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AmazonのEchoで問いを発する「ソクラテス」

メディアは進化していない

 6月になれば ワールドカップ一色になる。「日大」は忘れられる。メディアは今のネタがあれば、食っていける。今は暗いから、次は明るくするというシナリオでしょう。何のためにメディアを作ったのか。

未唯の結婚式がなくて良かった

 FBに泣きそうもない父親が、結婚式で泣いたという。やはり未唯の結婚式がなくて良かった。あまりにもシュール。

 泣くのはやはり映画館。この間のライブビューイングでは思いっきり泣けた。あの空間なら泣ける。それにしても、乃木坂で泣くことは多すぎる。

今日はいくちゃんのモーツァルトのデビュー日。21歳で モーツァルトの悪妻の役。どこまでできるか。将来から見てるいくちゃんだから、可能なこと。

パートナーからの電話

 1年ぶりにメール&電話。出だしからまるで変わってなかった。販売店を見ていないメーカーは駄目ですね。社長は方向を間違っている。自工程完結では、新しい社会を作ることはできない。そういった悔しさみたいなものがメーカーに伝わっていない。

 電話の中で珍しく、いくちゃんの「Great Comet」の話をしていた。これだけが今の楽しみ。

AmazonのEchoで問いを発する「ソクラテス」

 ソクラテスは書き留めることが嫌いだった。書いてある言葉は 問いに答えることができない。そのことはAmazonのEchoで 解決できた。Echoは新しい本の形態になる。バックには巨大なデータベースが存在する。

 問いによって、個人の存在の力を現実なものにしていく。そうすれば、社会は変わる。

 販売店のシステムの進化を考えるとしたら、データベースを代弁するEcho。提供することになる。これこそが進化の形態です。

 「ソクラテス」という名前のEcho。問いを発して、その答えに対して、深く考えて行くためのシステム。ソクラテスの教育の在り方そのもの。知らないことを知るためのシステム。
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言葉に惑わされる ヴィトゲンシュタイン

『若い読者のための哲学史』より

1940年にケンブリッジでルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)が行った講義のどれかに参加すれば、目の前に立つのが並外れた人物であるのがすぐにわかっただろう。ヴィトゲンシュタインに会った人のほとんどは、彼を天才だと思った。バートランド・ラッセルはヴィトゲンシュタインを「激しやすく、深みがあり、強烈で、威圧的」と評した。ウィーン出身の小柄なヴィトゲンシュタインは鮮やかな青い目をもち、底知れない真剣さをまとい、行ったり来たりしながら学生に質問をしたかと思えば、立ち止まって何分間もじっと考え込んだ。誰もそれをさえぎろうとしなかった。ヴィトゲンシュタインは事前にメモを準備して講義をするのではなく、学生の前で問題について考え、一連の例を用いて何か重要なのかを引き出そうとした。学生には、哲学書を読んで時間を無駄にするな、と言った。そんな本を真剣に読んでいる者は、部屋の遠くへそれを放り投げて、提起されている問題についてじっくり考えるべきだ、と。

ヴィトゲンシュタインの最初の著書『論理哲学論考』(1922)は番号を振った短い節で記されていて、哲学というよりも詩のように読める。おもなメッセージは、倫理と宗教におけるもっとも重要な問題は人知を越えたところにあり、それについて意味のある話ができないなら、沈黙しなければならないということである。

後期の作品の中心となるテーマは「言語の魔力」だ。言語は哲学者をあらゆる混乱へ導く、とヴィトゲンシュタインは信じた。哲学者は言語の虜になる。その混乱の多くをセラピストのように消し去るのが自分の役割だ、とヴィトゲンシュタインは考えた。ヴィトゲンシュタインが注意深く選んださまざまな例の論理をたどると、哲学的な疑問が解消されるという。とても重要に思えたものが、もはや問題ではなくなるのだ。

ヴィトゲンシュタインは、哲学的混乱のひとつの要因は、すべての言語が同じように機能するという想定、つまり言葉は単に物事を指すだけという考え方にあるとした。また、多くの「言語ゲーム」、すなわち言葉を用いて行うさまざまな活動があるのを読者に示したかった。言語に「本質」はなく、その用法のすべてを説明できる共通の特徴などひとつもないのである。

たとえば結婚式で親族に会えば、身体的特徴が似ているために、互いに血がつながっていることがわかるかもしれない。ヴィトゲンシュタインはそれを「家族的類似」と呼ぶ。あなたは、たとえば髪や目の色が同じなど、どこかが母親と似ているかもしれないし、背が高く痩せていて、それがあなたの祖父と似ているかもしれない。また妹とは髪の色と目の形が同じかもしれないが、妹は母親とは目の色が異なるかもしれない。全員が遺伝子上のつながりがあると一目でわかるような共通する特徴はないが、何人かはある特徴を、別の何人かはまた別の特徴を共有している。ヴィトゲンシュタインは、そうした部分的な類似点があることに興味を引かれた。そして、家族的類似に関するメタファーを用いて、言語の重要な働きについて説明した。

