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ODDIと「Great Comet」をめざそう

『より良き死のために』

 今日借りた本を読んでいて、なんか違和感。別の世界に至ったのかな。丸でピント合わない。なぜこうも他者ありきなのか。

 本に対する違和感というよりも別の世界。何をもって他者は生きてるのか。他者は本当にやはりいないんだ。

 死んだらどうなる、ばかりがネタになってるけど。生まれてくる前はどうだったのか、それが上がってこない。どういう思考回路してるのか。

 死ってこんなにあいまいなもの? 他者の死だから。わたしの死は明確。

『イランの歴史』

 この時期にこの教科書。コレは何を意味しているのか。シンクロニシティを感じる。イランの立場で歴史を見れ!ということ何でしょう。

ODDIと「Great Comet」をめざそう

 ヘルシンキ市立図書館ODDIは何を求めるか! ヘルシンキで六ヶ所の図書館を回ったけど、皆違っていた。大学、駅上、スーパー、市民、旧、デジタル図書館。環境学習視察の合間によく回れた! 行けば、与えてくれる 。それを痛感した。

 「Great Comet」に惹かれたのは中学二年の時。「戦争と平和」の最高のシーン。ソ連版映画では天空のハレー彗星が焼き付いている。それがミュージカルになり、ナターシャを生田が演じるとは。50年にまたがるストーリー。

存在だけが頼り

 2万冊から選んだ3000冊。それのマイライブラリを時系列で整理してるけど、ハイデガーなどの哲学以外はみんなピントがずれている。なぜ本はこうなってしまったのか。もともとこうだったのか。

今時の建て替え店舗

 カローラ中京の建て替え店舗。今更のレース仕様。いつまでもつのか。10時から食パンを取りに行く。歩いて5分もかからない。

 10時に見に行ったけど、やはり駄目ですね。レース好きな、メーカー社長のご意向だけです。地区の拠点にはなり得ない。災害時に拠点となり得るような姿勢が必要なのに。熊本とか、福島だったらもっと前面に出すでしょう。東海はいつまでたっても変わらないと思っている。その時までは。

 何のためにそこにあるのか。企業はそれを考える時です。

BABYMETALの世界ツアー?

 BABYMETALは、カンザスのど田舎の狭い空間で儲かってんのかな。猛烈な音響で、完全な異空間でしょう。

 豊田の「橋の下」でBABYMETALを持ってくれば、名古屋から人が集まるのに。マイナーはメジャーを、MAJORはminorを求める。

行けば何かが起こるのに

 ロサンゼルス図書館でスターバックス、サンフランシスコ図書館で ビルゲイツ に遭わせて貰った。行けば何かが起こる。ブラッセルのEU本部に行くことは 妨げられた。これも意味を持つんでしょう。

アイドルはシェアの精神

 なぜアイドルは恋愛禁止なのか。それはシェアの精神に反するから というよりもシェアそのものが定義されてないから。シェア社会に向けて定義をはっきりさせていくことで解消していく。

 8月の真っ盛りにナゴヤドーム2Days。きついな。映画館でライブビューイングやるかな。
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「ポスト事実」の時代

『人生の武器として伝える技術』より

価値観で分断されている世界が生きるために

 「アメリカ人がどうしてあんなに太ってるか知ってますか? 水を飲みすぎるからなんですよ」

 それは、夜も更けたイタリア、リビエラ地方でのこと。私は美しい海辺の町で、地元の起業家、ジアンニとカルロと夕食をともにしていた。私たちはすでに、政治のことから教育の現状、地中海の魚の生息数に至るまで(私たちが食事をしていたのはシーフード・レストランだったので、この話にはレストランのオーナーも飛び入り参加した)さまざまなことを話していた。

 数時間かけてゆっくりと食事をしてワインもたっぶり飲んだあとに、ジアンニがこの発言をしたのだ。「先月、アメリカに行ったんですが、アメリカ人はみんな水のボトルを持っていたんですよ。それに……」彼はテーブルに身を乗り出して言った「みんな太っているんです」彼のこの発言を発端に、さらにワインを1、2本空けながら議論が続いた。とても高尚な話題とは言えないし、ジアンニも本当にそう思っていたのかどうかは怪しい。だが、議論を通じて互いの絆を強める、というヨーロッパに古くからある習慣に従った行為だ。

