未唯への手紙
未唯への手紙
他者に関する感覚
他者に関する感覚
他者に関する感覚が変わってきた。セブンイレブンの前で因縁をつけられた時もこの人はなぜこんな劇をしてるのか。見えないところへ行ったら、ディレクターにこれでよかったのか聞いているんでしょう。
乃木坂フェア開催中
セブンイレブンに行くのが怖い。行く度に何か買わされる。いくちゃんのはカレンダーしかない。うちわも写真系も当たらない。
再分配という考え方
不平等から脱せれないのは再分配という考え方に従うから。集めて配るのではない。各点で目標を持って生きていく社会。
他者に関する感覚が変わってきた。セブンイレブンの前で因縁をつけられた時もこの人はなぜこんな劇をしてるのか。見えないところへ行ったら、ディレクターにこれでよかったのか聞いているんでしょう。
乃木坂フェア開催中
セブンイレブンに行くのが怖い。行く度に何か買わされる。いくちゃんのはカレンダーしかない。うちわも写真系も当たらない。
再分配という考え方
不平等から脱せれないのは再分配という考え方に従うから。集めて配るのではない。各点で目標を持って生きていく社会。
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成長なき再分配政策
『シャルマの未来予想』より 良い億万長者、悪い億万長者--お金持ちを見ればその国の将来が分かる
成長なき再分配政策
最悪のケースが、アフリカだ。権力の座にあった30年以上もの間、ジンバブエのムガベ政権は強力に土地の再分配政策を進めた。旧支配階級の白人から土地を取り上げ黒人の一般大衆に再分配したが、いつも恩恵にあずかるのは彼の側近だった。2000年には白人農園主を追放し、代わりに黒人の農園主を据えたが、多くの場合、彼らは農業経営について何も知らなかった。農業生産は壊滅状態となり、かつての食糧輸出国は純輸入国へと転落した。失業率は90%以上に急上昇し、1日ごとに物価が2倍になるハイパー・インフレーションが勃発した。その結果、通貨の価値は紙くず同然となり、卵1個の値段は数十億ジンバブエ・ドルとなった。1米国ドルと交換するのに3京5000兆ジンバブエ・ドルが必要になった。2015年にムガベはジンバブエ・ドルを廃止し、現在は米国ドル、南アフリカ・ランドなど外国通貨が国内で流通している。
成長なき再分配政策は経済運営への信頼を損なうと言われるが、ムガベ体制はまさにその最悪のパロディと言っていい。しかし似たような悲喜劇は、多くの地域で演じられてきた。パキスタンでは1960年代に、ズルフィカール・アリー・ブトーによって人民党が結成された。1971年にインドとの戦争で屈辱的な敗北を喫した後、ブトーは政権奪取のチャンスを得た。彼は早速、不平等を正すための公約の実現に着手した。一般の市民が所有できる土地に上限を設け、金融、エネルギー、製造業の企業を次々に国有化していった。その帰結は、腐敗、ハイパー・インフレ、生活水準の切り下げだった。国家権力で富の再分配を実施したいという思いは、かつてほど強くなくなったが、最近でも指導者の心を駆り立てて止まないようだ。たとえば、1990年代後半のフィリピンのジョセフ・エストラーダ大統領、2000年代のタイのタクシン・シナワトラ首相、最近ではチリのミシェル・バチェレ大統領である。エストラーダは1998年に地方住民の支持で権力の座に就いた。当時のフィリピンは民営化政策で高い経済成長を実現していたが、その恩恵にあずかったのは都市部の一部市民だけで、地方住民は強い不満を感じていた。そこでエストラーダが採用したのが、土地を小作農に分け与え、福祉支出を増やすという一般的な格差是正策だった。その結果、政府の借金や財政赤字が急増し、インフレは加速した。ついには大規模な抗議行動も勃発した。エストラーダは3年後、政権の座を去ることになった。
自己破壊的なポピュリズム
中南米ほど、自己破壊的なポピュリズムが隆盛を極めた地域はないだろう。このポピュリズムを絶えず焚きつけてきたのが、植民地時代に端を発する巨大な不平等の蔓延だ。この地域では独立後も、欧州系の特権階級が権力を失うどころか、むしろ逆に政治的、経済的な権力基盤を強化してきた。権力や富が特権階級に集中すればするほど、その再分配を公約に掲げるポピュリズムが台頭した。その起源は、1950年代のキューバのフィデル・カストロだ。その系譜は現在まで脈々と続く。1960年代に始まるペルーのファン・ベラスコ・ァルバラード、1970年代のメキシコのルイス・エチェベリア・アルバレス、1980年代のニカラグアのダニエル・オルテガ、1990年代後半のベネズエラのウゴ・チャペス、2000年代のアルゼンチンのネストル・キルチネルなどである。たとえばメキシコのエチェベリア。彼の前の政権は、新産業の育成に熱心で、それが都市と地方の所得格差を拡大させた(工業化の初期段階ではよくあることだが)。エチェベリアは政権に就くやいなや食糧補助金の拡大、外国資本の規制、小作農への土地の再分配、鉱業や電力の国有化などの政策を矢継ぎ早に打ち出し、格差の是正に取りかかった。こうした過激な政策に恐れをなした海外投資家やメキシコの富裕層は、大量の資金を海外逃避させた。その結果、メキシコ経済は、国際収支危機、エネルギー不足、失業率やインフレの高騰、成長率の鈍化といった危機的状況に陥った。大規模な抗議活動が盛んになると、観光客も蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。
これらがチリのピニェラ元大統領の言う破壊的な「回れ左」だ。この周期的な大衆の反乱がついにチリに押し寄せてきた時、彼は不安に駆られた。1970年代以降、チリでは中南米のポピュリズムに感染することがほとんどなかったからだ。当時は、独裁者アウグスト・ピノチェトの政権が、外国との貿易や投資の自由化、官僚主義の打破、政府債務や財政赤字の抑制とインフレの鎮静化、国営企業や年金の民営化などによって、安定的な高成長を実現した時期だった。クーデターによって権力を掌握したピノチェトは残忍な手法で野党の指導者を次々に弾圧したため、次第に人心が離れていった。血で汚れたピノチェト政権は1990年3月に幕を閉じた。17年間の長い統治だった。彼の政策が格差拡大の種を蒔いたとの批判はあるが、ピノチェトの経済的な遺産は長く続いた。その後の20年間、チリの人々はピノチェト体制を支えた右翼政党を排除し、中道左派の指導者を選び続けたが、彼らの政策が財政金融を大きく不安定化させることはなかった。2006~2010年のバチェレ政権の第1期も、例外ではなかった。2014年に政権に返り咲いた後も、バチェレはピノチェトが確立した財政規律を破ることはなかった。彼女は、低所得層への支援を拡大する場合は、必ず財源確保のために増税を提案した。
チリの新たな成長に必要な投資資金を海外へ追い払ってしまったのは、バチェレのポピュリズム的な表現だった。チリでは平均所得が1万5000ドルに達し、分厚い中間層も形成されていた。しかし成長のためには、国際商品市況が下落していても、銅のような天然資源を輸出しなければならなかった。チリはそうした資源依存を打破するために新たな投資を必要としていたが、その出鼻をくじかれてしまった。バチェレが富の再分配を求める国民の声に応えたい気持ちは分からないでもないが、それが不用意にも経済成長の妨害になってしまった。
不平等は罪悪か?