「ゲーム」という言葉について考えよう。ゲームと呼ばれるものにはいろいろある。チェスのようなボードゲーム、ブリッジやソリティアなどのカードゲーム、サッカーのようなスポーツなどだ。かくれんぼや、ごっこ遊びもそうだろう。どれも「ゲーム」という言葉で呼ぶために、すべてに共通のひとつの特徴、すなわち「ゲーム」という概念の「本質」があるように思われがちだ。だが、ヴィトゲンシュタインは、思い込みをやめて「よく観察するように」と読者を促す。ゲームにはすべて勝ち負けがあると思うかもしれないが、ソリティアはどうだろう。壁にボールを投げて跳ね返ったのをキャッチする遊びは? どちらもゲームだが、敗者はいない。では、ルールがあるのがゲームの共通点だろうか。いや、ごっこ遊びにルールはなさそうだ。共通する特徴になりそうなものすべてに対して、ヴィトゲンシュタインは反例、つまり、その要素をもたないゲームを挙げる。すべてのゲームがひとつの共通点をもつと想定するのではなく、「ゲーム」という言葉を「家族的類似の用語」と捉えるべきだと、ヴィトゲンシュタインは考えた。

ヴィトゲンシュタインは言葉を一連の「言語ゲーム」として説明することによって、言葉がさまざまな意味で使われること、哲学者はすべての言葉が同じような働きをすると考えるせいで混乱していることに対して注意を促した。ハエにハエ取り瓶からどうやって出るかを教えるというのが、グィトゲンシュタインの哲学者としての目的だった。典型的な哲学者は、瓶に閉じ込められたハエのように、壁にあちこちぶつかりながら、あたふたしている。哲学的な問題を「解く」方法は、コルク栓を抜いてハエを出してやることだ。ヴィトゲンシュタインは、哲学者たちが間違った問いを立てている、または言葉に惑わされていると教えたかったのである。

聖アウグスティヌスがいかに言葉を覚えたかについて考えよう。著書『告白』によると、周囲の年上の人々がものを指しては、その名前を言ったらしい。リンゴがあると、誰かがそれを指して「リンゴ」と言う。アウグスティヌスは徐々に言葉の意味を理解し、自分の望みを周囲の人たちに伝えるために言葉を使えるようになった。ヴィトゲンシュタインはこれを、すべての言語にはある本質、つまりひとつの働きがあると思い込む人の事例と捉えた。ひとつの働きとは、ものを示すことだ。アウグスティヌスにとっては、それぞれの言葉にひとつの意味がある。グィトゲンシュタインは、言語をそのように捉えるのではなく、話す人の実生活と関連づけた一連の営みとして考えるよう提案した。言葉は、たとえばいつも特定の役割を果たすねじ回しではなく、多くのさまざまな道具が詰まった道具袋のようなものなのだ。

痛みを感じ、それについて話すときは、当然、感じている特定の感覚を表す言葉を使っていると思うかもしれない。だがヴィトゲンシュタインは、そうした感覚を表す言葉に対する見方を揺るがそうとする。感覚がないということではない。論理的には、使っている言葉が感覚を表すもののはずがないということだ。もし、誰もがカブトムシが入った箱をもっていても中身を誰にも見せないなら、互いに自分の「カブトムシ」のことを話せば、箱に何が入っているかはどうでもよいことになる。言葉は公のもので、意味をなしているかを確認する公の方法が必要だ。子供が自分の痛みを「表現する」ことを学ぶと、両親は子供に「痛い」など、さまざまなことを言わせる。ヴィトゲンシュタインいわく、「痛い」と言うのは、多くの面で、「あー!」と自然に声を漏らすのに等しい。ヴィトゲンシュタインは「わたしは痛みを感じている」という言葉を、自分ひとりの感覚を表していると考えるべきではないとも言う。痛みなどの感覚が本当に自分だけのものなら、それを説明するには自分だけの特別な言葉が必要になるだろう。だが、ヴィトゲンシュタインは、その考え方は筋がとおらないとした。ヴィトゲンシュタインが挙げたもうひとつの例が、その理由を理解する手がかりになるだろう。

ある人が名前のついてない、ちくちくするような独特の感覚に襲われるたびに、記録をつけることにする。そのちくちくするような感覚がするたびに、手帳に「S」と記す。「S」はその人にとって、自分だけの私的言語だ。それが何を意味するのかを、ほかの人は知らない。これは可能なように思える。ある人がそうしているのを想像するのは簡単だ。だが、もう少し考えてみよう。その人は、ちくちくするのを感じたとき、それが本当に記録しようと決めた「S」であり、ほかの種類のちくちくという感覚ではない、とどうしたらわかるのだろうか。以前に「S」という感覚に襲われたという記憶以外には、照らし合わせて確かめることもできない。だが、それでは十分ではないだろう。その人が思い違いをしているかもしれないからだ。言葉を同じ意味で使っていることを示す信頼できる方法とは言えない。

