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部分と全体との「つながリ合い」

『地域文化観光論』より 「地域文化観光論」と「観光学」 部分と全体との「つながリ合い」

部分と全体

 本書『地域文化観光論』が目指しているのは、観光研究における一分野の研究(部分)が観光学という全体的研究とどのようにつながるか、そのつながり方を明らかにすることである。すなわち、観光人類学、観光社会学、観光地理学、観光経済学、観光経営学、観光心理学、観光統計学などの個々の領域の観光研究が、「部分的つながり(partial connections)」を通して「観光学」としての全体をイメージ・展望することを目指している。そのモデルとしては、「観光学の新たな展望」で述べたように、さまざまな研究領域から構成される人類学の分野においてこれまでなされてきた批判の過程を歴史的にたどることが参考になると考える。人類学では「ホーリスティック」な研究を目指し、現地に赴き、現地の言葉や文化を習得し、現地社会で生活するなかで、社会構造、政治・経済、儀礼・信仰・世界観、日常生活など、あらゆる視点から人々のあり方全体を記述することを目指した。しかし1980年代以後のポストモダン人類学では「誰が何をどのように書くか」という研究者にとっての基本的な問いかけに関心が向けられ、全体性を追求する研究そのものも批判の対象となった。今日では「文化を書く」こと自体への批判をいかに乗り越えるかが問題となり、混迷状態に陥っている。その過程を次節で明らかにするが、そのような状況から一歩を踏み出す可能性をもつのがマリリン・ストラザーンが提唱した「部分的つながり」であるように思える。

 観光学ではあらゆる研究分野を網羅した「ホーリスティックな観光研究」が必要であるとまずは主張される。しかしながらそのような方向を目指す研究では、さまざまな要素が混ざり合い研究者のはるか先で激しい変化を遂げている「観光の現実」からますます乖離することになる。「観光の現実」を明らかにするアプローチとして、本書では「地域文化観光」研究が不可欠であり、「部分」ともいえるこの「地域文化観光」がいかに「全体」となる「観光の現実」に「つながる」のか、この両者の関係を個々のうちに全体像がイメージされ全体のなかに個々がイメージされる「部分的つながり」モデルで考える。すると「観光の現実」を明らかにするためには個々の「地域文化観光」を徹底的に研究すべきであるという結論になる。本章では、このような結論にいたるまでの経緯を明らかにする。

「部分的つながり」へ:人類学的研究方法の変遷

 春日直樹『現実批判の人類学』[2011a]の序章の「人類学の静かな革命」を参考にして、人類学の変遷の概略を追ってみよう。人類学では研究室での「比較を主要な方法とする科学」が1850年代後期から姿を現したのを第一期とする。J.フレイザーをその代表とし、西洋の内外の急激な変化がもたらす攬乱的な状況を「文化」という領域として対象化し、地球規模で秩序づけてみせた。第二期では、第一次世界大戦が終結し、西洋各国が国民国家を完成させ、植民地統治機構を整備していくにともない、人類学研究者は自ら調査地に赴いて「ホーリスティックな」民族誌を書き上げようとした。各学問分野が自らの専門性を強く打ち出し学問間の壁も高くなり、専門性を誇った。高い壁に守られ確立した方法論で研究を進めることができた第二期の幕引きにポストモダン人類学が決定的な役割を果たした。

 1978年に出版されたE.サイードの『オリエンタリズム』[1986]以後、あらゆる学問分野で植民地主義批判の大きな流れが形成され、民族誌作成の過程においても現地の人々の声が反映するような手法が模索された。いかに民族誌を記述するのか、J.クリフォードとM.マーカスが1986年に出版した『文化を書く』[1996]が、その困難さを指摘した。「それまで民族誌を支えていた国民国家的モデルを批判し、リアリズム的言説に疑義を唱え、他者を表象する権利自体を問題視する」ポストモダン人類学の呪縛から、人類学研究者の多くが解き放たれていない状況が今日まで続いている。その状況を乗り越えるための試みはいまも続いており、対象とする地域の人々について民族誌家はすべてを記述できるのか、そして作成された民族誌を読むことは対象となった「地域の人々の現実」を理解することになるのかといった反省と批判が、人類学の文献を対象にわき起こった。たとえ現地に赴いたとしても、結局はテキストからテキストを渉猟するのと同じ結果に終わるのではないかといった認識論的な懐疑からの脱出が困難となった。そのような状況から一歩を踏み出すことができる可能性をもつのがM.ストラザーンの提唱した「部分的つながり」であった。

