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御園座タワー

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 御園座タワーができたんだ。建築家の本で知った。いくちゃんの「モーツァルト」が8月にあり、前半に出演し、後半は全国ツアー。座席数は200席減って、1日200万円ということもあり、15000円以上。

暑い。暑くてたまらない

 5月だから、エアコンを入れると奥さんに怒られる。暑い部屋の扇風機は何の役にも立たない。どこで本を読もうか?
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米中戦略関係 ツキジデスの罠

『米中戦略関係』より

ツキジデスの罠

 「ツキジデスの罠」という言葉が注目を集めている。ツキジデスは古代ギリシャの歴史家であり、都市国家アテネとスパタタとの間に起こったペロポネソス戦争を描いたその『戦史』は、国際政治学の古典として名高い。

 ツキジデスはこの戦争の原因について、次のように語っている。

  「アテーナイ〔=アテネ〕人の勢力が拡大し、ラケダイモーン〔=スパルタ〕人に恐怖をあたえたので、やむなくラケダイモーン人は開戦にふみきった」。

 アテネとスパルタとの関係に見られるように、ある国家の力が増して、それまで優位を占めていた国家を脅かし得るようになった場合に生じる危険を指して、国際政治学者のG・アリソンは「ツキジデスの罠」と呼んだ。そして、米国と中国が「ツキジデスの罠」から逃れることができるかどうかが、今後の世界秩序にとって決定的に重要だと論じたのである。

 アリソンによれば、過去五〇〇年の間に、急速に台頭する国が優越していた国に取って代わろうとした事例が一六あったが、そのうち一二の事例で戦争が起こっている。これに照らせば、史上類を見ないほど急激に力を伸ばしている中国が米国と戦いを交える可能性は相当に高いことになる。とは言え、戦争は不可避ではない(事実、四事例では戦争になっていない)ので、それを避ける方途を真剣に探るべきだというのである。

 中国の側も対米関係に潜む重大な危険に全く無頓着というわけではない。二〇一五年九月に訪米した習近平国家主席は、「世界にもともと『ツキジデスの罠』が存在するわけではない」が、「大国間で一再ならず戦略的な誤算が生じた場合、『ツキジデスの罠』を自ら作り出すことになるかもしれない」と語っている。

 「ツキジデスの罠」が関心を呼んでいるのは、米中関係の展開によって世界政治の行方が定まるというアリソンの認識が広く共有されているからに他ならない。オバマ大統領も二〇〇九年七月、第一回米中戦略・経済対話の開催に際して、「米国と中国との関係は二一世紀を形作る」ものであり、それゆえに「世界のいかなる二国間関係にも劣らず重要」だと述べたのである。

 近年、米国人がよく使う表現を借りれば、現在の米中はフレネミー同士である。フレネミーとはフレンド(味方)とエネミー(敵)を合わせた単語で、「味方のふりをしているが本当は敵である者」あるいは「基本的に嫌っている、または張り合っているにもかかわらず、親しく接している相手」いった意味である。互いにとって当面「敵ではない」が、状況次第で「敵になり得る」存在と言ってもよい。

 そのような両国が「ツキジデスの罠」に陥らないとは、どういうことを意味するのであろうか。第一に、「敵ではない」という状態ができる限り保たれねばならない。第二に、「敵になった」としても、直接の武力衝突は避けられねばならない。第三に、武力衝突が生じたとしても、それが大戦争なかんずく核兵器の使用を伴う戦争に発展する可能性は封じられねばならない。これらの条件が満たされる程度に応じて、米中は「ツキジデスの罠」から遠ざかることになると言えよう。

 そうした見地に立って、米中の戦略的な関係を多面的に捉えようというのが、本書の狙いとするところである。

 そのための準備作業として、第一章では、まず中国の国力伸長を跡づけ、米中間における力関係の推移を測る。その上で、力の分布における変化が大戦争を招来する可能性、平和裡に進行する可能性のそれぞれについて、これまでその根拠とされてきた要因を挙げることとする。

