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イランの歴史 イスラームの黎明

『イランの歴史』より



 イスラームはアラビア半島に生まれたが、その出現は、この地域における変化を引き起こしたのみならず、イランなどの周辺地域、ひいては世界全体における巨大な変化の始まりであった。従って、イスラームの歴史を知ることは、我々イスラーム教徒にとっては信仰上重要であること以上に、我々の国イランとの幅広い関わり、そして世界史の変化を知る上で重要かつ必要なことなのである。

アラビア半島

 アラビア半島は世界で最も大きな半島であり、アジアの西南に位置している。半島の周囲をペルシア湾、オマーン海、インド洋、紅海が取り囲んでおり、その北部はイラクやヨルダンに続く広大な砂地に覆われている。アラビア半島はセム人の故地であり、アラブという言葉は、移動民、荒野に居住する人<ベドウィン>を意味している。この半島の住民の多くはベドウィンであり、彼らの生活は多数のやぎや駱駝を育てることで維持されてきた。都市居住者も僅かにおり、半島の一部の都市では商業や農業に従事する者たちもいた。

 社会秩序:アラビア半島で生活することは、その地理的条件、つまり暑く乾燥した気候のために、極めて苛酷で、忍耐を要するものであった。厳しい生活条件と限られた自然的資源が、この地に住まう人々の生活形態やその特徴に影響を与えてきた。アラプ人諸集団の生活は部族的形態を採ってきた。部族の人々は、互いの関係や部族的慣習や掟を守ることにひときわ熱心であり、特別な責任感を持っていた。その見返りとして、理由のいかんを問わず部族に守られてきた。諸部族集団同士は常に、大小の問題を巡って争い、戦争を繰り返していた。戦争は、時に数年にわたって続くこともあり、怨嗟の広がりや粗暴さや無慈悲の深まり以外、何らの結果ももたらさなかった。部族の長老たちは、自分たちの中から、勇敢さや度量、才覚などに優れた者を部族の長に選んだ。選ばれた者は特権を享受し、部族の成員が過ちを犯したり不服従の態度を示した場合には、部族の掟や伝統に従って対処した。

アラビア半島に流布していた諸宗教(一神教の創出から多神教の衰退まで)

 メッカの街にあった神の家は、偉大なる預言者にしてイスマーイールの息子であるイブラーヒームを記念するものであった。彼らの生涯は一神教の普及と多神教との闘いに費やされた。時が経つと、イブラーヒームの教義と教えは、切れ切れの記憶となり、カアバ詣でのような慣行以外、何も残らなくなった。それでも、偉大なる預言者が召命を受けた当時、イブラーヒームの教えに従う一神教徒のアラブ人も僅かにおり、復活の日を信じていた。この少数の者たちは、ホナファー<八二-フ:単数形>を自称し、そのほとんどはメッカの街に住んでいた。しかし、アラビア半島の住民のはとんどは、他の信仰を持っていた。

 1-多神教と偶像崇拝

  偉大なるコーランがジャーヒリーヤ時代のアラブ人に関して述べる重要な特徴として、彼らが自ら創りだした多神教と偶像崇拝がある。それぞれの部族が固有の偶像を持ってはいたが、アッラート(太陽神<ラート>で神々の母)やマナート(運命と死の神)、ウッザー(苦しみの神)などは、多くの部族が崇めた偶像であった。神の家は、半島全域からハラームの月に人々がメッカまで参詣にやってきた場所であり様々な偶像で溢れかえる偶像の館と化していた。偶像崇拝者は、ほとんどが読み書きも出来ずその当時広まっていた民間信仰や伝統を唯々諾々と受け入れていた。

 2-ユダヤ教

  イエメンに住むユダヤ教徒よりも多くのユダヤ教徒が、アラビア半島のヤスリブやその周辺地域に生活していた。ユダヤ教の祭司はハブルと呼ばれ、《教えの館》でトゥーラートや宗教規範を教えていた。時に彼らは様々な疑問に答えたり、アラブ人たちの評いごとの調停を行ったりした。

 3-キリスト教

  キリスト教はまず、シャーム<大シリア>やイラクに住むアラブ人の問に広まった。続いてキリスト教の宣教師たちは荒野に住むアラブ人にも広めた。キリスト教徒の街道警備人たちは、アラブ人にキリスト教を広めるために、交易を担う隊商が休息を取る場所に、礼拝所を設けていた。アラビア半島で最も重要なキリスト教のセンターは半島南部のナジュラーンにあった。

 メッカ【マッケ】とその住民:メッカはヒジャーズ地方の小さな街であり、水不足と酷暑、さらにはコレラなどの疫病に苦しめられてはいたが、二つの理由で、社会的、経済的発展を享受していた。

