまでは想像できないのですが、もう怖くて怖くてしようがなかった。ここを思いやってやらないと明治というのは分かりにくい。

たとえば日露戦争をしないという選択肢もあり得たと思います。しかし、ではロシアがずるずると朝鮮半島に進出し、日本の眼の前まで来て、ついに日本に及んでもなお我慢ができるものなのか。もし我慢すれば国民的元気というものがなくなるのではないか。これがなくなると、国家は消滅してしまうのではないか--いまなら消滅してもいいという考え方があり得るでしょうが--当時は国民国家を持って三十余年経ったばかりなのです。新品の国民だけに、自分と国家のかかわり以外に自分を考えにくかった。だから明治の状況では、日露戦争は祖国防衛戦争だったといえるで

欧露から回航されてくるロシア艦隊を、伊藤正徳さんの表現を借りると、パーフェクト・ゲームでもって残らず沈めねば戦争そのものを失うのです。数艦でも生き残ると、当時ロシアの租借地だった旅順やウラジオストックに逃げ込まれ、通商破壊に出てこられる。となると、大陸に派遣している陸軍が干し上げられてた。

さきに世界史的に、海軍に戦術なし、といいましたが、アメリカのニューポートの海軍大学校で海軍戦史を講義していたアルフレッド・T・マハンという退役大佐が、海軍戦略・戦術を考えていたことは、よく知られていました。眞之が大尉時代にワシントン公使館に駐在したとき、マハンを二度たずねています。眞之が望んでいたものが得られたとは思えません。

右は十九世紀末で、二十世紀になってから眞之は瀬戸内海の能島水軍の古い兵術書を読みます。小笠原という旧大名の蔵にあった古書だといいます。

「ずいぶん古い本を読んでいるな」

と、友人にからかわれました。当時は読書といえば洋書の時代だったことを思うべきでしょう。眞之は、「白砂糖は黒砂糖からつくられるのだ」といったといいます。

ヤーノシュ・ボーヤイの空間論

2015年09月05日 | 2.数学
『世界の記憶遺産60』より

ヤーノシュ・ボーヤイ(1802~1860年)は、ハンガリーのトランシルヴァニア(現ルーマニア領)出身の数学者です。彼が著した「空間論」は、父親の数学者ファルカシュ・ボーヤイ(1775~1856年)が1832~1833年にかけて出版した「試論」の中の補遺として収録されています。

ヤーノシュ・ボーヤイは、数学者にして詩人だった父親の影響を受け、幼い頃より数学に興味を抱いていました。オーストリアの工兵学校へ進み数学を学び、工兵としてトランシルヴァニア地方の要塞本部に配属されましたが、数学への情熱は消えることはありませんでした。彼が取り組んだのは、2000年以上も解明されなかった平行線の公理に関しての課題でした。ユークリッド幾何学における平行線の公準は、「任意の直線上にない一点を通る平行な直線はただ1本しか存在しない」とするものです。これに対し、ボーヤイはそれを否定する幾何学について研究を進めました。つまり、平行な直線はただ1本ではなく、複数存在するのではないかという発想です。ユークリッド幾何学は平面の幾何学であるのに対し、曲面上での幾何学を論じ、「空間論」を発表したのです。

彼の発想は、父親へ宛てた手紙の中で記されました。当時、この研究については、ほかの研究者によっても論じられており、ボーヤイの論文は発表を急いで父親の書物の中の補遺として収録されました。

「空間論」は、「ヤーノシュ・ボーヤイの双曲幾何学」と呼ばれる非ユークリッド幾何学の発見の概要を表すものです。彼が創始した非ユークリッド幾何学は、幾何学だけではなく、それまでの数学についての考え方を変えると共に、20世紀の近代物理学の諸理論を創造する道をも開きました。こうしたヤーノシュ・ボーヤイの功績を称えて、ハンガリー科学アカデミーは、5年にI度、過去10年間に出版された中で最も優れた数学のモノグラフの著者に対して、ボーヤイ・ヤーノシュ国際数学賞(ボーヤイ賞)を授与しています。

この「空間論」は、数学史や人文科学史において、世界的に貴重な記録であることから、2009年に世界記憶遺産に登録されました。現在は、ブダペストのハンガリー科学アカデミーの図書館に所蔵されています。

高度サービス化

2015年09月05日 | 5.その他
ブタペスト東駅状態

 7時のスタバはブタペスト東駅状態。こんなところで、男5人でミーティングするなよ。

ハイアラキーから配置へ

 あまりにも、ハイアラキーに浸りきっている。配置の概念に切り替えないといけない。

スペアリブが食べたい

 サイゼリアのスペアリブのようなものは終了していた。面白かったのに。ベルギーのブリューゲンの広場のオープンテラスで食べたスペアリブはデカかった。忘れられない。奥さんも一緒に食べていた風景と共に。

高度サービス化

 ドイツの弱みはサービスです。この分野では日本は圧勝できます。その点では日本は内向きです。国内の為に、サービスを求めている。シュルツのスタバが目指したものが日本に在りました。アメリカのスタバの再生のきっかけになりました。

 高度サービスをスタバのような形で、海外に持って行くことです。新しい日本の文化の攻撃力です。モノつくりよりもはるかに難しくて、はるかに可能性を持っています。

8.4「ツール」

 8.4「ソーシャル」としていますが、これを「ツール」とします。それらは店舗のツールとして、押し出します。

内から外への押し出し

 店舗が内です。外としての地域。これは店舗だけでなく、交流館とか図書館も内の世界から地域へ押し出します。色々なコミュニティから押し出すことで作り上げていく世界。配置の世界。

 だから、縦方向につながります。たとえば、ライブラリも店舗のライブラリと地域のライブラリがつながり、その時にコミュニティのライブラリで統合していきます。それが力になるためには、下から支えることです。

ライブラリの配置

 図書館コミュニティは前衛になります。図書館のライブラリは本来のライブラリがバックボーンになります。ソーシャルもそこにあります。マーケティングはそれらをつなげます。

 本を借りることは、図書館だけでなく、交流館でも販売店でも花屋でもできます。それらを物流を含めて一元化していくこと、効率化していくことをマーケティングで行います。それが地域のインフラの成ります。

生まれてきて、意識を感じた時

 意識ができた時に感じたことは何かというと、何と中途半端な時に生まれてきたのか。戦争が終わって、色々なモノが勝手にきめられていた。そして、何と中途半端な国なんだ。

 だから、今回の戦争法案に対しても、日本という国に対して、特定な興味がない。自分の内に対して、宇宙があって、その間に色々な中間があるうちの一つが日本という国だけです。感覚的には。

ギリシャはサービスされることに慣れている

 ギリシャはサービスに向いていない。ずっと、サービスされる方できた。道路工事というのは、ギリシャ人でない他の人種がやることと未だにそう思っている。ドイツの場合は、ゲッティンゲンで道路工事を自分たちで行っていたから、まだ、ましなんでしょう。

スタバは日本的サービスで立ち直った

 スターバックスは日本のサービスを取り入れることで、リーマンショックから立ち直った。それを示したのは、戻ってきたシュルツ会長です。

 マクドナルドも同じようにすればいいんです。そのために、握手会ぐらいを開けるかどうかがポイントでしょう。そこまで、smaile=0を徹底できるかどうか。その時点では、スタッフがマクドナルドと一体化できるかどうか。