 米中が相互に「敵ではない」状態を持続させるためには、両国の大戦略が両立可能であることが必要である。大戦略とは国家にとって最も重要と目される利益を確保、増進するための包括的な政策指針を言うものである。大戦略上の衝突が誰の目にも明らかになれば、「敵ではない」関係を長く続けることは難しくなるであろう。

 そこで、第二章、第三章では米中の大戦略を取り上げ、その相関について考える。第二章では、米国の大戦略を構成する基本的な要素を抽出した上で、米国にとって中国が近年まで占めてきた戦略的な位置を探る。第三章では、当今における中国の対外姿勢に焦点を合わせ、その大戦略上の意味を検討すると共に、それが米国大戦略の基本要素と相容れない側面を有していることに注意を向ける。

 米中関係の今後を展望するには、大戦略に関する考察を個別の政策領域に即した議論によって補完することが有益であろう。オバマ、習近平の両政権が協力を強調していた分野--「敵ではない」関係を象徴する分野--の一つが、北朝鮮およびイランの核問題である。一方、南シナ海その他における海洋権益の捉え方は、米中の対立が露わとなった分野--「敵になり得る」関係を代表する分野--の一つである。

 それゆえ、第四章、第五章ではそれぞれ不拡散・非核化、海洋秩序をめぐる米中関係に分析を加えることとする。第四章においては、戦略的な利害の一致と乖離とが複雑に絡み合っている様子が浮き彫りにされる。第五章においては、中国の政策展開が米国の戦略的な利益と相反する理由が詳しく述べられる。

 大戦略上の競合が明らかとなり、個別政策でも協力より対立の側面が表れやすくなるにつれ、軍事力をめぐる両国の動向が重要性を増すであろう。「敵になった」場合への備え方によって、「敵ではない」状態が維持される確率も、また実際に「敵になった」状況において武力衝突が勃発し、あるいはそれが核戦争へとエスカレートする危険も変わってくるはずだからである。

 そのような観点から、第六章では、冷戦期に重視された「戦略的安定」の概念を再定義し、特に核戦力をめぐる米中両国の関係が孕む問題について探究を行う。第七章では、中国による通常戦力の増強およびそれに対抗する米国の軍事戦略を俎上に載せ、「戦略的安定」への含意を探ることとする。「ツキジデスの罠」に関する心配は、中国の国力増大が止まった場合、中国の国内体制が改まった場合、それに米国の大戦略が変わった場合には、大きく低下すると考えられる。実際、中国では経済成長の鈍化が「新常態」となっている。圭た、二〇一七年一月に就任した米国のトランプ大統領は、従来の大戦略に背反するような言説を展開してきた。そうした事態の展開をも織り込んで米中関係の長期的な行方を占うのが第八章である。

・米国大戦略の持続可能性

 第二章で触れたょうに、米国内においては、東半球の勢力均衡への寄与、開放的な経済秩序の形成、それらの国際制度による実現を基本的な要素とする大戦略に対する抵抗が常に存在しており、それはしばしば縮約論、保護主義、単独主義という形で表出されてきた。トランプ政権の誕生は、そうした動きが米国政治における伏流であることを止め、表面に躍り出たことを意味するものと言えるかもしれない。

 トランプ大統領が米国の大戦略に加え得る修正は、中国にとって当面どのような意味を有するであろうか。すでに示唆された如く、「沖合均衡」への関心は、中国による「周辺」の統制強化、範囲拡張にとって好適と解釈され得よう。また、保護主義への傾斜や国際制度への距離は、中国が「現状維持」を標榜することをますます可能にする一方、それが深刻な経済関係の軋轢に繋がった場合、中国の経済成長に負の影響を与えることも考えられる。

 しかしながら、米中関係の行方を占うに当たっては、トランプ政権の動向を超えて、既存の大戦略に対する逆流がどこまで持続し得るかが鍵となろう。対外政策に関する米国民の基本的な態度を「ハミルトニアン」「ウィルソニアン」「ジェファソニアン」「ジャクソニアン」に分けて分析するW・R・ミードに従えば、トランプを大統領に押し上げたのは、主として白人男性を中心とするジャクソニアンの政治的な蜂起に他ならない。そして、彼らは(ハミルトニァン、ウィルソニアンから成る)在来の指導層に強い不信を抱いているがゆえに、対外的な関与について懐疑的だというのである。