本質的な問題は「経済にとって格差は脅威か」である。これは経済学よりも政治手腕によって解決しなければならない問題だ。人々が富の創造の仕方に疑いを持ち始めると、不平等は成長にとって脅威になる。起業家が消費者に喜ぼれる新製品を生産するために工場を作り人々を雇用したとしよう。こうした富の創造は世の中で広く歓迎される。しかし政治家に取り入って政府契約を独り占めし、特に親のツテを使って財を成した場合は、大衆の反感はつのるばかりだ。国民の関心は富の創造よりも富の再分配へ向かう。
不平等に関する綿密な統計は、私たちに社会の全体像を示してくれる点で有益だ。しかしその統計は頻繁に更新されないので、人間の感情の変化を先取りして必要な警鐘を鳴らすことはできない。所得の不平等を示す一般的な統計は、ジニ係数だ。1からOの間の数字で、不平等を採点する。1は完全に不平等な社会で、全体の所得を1人で独占していることを意味している。Oは完全に平等な社会であり、すべての人の所得が等しい。しかしジニ係数は学者が目的に応じて公式データから独自の手法で算出するのが一般的なため、発表の時期は不確定で、調査の対象国も一貫していない。最新の国別比較では、世銀のデータが最も役に立つ。2015年半ばの時点で最新のジニ係数は、チリが2011年、米国は2010年、ロシア2009年、エジプト2008年、フランス2005年とバラバラだ。ジニ係数の算出時期が古くなるほど、利用価値が低下する。不平等の高まりでどの程度、危機のマグマが高まっているかを知る手がかりには到底なりえない。
不平等を察知する私の手法は、大地にじっと耳を寄せて、辛抱強くその振動音をキャッチすることだ。富の不平等に対する不満のマグマが、どのように蓄積されているか。それを先取りするデータを私は持ち合わせていないが、人々の不満の原因は超富裕層の資産規模とその源泉であり、『フォーブス』誌の億万長者リストを注意深く読めぼだいたいの感触をつかむことができる。国全体の所得に占める超富裕層のシェアが異常に高く、しかもその過大なシェアがさらに上昇している。そのような国をあぶり出すために、国全体の所得に対する超富裕層のシェアを計算してみた。超富裕層の世襲化か進みつつある国を見つけ出すために、超富裕層における相続財産の割合を推計してみた。最も重要なことは、「悪い億万長者」の資産の源泉をたどると、石油、鉱山、不動産のような腐敗との関連性が強いとされる産業に行き着くことだ。これらは伝統的に腐敗が生じやすく、生産性の低い産業で、悪い億万長者の世襲化か進みやすい。これが経済の成長を妨げ、国民の怒りを買い、ポピュリスト政治家につけいるすきを与える。私は、一般の人々がその国の代表的な超富裕層についてどのように語っているかに注目している。政治的な反動やポピュリズム的な政策を引き起こすのは、現実の不平等よりも不平等への人々の感じ方である。
これまでの富の不平等に関する議論や億万長者リストの活用などの手法は、まだるっこしすぎると感じている人もいるだろう。しかし、ちょっと待って欲しい。これらこそが今後ますます重要なサインになってくると強調したい。世界の指導者の一部には、不平等やそれを助長する腐敗は特に発展の初期段階にある途上国で目に付くかもしれないが、すべての国に大なり小なり存在するのだから、人類に不可避の永遠の罪悪であるとして大目に見る傾向がある。しかしいこれは責任回避の口実だ。開発途上の社会は先進国よりも不平等が高まる傾向があるにしても、その不平等が自然に緩和に向かうという保証はない。
成長なき再分配政策
最悪のケースが、アフリカだ。権力の座にあった30年以上もの間、ジンバブエのムガベ政権は強力に土地の再分配政策を進めた。旧支配階級の白人から土地を取り上げ黒人の一般大衆に再分配したが、いつも恩恵にあずかるのは彼の側近だった。2000年には白人農園主を追放し、代わりに黒人の農園主を据えたが、多くの場合、彼らは農業経営について何も知らなかった。農業生産は壊滅状態となり、かつての食糧輸出国は純輸入国へと転落した。失業率は90%以上に急上昇し、1日ごとに物価が2倍になるハイパー・インフレーションが勃発した。その結果、通貨の価値は紙くず同然となり、卵1個の値段は数十億ジンバブエ・ドルとなった。1米国ドルと交換するのに3京5000兆ジンバブエ・ドルが必要になった。2015年にムガベはジンバブエ・ドルを廃止し、現在は米国ドル、南アフリカ・ランドなど外国通貨が国内で流通している。
成長なき再分配政策は経済運営への信頼を損なうと言われるが、ムガベ体制はまさにその最悪のパロディと言っていい。しかし似たような悲喜劇は、多くの地域で演じられてきた。パキスタンでは1960年代に、ズルフィカール・アリー・ブトーによって人民党が結成された。1971年にインドとの戦争で屈辱的な敗北を喫した後、ブトーは政権奪取のチャンスを得た。彼は早速、不平等を正すための公約の実現に着手した。一般の市民が所有できる土地に上限を設け、金融、エネルギー、製造業の企業を次々に国有化していった。その帰結は、腐敗、ハイパー・インフレ、生活水準の切り下げだった。国家権力で富の再分配を実施したいという思いは、かつてほど強くなくなったが、最近でも指導者の心を駆り立てて止まないようだ。たとえば、1990年代後半のフィリピンのジョセフ・エストラーダ大統領、2000年代のタイのタクシン・シナワトラ首相、最近ではチリのミシェル・バチェレ大統領である。エストラーダは1998年に地方住民の支持で権力の座に就いた。当時のフィリピンは民営化政策で高い経済成長を実現していたが、その恩恵にあずかったのは都市部の一部市民だけで、地方住民は強い不満を感じていた。そこでエストラーダが採用したのが、土地を小作農に分け与え、福祉支出を増やすという一般的な格差是正策だった。その結果、政府の借金や財政赤字が急増し、インフレは加速した。ついには大規模な抗議行動も勃発した。エストラーダは3年後、政権の座を去ることになった。
自己破壊的なポピュリズム
中南米ほど、自己破壊的なポピュリズムが隆盛を極めた地域はないだろう。このポピュリズムを絶えず焚きつけてきたのが、植民地時代に端を発する巨大な不平等の蔓延だ。この地域では独立後も、欧州系の特権階級が権力を失うどころか、むしろ逆に政治的、経済的な権力基盤を強化してきた。権力や富が特権階級に集中すればするほど、その再分配を公約に掲げるポピュリズムが台頭した。その起源は、1950年代のキューバのフィデル・カストロだ。その系譜は現在まで脈々と続く。1960年代に始まるペルーのファン・ベラスコ・ァルバラード、1970年代のメキシコのルイス・エチェベリア・アルバレス、1980年代のニカラグアのダニエル・オルテガ、1990年代後半のベネズエラのウゴ・チャペス、2000年代のアルゼンチンのネストル・キルチネルなどである。たとえばメキシコのエチェベリア。彼の前の政権は、新産業の育成に熱心で、それが都市と地方の所得格差を拡大させた(工業化の初期段階ではよくあることだが)。エチェベリアは政権に就くやいなや食糧補助金の拡大、外国資本の規制、小作農への土地の再分配、鉱業や電力の国有化などの政策を矢継ぎ早に打ち出し、格差の是正に取りかかった。こうした過激な政策に恐れをなした海外投資家やメキシコの富裕層は、大量の資金を海外逃避させた。その結果、メキシコ経済は、国際収支危機、エネルギー不足、失業率やインフレの高騰、成長率の鈍化といった危機的状況に陥った。大規模な抗議活動が盛んになると、観光客も蜘蛛の子を散らしたようにいなくなった。
これらがチリのピニェラ元大統領の言う破壊的な「回れ左」だ。この周期的な大衆の反乱がついにチリに押し寄せてきた時、彼は不安に駆られた。1970年代以降、チリでは中南米のポピュリズムに感染することがほとんどなかったからだ。当時は、独裁者アウグスト・ピノチェトの政権が、外国との貿易や投資の自由化、官僚主義の打破、政府債務や財政赤字の抑制とインフレの鎮静化、国営企業や年金の民営化などによって、安定的な高成長を実現した時期だった。クーデターによって権力を掌握したピノチェトは残忍な手法で野党の指導者を次々に弾圧したため、次第に人心が離れていった。血で汚れたピノチェト政権は1990年3月に幕を閉じた。17年間の長い統治だった。彼の政策が格差拡大の種を蒔いたとの批判はあるが、ピノチェトの経済的な遺産は長く続いた。その後の20年間、チリの人々はピノチェト体制を支えた右翼政党を排除し、中道左派の指導者を選び続けたが、彼らの政策が財政金融を大きく不安定化させることはなかった。2006~2010年のバチェレ政権の第1期も、例外ではなかった。2014年に政権に返り咲いた後も、バチェレはピノチェトが確立した財政規律を破ることはなかった。彼女は、低所得層への支援を拡大する場合は、必ず財源確保のために増税を提案した。
チリの新たな成長に必要な投資資金を海外へ追い払ってしまったのは、バチェレのポピュリズム的な表現だった。チリでは平均所得が1万5000ドルに達し、分厚い中間層も形成されていた。しかし成長のためには、国際商品市況が下落していても、銅のような天然資源を輸出しなければならなかった。チリはそうした資源依存を打破するために新たな投資を必要としていたが、その出鼻をくじかれてしまった。バチェレが富の再分配を求める国民の声に応えたい気持ちは分からないでもないが、それが不用意にも経済成長の妨害になってしまった。
不平等は罪悪か?