 1-カアバ神殿の存在。2-シャームやイエメンとの交易。

アラビア半島のアラブ諸部族の中で、クライシュ部族はカアバ神殿を収り仕切る権利とシャームとの交易権を手にし、一層の影響力と権力、そして信用を享受していた。

 交易や高利貸から上がる潤沢な利益によって日増しにクライシュ部族の有力者や有力家族の長たちの富と繁栄は増大したものの、社会的・経済的公正さの欠如のため、彼らの開に様々な道徳的腐敗が蔓延し、下層階級、特に人口が増大した奴隷たちの苦悩や苦しみは一層増した。

ムハンマド【ソトゥーデ】の誕生

 象に乗ったアブラハの民がカアバ神殿の破壊を目的にメッカに襲来した年、クライシュ部族で最も重要で有名な人物であったアブドゥル・ムッタリブ・イブン・ハーシムの家に1人の子供が誕生した。彼はソトゥーデと名付けられた。父はアブドゥッラー、母はアーミナであった。彼は幼少期を荒野に住むハリーマという女性の許で過ごした言親が早くに亡くなると、幼年期、若年期を祖父であるアブドゥル・ムッタリブの許で過ごし、その後は、クライシュ族の中でも高潔なことで知られた人物、おじのアブゥ・ターリブの家で過ごした。メッカの人々はムハンマドにアミーンという呼び名を付けた。腐敗と嘘と汚辱にまみれた社会にあって、彼は誠実さと貞節で知られていた。

 彼の誠実さが、ハデイージャという上品で財力のある婦人の関心を引いた。彼女は自ら資金を出して、ムハンマドを交易のためにシャームに差し向けた。こうして互いに知り合い結婚へとつながり、その結果、ファーテイマ【ファーテメ】という名前の女児が生まれた。彼女はコーランの中ではコウサル(至福、あるいは清らかな眼差し)と呼ばれている。ムハンマドは、寄る辺なき人々や弱者たちを守るために結ばれた《義勇青年団》の誓に加わったり、黒石取り付け事件の際にも、街を騒擾と流血に至らしめるかもしれないような反目を自らの判断で鎮めたりした。

 ムハンマドはイブラーヒームの一神教的考え方に従い、偶像崇拝を嫌悪していた。彼は毎年、一定の期間を祈りと思索のためにジャバルル・メール山の隠所(ヒラーの洞窟)で過ごしていたが、街道警護人のごとく、一時たりとも社会に背を向けることはなく、庶民の生活から距離を置くことはなかった。そしてついに、隠所での崇高なる時間を過ごす内、天使ガブリエルの声を耳にし、彼の預言者としての時代が始まったのである。

イスラームの誕生

 特別な招請:当初、預言者による召請は、二つの柱、つまり神の唯一性【トウヒード】と最後の審判への確信に立脚していた。召命期の最初の3年間、預言者は神の規範を聞き、それを受け入れる用意がある人々以外には召請を行わなかった。最初にイスラームを受け入れたのは、八ディージャとアリー・イブン・アビー・ターリブとザイド・イブン・ハーリサであった。そして次第に、この時期を通じて、最初のイスラーム運動の核となる《アル=サービクーン<先達者たち>》が形作られてゆき、アラブ人地域【アラペスターン】におけるトウヒードとイスラームの先導者となった。

 一般的招請:3年後に預言者は招請を広げるよう<神より>命じられた。彼はまず、ある式典の際に、自分の親族(ハーシム家)をイスラームヘジャバルル・ヌール山の隠所(ヒぅーの洞窟)と招請した。神の命を伝えるにあたって、メッカの部族制度の中で自らが所属する氏族【アシーラ】の支持を得ようとしたのである。ハーシム家の者が40名ほど参加していたその式典で、使徒が彼らをイスラームに誘い、こう述べた。「あなた方の内の誰が、私の兄弟として、後見人として、後継者として、私を助けてくれるのでしょうか」。アリー以外は、誰一人として預言者の招請に応じることを口にする者はいなかった。この出来事の後、清澄なる高みにたつトウヒードを掲げて、自らの使徒としての使命を公言し、<自らが属する>部族の多神教的盲信と先祖の問違った伝統を公然と糾弾した。メッカの上流階級や首長たちは彼に敵意を抱くようになり、最初ま賂を使って、後には誹誘冲傷をもって、<イスラームヘの>招請を思いとどまらせようとした。アブゥ・ターリブは断固として彼を擁護したが、多神教徒たちは依然として預言者を迫害し続けた。そして彼の信者たちを死ぬほど痛め付けた。ヤースィルとスマイア【ヤーセルとソマイエ】(ムスリムとして最初の殉教者)はこうした拷問の末に殉教に至ったのである。