 米国では政治の分極化が深刻になっているが、指導層は党派を超えて大半が従前の大戦略を支持し続けているとされる。一方、トランプヘの支持が何十年にも及ぶ米国社会の変化--経済格差の拡大、少数者の権利拡張、移民の増加等--への反作用を表すものであるとすれば、そうしたエリート層の選好に対する疑念も簡単には訴求力を失わないであろう。その限りでは、中国の戦略的な挑戦をめぐっても、在来の大戦略を前提とした施策に対して、これまでより制動が掛かりやすくなると想定される。

 とは言え、ジャクソニアンは米国の民衆に根を下ろす「名誉」「独立」「勇気」「軍事的自尊心」の文化を体現するものでもある。自ら対立を求めることはないものの、他国が戦争を仕掛けてきた場合には「勝利に勝るものなし」という態度を取るというのである。従って、中国の戦略的な挑戦が十分に深刻なものと捉えられた場合には、強烈な対抗措置への要求が一気に高まる事態となることもあφ戦略的再調整の提案

 一方、米国の論壇においては、トランプ政権の登場前から、中国との間で戦略的な再調整を図るべく--相互自制や危機管理、信頼醸成の推進に止まらず--大戦略に実質的な修正を施すことを勧める議論も展開されてきた。キッシンジャー元国務長官は、中国に対して米国の抱く「〔地域〕覇権の恐怖」、米国に対して中国の抱く「軍事的包囲網の悪夢」をともども和らげるため、両国は「平和的競争の範囲を定める領域を画する」よう努めるべきだと説く。そして、財政的制約を受けた軍事戦略の変化に照らせば、中国を取り囲む基地網は必要ないと論じている。

 カーター政権で大統領補佐官を務めたZふノレジンスキーも、アジアの安定はもはや米国による直接的な軍事力の発動によって押し付けられるものではあり得ないと強調する。その上で、米国は中国近海での偵察活動や哨戒活動を見直し、長期的な軍事計画に関して中国と定期的な協議を行い、さらには「一国二制度」ならぬ「一国数制度」という方式に基づいて台湾と中国との最終的な再統合に取り組むべきだと主張するのである。

 また、国際政治学者のC・グレーザーによれば、中国の台頭に伴って、米国は「二次的」な利益を守ることが次第に難しくなっており、そのため「対外政策上の関わり合いを再評価する」必要に迫られている。そこで、中国が南シナ海および東シナ海の紛議を平和的に解決し、また東アジアにおける米国の長期的な軍事安全保障上の役割を公式に受け入れることと引き換えに、米国は台湾防衛の公約を撤回するという「グランド・バーゲン」を試みるべきだと言う。

 さらに、M・D・スウェインは、西太平洋における状況を「米国の優越」から「安定した、より公平な力の均衡」に変えていく必要を訴える。その実現に向けた課題として挙げられるのは、①朝鮮半島および台湾の長期的な地位、②東シナ海および南シナ海における海洋紛議、ならびに③第一列島線以西における中国以外の国による軍事活動に関する共通の了解である。これらの区域が米中による争奪の対象でも戦力投射の起点でもなくなり、中国の周辺海域に事実上の緩衝地帯が創設されることが思い描かれるのである。

 中国への視線が厳しさを増す中で、当面するところ、こうした議論が多数の支持を得るとは想像し難い。また、それらは現在の共産党政権の野心について「過度に楽観的な評価」に依拠しているように見えるという批判が当たるかもしれない。しかし、米国の大戦略が冷戦期以降初めて変化の可能性を窺わせるに至った現在、米国民一般の動向ともども指導層による選択肢の提示にも引き続き注意を払っていく必要があると言えよう。