本質的な問題は「経済にとって格差は脅威か」である。これは経済学よりも政治手腕によって解決しなければならない問題だ。人々が富の創造の仕方に疑いを持ち始めると、不平等は成長にとって脅威になる。起業家が消費者に喜ぼれる新製品を生産するために工場を作り人々を雇用したとしよう。こうした富の創造は世の中で広く歓迎される。しかし政治家に取り入って政府契約を独り占めし、特に親のツテを使って財を成した場合は、大衆の反感はつのるばかりだ。国民の関心は富の創造よりも富の再分配へ向かう。
不平等に関する綿密な統計は、私たちに社会の全体像を示してくれる点で有益だ。しかしその統計は頻繁に更新されないので、人間の感情の変化を先取りして必要な警鐘を鳴らすことはできない。所得の不平等を示す一般的な統計は、ジニ係数だ。1からOの間の数字で、不平等を採点する。1は完全に不平等な社会で、全体の所得を1人で独占していることを意味している。Oは完全に平等な社会であり、すべての人の所得が等しい。しかしジニ係数は学者が目的に応じて公式データから独自の手法で算出するのが一般的なため、発表の時期は不確定で、調査の対象国も一貫していない。最新の国別比較では、世銀のデータが最も役に立つ。2015年半ばの時点で最新のジニ係数は、チリが2011年、米国は2010年、ロシア2009年、エジプト2008年、フランス2005年とバラバラだ。ジニ係数の算出時期が古くなるほど、利用価値が低下する。不平等の高まりでどの程度、危機のマグマが高まっているかを知る手がかりには到底なりえない。
不平等を察知する私の手法は、大地にじっと耳を寄せて、辛抱強くその振動音をキャッチすることだ。富の不平等に対する不満のマグマが、どのように蓄積されているか。それを先取りするデータを私は持ち合わせていないが、人々の不満の原因は超富裕層の資産規模とその源泉であり、『フォーブス』誌の億万長者リストを注意深く読めぼだいたいの感触をつかむことができる。国全体の所得に占める超富裕層のシェアが異常に高く、しかもその過大なシェアがさらに上昇している。そのような国をあぶり出すために、国全体の所得に対する超富裕層のシェアを計算してみた。超富裕層の世襲化か進みつつある国を見つけ出すために、超富裕層における相続財産の割合を推計してみた。最も重要なことは、「悪い億万長者」の資産の源泉をたどると、石油、鉱山、不動産のような腐敗との関連性が強いとされる産業に行き着くことだ。これらは伝統的に腐敗が生じやすく、生産性の低い産業で、悪い億万長者の世襲化か進みやすい。これが経済の成長を妨げ、国民の怒りを買い、ポピュリスト政治家につけいるすきを与える。私は、一般の人々がその国の代表的な超富裕層についてどのように語っているかに注目している。政治的な反動やポピュリズム的な政策を引き起こすのは、現実の不平等よりも不平等への人々の感じ方である。
これまでの富の不平等に関する議論や億万長者リストの活用などの手法は、まだるっこしすぎると感じている人もいるだろう。しかし、ちょっと待って欲しい。これらこそが今後ますます重要なサインになってくると強調したい。世界の指導者の一部には、不平等やそれを助長する腐敗は特に発展の初期段階にある途上国で目に付くかもしれないが、すべての国に大なり小なり存在するのだから、人類に不可避の永遠の罪悪であるとして大目に見る傾向がある。しかしいこれは責任回避の口実だ。開発途上の社会は先進国よりも不平等が高まる傾向があるにしても、その不平等が自然に緩和に向かうという保証はない。
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独身女性(非婚シングル)シニアの生活
『おひとりさまの「シニア金融」』より おひとりさまシニアの生活は不安がいっぱい
独身女性(非婚シングル)
統計データで見る限り、女性は男性より長生きし、しかも90歳以上まで生きる比率も高いわけですから、超高齢社会への準備や覚悟が必要です。男性以上に長生きリスクを考えておく必要があります。
男性と同じように学び、仕事をしてきても、現状、社会の制度は男女平等とはなっていません。男性中心に設計されてきた社会を制度変更するといっても、急にはできません。会社における人事評価や昇進についても、女性の地位はまだまだ低いのが日本です。2017年11月に開催された世界経済フォーフム(WEF)では、世界各国の男女平等の度合いを示した2017年版「ジェンダー・ギャップ指数」が発表されましたが、日本はなんと114位と順位を下げました。
家庭生活を考えても、夫婦共働きが当たり前ではない社会では、主婦と主夫が逆転することがないような教育を受けてきた感じがします。
確かに、女性にしかできない出産という面では、産休・育休制度の充実や「イクメン」の登場など、社会が少しだけ変化することで、その負担が少しは減ったかもしれません。しかし、現実はセクハラやパワハラも含め、女性の社会進出が進めば進むほど、ストレスが溜まっていく構造には違いないようです。
また、男女とも晩婚化が進み、30歳代での初婚が増え、高齢出産も珍しくなくなってきました。一方で、合計出生率は1975年(昭和50年)に2を割ってから回復していません。生涯子供のいない夫婦も6・4%(2010年)いるそうです。生涯独身という人も増えています。離婚や再婚も増えています。そうして人口減少や超高齢社会が到来しているのが、現在の日本です。
さて、ここでは独身を通してきた方、結婚や同棲はしたものの現況は単身の方、実質独身の方など、長~い人生を考える上で、何がポイントかを考えてみましょう。
①女性は住宅確保優先……高齢だと賃貸住宅にも入れない
②住宅ローンは返さなくて良い(ノンリコースローンの扱い、死亡で担保処分)
③死亡保険よりも医療・傷害保険
④独身は怖くない
日本では一般的な人は住民票上の住所でその存在が確認できるはずです。「住所不定」では預金口座の開設ができないだけでなく、公共サービスも受けられないことがあります。おそらく納税義務なども怠っている(免除申請可能)でしょうから、ホームレス扱いに近いと言えます。
さて、①では認知症など要介護の対象で、特養(特別養護老人ホーム)に入居できれば、実質の終身対応となります。しかし、痴呆はなく、病気がちではあっても見た目は健康な方は、通所介護や訪問介護となりますが、基本的な身のまわりのことは自分である程度やらなければならず、単身者にはきついものがあります。
そもそも日本の介護制度は家族がいることを想定しており、単身者や天涯孤独者を想定していません。そして、高齢になると賃貸住宅を借りようにも家主は嫌がります。孤独死や火の始末に不安があると、家主は消極的にならざるを得ないのです。高齢者用を謳っている施設は十分に供給されていません。民間の賃料も安くはありません。
つまり、富裕層であれば有料老人ホームに入れますが、一般的な庶民は老後のための住宅を確保することが極めて重要です。ワンルームで十分です。資産価値が高ければ、家を担保にリバースモゲージ(後述)も利用できます。
健常者であれば、5年単位で人生設計をしてみて、毎年の大凡の収支を書き出してみると、自宅を所有すべきか賃借にすべきかは見えてきます。また、どこに住みたいかも重要です。自分で決められない場合、近頃は「AI判断」というのがあって、いろいろ計算してくれます。それらも参考にすると良いでしょう。
