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パートナーから1年ぶりのメール

なんと、パートナーからメールが来ました。1年以上明いています。電話するとのこと。

まるで、1年間の空白があったとは思えない。内容もトーンもまるで同じだった。終了10分位を雑談に当てた。

これでまた、メールを待つことになるんでしょう。半年かかって忘れた習慣。
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天声人語2017年7月-12月 本に関する事柄

『天声人語2017年7月-12月』より

夏と旅と本 7・10

 断言していいが、本は読む場所によって表情を変える。机の上ではいかめしく取っつきにくかった一冊が、静かな喫茶店に持ち込むとやさしく語りかけてくる。読みかけの本でも見知らぬ土地で開くと、新鮮な感じがしてくる。
 数冊をカバンに入れ、目的のない日帰り旅行をする。そんな楽しみがあると、書評家の岡崎武志さんが『読書の腕前』で書いている。夏休みなど学校の長期休暇のときに使える「青春18きっぷ」を手に、本を読むための旅に出る。
 ときにはページから目を離して車窓の景色を眺めたり、乗り込んできた学生服の集団の大声に耳を傾けたり。「移動しながら、それぞれの土地の空気を取り込みつつ、本も読むのである」。昔読んだ小説を読み返すのも、この旅には向いているという。
 読書週間は秋だが、夏も本に親しむのにふさわしいと感じるのはなぜだろう。学校時代の読書感想文を引きずっているせいか。夏に盛んになる文庫本の宣伝に影響されているのか。いずれにせよ風の通りのいいところを見つけて好きな本を開くのは、何ともいえないぜいたくである。
 寺山修司の句に〈肉体は死してびつしり書庫に夏〉がある。いまはこの世にいない著者たちの思索や魂に触れる。そんな読書は、ひと夏の間に一皮も二皮もむけたような気にさせてくれる。
 夏本番が近い。旅行を計画しているなら、お供の数冊を少し時間をかけて選びたい。読みたい本が見当たらない?それでは、旅先で出会うI冊に期待しよう。

書店ゼロの自治体が2割に 8・25

 人との出会いと同じく、本との出会いにも偶然のおもしろさがある。目当ての本を探して歩く図書館でばったり。友人の本棚でばったり。そして本屋さんの店先で、手招きする本がある。
 大きな書店でなく「本や」という雰囲気を持った小さな店が好きだと、詩人の長田弘さんが書いている。本の数は少ないけれど構わない。「わたしは『本や』に本を探しにゆくのではない。なんとなく本の顔をみにゆく」のだから。
 小さい店だから、ほとんど全部の棚をのぞく。自分の関心の外にある本、予期しなかった本がある。とくに夜、静かな店で「まだ知らない仲の本たちと親密に話をするのは、いいものだ」。そして1冊を買う。
 まちの小さな本屋は、とりわけ子どもたちにとって、知らない世界への入り口でもあった。作家の町田康さんが小中学生の頃を振り返って書いている。ひとりで書店に行き、新しい文庫本を手にすることで「頭のなかにおいて、どんどん遠いところに行くようになったのである」。
 そんな場所は残念ながら、減る一方のようだ。書店が地域に一つもない「書店ゼロ自治体」が増えていると記事にあった。自治体や行政区の2割を超えるという。消えてしまった店を思い起こした方もおられるか。
 ネットで頼めば自宅に届く。車で大型店に行けば話題の新刊が手に取れる。まちの本屋が減る理由は、本好きであるほど思い当たるかもしれない。豊かな出会いの場とは何だろう。読書の秋を前に、考え込んでしまう。