 米中が「ツキジデスの罠」を克服することができるかどうかは、もとより両国の力が接近する速さや、中国が抱く不満の大きさによってのみ決定されるわけではない。第一章に記したように、核軍備の存在や同盟関係の重要性、それに非国家主体やネットワークの影響増大--「力の放散」と言われるもの--によって、「カの移行」論や覇権安定論が念頭に置くような戦争は、かつてよりも生起しにくくなっていると考えられるからである。

 他方、米国の力が未だ総体として優っている段階でも、あるいは中国が「現状打破」の志向を露わにしていない状況でも、両国間に軍事衝突が起こる--そして、それが核戦争にまでエスカレートする--可能性を完全に排除することはできないであろう。偶発的な事件や第三国の行動を引き金として深刻な危機が発生し、特に中国における民族主義の影響も相侯って、米中(を含む国際社会)がその収拾に失敗することがあり得るからである。

 従って、二一世紀の世界が大戦争を経験する可能性、平和裡に推移する可能性をめぐって見通しを立てょうと思えば、米中の戦略関係について短期的、長期的いずれの観点からも理解を深める努力が欠かせないのである。
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バンコクのイスラームコミュニティにおける3つの空間

『アジアに生きるイスラーム』より

バンコクのイスラームコミュニティにおける3つの空間

 バンコクの都市の歴史は17世紀後半から始まる。アユタヤ王朝のナ上フーイ王は、17世紀後半にタイ湾からアユタヤヘと至る航路の防御のためにチャオプラヤー川西岸のトンブリーに砲台を設置し、城壁都市を建設した。城外には、ムスリム商人が居住し始め、17世紀末にはバンコク最初のモスク、トンソンモスクが設置された。

 1767年にアユタヤはビルマによって陥落し、タークシン王によってトンブリーに新たな都が建設され、アユタヤを逃れた多くのムスリムがトンブリーに移住した。そして1782年に、ラーマ1世王が現在まで続くラッタナーコーシン王朝を興し、チャオプラヤー川東岸のプラナコーンに都を遷した。これが現在のバンコクの原型である。その後、18世紀末から20世紀前半にかけて他の国や地域から主に商人や職人、農民としてムスリムがバンコクに流入した。2017年3月現在、バンコクには登録されているだけで192ヵ所のモスクがあり、それらを信仰や暮らしの基盤としながら多くのムスリムが居住している。

 タイ国家統計局の2010年の国勢調査によれば、バンコクでは、仏教徒が人口の92・5パーセントを占めるマジョリティであり、4・6パーセントほどのムスリムは宗教的なマイノリティである。ゆえにムスリムは宗教を基盤とする独自のコミュニティを形成して、生活を営んできた。バンコクのイスラームコミュニティを構成する空間的な要素としては、モスク、集落、墓地という3つの空間がある。

 イスラームではモスクのデザインに規定がないので、バンコクのモスクには、その建設年代や設立した集団の出自に応じて、仏教寺院風、インド風、西洋風、ペルシア風など多様なデザインがある。

 集落はムスリムに限らず、人々が集まって住む空間である。ムスリムの場合、イスラーム法において許された、食材や料理であるハラールを食するので、それらを供給する市場や店舗が必要であり、これは集落を形成する大きな要因となる。さらに、モスクや集落の周辺には、墓地が設置されるのが一般的である。

 イスラームでは火葬は禁止で、土葬の必要がある。1917年から1939年にかけて、バンコクでは近代的な衛生管理を目指して、墓地や火葬場に関する規制と法整備が行われた。こうして土葬を行うムスリム、クリスチャン、華人の墓地のみならず、火葬と土葬を併用する仏教徒の墓地や火葬場まですべてが登録制になり、設置が厳しく管理されることとなった。言い換えれば、それまではある程度自由に、墓地を設置することができたのである。

 2008年にはバンコク都庁によって、増加するムスリムに対応するために、バンコク東部のノーンチョーク区に、バンコク中央墓地が設立された。それ以前は、1930年代までに設立されたイスラームコミュニティの墓地がムスリムに利用されてきたのだが、そこでは土葬のための空間が不足すれば、すでに埋葬されたところに土盛りを行い、その上に埋葬してきた。中には、何度も土盛りを行ったため、周辺からIメートル以上も高くなっている墓地もある。