②の住宅が確保できている人は、第1章でも述べましたが、仮にローンが残っている場合で、年齢が70歳以上の場合は、繰上返済をしないほうが良いと思います。無理して返済を優先し、通常資金が不足しては意味がありません。下手に預金を取り崩して目先の資金をなくすのは、愚の骨頂と言うものです。資産価値さえあれば、リバースモゲージの利用も可能ですが、手続きや金利負担を考えれば、そのまま借金として交渉したほうがベターです。もし、可能であれば、非遡及(ノンリコース:特定の事業・資産を対象に融資し、返済はその事業・資産からの収益だけに限定する融資)の条件にしてもらい、日々の資金繰りに余裕を持つことが重要です。ちなみに金融機関は、債務者が破産した場合でも担保不動産を売却することで穴埋めをしてきました。ただし、従来のようなゆるい担保掛目では資金回収が厳しくなるので、ノンリコースローンでLTV(掛目:SPCを使って不動産を証券化する際に簡単に証券化商品の優劣を見分けるための指標の一つ。物件の価値に対する借入金に代表される負債の割合を表す数値で、通常は負債額を物件価格で割って算出する)をはっきりとさせます。
また、一般社団法人移住こ任みかえ支援機構(JTI)では「マイホーム借上げ制度」があり、自宅を賃貸してくれるうえ、その賃料で自らは好きな場所に住めるという状況を実現してくれます。これら住宅に関する運用については、第Ⅳ章で詳細を述べます。
もし、それが嫌なら、とっとと自宅を売却して、現預金を増やすか、他の投資を行うかです。たとえば、高価値の自宅不動産を売却し、その代金の一部でワンルームマンションなど、終活用の自宅を購入する選択肢もあるでしょう。しかし、不動産売却で利益が出た場合、納税が発生します。買替特例が使えれば、税負担は解消されますが、引っ越しに伴う、整理や掃除も大変なのは事実です。
③は男性でも言えることですが、生命保険は受け取る人がいないなら不要です。むしろ、60歳以降の女性でよく見かけるのが骨折です。骨粗髭症ではなくても、加齢に伴って骨がもろくなっています。特に、自転車を利用する人で腕を骨折する人が多いようです。何かにつまずいて腰を骨折する人もいます。その確率は低くないので治療費を保険でカバーします。骨折で歩けなくなくなると、運動不足だけでなく、認知症の進行が早まるとも言われています。こうなると要介護の世界に入っていきます。
④は当面、どこを歩いても年寄りだらけです。単身や独身の人は溢れています。家に籍る必要はなく、たくさんおめかしするのも自由です。自らが積極的に動けば、人は群れます。不必要なわだかまりを捨て、マナーさえ弁えていれば、小さなコミュニティヘのデビューは難しくありません。その時の心得として、上野千鶴子さんが著書『「女縁」を生きた女たち』のなかで、「女縁の七戒」として、「夫の職業は言わない、聞かない」「子供のことは言わない」「自分の学歴は言わない」「お互い『奥さん』とは呼び合わない」「おカネの貸し借りはしない」「女縁をカネもうけの場にしない」「相手の内情に深入りしない」の7つのアドバイスをされています。
キャリアウーマン
大学を卒業して、一般的な男性と同じように就職し、定年まで勤め上げた女性は、男性と考え方や当面の対処方法は大きく変わらないと思われます。
ただし、平均寿命を考えると、10年近く男性より長生きすることになります。60歳の女性の5人に1人が96歳まで生きる時代です。十分な年金支給があれば、生活を担保できますが、病気や怪我のほか、認知症状の進行などで自立できないことも考えられます。しかも、物価も消費税も上がるかもしれません。おカネはいくらあっても足りません。
ここで重要になってくるのが、住まいの問題、つまり自宅が賃貸か所有かです。単身で戸建てを維持管理するのは大変です。防犯や火災のリスクも、マンションに比べ大きくなっていきます。特に都会に住んでいる場合は、土地の固定資産税もばかになりません。
賃貸の場合は、毎月の賃料負担がどれくらいかが重要です。生活費のどれくらいを占め、収入の範囲で収まるのか否かなど、頭がはっきりしているうちに計算しておいたほうが良さそうです。
所有の場合は、リバースモゲージの対象になる不動産か否かを知っておくことが重要となります。分譲マンションの場合は、管理費や修繕積立金アップを見込んでおく必要があります。また、両親が所有している不動産がある場合、最終的に相続人が1人であれば相続争いは発生しませんが、兄弟姉妹がいる場合は先手必勝です。たとえば、家族信託(民事信託の一種)で目ぼしい不動産を事前に自分を受託者としておけば、他の兄弟姉妹からの遺留分請求があっても、最終的には不動産ではなく、金銭で解決できる可能性が高くなってきます。
同様な仕組みは遺言信託でも用意されていますが、費用の面では家族信託のほうが安いと言われています。知人に弁護士や司法書士などがいれば、契約書の作成から物件管理者の紹介なども行ってくれます。ただし、相続争いが予想されない、あるいは相続財産が高額ではない(非課税)場合は、どちらにしても手数料が発生しますので、他人への委託や委任は極力少なくすることが賢明です。
また、相応の現預金や資産がある人は、有料老人ホームヘ入居することも考えられます。どのレベルの施設に入居するかは、おカネ次第です。億単位の施設もあれば、数百万円の入居保証金で済む施設もあります。ただし、健康体であるか、健常者であるかに加え、加齢に伴って、その程度が変わりますので、先のことを考えてから、施設の選択はしたほうが良いと思います。
さらに、日本国内での地方への移住や海外へのロングステイや移住も一考の価値ありでしょう。医療費や介護の心配はあるでしょうが、新興国などでは物価が安いので、健康保険適用がなくても負担は大きくありません。ただし、先進医療の場合は帰国が条件となることもありますので、そこは覚悟が必要です。
独身女性(非婚シングル)
統計データで見る限り、女性は男性より長生きし、しかも90歳以上まで生きる比率も高いわけですから、超高齢社会への準備や覚悟が必要です。男性以上に長生きリスクを考えておく必要があります。
男性と同じように学び、仕事をしてきても、現状、社会の制度は男女平等とはなっていません。男性中心に設計されてきた社会を制度変更するといっても、急にはできません。会社における人事評価や昇進についても、女性の地位はまだまだ低いのが日本です。2017年11月に開催された世界経済フォーフム(WEF)では、世界各国の男女平等の度合いを示した2017年版「ジェンダー・ギャップ指数」が発表されましたが、日本はなんと114位と順位を下げました。
家庭生活を考えても、夫婦共働きが当たり前ではない社会では、主婦と主夫が逆転することがないような教育を受けてきた感じがします。
確かに、女性にしかできない出産という面では、産休・育休制度の充実や「イクメン」の登場など、社会が少しだけ変化することで、その負担が少しは減ったかもしれません。しかし、現実はセクハラやパワハラも含め、女性の社会進出が進めば進むほど、ストレスが溜まっていく構造には違いないようです。
また、男女とも晩婚化が進み、30歳代での初婚が増え、高齢出産も珍しくなくなってきました。一方で、合計出生率は1975年(昭和50年)に2を割ってから回復していません。生涯子供のいない夫婦も6・4%(2010年)いるそうです。生涯独身という人も増えています。離婚や再婚も増えています。そうして人口減少や超高齢社会が到来しているのが、現在の日本です。