文庫本のたのしみ 10・16

 文芸春秋の社長が先日、全国図書館大会に出席して、「できれば図書館で文庫の貸し出しをやめてほしい」と呼びかけた。出版不況が続くなか、せめて文庫本は自分で買ってもらえないか。そんな思いなのだろう。
 一方の図書館でも、持ち運びやすい文庫は利用者に人気だという。簡単に手を引くことはなさそうだ。出版社のビジネスにしても、図書館のサービスにしても、小さな本が大きな存在感を持っている。
 もともと古典や文芸作品を廉価で読めるのが文庫だった。1970年代に角川書店が映画と組み合わせて売るようになり、娯楽小説が充実してきたと記憶する。もちろん埋もれた良書を再び世に出す役割も健在である。「こんな本があったのか」と驚かされる瞬間は楽しい。
 作家の川上未映子さんが岩波文庫を例にあげ、変わった本の選び方を勧めている。書店の棚の前に立ち、目をつぶる。手を伸ばして指先に触れた最初の本を買い、必ず読み切る。難しそうでも、書名の意味すらわからなくても。
 それが「自分の知らない何かに出合うこと」「自分の意識からの束の間の自由を味わってみること」の実践なのだと書いている(『読書のとびら』)。世の評価を得た作品の多い文庫本ならではの試みだろう。
 そこまでの勇気はないものの、千円でおつりがくる文庫なら、なじみのない分野にもついつい手が伸びる。気づけば積ん読が増えている。それでも新たな出合いを求め、書店に入れば文庫の棚へと一直線なのである。

予想もつかないABC 12・18

 インド出身の数学者ラマヌジャン(1887~1920)は英国滞在中、台所で豆のスープを作ろうとして挫折した。並外れた数字好き。豆20粒を何通りに分けられるか気になり、調理を忘れる。豆粒の数が何であっても使える公式を求めて没頭したという。
 「整数の一つ一つが彼の友人のようだ」。英国の数学者たちもラマヌジャンの力量には舌を巻いたが、もとは独学である。なぜそんな発見を次から次に?問われると「眠っている間にインドの女神が舌に数を書く」と答えたと評伝にある。
 京都大の望月新一教授(48)の夢枕にも数学の女神が舞い降りたのだろうか。難問「ABC予想」を証明したとする論文が専門誌に掲載される見通しになった。
 整数a、bの和cと、abcそれぞれの素因数の積との特別な関係を論じたという。寸毫も理解できぬ身ながら、「整数論における最大級の未解決問題」と聞けば心は躍る。
 望月氏は米名門プリンストン大に16歳で入学し、19歳で卒業する。23歳で博士号を得て、32歳で京都大の教授に就いた。5年前に公表した論文の内容を確かめるため、一級の数学者たちが査読を続けてきた。
 小数、分数、無理数、複素数--。学校で習った「数」はいろいろあるが、最もおなじみの整数について数学界の俊英たちは全身全霊をかけて挑み続けている。何ごとによらず、手軽にわかり瞬時に広まるものが称揚される時代である。天分と情熱に恵まれた求道者のみが到達できる数学的真理を思う。
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家族という制度そのものの不安定化(流動化)

『友情の哲学』より 家族と友情

昨今、友達関係が注目を集めているもう一つの理由は、先にも触れたように、家族という制度それ自体がぐらついていることだ。家族が頼‐りにならなくなっているものだから、その代用品して、友達関係に目が向けられるようになっているという面がある。今から五〇年ほど前、学生運動の盛り上がりの中で、「家族解体」を叫び家族制度を壊そうとする試みがなされたのだが、そういう思惑とは全く独立に、家族はひとりでに解体しつつある観がある。

その際、友達関係に期待されているのは何か。ケア(世話、介護)である。ヤーノシュ・ショビンの本はそのものずばり「友達関係とケア」と題されている。この本の冒頭は次のように始まるのだ。ドイツ社会の未来をめぐる公共の議論の中で、友達関係が社会的希望の避難場所になってしまった。

私たちは、すべての人と濃密な関係を結びながら生きているわけではない。手持ちのエネルギーや感情には限りがあり、それを一部の人に配分しながら生きている。人間関係のエコノミーだ。私たちは大切な他者とそうではない他者の区別(差別)の中を生きているということだ。そして、大切な他者と聞いてまず思い浮かぶのは家族だろう。家族が大切な存在である、ということは、他の人との関係は、二の次三の次になる、ということでもある。そのようにして、家族があるがために、他の人々との関係は疎遠になる。そして、家族からは、濃厚なケアを期待することにもなる。その家族という制度が、どんどんあてにならなくなってきているのだ。そこで「友達」に出番が回ってくる、と言うとすれば、これはあまりにも虫の良い考え方だ、という感想を抱く人がいるとしても無理はない。