 このようなことから、墓地のあるイスラームコミュニティは、少なくとも1930年代までには成立していたと考えてよいだろう。墓地の有無は、そのままバンコクにおけるイスラームコミュニティの設立年代を判定する指標となるのである。

4種類のイスラームコミュニティ

 イスラームコミュニティにおけるモスク、集落、墓地の有無に着目し、それらの組み合わせを見ていくと、そこには次の4つのタイプが見いだせる。

  ①モスク、集落、墓地のすべてが揃っている「完全型」

  ②墓地がなくモスクと集落のみの「集落型」

  ③集落がなく、モスクと墓地のみの「墓地型」

  ④モスクのみの「単体型」

 バンコクのイスラームコミュニティに4つのタイプが存在するのは、それぞれの設立の年代や背景、人々の職業や王権との関係性などが複雑に絡み合ってきた結果である。

 まずは前ページの図を見ていただきたい。この1932年のバンコク中心部(旧市街地)を描いた地図を見ると、そこには23カ所のイスラームコミュニティを確認できる。これらの中で1つを除く22ヵ所が今もある。内訳は完全型が16力所、集落型が2ヵ所、墓地型が3力所、単体型がIカ所である。ちなみに、なくなったIつとは、18世紀末にチャオプラヤー川沿いに設立されたものの、1943年に海軍基地の拡張のために移転したシーア派のモスク、クディー・ルアンとそのコミュニティである。

 それではこれらのイスラームコミュニティを、4つのタイプそれぞれについて具体的に見ていこう。

多様化するムスリムの職業

 その後、バーンコーレムでは、アンアティックモスクに加えて、19世紀末から1910年代に4つのモスクが設立され、コミュニティが形成されていった。続いて、インタビューをもとに、1940年代から60年代の各コミュニティで暮らす人々の職業の多様性について、見ていきたい。

 バーンコーレムで最も古いアンアティックモスク以南では、周辺に農地が多く、人々は主に果樹園などを営んでいた。一方、1919年設立のバーンウティットモスク以北では、西洋人との結びつきが強くなる。バーンウティットモスクのコミュニティにも果樹園を営む者がいたが、多くは農地を持っておらず、それゆえ、チャルーンクルン道路を挟んだチャオプラヤー川沿いに19世紀後半に設立されたデンマーク資本のEast Asiatic社など、西洋人の経営する倉庫や工場などで働く者が多かったという。

 1910年代初頭に設立された、現在のインドネシア(ジャワ島)に出自を持つバーヤンモスクのコミュニティでは、商人が多かったものの、ここでは、チャルーンクルン道路を挟んだチャオプラヤー川沿いにあるバンコク・プロテスタント墓地で墓守として働く者もいたという。

 また、1912年建設のダールンアービディンモスクのコミュニティでは、多くの人が西洋人に雇われ、様々な仕事を行っていた。英語が必須であったので、チャルーンクルン道路を1・5キロほど北上したところにある英語教育で有名なカトリック教会のアサンプション学校で幼少期から英語教育を受ける者もいた。

 バーンコーレムでは、果樹園を営むムスリムもいれば、周辺に増加する西洋人のもとで働く者も多かった。こうしてムスリムは、周辺環境の変化に柔軟に対応し、多様な職業に従事するようになっていったのである。

コミュニティから見た柔軟性

 バンコクの旧市街地にあるイスラームコミュニティについて、モスク、集落、墓地の3つの要素に着目して、細部にわたって調べていくと、そこに内包された歴史性と周辺環境の変化に応じて出自や宗教を超えて対応する柔軟性が見えてくる。それぞれのイスラームコミュニティの始まりには、マレー人やインド人、といった様々な出自がある。しかし、現在は、コミュニティを超えた通婚が進み、活発な交流が行われている。

 現在もコミュニティの外から多くのムスリムがやって来る。アフリカからのビジネスマンや南タイからの観光客がバンコクのモスクに礼拝に来るのを見たこともある。もちろん、コミュニティは同胞として柔軟に受け入れる。それは、異教徒に対しても同様である。