さて、ここでは独身を通してきた方、結婚や同棲はしたものの現況は単身の方、実質独身の方など、長~い人生を考える上で、何がポイントかを考えてみましょう。
①女性は住宅確保優先……高齢だと賃貸住宅にも入れない
②住宅ローンは返さなくて良い(ノンリコースローンの扱い、死亡で担保処分)
③死亡保険よりも医療・傷害保険
④独身は怖くない
日本では一般的な人は住民票上の住所でその存在が確認できるはずです。「住所不定」では預金口座の開設ができないだけでなく、公共サービスも受けられないことがあります。おそらく納税義務なども怠っている(免除申請可能)でしょうから、ホームレス扱いに近いと言えます。
さて、①では認知症など要介護の対象で、特養(特別養護老人ホーム)に入居できれば、実質の終身対応となります。しかし、痴呆はなく、病気がちではあっても見た目は健康な方は、通所介護や訪問介護となりますが、基本的な身のまわりのことは自分である程度やらなければならず、単身者にはきついものがあります。
そもそも日本の介護制度は家族がいることを想定しており、単身者や天涯孤独者を想定していません。そして、高齢になると賃貸住宅を借りようにも家主は嫌がります。孤独死や火の始末に不安があると、家主は消極的にならざるを得ないのです。高齢者用を謳っている施設は十分に供給されていません。民間の賃料も安くはありません。
つまり、富裕層であれば有料老人ホームに入れますが、一般的な庶民は老後のための住宅を確保することが極めて重要です。ワンルームで十分です。資産価値が高ければ、家を担保にリバースモゲージ(後述)も利用できます。
健常者であれば、5年単位で人生設計をしてみて、毎年の大凡の収支を書き出してみると、自宅を所有すべきか賃借にすべきかは見えてきます。また、どこに住みたいかも重要です。自分で決められない場合、近頃は「AI判断」というのがあって、いろいろ計算してくれます。それらも参考にすると良いでしょう。
②の住宅が確保できている人は、第1章でも述べましたが、仮にローンが残っている場合で、年齢が70歳以上の場合は、繰上返済をしないほうが良いと思います。無理して返済を優先し、通常資金が不足しては意味がありません。下手に預金を取り崩して目先の資金をなくすのは、愚の骨頂と言うものです。資産価値さえあれば、リバースモゲージの利用も可能ですが、手続きや金利負担を考えれば、そのまま借金として交渉したほうがベターです。もし、可能であれば、非遡及(ノンリコース:特定の事業・資産を対象に融資し、返済はその事業・資産からの収益だけに限定する融資)の条件にしてもらい、日々の資金繰りに余裕を持つことが重要です。ちなみに金融機関は、債務者が破産した場合でも担保不動産を売却することで穴埋めをしてきました。ただし、従来のようなゆるい担保掛目では資金回収が厳しくなるので、ノンリコースローンでLTV(掛目:SPCを使って不動産を証券化する際に簡単に証券化商品の優劣を見分けるための指標の一つ。物件の価値に対する借入金に代表される負債の割合を表す数値で、通常は負債額を物件価格で割って算出する)をはっきりとさせます。
また、一般社団法人移住こ任みかえ支援機構(JTI)では「マイホーム借上げ制度」があり、自宅を賃貸してくれるうえ、その賃料で自らは好きな場所に住めるという状況を実現してくれます。これら住宅に関する運用については、第Ⅳ章で詳細を述べます。
もし、それが嫌なら、とっとと自宅を売却して、現預金を増やすか、他の投資を行うかです。たとえば、高価値の自宅不動産を売却し、その代金の一部でワンルームマンションなど、終活用の自宅を購入する選択肢もあるでしょう。しかし、不動産売却で利益が出た場合、納税が発生します。買替特例が使えれば、税負担は解消されますが、引っ越しに伴う、整理や掃除も大変なのは事実です。
③は男性でも言えることですが、生命保険は受け取る人がいないなら不要です。むしろ、60歳以降の女性でよく見かけるのが骨折です。骨粗髭症ではなくても、加齢に伴って骨がもろくなっています。特に、自転車を利用する人で腕を骨折する人が多いようです。何かにつまずいて腰を骨折する人もいます。その確率は低くないので治療費を保険でカバーします。骨折で歩けなくなくなると、運動不足だけでなく、認知症の進行が早まるとも言われています。こうなると要介護の世界に入っていきます。
④は当面、どこを歩いても年寄りだらけです。単身や独身の人は溢れています。家に籍る必要はなく、たくさんおめかしするのも自由です。自らが積極的に動けば、人は群れます。不必要なわだかまりを捨て、マナーさえ弁えていれば、小さなコミュニティヘのデビューは難しくありません。その時の心得として、上野千鶴子さんが著書『「女縁」を生きた女たち』のなかで、「女縁の七戒」として、「夫の職業は言わない、聞かない」「子供のことは言わない」「自分の学歴は言わない」「お互い『奥さん』とは呼び合わない」「おカネの貸し借りはしない」「女縁をカネもうけの場にしない」「相手の内情に深入りしない」の7つのアドバイスをされています。
キャリアウーマン
大学を卒業して、一般的な男性と同じように就職し、定年まで勤め上げた女性は、男性と考え方や当面の対処方法は大きく変わらないと思われます。
ただし、平均寿命を考えると、10年近く男性より長生きすることになります。60歳の女性の5人に1人が96歳まで生きる時代です。十分な年金支給があれば、生活を担保できますが、病気や怪我のほか、認知症状の進行などで自立できないことも考えられます。しかも、物価も消費税も上がるかもしれません。おカネはいくらあっても足りません。
ここで重要になってくるのが、住まいの問題、つまり自宅が賃貸か所有かです。単身で戸建てを維持管理するのは大変です。防犯や火災のリスクも、マンションに比べ大きくなっていきます。特に都会に住んでいる場合は、土地の固定資産税もばかになりません。
賃貸の場合は、毎月の賃料負担がどれくらいかが重要です。生活費のどれくらいを占め、収入の範囲で収まるのか否かなど、頭がはっきりしているうちに計算しておいたほうが良さそうです。
所有の場合は、リバースモゲージの対象になる不動産か否かを知っておくことが重要となります。分譲マンションの場合は、管理費や修繕積立金アップを見込んでおく必要があります。また、両親が所有している不動産がある場合、最終的に相続人が1人であれば相続争いは発生しませんが、兄弟姉妹がいる場合は先手必勝です。たとえば、家族信託(民事信託の一種)で目ぼしい不動産を事前に自分を受託者としておけば、他の兄弟姉妹からの遺留分請求があっても、最終的には不動産ではなく、金銭で解決できる可能性が高くなってきます。
同様な仕組みは遺言信託でも用意されていますが、費用の面では家族信託のほうが安いと言われています。知人に弁護士や司法書士などがいれば、契約書の作成から物件管理者の紹介なども行ってくれます。ただし、相続争いが予想されない、あるいは相続財産が高額ではない(非課税)場合は、どちらにしても手数料が発生しますので、他人への委託や委任は極力少なくすることが賢明です。
また、相応の現預金や資産がある人は、有料老人ホームヘ入居することも考えられます。どのレベルの施設に入居するかは、おカネ次第です。億単位の施設もあれば、数百万円の入居保証金で済む施設もあります。ただし、健康体であるか、健常者であるかに加え、加齢に伴って、その程度が変わりますので、先のことを考えてから、施設の選択はしたほうが良いと思います。