エチオピア(アビシニア)への移住

 預言者はイスラームを広める拠点を見いだし、自らに従う者<信者>たちを救うべく、ムスリムの一団をアビシニアに送り出した。当地の王、アスハマ(ナジャーシーあるいは<ネグス>)は公正をもって聞こえていた。多神教徒側は、アムル・アース他の一行を、移住者を連れ戻すためにアビシニアに送った。ところが、アスハマはムハンマド【ソトゥーデ】の人柄と礼儀正しさ、そして庇護を求めてやってきたムスリムのトウヒードヘの信念に敬意を表して、彼らの言いなりにはならなかった。

ムスリムに対する経済的・社会的締め付け

 多神教徒側はムスリムをエチオピアから連れ戻すことに失敗すると、経済的・社会的な締め付けを行って、預言者とその信者たちを屈服させようとした。預言者とその忠実な支持者たちは多神教徒によるこうした企みの効果を無くするために、メッカの山中にあるシャアブ・アブゥ・ターリブと呼ばれる谷に避難しか。彼らは3年間にわたり、極めて厳しい精神的・物質的圧迫を耐え忍んだ。ムスリムたちの抵抗は、最後には多神教徒側に締め付けの解除を余儀なくさせたとは言え、僅かその数か月後には、預言者の最も有力な支持者であったハディージャとアブゥ・ターリブが死去し、預言者とその信者たちは深い悲しみに落ちた。

アカバの誓いとメディナ聖遷の下準備

 締め付けは終息したが、預言者に対するメッカの多神教徒たちの迫害は激しさを増した。預言者はやむなく、ムハッラム月やハッジの時期の活動を制限せざるを得なかった。ムハンマドは、ハッジの儀礼に臨んで、メッカのカアバ聖殿に巡礼にやってくるアラブ諸部族の長や有力者たちをイスラームの信仰へと誘った。その当時は丁度召命11年目にあたっていたが、ヤスリブの有力者6名がイスラームに入信し、イスラームが初めてヤスリブの街にもたらされる切っ掛けとなった。翌年、さらに6名がこれに続き、アカバという場所で、異教の神には従わないこと、盗みをしないこと、自分の子供たちを殺さないこと、神の使徒以外の者が言うことに従わないことを預言者に誓った。第一回アカバの誓いとして知られるこの協約は、ヤスリブ(後のメディナ【マディーネ】)におけるイスラーム発展の素地を大きく広げ、召命13年目には、メディナの街の有力者70名がアカバにおいて預言者と再び協約を取り交わした。これは第二回アカバの誓いとして有名である。この協約に基づき、ヤスリブの街の住民は預言者とその支援者たちに自分の身内と同じように援助を与え、敵に立ち向かう神の使徒を支援することを請け合った。こうして、イスラームの預言者とその信者たちの歴史的聖遷の準備が整えられた。

預言者暗殺の企み

 預言者がヤスリブヘ移る直前、多神教徒たちは、アブゥ・ジャフルの提案を受けて、集団で夜陰に乗じて神の使徒の家に押し入り、彼を殺害しようと図った。預言者は多神教徒たちの企みを事前に察知したが、その時、アリーは自らの命も顧みず、預言者が安全にヤスリブに移れるようにと、彼のベッドに横になったのであった。

 信仰して移住して、アッラーの道のために財産と生命を捧げて奮闘努力した人たちは、アッラーの御許においては最高の位階にあり、至上の幸福を成就する。
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イランの歴史 アケメネス朝

『イランの歴史』より



 古代の最大の帝国一つまりアケメネス朝--の成立の事情と、当時の政治的・文化的変容についてアケメネス朝の統治行政の方法は、後の時代に、洋の東西を問わず、多くの為政者により模倣され、現在においても、世界の偉大な歴史家たちは、深い興味を持って、その様々な側面の研究を行っている。

美名の為政者キュロス二世

 キュロス二世がメディア王朝最後の王の孫であり、メディアの軍司令官だちと協力して、権力を手に入れ、アケメネス朝を開いたことを学んだ。キュロス二世は古今の帝王の中でも、際立った諸々の特質を持っており、それ故、彼は名声を得ている。それらを一言で要約すれば、賢明さである。彼は様々な民族にどのように接するべきかをよく知っていた。それ故、彼の統治の方法は、その時代以前に世界を支配した王だちとは異なっていた。