 筆者らはこの原稿を執筆するために、40カ所を超えるイスラームコミュニティを訪問してきた。どこに行っても、人々は私たちを歓迎して、様々な歴史や慣習を語ってくれた。わざわざ歴史に詳しい方を呼んで、説明してくれたケースもあった。バンコクのムスリムが持つ、このような高いホスピタリティや柔軟性は、単に宗教に起因するだけではなく、長い歴史の中で熟成され獲得してきたものなのである。
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『ユダヤ人国家』刊行から百二十年の間に実現した夢

『イスラエル』より バルフォア宣言から一世紀--「ユダヤ民族のための民族郷土」

シオニスト運動はユダヤ民族にあらゆる約束をした。実現したものもあれば、しなかったものもある。

テオドール・ヘルツェルは『ユダヤ人国家』で、ユダヤ人が独自の国家を持てば、ヨーロッパでのユダヤ人排斥は消えてなくなると断言した。残念ながら無垢な予測だった。ヨーロッパにおけるユダヤ人排斥の動きは、驚くべき比率で増加し、フランスのユダヤ人はヨーロッパから逃げ出している。反ユダヤ系の政党は、極左にもファシストの右派にも、ヨーロッパ大陸のどこにおいても起こり得るとして、ユダヤ人は警戒を強めている。

ユダヤ国家は、ヘルツェルが全く予想しなかった形で、海外のユダヤ人に深刻な影響を及ぼしている。イスラエルだけがユダヤ精神のすべてではないが、海外のユダヤ人を何よりも刺激するのはイスラエルである。世界中のユダヤ人を大規模な集会やデモに参加させる動機は唯一つ、イスラエルに関してのみである。それ以外のユダヤ人の生活面については、ほとんど個人の領域に追いやられ、宗派間ではあまりにもしきたりが違うため、多種多様なユダヤ人コミュニティには共通点がほとんどない。海外暮らしのユダヤ人が共に集まり、ユダヤ人であることが個人の領域を離れて公の場に入ってくるのは、彼らがユダヤ国家の情勢を考え、論議するときだ。ジェイコブ・ブラウスティン同様、アメリカのユダヤ人も、異郷に暮らしていると思っていないのは同意見だが、それでもイスラエルが、他のどんなユダヤ的な問題よりも、彼らの注意と関心を引きつけている。つまり、ヘルツェルはあながち間違ってはいなかった。ユダヤ国家が、確かに海外のユダヤ人生活に変化をもたらしたのだ。

ヘルツェルは『古くて新しい地』の中で、復活したユダヤ民族が父祖たちの故郷で、周囲の人々と全く平和に暮らす理想郷的なビジョンを示した。このビジョンも部分的には確かに実現した。残っている仕事はまだたくさんあるが、アラブ系イスラエル人はイスラエルにおいて専門的、学術的、社会的、経済的な発展を遂げている。外科医もいれば、エンジニアもおり、弁護士や最高裁の判事もいる。遊牧民ベドウィンの女性も、イスラエルの大学で医学を学んでいる。

アラブ系イスラエル人の立場は確かに複雑だ。だが、ユダヤ国家と国外のアラブ人との関係のほうが、無限の危険に満ちている。近隣の国々との紛争には、果てしなく消耗するばかりで、終わりも解決も見えない。すでに国際社会はこの紛争に辟易しており、ユダヤ国家の中でも、イスラエル人の多くが行き詰まりを感じている。イシャヤフ・レイボヴィッチは正しかった。そのことを占領が証明している。他の民族を占領することにより、イスラエルは自ら嫌われる存在になろうとしている。かといって、今のところ他に方法があるとは思えない。世論調査によると、大半のイスラエル人が占領を終わらせたいと願っている。しかし世論調査はまた、大半のイスラエル人は現状を踏まえて、占領地を譲渡することによって引き起こされかねない安全面でのリスクを負うつもりがないことも示している。占領は、現代イスラエル人の生活において最も悩ましい一面である。