ヴィトゲンシュタインはこの手帳の例を用いて、自分の経験を説明するときに使う言葉は、自分ひとりだけの経験を言葉に結びつけるだけではいけないということを示そうとした。公のものが必要なのだ。自分だけの私的言語をもつことはできない。その考えが正しければ、心とは鍵のかかった劇場のようなもので、ほかの誰も入れないという考えは誤解を招くものになる。ヴィトゲンシュタインにとって、感覚を表す私的言語という概念はまったく意味をなさない。ここが重要で、また、理解が難しいところでもある。ヴィトゲンシュタイン以前の哲学者の多くは、個人の心は公にされないものだと考えていたからである。

ヴィトゲンシュタインの一族はキリスト教徒だったが、ナチスの法の下ではユダヤ教徒とみなされた。ヴィトゲンシュタインは、第二次世界大戦のあいだの一時期、看護兵としてロンドンの病院で働いた。一族は、幸運にも、ウィーンから脱出できた。そうでなければ、アドルフ・アイヒマンの指示によって、死の強制収容所へ送られていたかもしれない。アイヒマンのホロコーストヘの関与と、非人道的犯罪に関するその後の裁判は、ハンナ・アーレントが悪の本質に関して考察する際の主眼となった。
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金正恩が習近平帝国を滅ぼす

『習近平帝国の暗号2035』より 金正恩が習近平帝国を滅ぼす

中国のメンツをつぶす--習近平の鬼門は金正恩

 習政権は周辺諸国との関係を含めた全方位外交での実績を誇示している。しかし、北朝鮮との関係悪化は大きな汚点である。かつての血で固めた友誼に支えられた特殊な「同盟関係」は風前の灯火。いや、それはすでに実質的に破綻している。
 中国が重視を打ち出した周辺外交の死角は、中国の鬼門、北東に位置する北朝鮮にこそ存在する。金正恩の振る舞い次第では戦争さえ勃発する。
 そうなれば、2035年に現代化建設を基本的に終えるという習近平新時代の構想は一瞬にして崩れ去る。2035の暗号は解読不明に陥るのだ。習近平は何としても金正恩を押さえ込みたかった。だが、金正恩は若輩とはいえ、一筋縄ではいかない曲者だった。
 新中国の建国以来、最大の国際会議--.
 17年5月14、15両日、北京で開いた海と陸の現代版シルクロード「一帯一路」構想を巡る会議の宣伝で中国政府が使った決まり文句だ。
 開幕式、会議、晩餐会、閉幕式の晴れ舞台登場はすべて習近平だった。多数の首脳が集った国際会議というより習のワンマンショー。ナンバー2の首相、李克強の姿はなく、目立つのは新任の習側近らである。
 「核心」の地位を得た習近平が、カリスマ毛沢東もできなかった国際会議で威信を示す。17年後半、共産党大会での5年に一度の最高指導部人事を控え重要な政治行事だった。
 重大会議の開幕直前、北京に衝撃が走った。北朝鮮が新型中距離弾道ミサイル「火星12」を発射したのだ。習は北朝鮮の金正恩に最大の配慮を示し、閣僚代表団を北京に招いていた。晴れ舞台を核実験やミサイルで邪魔させない保険でもあった。
 金正恩はまったく意に介さなかった。北朝鮮代表団卜ップで対外経済相の金英才は、開幕前に控室で韓国代表団の朴炳錫議員と短時間、懇談した際、「(前日の平壌出発まで)ミサイルの話は知らなかった」と語った。
 会議は冒頭から予定が狂った。北京時間午前9時の開会は]D分ほど遅れた。原因は演説する口シア大統領のプーチンの遅刻だ。
 専用機は午前8時ごろ北京に着いたが、ドアの半開き状態が続き降りてこない。白シャツ姿のプーチンが無表情で大量の資料を受け取り、車で空港を出だのは30分後。開幕が迫っていた。
 北朝鮮はプーチンがシベリア上空にいた頃、ミサイルを撃ち、30分後、ウラジオストク近くに落下した。ロフテッド軌道で高度2100キロメートル以上に達した中距離弾道ミサイル「火星12」だとされる。
 プーチンは北京着陸後、ロシア領近くに落下した新型と見られるミサイルの分析報告を機内で受けたあと降りたと見られる。数時間後に北朝鮮を巡る習との会談が控えていた。
 中国国内では北朝鮮の5月14口のミサイル発射自体、一般に報じられなかった。国営新華社が早朝、英文だけで速報し、中国ネット媒体も中国語で転載したが、ほぼ1時間後には当局指示ですべて削除された。習氏が顔に泥を塗られた事実は隠された。
 中国の「一帯一路」構想には元々、米主導の国際秩序を崩す思惑があった。だが、米大統領、トランプは17年4月、米フロリダ州で習と会談したあと、中国が北朝鮮に真剣に圧力をかける約束と引き換えに経済面での対中強硬姿勢を緩めた。
 しかも北京会議への米代表団派遣まで決断した。卜てフは国家安全保障会議(NSC)アジア上級部長、ポッティンジャーだ。習は面目を保った。
 とはいえ対北朝鮮で効果は出ていない。金正恩は米国に歩み寄る習を牽制する意味も込め、あえて北京会議に合わせてミサイルを撃った。核放棄しないとの意思表示だ。米中関係にはなお危うさが潜む。