 あの発言がワインを飲みながらでなかったら、私は恥ずかしくて小さくなっていたことだろう。ほかのテーブルにいた客も、私たちを見て笑っていた--たぶん、私たちを、ではなく私たちと一緒に、静かに笑っていた。

価値観によって分断された政治

 建国の父たちは、アメリカという共和国が理想の形だと思っていたわけではない。いずれはほころびが生じることもあるだろうと読んでいた。ハミルトンに至っては、そのうちこの共和国にも、政党(建国の父たちはこれを派閥と同じものだとみなしていた)がはびこるだろうと予測していた。

 だが、ハミルトンもその他の政治家たちも、そういった現象は「権力の抑制と均衡のシステム」と、リベラルな教育を受けた専門家たちの「冷静で偏見のない」調停によって改善されていくと信じていた。ハミルトンは、議会が〝審議する〟機関としての役割を果たすと考えていたようだ。

 当時はまだ、レトリックの教育を受けた人が数多くいた。1700年代にハーバード大学を受験した学生たちは、レトリックのテクニックを示さなければならなかった。連邦裁判所の初代長官ジョン・ジェイは、キングス・カレッジ(いまのコロンビア大学)に入るのに、キケロの演説本を3冊読まなければならなかったそうだ。独立宣言に署名したジョン・ウィザースプーンは、以前はレトリックの教授をしており、第4代大統領のジェームズ・マディソンは彼の教え子だった。

 しかし、建国の父たちの時代の教育も、結局は皮肉な結果を招いた。教育を受け、政治の均衡を保つことを期待されたリーダーたちが、自ら政党をつくりはじめたのである。どちらも自分たちは派閥ではないと言い張り、派閥の禁止を主張した。

 政治的分断により、社会における礼節も失われていった。1800年代初頭の新聞の紙面では、過激な個人攻撃が行われ、性的なスキャンダルの記事が躍った。政治は、同族意識を喚起する言葉であふれ、国家の深い分断--ローマ共和国のように社会的な階級による分断ではなく、信念や価値観による分断--によって進行されるようになった。現代の候補者は、こうした環境を当たり前と思っているだろう。

「ポスト事実」の時代

 アメリカのこれまでの歴史において、しばしば価値観が政治的な議論を阻む要因となってきた。市民は自分たちの理想とするものに肩入れし、ほかの意見をまったく寄せっけない同族グループをつくるようになっていった。奴隷制度の廃止と国の権利とのあいだで対立が起こったときには、南北戦争に発展した。

 現在では、価値観の相違はそこまで深刻ではないが、それでも同族グループが形成される。同族グループに分かれると、どんな現実も同族的な解釈をされるようになる。事情通の人たちも、報道がフェイクニュースだったときには衝撃を受けたことだろう。どの嘘も極めて巧妙で、なかには口シア政府が後ろ盾をしているものもあった。

 この報道が警鐘を鳴らしているように、私たちの政治に影響を与えようとするものは、ますます巧妙になってきている。自分の政治信念に合った事実だけを信じる傾向も強くなっている。支持していない情報源や組織からの情報を、私たちは信じなくなってしまった。

 「それはフォックス・ニュースの情報ですか?」と、バーニー・サンダースの支持者なら鼻で笑うだろう。「それなら、真実ではありませんね」

 「CNNがそう言ったのか? 絶滅寸前のメディアはいつも嘘をつく」

 ジャーナリストは、かつてないほどのプレッシャーにさらされている。真のジャーナリズムを貫こうとしても、双方の極端な政治思想の持ち主から拒絶されてしまうからだ。かつては、誰かが証拠の一部を述べれば、複数のメディアがいくつかの観点からそれを扱った。それがいまでは、大企業、リベラル、エリート主義者、裏切り者など、それぞれがひとつの観点でしかものを見なくなってしまった。