さらに、日本国内での地方への移住や海外へのロングステイや移住も一考の価値ありでしょう。医療費や介護の心配はあるでしょうが、新興国などでは物価が安いので、健康保険適用がなくても負担は大きくありません。ただし、先進医療の場合は帰国が条件となることもありますので、そこは覚悟が必要です。
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ホロヴィッツとラフマニノフ
『ホロヴィッツ』より ラフマニノフ
ラフマニノフとの出会い
一九二七年秋からのシーズンでも、ホロヴィッツは前年に続き、ペルリン・フィルハーモニーの演奏会に出演した。このときはフルトヴェングラーではなく、ブルーノ・ワルター(一八七六~一九六二)の指揮だった。ワルターはベルリン・フィルハーモニー首席指揮者の座をフルトヴェングラーに奪われた後も、年に数週間のコンサートを受け持っており、そのひとつ、十一月七日のコンサートにホロヴィッツが呼ばれ、チャイコフスキーの協奏曲第一番を弾いたのだ。
フルトヴェングラーとは異なり、ワルターとなら、うまくやっていけそうだった。
ベルリンでは十一月二十五日にショパンだけのプログラムのリサイタルもして、興行的には大成功した。しかしブラームスもショパンもベルリンでの批評は、技巧は素晴らしいが音楽性--情緒に欠けるとか、叙情性がないとか、詩情がないと叩かれた。
ヨーロッパでの演奏を終えると、一九二七年十二月二十四日に、ホロヴィッツはニューヨークヘ向かった。十二日間の船旅だった。
彼は大西洋で新年を迎え、一月六日にニューヨーク港へ到着した。十二週間で三十六回の演奏会が待っていた。興行師アーサー・ジャドソン(一八八一~一九七五)がそれだけの契約を取っていたのだ。そのうちの十六回はオーケストラとの共演だった。
ニューヨークに着いて二日後、ホロヴィッツはついに憧れの人--ラフマニノフと対面した。
ラフマニノフは、ホロヴィッツの師であるブルーメンフェルトからの一九二二年の手紙で、この青年のことは知っていた。さらに友人であるフリッツ・クライスラー(一八七五~一九六二)がパリでホロヴィッツを聴いており、その感想を語っていたので、ラフマニノフはこの青年に興味を抱いていたのだ。かつてキエフで、ピアノを聴くと約束しながらすっぽかしたことは忘れているようだった。
ラフマニノフは一九一八年十一月にアメリカヘ渡ると、しばらくヨーロッパでは演奏していなかったが、一九二二年春に渡欧し、以後はアメリカとヨーロッパとが彼のコンサート・ピアニストとしての活動の場となっていた。一九二四年からは春から夏をヨーロッパで過ごし、秋か年末にニューヨークヘ戻るようになった。
アメリカで暮らすようになってからのラフマニノフは、自分で演奏するためにシューベルトの歌曲やロシア民謡、あるいはクライスラーのヴァイオリン曲などの編曲の仕事はしていたが、オリジナル曲は書いていなかった。ラフマニノフはインタビューで「ロシアから去り、作曲する望みを喪った。祖国を喪い、私は自分自身を喪った」と答えている。
だが一九二五年、ようやく創作意欲が湧いてきたので、演奏活動を休止して、作曲に取り掛かろうとした。まずは、ピアノ協奏曲だった。しかし一九二六年になっても、ラフマニノフの協奏曲第四番は完成しなかった。そのままにして四月にはニューヨークを発ってパリヘ向かい、-娘と孫と再会した。夏はドレスデンで過ごし、九月からはフランスのカンヌに別荘を借りて過ごし、協奏曲第四番を書き上げた。つづいて「オーケストラと合唱のための歌曲」も書いた。前者が作品四〇、後者が四一となる。
ラフマニノフが演奏活動に復帰するのは一九二七年一月二十日で、このシーズンは三十四回の演奏会があった。そのなかには、三月のレオポルト・ストコフスキー(一八八二~一九七七)指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏会での協奏曲第四番の初演もある。この曲はフィラデルフィアとニューヨークで演奏されたものの、不評だった。第一楽章の唐突な終わり方が時代に早過ぎた。
自信をもって書いた第四番の不評で、ラフマニノフは再び作曲をしなくなってしまう。
一九二七年秋から年末年始までのヨーロッパでの演奏を終えてニューヨークヘ戻ったところで、ラフマニノフは一九二八年一月に若き天才ホロヴィッツと対面するのである。
一九二八年、ラフマニノフはコンサート・ピアニストのみならずレコードでも成功し、演奏家として頂点に立っていた。その名声はアメリカのみならずヨーロッパにも広がっていた。
世代を超えた二人のピアニストは、スタインウェイ社の地下で協奏曲第三番を弾いた。ラフマニノフが第ニピアノでオーケストラのパートを伴奏したのだ。ラフマニノフはホロヴィッツの演奏に満足した。二十五歳になるホロヅィッツと五十五歳になるラフマニノフとの友情の始まりだった。
ニューヨーク・デビュー
一九二八年一月十二日の、ホロヴィッツのニューヨーク・フィルハーモニックヘのデビューは、ラフマニノフ作品ではなく、かつてハンブルクで奇蹟を生んだチャイコフスキーだった。指揮は、この時がアメリカ・デビューとなるイギリスのサー・トマス・ビーチャム(一八七九~一九六一)である。
ビーチャムはソリストが主役となるべき協奏曲でも派手に動いて、自分が目立とうするソリスト泣かせの指揮者だった。ソリスト、指揮者、オーケストラの三者はいずれも初顔合わせである。あまりいい条件ではない。しかしハンブルクはもっと悪い条件だったのだ。ホロヴィッツは気にせずに臨むことにした。
だがリハーサルが始まると、二人の解釈、テンポがあまりにも違うことが判明した。ビーチャムは一応ソリストの権利を尊重するつもりのようで、リハーサルではホロヅィッツのテンポに合わせた。だが、この巨匠はそうは甘くなかった。本番になると、ビーチャムは最初の小節から、リハーサルよりもずっと遅いテンポで始めたのだ。
話が違う--ホロヴィッツには信じられなかった。しかし曲は始まっている。ホロヴィッツは、自分か弾くところでは自分のテンポに戻そうとしたが、ビーチャムはテンポを変えない。ホロヴィッツは動揺した。とにかく、ビーチャムのテンポで弾くしかない。何十人ものオーケストラとひとりのピアニストのテンポが違えば、ピアニストが間違えたと客は思うだろう。
しかしそれにしてもひどい指揮者だ--ホロヴィッツは憤慨していた。そして焦っていた。客を熱狂させなければ意味がないのだ。自分はすさまじいスピードとパワーが売り物なのだ。それを封印されたのでは、凡庸なピアニストと思われてしまう。
ホロヴィッツの視界に、席を立って帰っていく何人かの客の姿が入った。退屈なのだ。自分でも分かっていた。ビーチャムのテンポでは駄目だ。アメリカで失敗したらロシアに帰るしかない--そんなことは絶対に厭だった。
そうこうしているうちに第二楽章となった。緩徐楽章なので、ホロヴィッツとしても勝負を賭けるところではない。すると、ワルツ風のアレグロとなるところで、ビーチャムが金管とティンパニヘの合図を出し損なった。ビーチャムは暗譜で振っていたが、実はよく覚えていないのだ。オーケストラの奏者たちはそれを分かっていたので、彼らはビーチャムではなく楽譜を見ており、間違えなかった。
ホロヴィッツは決断した。どうせ、オーケストラは指揮者なんか信用していない。こっちのテンポでやればついてくるだろう。