17年末までに腹固めた習近平

 習近平が中国軍も臨戦態勢に入らざるを得ないと腹を固めたのはいつなのか。それは17年11月から12月にかけてである。
 9月の北朝鮮の核実験で金正恩はトランプか引いたレ″ドラインを越えた。11月初旬の北京での習・トランプの密談、続く11月末の米ワシントンでの米中両軍の参謀部同士の意見交換を経て、覚悟を決めるしかないという判断に至ったのだ。
 だからこそ吉林省共産党委員会の機関紙、吉林日報まで「核戦争に備えよ」という異様な特集記事を12月上旬に掲載した。その経緯は先に紹介した。
 中朝国境の中国側にある吉林省と遼寧省、そして黄海の向こうが朝鮮半島である中国・山東半島は、米朝戦争への備えか着々と進んでいる。
 米中朝は極めて危うい心理戦を戦っていた。主役の一人が習近平である。共産党大会をようやく乗り切ったとはいえ、再び大きなプレッシャーにさらされていた。
 その相当なストレスが原因であろうアクシデントがあった。17年12月24日のクリスマス・イブの日、習近平は、北京市西部にある人民解放軍301病院に担ぎ込まれた。腹痛だとされる。
 関係者によると、それは宿泊を伴う入院ではなく、あくまで日帰りでの処置だった。事なきを得て、翌日からの重要会議には出席していた。
 しかし、「中南海」内の医療チームや施設では対処しきれなかったからこそ、高い技能を持つ医師団と最先端装置を備えた301病院にやってきたのだ。
 仮に定期の「半日人間ドック」だとしたら、外来患者にも分かるような、緊急の大規模な警備態勢をとる必要はなかったはずだ。
 一方の主役、金正恩は元日、核の実戦配備と、五輪参加を絡めた南北対話という硬軟取り混ぜたくせ球を投げた。
  「核のボタンは私の机の上にいつも置かれている」
 その脅しにトランプが言い返した。
  「私も核ボタンを持っている。だが、彼のよりもっと大きく、もっとパワフルだ」
 一方で数日後には、条件次第で金正恩との電話協議も「問題ない」と付け加えた。
 俺のほうか強いぞと虚勢を張る半面、下手に出るなら話してやってもよいとする子供同士のケンカのようだ。とはいえ決して笑い話では済まされない。異常で危険に満ちた2018年の始まりだった。
 71歳の大ベテランと、1月8日の誕生日で35歳になった青年のチキンレースはまだ続く。それは北朝鮮代表団が、平昌冬季五輪に参加しても変わらない。
 五輪と、それに続くパラリンピックの期間は1ヵ月以上ある。
  「米軍は、逆にじっくり準備できる猶予の期間を確保できた」
 韓国の軍事関係者はこう見る。この頃、沖縄県では、米軍ヘリの不時着が相次いでいた。朝鮮半島情勢の緊迫に対応した急速な訓練拡大。それが招いた整備不良という弊害かもしれなかった。
 危機かささやかれる朝鮮半島。それは2035年まで時間をかけて軍近代化を進めたい習近平にとって極めてやっかいな問題でもあった。
 第19回党大会報告で触れたように中国軍の近代化、現代化は道半ばだ。まだ十分に戦えない。そう告白しているのだ。今の段階で米軍のような強敵と戦うわけにはいかない。
 中国では、新しい指導者が卜でフに就いた際、戦争に打って出て、軍権を固めた事実を誇示する伝統があった。鄧小平がそうだった。1979年、軍事的に大した意味もないのにベトナムに戦争を仕掛けたのだ。
 この場合、短期間で勝てる相手でなくてはいけない。負ければ政権が一瞬で崩壊するのだから。当然、米国との戦争は無理である。
 それなら装備が手薄な北朝鮮との短期戦はどうか。しかし、彼らは短距離なら正確に打ち込める弾道ミサイルを持っている。
 しかも核弾頭の開発もかなり進んだ。金正恩は「中国全域か核ミサイルの照準内に入った」と脅している。こちらも下手に怒らせるわけにはいかない。
 かつて鄧小平か戦ったベトナム、あるいはフィリピンなら、ある意味、適当な相手と言える。だか南シナ海問題は落ち着きっつある。しばらくは、あえて火をつける必要はなくなった。大問題は朝鮮半島に絞られた。