ショービンの診断は、さらに次のように続いていく。出産の割合が、全体として、人口を維持するために必要な下限をはるかに下回り、離婚率が五〇%前後であるような社会にあって、親戚関係のシステムがどのように変容するか、単純な思考実験をしてみるなら、その人は、以下のような結論にたどり着かずにはすむまい。家族や親戚は、将来、希少な資産になるだろう、と。家系図には、必然的に、無数の行き止まりやすかすかの枝々が出てこざるをえない。配偶者のいない一人っ子で、両親共にI人っ子である人には配偶者がいないだけではない。兄弟姉妹、おじやおばもいない。いとこもいない。唯一の家族のつながりは、両親と祖父母だけ、ということになる。--こうして、友達関係に出番が回ってくるのだ。思考実験的には、次のような打開策が大いに考えられるところとなる。パートナーも子供もいない人は、友達のことを考えるべきだ。なにしろ、どれほど出生率が低くても、どれほどパートナー関係がぐらついても、友達は、希少になるわけではないからだ。

一九五六年に京都の田舎の農村に生まれた私には、父方母方にそれぞれ三組のおじ/おばが(計六人)おり、いとこが合計で一二人いる。妹が二人いて、甥姪が四人いる。「唯一の家族のつながりは、両親と祖父母だけ」というのとは、大きな違いだ。両親共に四人きょうだいというのは当時(一九二〇-三〇年代)としては平均だったのだろう。私の世代になると二人きょうだいが既に多数派であったかもしれないが、きょうだい三人が多いという感覚はなかった(平均は、二人と三人の間だったに違いない)。

ショービンのこの診断は、親戚関係に光をあてることによって強い印象を喚起することに成功しているわけだが、しかし、問題の根本は、家族関係の縮小にこそある。親戚関係が小さくなったから家族関係も小さくなったわけではない。その逆だ。

こうも言えるのではないか。人生は長くなった、家族は小さくなった。小さくなってしまった家族に、長くなった人生の問題を今までどおりに押しつけることには無理がある、と。人生が長くなれば、そこで発生する問題(トラブル)も確実に多くならずにはすまない。長い老後を支える(ケアする)だけの力が、小さな(縮小してしまった)家族にはもはや期待できない、ということではないか。にもかかわらず、私たちは、依然として家族を当てにしすぎているように感じられる。

「家族の縮小」というが、単に子供の数が減っただけではない。家族を築いて生きることが当たり前、という考えが崩れ始めているという事実が指摘されうるだろう。一人で--つまりは、家族を築かずに--生きることを望む人が増えている、とは必ずしも言えないとしても、少なくとも、家族を築くことが人生における様々な選択肢の内の一つに地位低下してしまっている、とは言えるだろう。

前章で見たフーコーは、異性愛の世界の友情の貧しさを批判していると思われるが、それは、家族という制度があるからだと考えていたに違いない--だから、同性愛者がそれをコピーすることにも批判的だっただろう。家族は、友情にとっての大きな障壁だ。逆に言うと、昨今、家族度がぐらついているからこそ友情が注目されているのだとすると、これは友情にとってのチャンスだ、と捉えることもできる。そこからさらに、老後のケアを期待しての友達関係、という発想も生まれている。これは利害がらみの友情だが、不純だからといって切り捨てるべきでないのは、アリストテレスの言う通りだ。少子高齢化社会における友情、という立派な可能性である。
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日本のデジタル化のゆくえ