 だが、すべてが悪いというわけではない。私たちはニュース以外のものから事実を知ることもできる。いつだって、科学はある。経済状況や社会状況を表す統計だって、政府機関から発表されている。

 専門家は、私たちは「ポスト真実」の時代に入ったと言う。オックスフォード英語辞典も、2016年の〝今年の言葉〟として「ポスト真実」を選んだ。

 だが、私たちは、ポスト真実の時代にいるのではない。常に真実は存在する。ただ、それが何かを知らないだけだ。そして信念や価値観といった真理も存在する。

 正確に言うなら、世界は「ポスト事実」の時代に入ったと言えよう。事実の情報源に対する信頼が失われ、議論しようにも共通の土台となる事実が存在しない。事実に基づく社会ならば、地球では温暖化が進んでいる、という前提から話を始めることができる。事実がなければ、議論することなどできないのだ。
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ラジオの現在

『深夜のラジオッ子』より ラジオの現在

一九九九年にノストラダムスが予言した恐怖の大魔王はやってこなかったし、コンピューターが誤作動すると言われた二〇〇〇年問題も予想ほどの混乱は起きなかったが、二〇〇一年からラジオ界は最大の困難に直面した。

電通調べによると、二〇〇〇年にラジオの広告費は二〇七一億円を記録したが、二〇〇一年は一九九八億円に減少。数字は二三年連続で下がり、二〇一三年には一二四三億円に。バブル崩壊前にあたる九〇年と比べて、ほぼ半分になってしまった。なお、久しぶりにラジオの広告費が増えた二〇一四年以降は微減微増が続いている。

聴取率は二〇〇〇年代前半にセッツィンユースが八%台を記録したが、再び減り始める。東日本大震災でラジオが改めて注目され、radikoやワイドFMの登場などでも数字を立て直したが、一時的なもので終わってしまい、二〇一七年二一月には過去最低の五・一%を記録した。聴取率の面でもラジオは過去最大に厳しい状況にある。

二〇〇〇年代からインターネットが一気に普及。ラジオ界にも様々な影響を与えた。最も大きなものは、ネットを介してラジオが聴けるradikoの登場だ。二〇一〇年から試験配信がスタート。翌年の東日本大震災を受けて、広く利用されるようになった。その後、対応する放送局が増え、エリアフリー機能、タイムフリー機能が実装。PCやスマホでラジオを聴くのが当たり前の時代になった。

リスナー同士がネット上で繋がるようになり、番組を実況するという文化も生まれた。当初は「2ちゃんねる」などの掲示板中心だったが、その後、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が登場し、リスナーがコミュニティ上でやりとりするようになる。投稿するハガキ職人がSNS上で可視化されたことも変化かもしれない。「深夜ラジオは一人で孤独に聴くもの」という感覚は明らかに薄れた。また、ニコニコ生放送、Ustream、ツイキャスなどの登場により、「ラジオは聴くだけじゃなく、自分で配信するもの」に変わってきている。

二〇一〇年代から顕著になったのがネットニュースとの関わりだ。ラジオのトークを一部分だけ取り上げられ、それがネットニュースになって炎上する現象が見られるようになった。二〇〇八年に『倖田来未のオールナイトニッポン』(特番)における〝羊水発言〟が物議を醸したのは、そのハシリだったのかもしれない。必然的にラジオの中身はリスナー以外にも広がる状況になってしまい、深夜ラジオらしい無茶な企画や毒舌も減少傾向にある。

細かい部分だが、情報をリスナーから集める企画が成立しづらくなったのも強調したい点だ。どんなことでもインターネットで調べれば、真偽はともかくある程度の情報は掴めてしまうため、リスナーに呼びかけて答えを集める必然性がなくなり、少なからずコーナーの方向性が狭まった。