 春日はポストモダン人類学に触発され、これと対峙して研究を発展させたのは「静かな革命」の中核をなすストラザーンであるという。ポストモダン人類学では、「生成する出来事や制度や総体を過程的にとらえるという構え」が趨勢となり、動態的な民族誌が称揚されたが、「他者を表象するという問題、その表象を正当化するリアリズムについては、正面突破する力」をもち合わせていなかった。 S.タイラーが主張する民族誌における「喚起」に、人類学的方法としての比較をつなげて、ストラザーンは「喚起の比較」を考えた[。『文化を書く』[クリフォード&マーカス1996]が強調した「部分的真実」に対して、ストラザーンが見出しだのはpartial connections(部分的つながり)であったと春日はいう。比較が現実をつくり、つくられた現実が比較されてさらなる現実をつくっていく。「部分的つながり」では関係は文脈から文脈へ、領域から領域へとアナロジカルな増幅や切断や転倒をもって展開しているとの認識にいたる。部分が別の同類の部分と関係を形成し合い、その関係によって全体のあり方を新しくイメージさせていくのである。

 「静かな革命」は、人間以外のモノや人工物を同等な要素として組み入れる点(ANTを指す)で、さらに実在はこれらとの関係においてのみ成り立つと主張する点で、またリアリティとは関係の生成変化に等しいと認識する点において、「徹底して」関係論的な認識になる。これまで定まった点から視覚が広がることを前提としてきたが、「定点なき視点」は人やモノや複合体がそれ自体を比較の基準としながら別なそれらへと新しくつながる「部分的つながり」を導く。ストラザーンは、反復複製的な関係の連鎖によって、文脈や領域をまたいでアナロジカルな増幅や切断や転倒が展開されると、規模は相似性の具現でしかなく、論点は関係性が諸次元で複製する過程へと移行するという。小が大に網羅されるのと同様に大が小に網羅されることも起こる。規模の非対称性が成立しなくなるのである。

 第三期にいる人類学研究者は、細部に力があふれるかぎり、引用文献や既成の概念、他の資料、図表・写真などと一緒に構築される論理は、どこかの細部によって足をすくわれたり、真正さの一部を奪われるかもしれないことを認識している。いわゆる事例が法則の具現や主張の裏づけにとどまるのではなく、事例自体が法則や主張に働きかける力をもっているのである。第三期の人類学では、規模の序列化がしりぞけられ、どんなアクターにも均等な視点が付与される。法則や因果関係のような非対称的な関係が実体化されることなく、その関係がどのように作り上げられるのかが対称的に追跡されていく。細部が自らを基準として内側から差異を生成し、その差異をもって外部の差異へとつながっていく。そうやって外側に向けて新しい現実を作り出していく。「静かな革命」とは,細部に力を宿す人類学という学問の本領を、現実批判として発揮する運動であると春日は結ぶ。

 「部分的つながり」では、「比較は対象自体に宿っており、おのれでおのれを比較すると考える。ものはみずからを対象とし、みずからを測定する。みずからが自己の内部の差異を見出し、その自己を参照しながら他の事例へとつながっていく。対象と基準との融合、その融合による外部へのリンク」、それが[部分的つながり]のきわだった特徴であるという。本書で「部分的つながり」をもち出したのは、観光研究に携わるさまざまな分野が「観光の現実」をどのようにイメージするかというアプローチ方法が、この「部分的つながり」のあり方とアナロジカルな関係にあると考えるからである。