『デジタル資本主義』より 資本主義のゆくえ 交換様式・技術文化によって変わる将来像

日本のデジタル化のゆくえ

 これまで見てきたように、デジタルは技術であるだけでなく、我々の社会や経済システム、さらには価値観に対しても変革を促す存在である。しかしその未来像は一本道ではなく、我々人間がデジタルとどう付き合っていくか、どう活用するかによってさまざまな道筋が決まってくる。そこで日本にとってデジタルがどういう意味を持つのか、あるいはデジタルでどういう未来を作っていくべきかについても考えてみたいと思う。
 まず現状認識であるが、残念ながら日本は世界のなかでデジタル化が遅れているというのがおおむね共通の認識ではないだろうか。スイスのビジネススクールIMDが発表しているデジタル競争カランキング(2017年)では、日本は63力国中27位となっていて、2013年の20位からも徐々にランクを下げている。日本はデジタルの何が特に低く評価されているかといえば、ビジネスのスピード(57位)、人材(41位)である。
 ビジネスのスピードが遅い原因として、ビジネスカルチャーがその一因になっていることは間違いないだろう。日本企業はやることがはっきりすればその時の行動力は高いが、不明瞭な状態のなかで、とにかくやってから考えよう、というメンタリティには欠けている。ショットガン型(狙いをあまり定めずとにかく数を撃つ)ではなく、ライフル型(慎重に狙いを定めて一発で成功させる)なのである。それに加えて、デジタル・トランスフォーメーションの方向性が明瞭になってきたとしても、成功している既存事業が足かせになってなかなか動けない、ということも大いにあり得るだろう。
 ちなみに2017年の上位5カ国は、1位シンガポール、2位スウェーデン、3位米国、4位フィンランド、5位デンマークである。米国を除けば、上位を占める国は人口規模が小さい先進国で、コンパクトさ(機動力)と高い経済力がアドバンテージになっている。また北欧の国々が上位にランクインしているが、福祉制度が充実していることで、政府や企業が仕組みをデジタルに大きく変えようとしても、そこまで大きな社会不安が巻き起こらないのかもしれない。

デジタルを経済社会の問題解決に生かす

 日本では地方創生が大きな課題となっているなかで、NRIが提言しているように、ローカルハブとなる地方都市が自立した地方経済圏を牽引していくような姿になっていけば、そのコンパクトさを武器に、デジタル化が急速に進む地方が出てくるというシナリオが描けるかもしれない。ただし現状では、地方で産業を担っているのが東京、愛知、大阪などの大都市圏を本社とする企業の工場・研究所というケースも多く、そういった「出先の」事業所同士が横で連携することは非現実的である。その意味では、企業の本社等の地方移転を促進する目的で導入された「地方拠点強化税制」はその効果に期待したい。
 次に人材であるが、そもそも日本は人口減少が始まっていること、また2018年問題と呼ばれているように、18歳以下の人口が2018年から減少期に入ることで、定員割れする大学が増えていくなど環境的には厳しさを増していくだろう。人口減少自体は悪いことだけでもない。人口が増加している国の国民ほど、ロボットやAIに職を奪われるといった、いわゆる「技術失業」の懸念が強く、社会不安にもつながりかねないが、人口減少で労働市場も逼迫している日本においては、そのような懸念は弱く抵抗感も小さい。
 しかしせっかく抵抗感が小さいのに、デジタル活用のアイデアを出す人材が少ないことは致命的であろう。月並みな提言ではあるが、海外からいかに人材を引きつけるかが最重要課題である。
 18世紀の産業革命がなぜフランスやドイツではなく英国で始まったか、についてはさまざまな研究者によって理由が説明されているが、そのひとつが人材である。それまでは、英国よりもフランスの方が科学大国と呼べるような人材を多く抱えていたのだが、ルイ14世による新教徒(ユグノ-)迫害によって、多くの新教徒が英国に亡命した。これらの人々が科学に関する多くの知識と技術を英国にもたらし、産業革命の重要な役割を担ったのである。
 ひるがえって現代を見ると、トランプ政権下の米国が移民に対して厳しい姿勢をとるようになったことで、シリコンバレーで働く移民労働者がカナダなど海外に移住する動きが見られるという。日本は言葉の問題があるし、米国からは距離的に遠く離れているので、それほど簡単に人材を引きつけられないかもしれないが、たとえばアジアの優秀なデジタル人材を引きつける好機と見ることもできるのではないだろうか。
 日本は先進国のなかでも、デジタルが社会経済に及ぼしている影響度が実はかなり大きいのではないかと我々は見ている。第3章でも見たように、無料のデジタルサービスが生み出している消費者余剰の大きさが、対GDP比で米国よりも大きかったとと、さらに日本は欧米先進国以上にインターネットの普及率が高く、デジタルデバイドが小さいことや、第8章でも見たように日本は欧米と比較すると文化や宗教的な背景もあって、ロボットやAIに対する受容度が高いことがその理由である。つまりIMDのデジタル競争カランキングでは捉えきれていない、土壌としての「デジタル受容度」のようなものが世界的に見てもかなり高いのではないかと考えている。
 これを企業の視点から見れば、規制の問題はあるものの、新たなデジタルサービスの実験場であったり、プロトタイプを開発する場として日本は非常に魅力があるということになる。そして日本をホームグラウンドにしている日本企業は、相応のアドバンテージを持っていると言えるのではないか。
 欧米のシェアリング・エコノミー企業は日本に大きな関心を示している。市場への関心だけでなく、何か日本で新しいサービスを生み出せるのではないかという期待感もあるだろう。そうだとすれば、日本のインバウンド強化戦略の一環として外資の誘致や合弁企業等の設立、また外国人人材を日本に引きつけるといった動きも活発化させることで、国としての日本のデジタル・トランスフォーメーションが加速化され、世界を牽引する役割を果たしていけるのではないだろうか。