朝鮮族200万人、扱い間違えば崩壊の引き金

 中国共産党政権にとって、朝鮮半島問題の扱いは、中国内の民族問題に火をつけかねない極めて微妙な課題だ。習近平か処理を間違えば、「プロジェクト2035」が崩壊する。
 どういうことなのか。そのポイントは、中国東北部を中心に居住する200万人弱の「朝鮮族」の存在である。中国55の少数民族の中で14番目の人口を持つ。
 彼らは日常生活では、朝鮮半島と同じ言語で話し、ハングルを用いる。先祖の出身地は朝鮮半島の北部が多い。もし、将来、南北統一国家ができれば、民族の故郷に帰還したいという意識を持っている。
 これを見抜いている金正恩は、平昌五輪を利用してあるワナを仕込んだ。文在寅もこの策に乗ったかのようだ。
  「南と北は南北官一日を尊重し、南北関係で提起されるすべての問題を、我が民族が朝鮮半島問題の当事者として、対話と交渉を通じ解決していくことにした」
 2018年1月9日の南北閣僚級会談の共同発表文だ。
 北朝鮮が、核・ミサイル開発問題で国連から厳しい制裁を科されている事実を無視したかのような文面は、完全な金正恩ペースだ。
 カギは、「我が民族」という言葉にある。ここには中国に住む200万人の朝鮮族も入っている。なにせ、金正恩の父と祖父は先に説明したように「中国東北部は、かつて朝鮮民族国家のものだった」と主張し、中国側に確認まで求めていた。
 金正恩の狙いは、平昌五輪でかりそめの南北融和ムードを醸し出し、「朝鮮民族主義」を訴えることだ。
 果たして金正恩は、平昌五輪の開会式に妹の金与正を送り、平壌での早期の南北首脳会談を提起した。平昌は金与正の話題で乗っ取られた。完全な政治オリンピックの様相だった。
 しかもこの時、金与正は第二子を妊娠中だった。身重の妹を韓国に送らざるを得ないほど、金正恩は追い詰められていた。
 韓国の政府と民衆が、北朝鮮の核開発を容認し、朝鮮半島に核保有国家が出来るのを裏では歓迎している。こんな雰囲気が出来上がれば、金正恩の勝ちである。
 中国は苦虫を噛みつぶしているが、ひとまず朝鮮半島での米朝戦争が遠のくなら、表向き歓迎するしかない。
 だが、中国が主張する「朝鮮半島の非核化」は遠のく。東アジア世界に中国以外の核保有国が出来上がれば、これまでの国際秩序は保てない。韓国ばかりか、台湾、もしかして日本だって核武装を言い出す恐れがあり危険だ。中国は本音ではそう思っている。
 朝鮮族の民族意識に火がっき、「統一国家」への帰還が現実化したらどうなるのか。当然ながら、今でも独立運動がある新疆ウイグル自治区、チベット自治区の民族問題に波及する。これだけは容認できない。
 21世紀の現代世界はグローバル化か進む半面、民族主義や地域主義が台頭している。英国の欧州連合(EU)離脱、スベイン・カタルーュャ地方の独立宣言を見るなら、中国でもそれぱ起こりうる。中国共産党政権にとって地域優先主義は対岸の火事ではないのだ。
 そうなれば、米国に追い付き、追い越す「プロジェクト2035」は、雲散霧消する。現在の国家統一だけで精一杯の状況になりかねない。
 中国の「朝鮮族」問題が、北朝鮮の核危機に直結している事実を忘れてはならない。
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中東化する新疆ウイグル自治区

『習近平が変えた中国』より 中東化する新疆ウイグル自治区~暴力の構造化、連鎖する憎悪~

問題の背景

 約960万平方キロメートルの巨大な領域をもつ中国の一つの大きな悩みは、主体文化、主体民族とは違う勢力によって国家の統合が脅かされるという「懸念」や「恐れ」である。「大一統」(大きく一つに統べる)を信奉する中央権力にとっての脅威は、チベットと新疆ウイグルである。いずれも独立国をもった歴史があり、固有の文化・宗教でアイデンティティが形成されており、中央(北京)からは遠い辺境にある。ほとんど宗教心をもたない漢人と違ってチペットではチベット仏教(2015年時点の職業僧尼は12万人)、新疆ではイスラム教(2015年時点のムスリム人口は2000万、新疆のイスラム教にかかわる職につく人員は2万9300)が主体宗教である。なお、中国領域に住むウイグル人は約1000万人、うち約980万人が新疆ウイグル自治区に住む(2010年センサス)。
 新疆は18世紀中葉に清朝の版図に入り、1884年に省となった。中華人民共和国は漢人〔漢民族以外の民族的少数者を55の「少数民族」として「民族の区域自治」で統治しており、ウイグル人は新疆ウイグル自治区、チベット人はチペット自治区を中心に集居している。新疆ウイグル自治区ではとくに1990年代から、市場化と宗教自由化のなかで住民の異議申し立てが広がり、権力側はこれを暴力と厳罰法で押さえ込んでいる。2001年のアメリカ同時多発テロ事件で「イスラム過激主義」がグローバル化し、人材と武器が新疆に流れているとして、「三股勢力(テロリズム、分裂主義、宗教的極端主義)」撲滅のキャンペーンが続き、それに住民が暴力で対抗する「暴力の構造化」、「新疆の中東化」状況がみられる。