 観光学の分野は、さまざまな領域の研究が学際的に集合し、相互の研究が分断されたまま全体が見渡せない情況であるかのような印象をうける。一つのディシプリンとしての観光学の統合を叫ぶ研究者は、まるで世界が部分と切片にあふれていることを嘆く人々のように、それらを「集め」、「結び合わせ」ようとする。それは、西洋的な不安が原因となっていると考えられる。この不安のいくらかは、切断は破壊的な行為であるとの前提のもと、仮想される社会的全体性(または、全体としての「観光学」)がそれによって切り刻まれ、断片化されてしまうに違いないと感じられることに由来している。ストラザーンのいうように、身体が手足を失いつつあるかのように感じるのであろう。メラネシアでのように、切断が諸関係を現れさせ、反応を引き出そうという意図をもっておこなわれるところ、すなわち切断が創造的な行為であるような前提があるところでは、切断は、それぞれの内的な能力と、関係の外的な力を顕わにし、全体性を立ち現せる可能性を示すことになる。本章では、このような部分と全体との関係をアナロジカルに、部分としての「地域文化観光論」と全体としての「観光学」との関係で考えていく。
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カリーニングラード

『世界まちかど地政学』より

簡単にはたどリ着けないカリーニングラード

 カリーニングラードヘアクセスするには、モスクワやサンクトペテルブルクからロシアの国内線を使うのが普通だろう。だが東欧旅行のついでに立ち寄った筆者は、ベラルーシの首都ミンスクから朝晩に一往復ずつあるベラヴィア航空便を使った。マイナーだがベラルーシを代表する航空会社、いわゆる「フラッグキャリアー」である。

 ちなみにカリーニングラード行きの国際線は、このミンスク便の他には存在しない。空路以外では、リトアニアの首都・ヴィリニュス経由でミンスクまで行く国際列車が一日三本だけあるが、ロシアの鉄道は外国人が個人でネット予約できないので不便だ(日本も外国人から見れば似たような状況だが)。すぐ隣国のポーランドやラトヴィアはもちろん、口シアの他の主要都市には必ず飛んでいるロンドンやフランクフルトやパリからの便もない。せっかく「閉鎖都市」ではなくなったはずなのに、この足の便の悪さは、まるで鎖国状態のままだ。

 旧ソ連の十五共和国は現在、いずれも独立しているが、旅行のしやすさはまちまちだ。上記バルト三国は、EU(欧州連合)加盟国かつシェングン協定(検査なしでヨーロッパ国家間の移動を許可する協定)加盟国なので、行くのにビザは要らないし、欧州の多くの国と国境管理なしに移動できる。同じくEU志向が強いウクライナ、ジョージア(旧称グルジア)、モルドバの三国も、ビザなしで簡単に入れる。

 キルギスもビザは不要で、カザフスタンも(暫定措置といっているが)日本人などへのビザを免除している。この二国には日本人観光客を増やしたいという意図があるようだ。アゼルバイジャンとアルメニアは(後述のように、実際に行って見ると観光客を増やしたがっている感じでもないが)、着いた空港でお金を払えば(クレジットカードもOK)、簡単にビザが取れて入国可能である。

 これに対し大使館でビザを取らねばならないのが、ご本尊のロシア、その衛星国ともいえるベラルーシ、そして中央アジアの残り三国(ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタン)である。その中でもロシア、ベラルーシ、トルクメニスタンについては、事前に旅程を固め、専門旅行会社経由で現地からの「招請状」を入手し、それからビザを申請せよという、旧ソ連時代と同じ仕組みが堅持されている。

 しかしさすがに二十一世紀、ロシアとベラルーシは「トランジットビザ」という若干簡便な方法を用意するようになったので、筆者は今回これを利用した。国内の滞在日数が二泊以下の場合だけだが、旅行会社経由で「招請状」を取得する必要がなく、入国フライト、出国フライト、宿をネット予約して、その証拠をプリントアウトして大使館なり領事館に持参すると、自分でビザが申請できるのだ。朝晩一往復ずつのカリーニングラード・ミンスク便を使い、それぞれに最大でも一泊ずつ。こういう制約条件から考えて、「ウクライナのキエフを早朝に発ち、ミンスク乗り換えでカリーニングラード→夜にミンスクに戻って泊→翌日リトアニアのヴィリニュスヘ」という旅程が自ずと定まった。