 メディア政権崩壊の知らせが広まると、リュディア(現在のトルコ共和国)やバビロニア(現在のイラク)の王たちは、メディアの領土の一部を占領する欲望にかられた。リュディアの王は、メディア王家との親戚関係を主張していたが、バビロニアやエジプト、さらにはアナトリアの他の支配者だちと通じ、キュロス二世に攻撃を仕掛けようとした。キュロスニ匪はこの連合の知らせを受けるとすぐに、リュディアの首都サルディスに向かい、リュディアや他のアナトリアの都市国家を打ち破った。そして、交易を通じて非常に豊かになっていたこれら諸国家を支配することで、アケメネス王朝の支配は強化された。

 キュロス二世の次の目標は、カルディア人国家の都バビロンであった。その当時、ナボニドゥス【ナボニード】がバビロンを統治していた。バビロンは豊かで巨大な街で、実際、アジアで最大の都市であり、様々な民族が住んでいた。それにもかかわらず、崩壊へと向かうあらゆる条件がそろっていた。例えば、ナボニドゥスはバビロンの人々を統べる能力を欠き、彼らを苦しめていた。中でも、バビロンの人々が尊崇め対象としていたマルドゥーク神に対する彼の不敬な態度はバビロンの聖職者たちを傷付けた。また、バビロンは巨大で繁栄を謳歌する都市ではあったが、住民の階層差も大きかった。

 宮廷人や商人などの一握りの人々が腐敗と虚栄に溺れていた反面、ほとんどの住民は貧しい生活を強いられた(アケメネス朝政権崩壊を学習する際に、これらの諸要因を覚えておくこと)。ナボニドゥスはリュディア王と同盟したことで、キュロス二世にバビロン攻撃の口実を与えた。キュロス二世はバビロン攻撃にも成功を収めた。しかも、敵に勝利を治めた際の振る舞いでも、当時の他の為政者だちとは一線を画していた。当時は、ある街が敵の手に落ちた場合、その住民は皆殺しにされた。特に、住民が崇敬の対象とする神々は既められた。キュロス二世はそうした行為を自重して、バビロン以前の為政者たちが攻撃を行った際に捕虜となり奴隷とされていた諸民族に対して、故郷に戻る許可を与えた。

エジプトの征服者、カンビュセス二世

 キュロス二世の後、彼の息子であるカンビュセス二世【カンブージーエ】が後継者となった。カンビュセス二世の主要な事績はエジプト征服であった。カンビュセス二世が<エジプト征服の>理由としたのは、エジプトのファラオーが自分を娘婿として認めなかったことであった。しかし、本当の理由は、エジプトのファラオーが、(キュロ二世の時代に)リュディアの王と手を結んでイランに対して陰謀を企てたことと、エジプトの莫大な富にあった。エジプトは強大な国家であり、数多くの著名な識者や手工業者を擁する偉大な文明を持っていた。ところが、エジプトもまたバビロンと同様に内部に不安定要因を抱えていた。この遠征で、エジプトのファラオーはイランの部隊が海路エジプトにやってくると考えたのだが、陸路を通じて行われたイラン軍の攻撃はエジプトの人々を驚かせ、結局、カンビュセス二世はエジプト征服を成功させた。

 エジプト征服はイラン人にとって大変大きな意味を持っていた。キュロス二世の時代の諸征服に続いて、今や、世界の諸国家に次々と勝利して、広大な領域を支配することが出来るようになったのであった。

 当初、エジプト人に対するカンビュセス二世の扱いはキュロス二世のそれに似ていた。彼はエジプト人の風俗習慣に敬意を表し、彼らの宗教を尊重した。そのため、エジプト人の激しい抵抗に直面することは無かった。カンビュセス二世はアフリカの他の諸地域の占領も考えていたが、イランから届いた知らせで帰還せざるを得なくなった。彼は、まずイラン人のエジプト統治者を任命し、その後に帰還の途に就いた。ところがイランに到着する前に没してしまった。スメルデス【バルディヤー】に関する知らせ一後で勉強する--を聞いて、彼は激しく怒り、自殺したことはよく知られている。

世界最大の帝国を創り上げた人物

 カンビュセス二世の部隊がイランに戻った時、イランの状況は混乱を極めていた。カンビュセス二世の不在中、スメルデスと名乗る者が自らをカンビュセス二世の兄弟であり、キュロス二世の真の後継者であると宣した。彼は租税の一部を免除することで、一部支配者層の支持を獲得した。また、領内の一部地方では反乱が起こっていた。そうした中、アケメネス家出身の1人の若者、ダレイオス一世【ダーリウシュ】がアケメネス家諸系の有力者らを自分の味方に付けることに成功した。彼らは政権掌握に向けて一致団結した。ダレイオス一世は手始めに、スメルデスが拠る場所に攻撃を仕掛けて彼を殺し、続いて各地の反乱を鎮めた。彼は2年間にわたって、大規模な軍事行動を行い、その間に19回の戦争を行い、9人の地方支配者を死に至らしめた。これらの戦役にはダレイオス一世自身が参加したが、そうでない場合は、自らが信頼を置く将軍たちを派遣した。彼はエジプトには自ら赴き、当地の反乱を鎮圧した。また、インド北部を帝国の一部に加えた。ダ`レイオス一世はこれらの戦役の多くを、ビーソトゥーン碑文に記録として残した。この碑文は楔形文字で記された最古の世界史資料であり、アケメネス朝史を書き著す際には、歴史家たちの大きな助けとなっている。