それでもシオニストの夢は、他の多くの面で、ユダヤ民族が抱いてきたどんな大胆な希望よりも傑出していた。エリエゼル・ベン・イェフダは、ユダヤ民族が再びヘブライ語を話すことを心に描いていた。とは言え、果たして数百万の人々がヘブライ語を話し、ヘブライ語作家が世界一流の小説家や詩人と目されるようになるなどと、彼は夢見ていただろうか。一世紀半前にはほとんど話されることのなかった言語で書かれた本が、やがてイスラエルの書店に何千冊も並ぶのを、彼は想像することができただろうか。

イスラエルの独立宣言がヘブライ語の復活について述べているのは偶然ではない。この古代語の復活は、豊かなユダヤ人の生活が回復されたことを表し、そして世界の他のどの場所でも真似できない形で、ユダヤ国家においてユダヤ民族が復興していることを象徴している。

A・D・ゴルドンは、帰還して土地を耕し、父祖たちの故郷の土にまみれ、民族を復活させることをユダヤ人に説いた。彼らはそのとおり実践した。ハイテク国家になった今も、イスラエル人は大地を耕している。イスラエルは水技術で世界をリードしている。北から南まで国中をハイキングすることは、若者だけでなく、その親や祖父母の世代が、今も熱中していることの一つである。国立公園は、祝祭日には人で溢れている。イスラエル人は過去百年間で、二億五千万本の木をこの地に植えてきた。二十世紀末の時点で、百年前の二十世紀初頭に比べてより多くの木が育っている国は世界で二つしかないが、その一つがイスラエルである。ゴルドンが願ったようにイスラエル人の誰もが農業に携わっているわけではないが、そう遠くない昔にはほとんどのユダヤ人が近づくことを許されなかった地を、彼らは愛するようになっている。

ビアリクもノルダウもジャボティンスキーも皆、ユダヤ民族が二度と犠牲者にならないよう訴えた。イスラエルはこのビジョンも実現した。イスラエルは今なおテロと戦っている。イランの核兵器の脅威を案じてはいるが、この七十年間、ユダヤ人は自らを守り、予想だにしない形で世界一流の軍事力を持つに至った。現在のイスラエル人は、ビアリクが「殺戮の街にて」で非難したヨーロッパのユダヤ人とは、全く違う。

武力行使は倫理的に決して単純ではない。特に民間人の密集する地に意図的に設けられたテロリストの拠点と戦わねばならないときは、殊の外、複雑である。だが、イスラエルはそのような問題を回避しない。時には失策をすることもある--それも、とてもひどく--が、イギリスのケンプ大佐が重要な真実を指摘しているように、イスラエル国防軍ほど一般市民の犠牲を回避しようと入念な対策を講じる軍隊は世界のどこにもない。この点についても、イスラエル人の大多数は、紛争を深く案じつつも、誇りに思っている。

アハッド・ハアムが夢見たイスラエルの地での精神的復興も実現した。イスラエル国民は、ユダヤの伝統や民族の古典に興じている。ベングリオンが見たら、仰天することだろう。イスラエルでは、作家や詩人が多くの人に親しまれている。代表的な社会運動家の多くが小説家であり、詩人や作家が国の紙幣に描かれている。イスラエル人が権力者に真実を訴えたいときには、しばしば作家を頼りにする。

ヘルツェルが『古くて新しい地』の読者に約束しているのは、ユダヤ人の避難所としてのみならず、ユダヤ国家が進歩と絶え間ない繁栄の源泉となることだった。この夢も実現した。イスラエルは、面積はニュージャージー州ほどの小さな国で、人口はロサンゼルスくらいなのに、医療技術は世界のトップレベルである。二〇一五年の世界大学ランキングでは、ヘブライ大学が六七位、テクニオン工科大学(いわばマサチューセッツエ科大学のイスラエル版)が七七位、ヴァイツマン研究所が一〇一位から一五〇位の間、テルアビブ大学が一五一位から二〇〇位の間にランクされた。教育を重視するユダヤの伝統は、第一回シオニスト会議での提案にも反映され、建国に先立ってイシューヴに大学を設立したことが桁外れの成果をもたらし、科学や経済、文学の分野で数多くのノーベル賞受賞者を輩出した。