その他、PodcastやWEBラジオの普及、YouTubeや二コニコ動画への違法アミフロードなどイソターネットの影響は様々な部分に派生した。

そんな中で〝変化〟に至らなかったものがある。それが、デジタルラジオだ。二〇一一年にテレビが完全地デジ化したのは記憶に新しいが、ラジオ界もデジタル化への取り組みが進められていた。二〇〇三年から試験放送が開始。しかし、使用するはずだった周波数帯の利用が難しくなり、各局の足並みも崩れて頓挫してしまう。二〇一一年三月に試験放送も終了した。この試験放送が、文化放送のアニラジに特化したWEBラジオ『超!A&G+』に繋がっている。

デジタルラジオに代わる難聴対策として、FM波でもAMラジオの番組を放送するワイドFM(FM補完放送)が二〇一五年にスタート。TOKYO FMが主導するデジタルラジオの流れはマルチメディア放送『i-dio』へ引き継がれている。

各局の流れを振り返ってみよう。二〇〇二年、TBSラジオは旧「UP'S」枠に深夜○時台の枠を合体させ、「JUNK」を始動した(翌年に深夜○時台か無くなる)。一旦バラバラになっていた番組か「JUNK」で再整備され、伊集院光(月)、爆笑問題(火)、コサキソ(水)、さまぁ~ず(木)、極楽とんぼ(金)と一層お笑い色が鮮明になった。深夜三時台は「B-JUNK」、そこから「JUNK2」となり、こちらもお笑い芸人が並ぶ編成となる。のちに「JUNK2」は深夜○時台に移動し、「JUNKZERO」となった。

伊集院、爆笑問題は現在に至るまで継続。二〇一〇年春に南海キャンディーズの山里亮太(水)、おぎやはぎ(木)、バナナマン(金)、エレ片(土)の体制となる。山里を除く三番組は終了を迎えた「JUNKZERO」からの移動だった。このメンバーは今も継続している。

ここまで紹介してきたように、TBSラジオの深夜帯はコンセプトが幾度となく変わってきたが、「JUNK」の誕生により、お笑い芸人のパーソナリティが長期間担当する方向に完全に切り替わった。「深夜ラジオは若者のもの」という時代ならば、リスナーが常に新陳代謝していくため、短期間でパーソナリティを変えることがプラスにも働いていた。過去の変遷を見ればわかるように、長寿番組を含みっつも、基本的に短期間で変えていくのが深夜ラジオの主流で、このTBSラジオの方針のほうが言わば異質だ。しかし、リスナー層や深夜ラジオの聴き方が多様化した時代に、安定した番組作りがガッチリとハマる。リスナーの志向に寄り添う姿勢がTBSラジオの聴取率連続一位の状況に繋がる。これは深夜ラジオの歴史で最大のエポックメイキングと言っても過言ではないだろう。

文化放送は「Lips」の名を持つ深夜ラジオ枠が二〇〇三年に終了。深夜の生放送はなくなり、録音番組が並ぶ編成となった。しかし、二〇〇九年秋に月~木の生放送帯番組『リッスン?~Live 4 Life~』がスタートする。すべての曜日を女性パーソナリティが担当。アイドルのAKB48、大島麻衣、虎南有香、声優の小松未可子、平野綾、アーティストの曽根由希江らが活躍した。この時点でも声優が深夜の生放送を担当するのは珍しかった。

そして、二〇一五年六月に『リッスン?』は深夜二時~三時の録音番組に変更となる。そして、深夜一時からの生放送番組として始まったのが、伊福部の章で触れた『ユニゾン!』だ。一時間の番組ながら、関智一(月)、柿原徹也(火)、寺島拓篤(水)、鈴村健一(木)とラジオ経験豊富な男性声優がパーソナリティとなった。地上波のラジオにおいて、全曜日を通して声優のみが担当する生放送の帯番組が放送されるのは史上初のことだった。開始直後から動画同時配信も行われたが(現在は終了、これも同時間帯では異例だった。

一〇代・二〇代のファンを持つ声優が担当することで、図らずも「若者のための深夜ラジオ」が甦ったのは興味深い部分。積極的にリスナーと電話を繋いだり、動画配信のコメント、Twitter、メールを同時に利用したりと、昔ながらの面白さと今風の新しさが同居する内容となり、三年目に突入している。