 ダレイオス一世は晩年にギリシア遠征を行った。当時、アナトリア【小アジア】の大部分はイランの領土であった。ところが、その地方の一部支配者たちが反乱を起こした。この反乱にギリシアの諸都市--その中で有名なのはアテネとスパルタであった--が関わっていた。この遠征でダレイオス一世は蜂起を起こした者たちを処罰しようとした。ダレイオス一世の軍がアテ本に近づくと、アテネの人々は抵抗を試みた。この戦い--マラトンの戦いとして有名であるが--で、アテネの人々はアテネの崩壊を防ぐことに成功した。ダレイオス一世は軍に撤退を命じた。彼は翌年に再びギリシア遠征を行う積もりであったが、程なくして没した。アテネ人たちは自分たちの街が征服されずに済んだことを喜び、祝った。ギリシア人歴史家たちもまた、この出来事をダレイオス一世の敗北と一方的に判断した。そして著書の中で、このことを誇大に書き記した。

ダレイオス一世の死からアケメネス朝の崩壊まで

 ダレイオスー世の息子で後継者であるクセルクセス一世【ホシャーヤールシャー】の登場と時を同じくして、エジプトとバビロンで蜂起が起こったが、アケメネス朝はそれらを鎮圧した。その後、クセルクセス一世は再度のギリシア攻撃を目指す父の計画を実行に移す決心をした。彼はこの計画のために人軍を差し向けた。クセルクセスー世は地上戦では勝利を収めたが、サラミスの海戦でははかばかしい戦果を挙げることはなかった。それ以後は、クセルクセス一世は多くの時間を遊興に費やした。結局、廷臣の1人によって殺された。アケメネス朝の宮廷も、それまで以上に廷臣たちの陰謀と確執の場と化した。ダレイオス二世の時代は、皇后のポルーシャート(ポリーザード)がジャーに対して絶大な力と影響力を持ち、それ故に、色々な決断の際には大きな役割を演じた。彼女が関わった重大事件としては、支配権を手に入れようと小キュロスが起こした遠征があった。ダレイオス二世は生前に息子のアルタクセルクセス二世【アルダシール(二世)】を後継者に選んだが、アナトリア【小アジア】を統治していたもう1人の息子である小キュロスはこの選任を不満として、ダレイオス二世の死後、自分の母親<ポルーシャート>と示し合わせて、ギリシア人を主力とする部隊を率いて<アケメネス朝の>首都に向けて進軍した。しかし、ある戦闘で敗北を喫し、殺害された。

 アルタクセルクセス二世の時代、弱体化し凋落に向かっていたギリシアは、マケドニアの王であったフィリップにより征服された。アルタクセルクセス二世の後継者、つまりアルタクセルクセス三世【アルダシール三世】の時代、アケメネス家の多くの者たちが殺害され、アケメネス朝が弱体化する原因となった。ダレイオス三世の時代、内部の軋轢や無為、怠惰がアケメネス家の人々を覆い、もはや、かつてのような気概など微塵も残ってはいなかった。そうした状況の中で、マケドニアのアレクサンドロスは幾つかの戦いでアケメネス朝を打ち負かし、イランの諸都市では大虐殺が行われた。イランにおけるアレクサンドロスの後継者たちがセレウコス朝であり、暫くはイランを統治したが、最終的には、アルサケス朝によって次第に放逐されていった。
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地域的不均衡とEU地域政策 地域格差を是正するために

『現代ヨーロッパ経済』より EU経済と産業 競争力強化に励む欧州産業

南への拡大とEU地域政策の改革

 1980年代失業問題は南欧でとくに深刻であった。失業問題は地域問題でもある。一般に1人当たり所得の低い地域ほど失業率は高く、インフラストラクチャー賦存度は低く、農業のウェイトが高い。1986年スペイン、ポルトガルがEUに加盟し、EUの農業人口はほぼ2倍に増加、1人当たりGDP(購買力平価換算)がEU平均の75%以下の「低開発地域」の居住人口も5000万人以上増えた。