ウイグル人とは

 新疆省が建制された1880年代には現地ムスリムの執拗な反乱は制圧された。チュルク系ムスリムであるウイグル人の祖先はいまのモンゴル国に打ち立てた遊牧国家、ウイグル部に遡るという。その後、回鶻、畏兀児などとよばれた。彼らは8世紀に諸部族を統一してウイグル国をつくったが、天災その他で崩壊、四散した。その後、西に逃れた集団がいまの新疆地区に移り住み、オアシスに定住。多くがしだいにイスラム教徒となり、纏回、回民、回回などとよばれた。
 ウイグルという他称が出てくるのは、1921年、新生ソ連が中央アジアで開いた「東トルキスタン出身者大会」からである。また、中国内でウイグルが他称として固まるのは1935年以後のことで、当地軍閥の盛世才(1895-1970)がこの地域の民族的少数者をウイグル(維吾爾)も含めて14民族認知したことによる。中国共産党がウイグル族とよび始めたのは1930年代末である。
 だが、ウイグル人自身は1940年代まで自身をホータン人やカシュガル人など地域名でよび、一つの集団アイデンティティはもっていなかったという。ウイグル意識や呼称が定着するのは、共和国成立後、少数民族を識別する工作、民族区域自治政策が始まる1950年代なかば以降である。二つの「東トルキスタン共和国」つかのまの独立時代北京中央権力が及ばない辺境である新疆では、1930~1940年代に独立分離の動きが続いた。1933年11月に新疆西部のカシュガルで「東トルキスタンイスラム共和国」の建国が宣言された。近代的教育を受けたウイグル人のウラマー(イスラム神学者)たちに率いられ、新疆での漢人官僚による民族差別と立ち遅れたウイグル社会への不満で立ち上がったのである。建国綱領に「謹んでコーランを遵守する」、「政府を担当する者は、コーランと現代科学を熟知すべし」と掲げイスラム国家を目ざしたが、ムスリム系軍閥である馬仲英(1909-?)の攻撃にあい、指導部内の対立などで半年たらずで瓦解した。
 1942年、軍閥の盛世才が新疆を去り、国民党軍が新疆に入るのと相前後して、東トルキスタン独立運動がふたたび活発化した。1944年8月に新疆北部のイリ地区でウイグル人、カザフ人が蜂起、11月7日にはソ連国境に近いクルジャ(伊寧)で武装蜂起が発生した。このとき「東トルキスタン共和国」の独立を宣言し、1年余り独立の旗を掲げたハイリ、タルバガタイ、アルタイの三区革命)。当初、新疆での親ソ政権樹立と天然資源をねらうソ連が、反漢・反国民政府の現地ムスリムの武装蜂起を全面的に支援し、武器、将校、顧問などを送った。共和国成立の大会で主席となったイリハン・トレが「アッラーはわれわれの神であり、ムハンマドはわれわれの聖者であり、イスラム教はわれわれの信仰であり、東トルキスタンはわれわれの祖国である」と演説したように、当初はきわめてイスラム色が強かった。だがすぐにソ連の圧力でムスリム系のりIダーたちは指導部から追われた。ソ連は1945年夏から政策を転換、東トルキスタンの独立支持をやめ、国民政府・新疆省政府との仲裁役に転じた。「東トルキスタン共和国」は今回もまた1年半で姿を消した。新疆への植民、進む漢化 中華人民共和国創立のころは新疆はウイグル人の里であった。1949年には新疆地区の人口の4分の3が主要民族たるウイグル人(約330万人)で、漢人はわずか30万人であった。ところが、1955年に新疆ウイグル自治区を設け、1950年代末から石油開発、綿花生産などのために大量の漢人が植民した。植民のピークは1960年代末で、1970年にはウイグル人は自治区人口の半分を切った。2011年時点では新疆全体で漢人が38%、ウイグル人が47%となっている。民族分布に地域的な差が大きいことにも注意が必要である。一般に新疆北部、大都市、カラマイ市などの工業都市では経済パワーに勝る漢人の比率が高い。自治区の首府であるウルムチの場合、ウイグル人31万人に対して漢人が181万人を占める(『新疆統計年鑑2012』)。
 「植民」の主体になったのは新疆生産建設兵団である。国防、治安そして開墾と生産など多様な任務を負った武装集団で、1949年解放軍の新疆進攻と同時にイリ、タルバガタイ、アルタイの三区の「民族軍」を中核に組織された。以後、軍務と開墾に従事しており、そのほとんどが漢人である。