人間の主観世界の重要さ

 デジタルによって経済社会はどう変わるのか、それが本書の中心テーマである。そしてこの変化を最も象徴しているのが、第3章で紹介した消費者余剰の存在感の高まりではないかと考えている。消費者余剰、つまり人間の主観の領域にデジタルがスポットライトをあててきているのである。ドラッカーが指摘しているように、産業革命はそれまで暗黙知とされてきた職人技(テクネー)を体系化(形式知化)した。それに対してデジタル革命は、センサー技術やネットワークを駆使して、さらに奥深いところに存在する人間の感情や意志のようなものまでを、何とか表出化させようとしているかのように見える。
 それに伴い、ハンナ・アレントが『人間の条件』で論じた「労働」「仕事」「活動」も序列が大きく変わっていく。自分が何者かをさらしていく「活動」の序列が最も高まり、次に人間の想像力をべースに世界を作り出す「仕事」が続く。そして「労働」はロボットやAIに代替されるにつれて序列が下がっていくだろう。序列の完全な転倒が起こるのである。
 デジタル革命というと、ロボットやAIのような客観的存在に注意が行きがちであるが、デジタル化の進展によってむしろ人間の主観領域がより脚光を浴びると考えている。デジタル資本主義では、主観知、実践知、あるいは集合知と呼ばれる知が重要性を増してくるのだ。第7章でも示したように、資本主義システムは、利潤獲得のために顧客のこだわりをこれまで以上に引き出して支払意思額を高めようとするはずである。そこにアナリティクスやAIなどの技術が活用される。
 デジタルによって人間の主観世界がより掘り出されるということは、それによって実現される我々の社会像も、これまで以上に人間の主観に依存するということを意味する。我々人間がどういうデジタル社会を作りたいか、あるいはどういう社会になると考えているか、によって実現する社会像も変わってくるのである。PARTⅢでは2つのフレームワークを紹介したが、デジタルによって、柄谷モデルで言うところのどの領域を強めたいと我々は考えているのか、あるいは川田モデルで言うところの、どの技術文化のもとでデジタルを活用していこうとしているかがカギとなるだろう。その意味で、本書はデジタル社会の未来像について唯一の解を提示しているわけではないが、どのような未来を作り出すかは人間次第、しかもそれはデジタル化の進展でより顕著になると考えている。
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