 両国の新規加盟によってEU地域政策の強化が不可避となった。高失業で競争力の劣る新規加盟国かおりからの単一市場統合の自由競争にさらされるからである。

 1987年2月ドロールEC委員長(当時)は地域政策予算の倍増と運営方式改善とを同時に進める「ドロール・パッケージ」を発表した。87年約360億ユーロのEU予算を92年に約530億ユーロ(87年価格)へ増額、農業(CAP)支出を50%まで引き下げ、地域政策資金を倍増する。西ドイツ・コール政権が約300億マルクもの財政資金の追加負担を引き受けて、「ドロール・パッケージ」は採択され、新しい地域政策がスタートした。

EU地域政策の改革

 新政策ではEU地域政策の3基金を統一的に運用し、資金をもっとも困難な地域に集め、地域開発のプログラム方式によって優先目標の達成と政策管理の効率化を目指した。欧州地域開発基金(ERDF)は投資・インフラ建設と近代化、国境地域開発など、欧州社会基金(ESF)は人(職業教育など)、欧州農業指導保証基金指導部門(EAGGF-Guidance)は農業と農村(漁村)の改善と開発に投入し、EIB(欧州投資銀行)貸付も総合的に動員する。

 次の5目標が設定された。目標1:「低開発地域」の開発と構造改善[3基金。ERDFの80%を投下]、目標2:衰退産業地域の構造改善と産業再建[ERDF、ESF]、目標3:長期失業との闘い[ESF]、目標4:若者の雇用促進[ESF]、目標5(5a):農業構造改善[EAGGF-Guidance]、(5b):農村地域開発[3基金]。目標2は石炭、鉄鋼、繊維、造船など衰退産業への地域経済の依存度が高く、地域失業率がEU平均以上、工業の雇用がEU平均以上で雇用減退の地域のインフラ転換と労働者の職業訓練を支援する。目標3・4は長期失業者や若年失業者に職業教育を最大6ヵ月間実施し、雇用への復帰を支援した。

 1992年構造基金(上記3基金)からの純受取り(GDP比)は、ギリシャ2.8%、ポルトガル2.7%、アイルランド2.4%、スベイン0.5%と飛躍的に高まった。1993~2000年の第2次中期財政計画で構造基金支出はさらに実質67%増加し(「ドロール・パッケージ」)、これら4カ国の受取りは再度倍増した。

 マーストリヒト条約では、通貨統合を念頭に、地域格差是正のために「結束基金」(Cohesion Fund;Cohesion は「格差是正」を意味する)を設置し、国民1人当たりGNI(国民総所得)がEU平均90%以下の国(上述の周縁4カ国。「結束4カ国」)にEU財政から「ネットワーク」建設資金を拠出した(1993年15億ユーロから99年26億ユーロ〔92年価格〕に増額)。EUは90年代「欧州横断ネットワーク」(TEN)の建設に着手した。高速鉄道網・鉄道網、高速道路網など交通ネットワーク(TEN-T)、電力、天然ガスなどエネルギー供給網、電気通信網をEU規模で建設するなど、周縁地域を中心地域と結合する計画を進めた。20世紀末のEU地域政策は「結束4カ国」のインフラ建設が中心であった。

21世紀のEU地域政策

 EU地域政策は7年ごとのEU中期財政計画に対応する。2000~06年には目標1・2・3と欧州委員会主導の「共同体イニシアティブ」による国境を越える地域間協力が目標となった。この期間、04年加盟の中・東欧諸国のEU地域政策からの受取りは全体の10%程度にすぎなかったが、EUは中・東欧諸国が加盟候補となったときから「加盟前戦略」(pre-accession strategy)によって、運輸・情報通信一環境インフラや農業構造改善、農村開発などを推進し、EU加盟の後押しをしており、06年までは引き続き加盟関連の特別J,り金(PHAREなど)で対応した。西欧、北欧などEUコア諸国、米日韓中などから地域の将来性を評価する企業が進出し、ハンガリー、チェコ、ポーランドを中心に巨額の直接投資が流入し、中・東欧諸国は高成長を遂げた。

 2000~06年と07~13年の構造基金による所得移転の状況を比較すると、中・東欧の国民1人当たり純受取りが大きく増え、南欧3カ国は減少した。図8-5はEU財政への拠出を考慮した国民1人当たり純受取り額、しかも各国の物価水準を考慮した購買力平価基準のユーロ表示である。

 2007~13年地域政策は重点を新規加盟の中・東欧に移し、大改革された。国別の受取り額では、ポーランドが673億ユーロ(07年GDP比22%)で第1位、以下スペイン352億ユーロ(同3.3%。以下億ユーロを省略)、チェコ267(20%)、ドイツ(東独を抱える) 263(1%)、ハンガリー253(25%)、ポルトガル215(13%),ギリシャ204(9%)、ルーマニア196(16%)、と続く。GDP比では中・東欧諸国で高く、リスボンを除く全域が後進地域のポルトガルも2桁であった。