新疆での騒乱1990年代--バレン郷事件、イニン事件

 新疆では1980年代末から毎年のように民族・宗教にからむ紛争が起きたが、1990年4月にカシュガル近くのアクト県バレン郷で起こった「反革命暴乱事件」は当局を震憾させた。中心になったのはキルギス人で、「われわれはトルキスタン人だ」として漢人の追放、新疆での核実験反対、産児制限反対、自治の拡大などを求めたといわれる。アムネスティ・インターナショナルの1991年レポートによると、6000人が反革命罪で訴追されたという。
 1997年2月5日には新疆北部イリ地区のイニン(クルジャ)で民族間衝突によって多数の死傷者を出した。3月11日の『新疆日報』は、この騒乱を「共産党政権の転覆を目的とした民族分裂主義者の破壊活動」ときめつけ、「生死をかけた激しい階級闘争」を呼びかけ、「少数の分裂主義者と国際組織の浸透」に強い警戒心を示した(張先亮「講政治必須旗幟鮮明地反対民族分裂主義」)。事件直後の4月24日にイリ地区などで公開裁判が開かれ、事件の「主犯」ユスプ・トルソンなど3名を死刑、その他27名を7年から無期懲役の刑に処した。
 こうした紛争の背景には、グローバルな市場化のもとで、民族語教育などが衰退し、漢人がいっそう有利になっているなかで、ウイグル人のインテリ層は民族的アイデンティティに強い危機感をもっていることがある。トゥルファンーカシュガル間1446キロメートルの南疆鉄道の開通(1999年)で「ウイグルの里」も市場経済にのみ込まれてしまう。

2009年7月ウルムチ騒乱

 朱鎔基首相時代の2001年から西部大開発戦略がスタートした。「西部」とは国土面積で70%、GDP(国内総生産)では18%を占める、新疆、チベット、雲南、青海、寧夏など非漢人が住む広大な、だが貧しい地域である。この大開発戦略で辺境にも資金と人が流れ込んだ。
 2009年7月5日ウルムチで、自治区政府発表では、15日までに192人が死亡、1712人が負傷する騒乱が起こった。7日には漢人が報復的な数万人規模の抗議デモを行い、8日、国家主席の胡錦濤はサミット出席を取リやめて急逡イタリアから帰国した。9月3日には、数万人の漢人がウルムチで報復のデモを敢行、5人死亡、14人が負傷した。
 新疆ウイグル自治区当局も中央政府もこの騒乱に「テロリズム、分裂主義、宗教的極端主義の三股勢力」として厳しく対決した。事件後ただちに、「ごくごく少数者の陰謀」、アメリカに亡命している「世界ウイグル会議議長のラビアーカーディルの陰謀」、イスラム原理主義のテロ組織と結びついた「新疆三股勢力の画策」と断じ、容疑者を逮捕、ただちに死刑などに処した。
 2009年7月のウルムチ事件で注目すべきなのは、学校にも行かない、職もないウイグル青年が経済格差、就業格差、宗教的差別から起こした暴力事件と、それに報復する漢人の集団暴力行為とがセットになっていることである。こうした危機に対し、当局は「社会治安総合治理条例」の改正など法の強化と責任者の処罰、さらに被害者への弔慰金など「金」での慰撫を図っている。2010年、15年間自治区党委員会書記であった王楽泉(1944-)を解任、後任に湖南省党委書記の張春賢(1953-)をあてた。だが、暴力の構造化や連鎖する憎悪などを解きほぐすことは、きわめてむずかしくなっている。

国際化するウイグル問題一

 1990年代以降の顕著な特徴は、イスラム主義のグローバル化に伴いウイグル問題が国際化したことである。海外ウイグル人のおもな組織として、「国際的テロ組織」と名指しされている「東トルキスタン・イスラム運動(ET‐M)、ウイグル人やイスラムの宣伝組織として比較的穏やかな活動を展開している「世界ウイグル会議がある。
 1992年イスタンブールで東トルキスタン民族会議が開かれ、1996年にはドルクンーエイサを中心にミュンヘンに世界ウイグル青年会議が設立された。2004年に両組織が合流して、世界ウイグル会議ができた。初代の議長は、エルキン・アルプテキン(1939-)。1930~1940年代に新疆省幹部であったエイサ・ユスプ・アルプテキン(1901-1995)の息子である。2006年からはラビア・カーディルが2代目議長を引き継いでいる。力-ディルは新疆で成功した企業家で、民族問題に関する言論により1999年に国家機密漏洩罪で逮捕、投獄された。2005年にアメリカに亡命してからは、世界ウイグル会議の議長として活動している。
 他方、テロ組織とされる東トルキスタン・イスラム運動は1997年に設立されたものだという。2003年以降、中国政府、アメリカ、国連から「テロリスト集団」に指定されている。中国当局は、2008年7月の昆明のバス爆破事件、2011年7月のカシュガルの連続殺傷事件はこの組織が関与、2013年10月天安門広場での自動車突入事件はその指示があったと発表しているが、根拠は何も示されていない。いずれにせよ、ウイグルを取り巻く状況は大変に厳しい。
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ファンクラブ事務局スタッフとして見るべきポイント