 東京都品川区束五反田の高級住宅街にあるベラルーシ大使館はまるで民家で、対応は素っ気無く、いかにも誰も行かない国という感じだった。逆に港区麻布台のロシア大使館は千客万来で、番号札を取って待つ。対応はテキパキしており、料金も「数日で発給なら一万円、一週間なら四千円、二週間以上でもOKならタダ」と、市場経済化していた。

 日本人のロシア旅行にビザが必要なのは、ロシア人の日本旅行にビザが必要であることの裏返しでもある。いわゆる相互主義だ。南米でいえば、各国が観光客誘致などの実利をみて日本人のビザを免除している中、ブラジルだけは大国の衿持か相互主義を維持し、日本人にビザを求めている(ただし一度取れば三年間有効)。この点さばけているのが中国で、中国人の日本旅行にはビザが必要なのに、日本人の十五日以内の中国旅行にはビザも事前申請も要らない。ロシアやブラジルのようには大国ぶらず、商売繁盛のためには相互主義も放棄するという柔軟な姿勢に、逆に中国という国の恐ろしさを感じるのは筆者だけだろうか。

「欧州市民」になれないカリーニングラード住民

 彼女のようなカリーニングラード市民は、戦後にロシアおよびソ連各地から移住した者とその子孫である。旧住民のドイツ人やリトアニア人は、一九四七年までに全員東ドイツやシベリアなどに追放され、カリーニングラードの居住者は、八十五%がロシア人、他にはウクライナ人やベラルーシ人という構成になってしまった。同じく旧ソ連が占領した、日本の北方領土や南サハリンと同じ状況なのだ。彼らはこの市の現状をどう思っているのだろうか。

 隣国のリトアニア人やポーランド人であれば、シェングン協定(欧州国家間で国境検査なしで国境越えを許可する協定)のおかげでベルリンにもパリにもローマにも自由に行ける。ロシア人とて、そういう立場がうらやましくないはずはない。

 だがロシアをもっと開放的な国にするとか、当地をEUとの交流の特区にするとかの方策を採れば、必ずドイツ人やリトアニア人やポーランド人が戻ってきて、民族的な軋轢が高まるだろう。少数派に転落でもすれば、侵略者の子孫として圧迫されかねない。

 事実、ラトビアやエストニア、ウクライナのロシア人は、いろいろ厳しい目に遭っているのだ(リトアニアだけはロシア人にも市民権を与えている)。だから当地住民には、北方領上のロシア人が日本との関係強化に二の足を踏むのと同様、自らを閉じることによって自己防衛を果たしているという安堵の気持ちがあるだろう。

 片やドイツにしてみれば、大戦で一説には七〇〇万人近い死者を出した末に(ちなみに日本は三〇〇万人)、戦後の冷戦の中で東西に分割され、国境線の変更を呑むしかなかった。その際に喪失した領土から追放されたドイツ系住民は、一六五〇万人にものぽったという。十三世紀のドイツ騎士団の東方植民以来住み続けて来た彼らにとっては、ドイツ本国こそ外国のようなものだったはずなのだが、ことごとく故郷の喪失を余儀なくされた。史上最も強くドイツ民族主義を掲げた政権だったナチスは、ドイツ民族にとって史上最も巨大な喪失をもたらしたのである。カリーニングラードを知らずして北方領土を作るなかれともあれドイツは、カリーニングラードの返還をロシアに要求してはいない。対して北方領土(択捉島以南の四島)は、日本政府が正規にロシアに対して返還を求めている場所だ。従って当地を〝ドイツの北方領土〟と書いている筆者の表現は正しくない。カリーニングラードをなぞらえるなら「南サ(リン」とか「四島以外の千島列島」と書くべきだ。しかしそれでは何のことかよく伝わらないのが、自国の戦後史があまり知られていない日本の現実でもある。

 返還を要求しているわけではないものの、ドイツ人の心情から言えば、ACT2にも書いたとおり、今の「旧ソ連化」したカリーニングラード市の現状は受け入れられるものではないだろう。歴史の教科書にも、ドイツ史の主要な舞台として繰り返し登場してくる場所なのだ。大聖堂の再建はドイツ人が資金を出すことで実現できたが、ソヴィエトの家も何とかしたいだろうし、防壁も再建できるものならしたいはずだ。とはいえ当地は、不凍港として、ロシアの現バルティック艦隊の基地になっている。極東で言えばウラジオストックなのであり、北方領土とはまったく比較にならない重要拠点だ。ロシアにすれば、ドイツ色を戻して観光地にするべき場所という判断にはならない。