変化のあったTBSラジオや文化放送とは違い、ニッポソ放送は「オールナイトニッポン」をずっと続けてきた。前述した「LF+R」などの度重なる路線変更や、お台場への本社移転、有楽町の新社屋完成など内部でもいろいろなことがあったが、一番大きな出来事は二〇〇五年二月に起こったライブドアによるニッポン放送買収事件ではないだろうか。一部の番組パーソナリティからはボイコット宣言も飛び出したが、最終的にニカ月で騒動は収束。ある意味、ラジオ界が置かれる苦境を表す大事件となった。

「オールナイトニッポン」の中心は、九〇年代後半から木曜日一部を担当していたナインティナインだ。番組は二〇年半継続。これはオールナイトニッポン(二時間番組)において最長記録である。二〇一四年秋に終了が発表されたが、岡村隆史が単独で番組を継続。近年は横浜アリーナでのイベントも成功させている。お笑い芸人系では二〇〇九年から現在も続くオードリーをはじめ、くりぃむしちゅー、アーティストでは土曜日の特別枠を長きに渡って担当した福山雅治を筆頭に、西川貴教、鬼龍院翔(ゴールデンボンバー、back number、さらにアイドルのAKB48、俳優の小栗句、城田優などこの時代もバラエティ豊かなパーソナリティか生まれた。

枠組も絶えず変化しており、二〇〇九年には二〇時台で「オールナイトニッポンGOLD」がスタート。中高年向けと若者向けか混在する内容となったが、二〇一五年秋からは金曜日を除いて「オールナイトニッポン MUSIC10」にシフト。藤井青銅が担当する松田聖子(月一回)など女性パーソナリティが並び、完全に大人向けに切り替わった。

反対に深夜三時開始の二部は二〇〇三年から続いた中高年向げのスタイルが終わり、二〇一二年春に「オールナイトニッポン0」として従来の形で復活。動画同時放送もスタートした。育成枠としてオーディションを定期的に開催。様々なパーソナリティが生まれている。

長寿番組主体のJUNKとは違い、オールナイトニッポンは現在も積極的にパーソナリティの入れ替えを行っている。そのため、時には物議を醸すこともあるが、サイクルが早いからこそ、アルコ&ピース、久保ミツロウ&能町みね子、大谷ノブ彦(ダイノジ)といったパーソナリティが発掘された側面もあり、評価が分かれるところだ。

二〇一七年で放送五〇周年を達成。五〇個のプロジェクトが二年間を通じて行われている。現在の一部は菅田将暉(月)、星野源(火)、AKB48(水)、岡村隆史(木)、山下健二郎(金)、オードリー(土)という布陣だ。星野が意外にもオールナイトニッポン史上初となるギャラクシー賞DJパーソナリティ賞を受賞したのも話題になった。

紆余曲折ありながらも、深夜ラジオは半世紀の歴史を紡いできた。今後もたくさんの番組が終わり、同時にたくさんの番組が始まりながら、時代に翻弄されつつも歴史は続いていくことだろう。

※記述は全て二〇一七年一二月現在。
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より良き死のためにの目次