最終楽章に入ると、ホロヅィッツはビーチャムを無視した。すさまじい速さで弾き始めたのだ。オーケストラは必死でついていこうとした。ビーチャムはおろおろするだけだった。
もはや若いピアニストとオーケストラとの闘いだった。ホロヴィッツはオーケストラがついてこようが、もたもたしようが、ばらばらになろうが、おかまいなしに自分のテンポで弾いた。合わせる気はなかった。第三楽章のフィナーレでは、ホロヴィッツとオーケストラはまったく合っていなかった。すさまじい競争にホロヴィッツは勝った。
観客は打ちのめされた。呆気に取られた。すさまじい拍手が沸き起こり、それはオーケストラがステージから退場しても続いた。聴衆は指揮者ではなく、ホロヴィッツを支持したのだ。ホロヴィッツは満足した。闘いに勝利したのだ。
しかしそれは「音楽」ではなかったのかもしれない。楽屋を訪れたラフマニノフは言った。
「君のオクターヅ奏法は誰にもできないほど速いし、音量も大きい。しかしあえて言えば、音楽的ではないね。チャイコフスキーには、あんなスピードも音量も必要ないよ」
「分かっています。でも、僕は今日ここで成功しないと、ロシアヘ帰らなければならない羽目に陥るところだったんですよ」
ラフマニノフはじっとホロヴィッツを見つめた。そして、若いピアニストの肩を叩き、大笑いした。分かってくれたのだ。
ある批評家はこう書いた。「鍵盤から煙が出た」。
別の批評家は酷評した。「ピアノ演奏の堕落の極致を露呈」。
賛否両論だったが、これがホロヴィッツとアメリカ合衆国との幸福な出会いの始まりだった。
ホロヴィッツはナイーヴな青年だったが、戦略的思考のできる人間だった。何をすれば聴衆が喜び、それによっていくら稼げるかを計算して行動した。アメリカのコマーシャリズムのなかで生きていける資質があった。
このビーチャム指揮ニューヨークーフィル(ーモニックのコンサートは放送されたが、残念ながら録音は遺っていないようだ。
ピアノ協奏曲第三番
このシーズン、ホロヴィッツはアメリカに三ヵ月滞在し、三十六回の演奏会で弾いた。そのうちの十六回は各地のオーケストラとの共演だった。ニューヨークではチャイコフスキーでデビューしたが、それ以外の都市では、ラフマニノフやブラームス、リストの協奏曲を弾くことになっていた。
ラフマニノフは改めてホロヴィッツを自宅に招き、彼の協奏曲第三番についてアドバイスした。彼が言うには、この曲が成功したのは一九一〇年一月十六日のマーラーが指揮したニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会のみだった。ラフマニノフはこのときが初めてのアメリカ・ツアーで、アメリカで初演するために作ったのが第三番だった。初演は前年十一月にウォルター・ダムロッシュ(一八六二~一九五〇)指揮のニューヨーク交響楽団だったが、アメリカ各地で演奏した後、再びニューヨークヘ行き、当時マーラーが指揮していたフィルハーモニックと演奏したのだ。このときはマーラーが指揮したこともあってか、絶賛されたが、それ以外は聴衆も批評家もこの曲を賞賛してくれなかった。いまもそうだが、第二番のほうが圧倒的に人気が高かったのだ。とはいえ、ラフマニノフは生涯に八十五回も第三番を演奏するので、自信作であり人気もあったはずだ。
第三番は「彼らには複雑すぎたようだ」とラフマニノフは彼なりに総括していた。ラフマニノフ自身が弾いても思ったような賞賛を得られなかった第三番は、しかし、ホロヴィッツによって絶賛を得る。
ホロヅィッツはラフマニノフの三番を、各地で演奏し成功すると、再びニューヨークヘ乗り込んだ。
今度はラフマニノフと初演したウォルター・ダムロッシュ指揮のニョーヨーク交響楽団と共演するのだ。
ニューヨークでもホロヴィッツのラフマニノフの第三番は大成功した。この演奏を聴いたラフマニノフは満足すると同時に、この曲を自分はこんなにもうまく弾けないとも思った。しかしそれでいいのだ。ラフマニノフは自分の「作曲」が間違っていなかったことを再確認した。
ラフマニノフとの出会い
一九二七年秋からのシーズンでも、ホロヴィッツは前年に続き、ペルリン・フィルハーモニーの演奏会に出演した。このときはフルトヴェングラーではなく、ブルーノ・ワルター(一八七六~一九六二)の指揮だった。ワルターはベルリン・フィルハーモニー首席指揮者の座をフルトヴェングラーに奪われた後も、年に数週間のコンサートを受け持っており、そのひとつ、十一月七日のコンサートにホロヴィッツが呼ばれ、チャイコフスキーの協奏曲第一番を弾いたのだ。
フルトヴェングラーとは異なり、ワルターとなら、うまくやっていけそうだった。
ベルリンでは十一月二十五日にショパンだけのプログラムのリサイタルもして、興行的には大成功した。しかしブラームスもショパンもベルリンでの批評は、技巧は素晴らしいが音楽性--情緒に欠けるとか、叙情性がないとか、詩情がないと叩かれた。
ヨーロッパでの演奏を終えると、一九二七年十二月二十四日に、ホロヴィッツはニューヨークヘ向かった。十二日間の船旅だった。
彼は大西洋で新年を迎え、一月六日にニューヨーク港へ到着した。十二週間で三十六回の演奏会が待っていた。興行師アーサー・ジャドソン(一八八一~一九七五)がそれだけの契約を取っていたのだ。そのうちの十六回はオーケストラとの共演だった。
ニューヨークに着いて二日後、ホロヴィッツはついに憧れの人--ラフマニノフと対面した。
ラフマニノフは、ホロヴィッツの師であるブルーメンフェルトからの一九二二年の手紙で、この青年のことは知っていた。さらに友人であるフリッツ・クライスラー(一八七五~一九六二)がパリでホロヴィッツを聴いており、その感想を語っていたので、ラフマニノフはこの青年に興味を抱いていたのだ。かつてキエフで、ピアノを聴くと約束しながらすっぽかしたことは忘れているようだった。
ラフマニノフは一九一八年十一月にアメリカヘ渡ると、しばらくヨーロッパでは演奏していなかったが、一九二二年春に渡欧し、以後はアメリカとヨーロッパとが彼のコンサート・ピアニストとしての活動の場となっていた。一九二四年からは春から夏をヨーロッパで過ごし、秋か年末にニューヨークヘ戻るようになった。
アメリカで暮らすようになってからのラフマニノフは、自分で演奏するためにシューベルトの歌曲やロシア民謡、あるいはクライスラーのヴァイオリン曲などの編曲の仕事はしていたが、オリジナル曲は書いていなかった。ラフマニノフはインタビューで「ロシアから去り、作曲する望みを喪った。祖国を喪い、私は自分自身を喪った」と答えている。
だが一九二五年、ようやく創作意欲が湧いてきたので、演奏活動を休止して、作曲に取り掛かろうとした。まずは、ピアノ協奏曲だった。しかし一九二六年になっても、ラフマニノフの協奏曲第四番は完成しなかった。そのままにして四月にはニューヨークを発ってパリヘ向かい、-娘と孫と再会した。夏はドレスデンで過ごし、九月からはフランスのカンヌに別荘を借りて過ごし、協奏曲第四番を書き上げた。つづいて「オーケストラと合唱のための歌曲」も書いた。前者が作品四〇、後者が四一となる。
ラフマニノフが演奏活動に復帰するのは一九二七年一月二十日で、このシーズンは三十四回の演奏会があった。そのなかには、三月のレオポルト・ストコフスキー(一八八二~一九七七)指揮のフィラデルフィア管弦楽団の演奏会での協奏曲第四番の初演もある。この曲はフィラデルフィアとニューヨークで演奏されたものの、不評だった。第一楽章の唐突な終わり方が時代に早過ぎた。