『人もお金も自然と集まるファンクラブビジネスの始め方』より

スタッフの適正を見極めるポイント

 ファンクラブやコミュニティがうまくいくかどうかは、事務局にかかっているといっても過言ではありません。事務局スタッフの適正を見る10のポイントを挙げておきましょう。

 ①スターを私物化せず、イエスマンにならない人

  スターを私物化せず、客観的に商品として見ることができ、その上で、どんどん磨いていける人、イエスマンにならない人。
  いつまでも苦言を呈せる立場でいる人が近くにいることがもっとも重要です。
  ファンクラブやコミュニティがうまくいくと、スターを差し置いて、自分が偉いと誤解する事務局の方も少なくないのですが、それでは、ファンクラブやコミュニティは長続きしません。

 ②熱烈なファンはダメ

  熱烈なファンを事務局スタッフにすると、無意識に他の会員を遠ざけようとしたり、自分が一番良い場所にいるように立ち回ります。
  周りの会員のことよりも、自分がスターに良く思われることが一番大事なのです。
  会員から何か不手際に関する指摘があっても、スターに伝えないなどの保身に走ります。ライバルになりそうな会員は、蹴落とそうとしますので、必ず、会員とのトラブルを起こします。

 ③スターから特別扱いを受けたい願望があり、そしてそれを会員に見せる人はダメ

  スターと自分だけの写真を会員に見せたり、SNSでアップしたりする人は、絶対に避けたほうがいいです。
  「これ、スターからもらったの」などと見せびらかす人は論外です。

 ④新しいことをどんどん受け入れられる人

  保守的な人が事務局スタッフになると、新しいことはやらないし、新しい人を排除するためファンクラブやコミュニティは大きくなりません。時代の流れや、会員の変化に、臨機応変に対応する柔軟さが求められます。

 ⑤どんな会員とも分け隔てなく付き合える人

  事務局に適した人は好き嫌いを表に出さず、誰とでも分け隔てなく付き合えることが必要です。会員との距離を等間隔に保つことを心がける必要があります。
  そうでないと「事務局の人と仲良しだから」などという噂をすぐに回されてしまいます。

 ⑥特定の会員と個人的な深い付き合いをしない人

  公私の区別がなく、特定の会員とお友達付き合いをする人は、そこからファンクラブやコミュニティを崩壊していきます。実際にそのような事実がなくても、「えこひいき」などと噂が立つからです。先はども述べましたが、派閥をつくるのが好きな人も向いていません。
  また、感情の起伏が激しい人は避けたほうがいいでしょう。感情の起伏が激しい人は揉めごとを起こしやすい傾向があります。

 ⑦先を見据えられる人

  目先のことばかり追いかける人は細かいことばかりに目がいき、大事な事を見失ってしまいます。
  会員や事務局のお金の増減などは、長いスパンで見なければなりません。

 ⑧常に沈着冷静な人

  ファンクラブやコミュニティは人間を扱いますので、いつ何が起こるかわからない部分があります。いつも冷静でいられる人でないといけません。

 ⑨判断力がある人

  難しい人間関係の問題が起こりやすいので、速やかに正しい情報を集め、適切に判断をすることも必要です。
  時間が経てば経つほど、話がややこしくなることはよくあることです。

 ⑩俯瞰で全体を見渡せる人

  そして最後にファンクラブやコミュニティ全体の雰囲気や変化に敏感に察知し見渡す力が必要です。近くを良く見る「虫の目」も重要ですが、俯瞰して全体を見る「鳥の目」も必要です。「俯瞰できる人」というのも重要なポイントです。
  会員と同じ目線でいると、トラブルが起きたときに解消する手立てが見つかりません。また、会員からの他の会員の悪い情報も入ってきますが、それも聞き流す度量が必要です。
  その人から見れば悪い点でも、他の人から見れば、そうでもないということは良くあるからです。

仕上げは効果的な立ち上げイベントやキャンペーンを

 最後にファンクラブやコミュニティの立ち上げに重要なのが、立ち上げイベントやオープニングのキャンペーンを行うことです。

 「ここにこういうファンクラブやコミュニティができました」と告知しなければ、誰もわかりません。もし、人脈があるのなら、ニュースリリースも効果的です。値段が高いものもあるので、上手に使いましょう。
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