 ただし、これらの資金は各国拠出の資金と合体してプログラムを実施できた場合に生きてくる。1990年代から2006年にかけて、アイルランド、スベインは完全にEU資金を消化し交通インフラの質を飛躍的に高めたが、ギリシャの消化率は低く、50%以下の年もあった。計画を策定・実施する能力のある政府・官僚・公務員、そして事業を担当する民間企業(外国企業を含む)が揃わないと完全消化に行き着けないのである。

 2014~20年地域政策は07~13年政策を継承し、「欧州2020」の経済成長計画との整合性を重視した開発計画となった。目標は「成長と雇用への投資」と「地域間協力」の2本立て、「成長と雇用への投資」の対象地域は、上述の結束基金を別にすれば、①低開発地域(所得水準がEU27平均の75%未満)、②移行地域(同75%以上90%未満)、③発展地域(more developed regions、同90%以上)の3つに分かれる。予算タイトルごとの内訳は第3章末尾に掲げている。

 地域的には、①は中欧の首都圏を除くほとんどすべての中・東欧諸国とポルトガル全域(リスボン地域を除0、スペイン・ギリシャ・南イタリアの一部、西ウェールズである。②は旧「結束4カ国」(スペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランド)の中所得地域、ポーランド西部、束ドイツ、フランス農村地域などである。③「発展地域」は①②以外のすべての非常に広い地域をカバーする。

 EU地域政策の発動からプロジェクト終了までのフローチャート(概要)は、①欧州委員会によるガイドラインの公表と欧州議会・閣僚理事会による採択(決定)→②地域と協議して加盟国が実施プログラムの記載された国家戦略枠組みを策定→③プログラム採択(援助の実施)→④プログラムのモニタリング、評価、F算審査(欧州委員会地域政策当局の「活動年報」における公表)→⑤プログラム終了と事後審査、となっている。

 EUの支援が決定されると、基金から資金が提供され、EIB貸付なども動員される。加盟国は資金の使途について詳細な実施プログラムを提出する。プログラムの執行、EU法令へのコンプライアンス、適切な予算執行などがEUによってチェックされ、不適切なら予算の執行留保もありうる。「低開発地域」に投資する企業は、EC域外企業もEUと構成国・地方政府から資金援助を受け、失業者を雇用して職業訓練をする企業には賃金補助がなされる。なお欧州委員会のガイドラインはリスボン戦略、環境政策、欧州2020のようなEUの基本方針との整合性を重視する。

EIBによる地域政策の補完

 欧州投資銀行(EIB)はEUに直属する公的金融機関であり、「EU Bank」を名乗っている。EU27カ国から出資を受け2012年末の資本金は450億ユーロ、総資産5133億ユーロ、負債4683億ユーロ、格付けはトリプルAである。低金利で債券を発行して資金を調達し、EU諸国や域外諸国(EU非加盟の東欧近隣諸国、ACP諸国、北アフリカ諸国、EU加盟候補国など)に低利で融資する。融資対象はインフラ(鉄道・道路など交通、エネルギー、水供給など)、産業支援、教育、農漁業と農村開発など、EU地域政策の支援分野と重なっており、格差縮小や投資支援に貢献できる。EU加盟国は2012年6月の首脳会議で100億ユーロの資本金増強を決めた。これによって向こう3年間に融資能力は600億ユーロ拡大し、最大1800億ユーロの追加投資が可能になるとした。

 2009~13年の5年間にEIBは3357億ユーロの融資に調印した。金額はEU地域政策の7年分に匹敵する。ただしEU域外に384億ユーロ、EU域内には2973億ユーロである。国別では、スペイン478億ユーロ(以下、億ユーロを省略)、イタリア440、ポーランド257、ポルトガルIll、ギリシャ79、アイルランド29であった。16年には840億ユーロの融資を行い、その94%はEU、EFTA、EU加盟候補国に向けられた。EU地域政策と並んで、インフラ投資を中心に経済成長への支援を果たしている。

 上述した欧州委員会提案の「欧州対外投資計㈲」(EEIP)においても、EIBは、EU予算による53億ユーロの保証を受け、2020年までに323億ユーロまでの融資を担う。
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OODIの目指すもの

ヘルシンキ中央図書館「OODI」 2018年12月オープン予定

 北欧の観光地とされる場所は一つ他の国やエリアと違うのが「図書館」です。

 一般的にヨーロッパの他の国や北米、アジア諸国で旅行すると、わざわざ図書館を見学するイメージがほとんどないでしょう。

 しかし、北欧・フィンランド、特にヘルシンキでは実に図書館も一つも見どころなんです!