ヘルツェルは彼のビジョンの中で、豊かに進歩した技術を世界の人々と共有することを述べているが、イスラエルはこれも達成した。メナヘム・ベギンが一九七七年に首相に就任してまず行なったのは、イスラエルの船に命じて、ベトナムのボート・ピープルを救うことだった。彼らは公海で飲み水もなく、絶望状況で漂流し、どの国の船からも無視されていた。イスラエルは彼らを救出し、全員に市民権を与えた。イスラエルの友と言うには程遠かったアメリカの大統領ジミー・ガーターは、後にベギンの決断を称えている。「それは、憐れみの行為であり、思いやりの行為だ。困窮した人々、自己実現を求めて自由でありたいと願う人々にとって、郷土がいかに大切かを政府に認識させた。その行為は、イスラエル民族の歴史的な苦闘を象徴している」とカーターは述べている。

ベギンの決断は、ヘルツェルが予想したとおり、ユダヤの歴史に根づいていた。ベギンはカーターにこう答えている。「私たちは、自らの民族の運命を忘れたことはない。迫害され、卑しめられ、遂には肉体的に抹殺されたことを。だから、私が首相として最初にした行為が、これらの人々をイスラエルの地に避難させることだったのは、当然である」。長年にわたってイスラエルは、数多くの自然災害に応じて人道的支援を行ない、しばしばどの国にも先んじて最大規模の緊急病院を設立してきた。

ヘルツェルのシオニスト会議は民主的であり、イスラエルはその伝統を踏襲してきた。第二次大戦後に百近くの国が独立しているが(そのほとんどが帝国崩壊の結果として独立)、イスラエルはその中でも数少ない、民主主義として始まり一度も途絶えることなく民主国家として機能している国である。 イスラエルにおける男女同権に関しては課題が多いが、注目に値するのは、建国以来イスラエルは、民主主義の世界では唯一、女性も軍隊に徴兵される国という点である。初めて女性を首相に選んだ民主国家の一つであり、初めて女性が最高裁長官を務めた国でもある。
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豊田市図書館の30冊

332.3『ヨーロッパ経済とユーロ』

319.8『核の脅威にどう対応すべきか』北東アジアの非核化と安全保障

336.83『決算書で読む ヤバい本業 伸びる副業』

778.09『テレビ成長期の日本映画』メディア間交渉のなかのドラマ

312.23『ミャンマー民主化運動』学生たちの苦悩、アウンサンスーチーの理想、民のこころ

664.62『ニシンの歴史』「食」の図書館

548.29『Fireタブレット完全大事典』

520.4『beyond 2020 LEGACY』歴史を受け継ぎ、新しい未来へ

367.7『おひとりさまの「シニア金融」』

323.01『大学生のための憲法』

319.53『米中戦略関係』

324.55『不法行為 民法を学ぶ』

329.67『ニュルンベルグ合流』「ジェノサイド」と「人道に対する罪」の起源

332.53『グローバル資本主義の形成と現在』いかにアメリカは、世界的派遣を構築してきたか

070『現代ジャーナリズムを学ぶ人のために』

016.21『情報化時代の今、公共図書館の役割とは』岡山県立図書館の挑戦

209.5『進歩 人類の未来が明るい10の理由』

333.6『シャルマの未来予想 これから成長する国 沈む国』

019.3『2018年版 読書世論調査』第71回読書世論調査 第63回学校読書調査

389『はじめて学ぶ文化人類学』人物・古典・名著からの誘い

210.61『明治維新』

801.01『言葉の魂の哲学』

293.8『かわいいロシアのAtoZ』愛おしくて素朴なデザインたち

913.6『コンビニなしでは生きられない』

318.6『次世代郊外まちづくり』産学公民によるまちのデザイン

167.2『アジアに生きるイスラーム』

169.1『人生の帰趣』

748『ふらの・びえい 夏』

227.9『イスラエル 民族復活の歴史』

762.38『ホロヴィッツ』20世紀最大のピアニストの障害と全録音
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