 北方領土になぞらえるのを続ければアイヌ民族にあたるのが、当地ではリトアニア人だ。スラブでもゲルマンでもない、ギリシャ語の縁戚のバルト語族のリトアニア語を話す彼らはこの地の先住民たった。ドイツ騎士団の侵略で主権は失ったが、それでも第二次大戦までは多くのリトアニア人が住んでいたし、東隣のリトアニアとは同じ平野の続きだ。ドイツの敗戦の際になぜ何の罪もないリトアニア人までもが駆逐され、そこにロシア人が居座っているのか、当然納得していないだろう。

 ポーランドも利害関係国だ。プロイセン公国がまだ弱体だった当時、その宗主国としてこの地の間接的支配者である時期が長かった。ソ連崩壊後の一時期、当時のロシアのエリツィン大統領は、ヤルタ協定に則ってロシアがカリーニングラードをポーランドに返還し、ポーランドがシュレジエン(ポーランド南西部)をドイツに返還するという案を提示したことがあったという。この案はポIランドの北大西洋条約機構(NATO)加販とエリツィン氏の失脚でうやむやになってしまうのだが、北方領土も、何とかするのであればこの時期が最大のチャンスだっただろう。

 読んできて、その捻じれ方の複雑さに頭痛がする読者もおられるかもしれない。このレベルの難しさを抱える土地は、世界から孤立した幸福な島国・日本の周囲には存在しない。カリーニングラードは、その込み人った歴史からも、戦略的位置からも、ロシアが抜本的に違う国にでもならない限り、現状のまま置いておく以外にどうしようもない場所なのである。

 つくづく思うのだが、北方領土返還を望むすべての日本人は、少なくとも「カリーニングラードとは何か」くらいは勉強しておかなければならない。「東の果ての小さな島々を譲ることが、西の端の重要な軍港の帰趨を巡る議論を惹起しかねない」というロシアの立場を知らなければ、問題を進展させようはないはずだ。

 ロシアにとって本当のところは、北方領土の重要性など、カリーニングラードはもちろん、天然ガスや石油の出るサハリンに比べても格段に低いだろう。スターリンは侵略できる場所なyらどこでも侵略したわけだが、今となっては正直、持っていることでかかっている経費の方が、有形無形の実入りよりもずっと大きいはずだ。だから本当は交渉の駒にできる場所のはずなのだが、日本との領七問題でうっかり譲歩することは、ドイツだけでなくポーランドやリトアニアまで絡んだカリーニングラードに飛び火しないとも限らない。江戸幕府に統治の実態のあった北方四島は、歴史的にどうみても日本の固有の領土なのだが、それを万一‥うならカリーニングラードもドイツ、あるいはリトアニアやポーランドの固有の領土だったのである。少なくともロシアの領土であったことは第二次大戦以前には一度もなかった。

 だからこそ、日本がいくら「固有の領土だけは返せ」と正論を掲げたとしても、ロシアが容易に応じるはずもないのである。変な話、リトアニアがソ連で東ドイツとポーランドがその衛星国だった冷戦時代の方が、ロシアの一存で何でも決められたのではないだろうか。

 また仮に返還が行われても、今はスターリンやヒットラーの荒れ狂った時代ではなく、現に島に住んでいるロシア人を追い出すことはできない。従って北方領土の返還とは、日本国籍を持たず居住権だけを持つロシア系住民を、日本国内に新たに多数抱えることだ。当然にそういう事態を想定しつつ、どうしていくのか具体的なイメージを持って返還を求めていかねばならないのだが、その認識、その覚悟は国民一般にあるのだろうか。

 筆者もその一人だが、日本のお受験エリートは、試験に出ない戦後史はまったく不勉強である。それでは今の匪界は理解できず、従って日本のことも理解できない。まずは現地をみて考え、現場に身を置いて議論しないことには始まらない。そう改めて自覚した旅たった。
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現代の社会的不平等