『より良き死のために』より

だれでも死は恐ろし

 私もがん告知にショックを受けた。死を怖いと思った

  死に対する恐怖は人間に必要なもの

  死の恐怖を和らげる3つの方法

 「死」への恐れは、「恐怖」と「不安」に分けることができる

  死に対する9つの恐怖と不安

 死はかつて身近だった。目を背けるうちに恐ろしいものとなった

  かつては「看取り」が身近にあった

  医学は進歩発展したが

  老いも死も人生の同伴者

 ホスピスは「死を待つ場所」ではなく、苦痛を和らげる場であり、理念である

  充実した生を生きるためにホスピスヘ

  苦痛を総合的にケアする

 だれでも死ぬときは一人ぼっち。でも、かならず最期まで寄り添ってくれるだれかがいる

 自分を「迷惑な存在」と考えないで。最期まで人のために何かができるのだから

  亡くなる2日前まで原稿を書き続けたジャーナリスト

  笑顔を遺してくれたお母さん

 あと半年の命だとしたらどう生きたいか。それを明日からやってみる

  家族のために愛をこめて精いっぱい生きる

 神も仏も慈悲の存在。罰を与えたり地獄に落としたりはしない

  物事には連続性がある

 肉体的な死の前に精神的に死んではいけない。人生の各段階に生きがいがある

  「第三の人生」を考える

 死について真剣に考えると精いっぱい生きようと思えるようになる

  死を見っめることは生き方を見っめること

旅立つ前にやっておきたい6つのこと

 自由な心で新たなステージヘ歩みだそう

 I 「手放す心」を持ち新しいスタートを切ろう

  「手放す心」で介護うつから抜け出せた

 Ⅱ 「許せない」と思ってきた人を許し、人間関係のわだかまりを解いておく

  祖父を撃ち殺した兵士を許せるか

 Ⅲ 家族や友人に「ありがとう」と感謝を伝える

  妻への愛と思いやりを示して逝った人

  「すみません」よ’り「ありがとう」を

 Ⅳ 愛する人たちに「さようなら」を告げる

  父親と美しい別れの時をすごした若者

 Ⅴ 遺言は家族への最後の贈りもの

  身辺整理や遺言の作成はできるだけ元気なうちに、私が死後に遺したいもの

  日常生活の細かいことを伝えておく

 Ⅵ 自分なりの葬儀を考えて周りに伝えておく

  夫に葬儀のしかたを伝えて逝った人

愛する人をどう見送るか

 病名や余命の告知は慎重に。でも、ごまかさずに率直に

  告知されずに亡くなった恩師

  人間は最期まで豊かに成長する可能性を持っている

 最期に大切なのは「Do」(何かをする)ではなく「With」(ともにいること)

  「〝この次〟はもうないかもしれない」人に寄り添う

  孤独な亡命者を看取ったことが私の進む道を決めた

 見送る側からも許しと感謝を伝えて、悔いのない別れを

  「母を許そう」という意志を持つことで一歩踏み出した女一

 最期は家で迎えたいという願いを叶える「在宅ホスピス」

  「患者」ではなく「母」「祖母」のままで逝きたい

別れの悲しみを乗り越える

 日本でともに活動した妹を見送り、悲しみと寂しさの時を過ごす

 大切な人を見送ったあとはあせらなくていい。悲しみはゆっくりと癒やす

  心の傷はどれだけ時間がたっても完全には消えない ………

 苦しみに打ちひしがれるか、「苦しみの時」を人格的な成長につなげるか

  娘の交通事故死から「遺族の会」を結成する

  苦しみには意味がある

 感情を無理に抑えると悲しみが深い傷になってしまう。泣きたくなったら我慢しないで泣いていい

  同じ経験を持つ人とともに、小さな希望の光を見つける

 喪失の苦しみは多くの人と共有できることに気づく

  最愛の妻を失った男性に訪れた出会い

 思い出の曲は悲しみを癒やし、喜びをよみがえらせてくれる

 悲しみを乗り越えるヒントは、「にもかかわらず笑う」こと

 「悲嘆のプロセス」12段階を知れば、悲しみはきっと乗り越えられる

  「否認」の段階にとどまり続けたイギリス女王

  「怒りと不当感」を抱くのも、深い愛があったから

 愛する人の死を乗り越えようとするのは人生で取り組むべき大きな仕事

新しい生命の始まりを信じて

 「また会う日まで」--天国での再会を信じて旅立つ

  死は「終わり」ではない

  一粒の麦の神秘」

 死んだらどうなるのか? あらゆる時代、文化でいろいろな考え方がある

 死後の世界を信じてみる。それは価値のある美しい冒険である

  科学的な根拠がないとしても)

 老人ホームで暮らす私の重要なミッションは人々のために祈ること

  両親との再会を楽しみに
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