 例えばヘルシンキの隣のエスポー市の図書館は非常に現代化し、建築外観も、内部のインテリアも、提供されるサービスも見どころがたくさんあります。

 また、ヘルシンキ市内であれば、カッリオエリアの丘にあるカッリオ図書館では、その歴史情緒を存分に味わえるでしょう。

 このように、フィンランドの図書館は図書館として使われていても、北欧デザインを鑑賞したり、北欧歴史風情を楽しんだりできるのです。

 それで、今回ご紹介したいのは、間もなく2018年12月にオープンされる「ヘルシンキ中央図書館OODI」です。

ヘルシンキ中央図書館の場所

 ヘルシンキ中央図書館はその機能性を最大限に発揮させるため、場所はヘルシンキの最も交通の便がいい場所であるヘルシンキ中央駅から西に徒歩5分の場所にあります。

 周りにはヘルシンキミュージックセンター、ヘルシンキ現代美術館Kiasma、フィンランディアホール、公園とオフィスビルに囲まれています。

ヘルシンキ中央図書館の見どころとは?

 応募建築事務所544件のうちからコンペを経てトップに立つ優勝者の建築デザインがなされるヘルシンキ中央図書館は見どころ満載です!

 1万8千平方メートルの面積を持つヘルシンキ中央図書館のデザインコンセプトは「図書主体ではなく、人主体」です。

 図書館は3階建てで、それぞれの階層は異なるコンセプトで運用されます。

 1階はパブリックエリアとしてデザインされ、目前の国際広場、ヘルシンキ近代美術館、ヘルシンキミュージカルセンター、公園と融合し、エベントの場、待ち合わせの場、オープン展示を見る場となります。

 中には映画放映ホール、オープンホール、展示場、カフェ、レストランが設置されます。

 2階は仕事の場、やりながら学ぶ場というコンセプトの元でデザインされ、物を作る場所、仕事をする場所、会議室、グループワークルーム、個室などが設けられます。

 この場所に通じて知識を活用し、人々が一緒に何かをやることで学んでいける場所として構想されます。

 しかも、さすがフィンランドだと思うところはサウナも併設されますので、疲れたらサウナに入ることも可能です。

 3階は最も伝統的な図書館に近いエリアです。

 10万冊以上の本や多くの資料がここに収蔵され、人々はこのエリアでリラックスしながら好きな本を読むことができます。

 また、大きいなバルコニーもあり、コーヒーを飲みながら外の暖かい日差しを浴びながらゆっくりすることもできます!

 ヘルシンキや近隣都市の他の図書館と異なり、ヘルシンキ中央図書館の内装と外装に大量な木材が使用され、多くのリニア曲線や曲面が構成され、北欧の近代風自然スタイルを身近に見ることもできます。

ヘルシンキ中央図書館の誕生について

 実にヘルシンキには「中央図書館」というものが存在していませんでした。

 各エリアには各エリアをカバーする図書館があり、大学などにも大学図書館があるので、必要とされる図書館の機能は基本的にこれらの図書館によって提供されています。

 しかし、現在市中心にある二つの図書館「Rikhardinkatu図書館」と「図書館10」は面積が小さく、市中心に向ける図書館サービスのキャパシティが不足しています。

 更に、中央図書館として一部機能しているパシラ図書館は市中心から遠すぎて機能性としては完全に発揮できていない状態です。

 そのため、「ヘルシンキ中央図書館」という概念が早くも1998年に提出されていたが、ようやく独立100周年のお祝いに合わせ、2015年にヘルシンキ市議会で可決され、2016年に建設が始まりました。総予算費9600万ユーロ(約1憶2千万円)で中央政府3千万ユーロ、ヘルシンキ市が6千6百万ユーロを出資しています。

ヘルシンキ中央図書館の名前「OODI」の由来

 ヘルシンキ中央図書館は他の図書館と異なり、自分の名前を持っています。

 その名前もコンペを2600件の応募からコンペを経て選出されたのです。

 「Oodi」(オーディ)はフィンランド語で「頌歌」という意味をしています。

 「頌歌」は古代エジプトやギリシャで重要な式典や演劇の中で歌われる歌のことです。

 「Oodi」が図書館の名前として選ばれた理由は、覚えやすく言いやすいだけではなく、フィンランド独立100周年記念を祝う意味を含め、フィンランドの人々に生活を楽しんで頂ける場所として、フィンランドの人々へのプレゼントとしての意味も含まれてこの名前が付けられました。
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