『現代の社会福祉』より 現代社会の変化と社会福祉 現代の社会的不平等

不平等とは何か

 人問は基本的に一人ひとり異なるものである。顔つき、背の高さ、身体の重さ、目の色、肌の色、髪の毛の色など異なる側面をもつ。また、経済的な側面では、収入や財産などは身近に感じられる違いであろう。このように私たちは、異なることと違いを日々認識しているわけである。

 では、なぜこうした異なりや違いが不平等へとつながるのか。白波瀬は、「違う、異なるということが単なる「差」ではないことが問題である。そこに不平等の問題が介在するとして、個人の「努力」や「能力」ではどうしようもないこと、自らのコントロールがきかず、選択の余地がないことに伴う「違い」には、「違い」を超えた不条理さが介在する。違いの何か良くて、何か悪いのか、どちらが好ましくて、何が望ましいのか、といった評価が「違うこと」の意味となる。違い、差に伴う価値の序列づけが不平等へと通じる」と述べている。つまり、不平等であることは「違い」に対する不当な評価として顕在化するのである。

 また、原は、主な社会的資源を「富」「勢力」「威信」「情報」としたうえで、人々が手に入れたいものを「社会的資源」あるいは「社会的財」とし、「社会的不平等」とは、こうした社会的資源の保有の大小(保有の不平等)、さらには社会的資源を獲得・保有するチャンスの大小(機会の不平等)のことをいう。としている。

 保有の不平等としては世帯収入の違いがあり、その不平等を示すものとして、ジニ係数がある。ジニ係数は、すべての収入が一つの世帯によって独占されていれば1、世帯の収入が等しければOという値をとる。結果として、ジニ係数の値が小さければ小さいほどその社会は平等だということになる。

 図1-7は各国のジニ係数の推移である。わが国は、1980年代半ばから2000年にかけてジニ係数が大きくなり、その変化の程度も大きい。ジニ係数の値そのものはイギリスやアメリカのほうが大きいが、格差の拡大傾向ではわが国のほうが顕著といえる。

 機会の不平等について例として挙げられるのは進学率の問題であろう。保有の不平等とも関係するが、所得の少ない世帯の子どもは塾通い等ができず、学力の差が生じる。そのことが進学する高校の差として影響を受け、さらに大学進学、就職の違いに関係していくのである。このことは、子どもの貧困問題と関連づけて後述する。

現代社会の不平等問題

 わが国は高度経済成長を経て所得格差が縮小し、比較的平等な社会が実現したと考えられてきた。しかし、1990年代後半以降、所得や職業、教育などを中心に格差が拡がり今日では貧富格差が拡大し、非正規雇用の問題やホームレスの増加、生活保護受給率の増加などにおいて不平等性が現れている。

 こうした格差や不平等につながる生活上の諸問題としては、貧困・低所得、育児不安・児童虐待、母子問題、要介護・老人虐待、事故や傷病による障害者、児童青少年の引きこもり・ニート、ホームレス、ワーキングプア、配偶者暴力、心の病(うつや神経症)、社会的孤立、資格外滞在者・外国籍住民問題、災害被害者・犯罪被害者問題、環境問題などが論じられている。このような問題への社会福祉としての対応が、今日の大きな課題である。

 また,原は,現代社会における「新しい不平等」について三点指摘している。

 第一に、競争の激化と格差の拡大である。「市場経済化」のなかで多くのことが「市場」の判断にゆだねられ、結果として規制緩和が行われ組織や個人が激しい競争にさらされることとなった。それにより、「勝ち組」「負け糾」という言葉も使われるようになった。こうした競争は、「機会の不平等」を強めることになる。子どもの給食費を払えない世帯の出現や生活保護世帯の増加は、競争の結果としてわが国の「基礎的平等化」を崩壊させ、社会の安定化を大きく損なっている。

 第二に、追求目標の多様化・個人化である。高度経済成長以降、日本人は「豊かさ」を追求し、それを実現する経験をし、そこでの人々の目標は共通していた。こうした「基礎的平等化」を実現した人々の追求目標はどう変化するのか。それまで上級財であったものが基礎財に変化することによって、人々の追求目標になる可能性はある。他方で、基礎的平等化を前提として、多様な生き方を個々人が追求する可能性もある。