自信をもって書いた第四番の不評で、ラフマニノフは再び作曲をしなくなってしまう。
一九二七年秋から年末年始までのヨーロッパでの演奏を終えてニューヨークヘ戻ったところで、ラフマニノフは一九二八年一月に若き天才ホロヴィッツと対面するのである。
一九二八年、ラフマニノフはコンサート・ピアニストのみならずレコードでも成功し、演奏家として頂点に立っていた。その名声はアメリカのみならずヨーロッパにも広がっていた。
世代を超えた二人のピアニストは、スタインウェイ社の地下で協奏曲第三番を弾いた。ラフマニノフが第ニピアノでオーケストラのパートを伴奏したのだ。ラフマニノフはホロヴィッツの演奏に満足した。二十五歳になるホロヅィッツと五十五歳になるラフマニノフとの友情の始まりだった。
ニューヨーク・デビュー
一九二八年一月十二日の、ホロヴィッツのニューヨーク・フィルハーモニックヘのデビューは、ラフマニノフ作品ではなく、かつてハンブルクで奇蹟を生んだチャイコフスキーだった。指揮は、この時がアメリカ・デビューとなるイギリスのサー・トマス・ビーチャム(一八七九~一九六一)である。
ビーチャムはソリストが主役となるべき協奏曲でも派手に動いて、自分が目立とうするソリスト泣かせの指揮者だった。ソリスト、指揮者、オーケストラの三者はいずれも初顔合わせである。あまりいい条件ではない。しかしハンブルクはもっと悪い条件だったのだ。ホロヴィッツは気にせずに臨むことにした。
だがリハーサルが始まると、二人の解釈、テンポがあまりにも違うことが判明した。ビーチャムは一応ソリストの権利を尊重するつもりのようで、リハーサルではホロヅィッツのテンポに合わせた。だが、この巨匠はそうは甘くなかった。本番になると、ビーチャムは最初の小節から、リハーサルよりもずっと遅いテンポで始めたのだ。
話が違う--ホロヴィッツには信じられなかった。しかし曲は始まっている。ホロヴィッツは、自分か弾くところでは自分のテンポに戻そうとしたが、ビーチャムはテンポを変えない。ホロヴィッツは動揺した。とにかく、ビーチャムのテンポで弾くしかない。何十人ものオーケストラとひとりのピアニストのテンポが違えば、ピアニストが間違えたと客は思うだろう。
しかしそれにしてもひどい指揮者だ--ホロヴィッツは憤慨していた。そして焦っていた。客を熱狂させなければ意味がないのだ。自分はすさまじいスピードとパワーが売り物なのだ。それを封印されたのでは、凡庸なピアニストと思われてしまう。
ホロヴィッツの視界に、席を立って帰っていく何人かの客の姿が入った。退屈なのだ。自分でも分かっていた。ビーチャムのテンポでは駄目だ。アメリカで失敗したらロシアに帰るしかない--そんなことは絶対に厭だった。
そうこうしているうちに第二楽章となった。緩徐楽章なので、ホロヴィッツとしても勝負を賭けるところではない。すると、ワルツ風のアレグロとなるところで、ビーチャムが金管とティンパニヘの合図を出し損なった。ビーチャムは暗譜で振っていたが、実はよく覚えていないのだ。オーケストラの奏者たちはそれを分かっていたので、彼らはビーチャムではなく楽譜を見ており、間違えなかった。
ホロヴィッツは決断した。どうせ、オーケストラは指揮者なんか信用していない。こっちのテンポでやればついてくるだろう。
最終楽章に入ると、ホロヅィッツはビーチャムを無視した。すさまじい速さで弾き始めたのだ。オーケストラは必死でついていこうとした。ビーチャムはおろおろするだけだった。
もはや若いピアニストとオーケストラとの闘いだった。ホロヴィッツはオーケストラがついてこようが、もたもたしようが、ばらばらになろうが、おかまいなしに自分のテンポで弾いた。合わせる気はなかった。第三楽章のフィナーレでは、ホロヴィッツとオーケストラはまったく合っていなかった。すさまじい競争にホロヴィッツは勝った。
観客は打ちのめされた。呆気に取られた。すさまじい拍手が沸き起こり、それはオーケストラがステージから退場しても続いた。聴衆は指揮者ではなく、ホロヴィッツを支持したのだ。ホロヴィッツは満足した。闘いに勝利したのだ。
しかしそれは「音楽」ではなかったのかもしれない。楽屋を訪れたラフマニノフは言った。
「君のオクターヅ奏法は誰にもできないほど速いし、音量も大きい。しかしあえて言えば、音楽的ではないね。チャイコフスキーには、あんなスピードも音量も必要ないよ」
「分かっています。でも、僕は今日ここで成功しないと、ロシアヘ帰らなければならない羽目に陥るところだったんですよ」
ラフマニノフはじっとホロヴィッツを見つめた。そして、若いピアニストの肩を叩き、大笑いした。分かってくれたのだ。
ある批評家はこう書いた。「鍵盤から煙が出た」。
別の批評家は酷評した。「ピアノ演奏の堕落の極致を露呈」。
賛否両論だったが、これがホロヴィッツとアメリカ合衆国との幸福な出会いの始まりだった。
ホロヴィッツはナイーヴな青年だったが、戦略的思考のできる人間だった。何をすれば聴衆が喜び、それによっていくら稼げるかを計算して行動した。アメリカのコマーシャリズムのなかで生きていける資質があった。
このビーチャム指揮ニューヨークーフィル(ーモニックのコンサートは放送されたが、残念ながら録音は遺っていないようだ。
ピアノ協奏曲第三番
このシーズン、ホロヴィッツはアメリカに三ヵ月滞在し、三十六回の演奏会で弾いた。そのうちの十六回は各地のオーケストラとの共演だった。ニューヨークではチャイコフスキーでデビューしたが、それ以外の都市では、ラフマニノフやブラームス、リストの協奏曲を弾くことになっていた。
ラフマニノフは改めてホロヴィッツを自宅に招き、彼の協奏曲第三番についてアドバイスした。彼が言うには、この曲が成功したのは一九一〇年一月十六日のマーラーが指揮したニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会のみだった。ラフマニノフはこのときが初めてのアメリカ・ツアーで、アメリカで初演するために作ったのが第三番だった。初演は前年十一月にウォルター・ダムロッシュ(一八六二~一九五〇)指揮のニューヨーク交響楽団だったが、アメリカ各地で演奏した後、再びニューヨークヘ行き、当時マーラーが指揮していたフィルハーモニックと演奏したのだ。このときはマーラーが指揮したこともあってか、絶賛されたが、それ以外は聴衆も批評家もこの曲を賞賛してくれなかった。いまもそうだが、第二番のほうが圧倒的に人気が高かったのだ。とはいえ、ラフマニノフは生涯に八十五回も第三番を演奏するので、自信作であり人気もあったはずだ。
第三番は「彼らには複雑すぎたようだ」とラフマニノフは彼なりに総括していた。ラフマニノフ自身が弾いても思ったような賞賛を得られなかった第三番は、しかし、ホロヴィッツによって絶賛を得る。
ホロヅィッツはラフマニノフの三番を、各地で演奏し成功すると、再びニューヨークヘ乗り込んだ。
今度はラフマニノフと初演したウォルター・ダムロッシュ指揮のニョーヨーク交響楽団と共演するのだ。
ニューヨークでもホロヴィッツのラフマニノフの第三番は大成功した。この演奏を聴いたラフマニノフは満足すると同時に、この曲を自分はこんなにもうまく弾けないとも思った。しかしそれでいいのだ。ラフマニノフは自分の「作曲」が間違っていなかったことを再確認した。
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