 第三に、旧い不平等の新しい様相である。基礎的平等化を実現したことが、不平等や格差の問題に関して楽観的な印象を与える可能性があるが、旧い不平等である格差や不平等が厳然として存在する。それは、身分制的差別(「被差別」)、ジェンダー間の格差、障害者に対する差別、在日外国人や外国人労働者に対する格差や差別、マイノリティ(「社会的弱者」)への差別、また、パート労働者や無業層など企業システムのなかに正規の形では組み込まれない周辺層の存在である。こうした旧い不平等も新しい様相を帯び社会的な怒りを引き起こす可能性があり、それが「新しい様相」とされる。具体的には、マイノリティ内部での格差の拡大によって、格差や差別を一括りで論じることが困難になってきているということである。例えば過去において「女性は抑圧された存在」として認識されることもあったが、今日女性の社会進出が進むなかで、高地位の女性は決して例外ではないといえる。また、不平等問題が前述した「追求目標の多様化・個人化」という状況に埋没してしまう場合もある。例えば「貧困」という問題は過去において社会の関心事であり、ある意昧での「公共性」を有していたが、多くの人が基礎的平等化を実現したため、今日それが失われつつある。つまり、ある困難を抱えた人たちをかわいそうだとは思っても、「それはその人の問題であって、私には関係ない」と終わってしまう危険性がある。

 このように、現代社会における不平等は、「市場経済化」と「競争」という今日的な側面と過去における格差や不平等との関係におけるものとの複層的なとらえ方が求められている。

現代社会と子どもの貧困

 原が指摘する現代社会における「新しい不平等」のなかで、「子どもの貧困」をめぐる問題について述べる。埋橋は「子どもの貧困体験は、子どもを取り巻く諸環境、諸資源からの排除、剥奪状態といえるのではないか」としたうえで、「親とのコミュニケーションの『機会』、家での教育・学習の『機会』、というふうに、貧困家庭でなかったら普通に享受できていた『さまざまな機会』から(を)排除(剥奪)されていることを意味する」としている。

 1990年代半ば以降、わが国では「子どもの相対的貧困率」は上昇傾向にあり、2012(平成24)年は16.3%(厚生労働省[平成28年国民生活基礎調査])に達した。こうした状況に対し、「子どもの貧困対策の推進に関する法律」が2013(平成25)年に成立、翌年1月から施行されている。その目的は、「貧困の状況にある子どもが健やかに育成される環境を整備する」ことであり、「教育の機会均等を図るため、子どもの貧困対策を総合的に推進すること」とされている。そして、「子どもの将来がその生まれ育った環境によって左右されることのない社会の実現」を基本理念とし、子どもの貧困対策を総合的に推進することになった。その後、2014 (平成26)年8月には「子供の貧困対策に関する大綱~全ての子供たちが夢と希望を持って成長しでいける社会の実現を目指して~」が閣議決定されている。そこでは当面の重点施策として、「教育の支援)「生活の支援」「保護者に対する就労の支援」「経済的支援」「子供の貧困に関する調査研究等」「施策の推進体制等」が示された。

 こうした取り組みの成果の検証はこれからの課題であるが, 2016 (平成28)年の国民生活基礎調査によると、2015(平成27)年の「子どもの相対的貧困率」は13.9%と、前回調査である2012(平成24)年より2.4ポイント低下している。

 いずれにせよ、子どもの貧困は、その後の成長過程における不平等を生じさせる根源であると考えられるため、その防止のためにもより一層の対策の充実が望まれる。その成果は、わが国の社会保障が抱える問題の克服にもつながると考えられる。
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「存在と時間」から得るもの

「存在と時間」から得るもの

 結論に向けて。「存在」を本当に考えてきたのは、ハイデッカーとヘーゲルのみ。それにキャッチアップした方が池田晶子さん。「存在と時間」の次は「精神現象学」の 表し方を分析する。それで未唯宇宙のレベルを上げていく。

 秩序を保ちながら、いかに崩れていくのか。それを可能とするのが中間の存在。一度そこに集めて、そこを中心として全体を構成する。「存在と時間」はそれを表している。
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