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ツイッターの心理学 カスタマイズ可能性と永続的個人化の行く末

『ツイッターの心理学』より ソーシャルメディア時代のオンライン世界の今後

2章では利用動機によって利用者がタイプの異なるネットワークを形成していること、そして5章ではその結果カスタマイズ化された情報を利用者が受信している実態を確認してきた。前項では広告というビジネスモデルが孕む問題点を指摘したが、永続的個人化を基礎としてカスタマイズ化された情報と関連性の深い広告情報が配信されるようになってきているのがウェブサービスにおけるここ5年ほどの急速な動きである。しかも広告に限らず、企業のウェブサイトやスマートフォンアプリでのコンテンツ閲覧、ECサイトでのリピート購入促進といった局面においても個人属性別に異なる内容の情報提供は当たり前のように行われている。

こうした状況が進展している理由は大きく二つある。第一の理由は、情報提供側の収益向上である。

フェイスブックがニュースフィードに本格的にコンテンツ推奨アルゴリズムを導入したのは2011年だが、これはニュースフィードで受け取る情報量が増えすぎ、同時に利用者の関心が限られた一部の他の利用者にしか向かわないからであった。この導入により企業の発信するコンテンツのニュースフィードでの出現率が低下したが、そのニーズを有料広告へと巧みに誘導し、同社の広告事業は2016年第1四半期に52億ドル以上という規模にまで拡大し、なお成長途上にある。これは特にスマートフォン向けに個人属性情報によってセグメントされる広告を妥当な価格で提供したことによる。つまり広告主から見ても永続的個人化による広告は採算に合うというわけである。ツイッターでも、フォローアカウントやツイート内容を考慮した「プロモツイート」が自動挿入され、個人化広告の流れにツイッターも乗じているj

第二の理由は、永続的個人化による情報過多緩和である。

ツイッターにおける情報過多への対処策として2009年にリスト機能が導入され、利用者は一定のアカウントによるツイートを優先的に表示できるようになった。だが、6章で見たように日本においてはリストの利用は既存社交動機との結びつきが強い。すなわち他の動機で利用する者からはツイートが読み飛ばされることが相応にあり、それへの対応が2015年にスマートフォン向け公式アプ引こ導入された未読ツイートのまとめ機能“While You Were Away”(「ご不在中の出来事」)や、2016年に実装された「重要な新着ツイートをトップに表示」機能であろう。

フェイスブックでのコンテンツ推奨アルゴリズム導入以来、ニュースフィードでは機械的に一定数のコンテンツが間引かれるようになっているが1)、それによって利用者の離反を招いたということは起きていない。コンテンツが間引かれていることを知らない利用者も15億人の中には相当数いるだろうが、いずれにせよ機能としては許容の範囲にある。翻ってツイッターのタイムラインでは現在のところ、コンテンツの間引きは起きていない。けれども“WhileYou Were Away”以降の機能では、「時間」以外の要素でコンテンツの序列がアルゴリズムによってつけられたことで、利用者の情報接触行動は今後変わっていくのかもしれない。つまり情報過多の問題を緩和する上で、システムによる情報選別を行うことは妥当な解の一つとなっている。

けれどもこのような利用者の「疲れ」の緩和とのトレードオフとして、次のうな問題も招来する。それは利用者にとって「必要な」情報をシステムが選別することの功罪である。有用と判定されなかった情報を間引くにせよ、逆に有用と判定された情報を追加するにせよ、情報の選別は行われている。こうした情報の選別は主に利用者の「選好」にもとづいて行われ、見たい物しか表示されないという情報環境が実現し、結果として接触情報の偏りを生み出す懸念がある。パリサーはこれを情報フィルターによって閉ざされたシャボン玉という意味で「フィルターバブル」と呼んだ。ここで生じうる偏りは「フィルターバブル」で想定されている意見レベルのものだけでなく、内容(ジャンル)レペルのものまでありうる。前項で述べたように、趣味・娯楽情報や「面白さ」を狙った情報の流通量が多く、公共情報と比べてもそれらが好まれるため、全体としてそうした方向へと偏っていく可能性は十分にある)。

ウェブサービスによって提供される機能やユーザーインターフェイス(UI)のある部分はビジネスモデルによって規定され、それらの機能やUIが情報内容や利用者体験、コミュニケーション様式を、さらには文化の形成や社会システムにも影響力を持ちうる。こうした循環的構図を私たちは理解する必要がある。とりわけウェブサービスは同じくデジタル化されているテレビと比べても技術の可変性が高く、サービス設計者が利用者の行動データによって機能やUIを素早く変更することが可能で、この点が今までのメディアとの違いである。つまりメディア研究者には利用者の意識や行動のみならず、それとビジネスモデル、さらにはテクノロジーとの関係性への目配せも求められるわけである。

この三つの関係性への目配せは、アカデミアに閉じたものであってはならない。それは誰もが考え、そして実践すべき今日的なメディアリテラシーの問題でもある。

スンダーとマラーテによれば、利用者が自分のニーズに合わせて情報環境を構成した結果として得られる情報に対する評価は、メディア技術利用スキルの低い者で低く、高い者で高い。一方で、利用者に関する情報を元にシステムが自動的に情報選別したときの結果として得られる情報に対する評価は、スキルの低い者で高く、高い者で低い。後者のケースが前述のパリサーが懸念する「フィルターバブル」に当たる。この結果は、こうした事態を「問題」として認識する層と、利便性の面から高い評価を与えて「問題」とは認識しない層とが分離していく可能性があることを示している。だとすれば、人びとが構成するネットメディアにおける情報環境の差異が技術利用スキルの差異とあいまって、格差がこれまで以上に生み出されることは十分に起こりうる。
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インドネシア 穏健なイスラーム

『インドネシア イスラーム大国の変貌』より 世界の「イスラーム化」

世界の「イスラーム化」

 「グローバリゼーション」と聞いて、冷戦終結以降、唯一の超大国となった米国から大量の資本、情報、人材が世界中に出まわる様を連想する人が多い。しかし実は、グローバリゼーションの発信源は、米国のみにとどまらない。米国発のグローバリゼーションに抗するかのような、巨大な潮流が世界には存在する。そのひとつが、「イスラームのグローバリゼーション」である。欧米諸国に反発し、対抗し、混じり合って複雑な色彩を国際社会にもたらしている大河のような流れが、イスラーム諸国から生じ、国際政治や経済の争点となっている。

 「イスラームのグローバリゼーション」とは、具体的にはイスラーム教徒の移動と人口の拡大、イスラーム経済ネットワークの拡大、イスラーム的価値観の影響力・存在感の拡大等を指す。

 なかでもイスラーム教徒の国境を越えた移動、移動を通じて彼らがはりめぐらせるネットワーク、人口増加という要因は、中長期的に世界地図を書き換える可能性を秘めている。つまりこれまでイスラーム教徒が少なかった地域でもイスラーム社会が根をはり、その数を増やし始めているのである。

 昨今の報道で注目されているのが、欧州のイスラーム社会だ。米国の民間調査機関「ピュー・リサーチ・センター」によれば、二〇一〇年時点でEU内のイスラーム教徒の数は二〇〇〇万人に達している。主要国ではドイツに四七六万人、フランスに四七一万人、英国に二九六万人のイスラーム教徒が暮らしている。総人口に占めるイスラーム教徒の数は、ほぼ全ての国で一%以上であり、フランスでは七・五%に達している。かつて労働力として旧植民地宗主国に働きにきて、そのまま定住することになった人びとと、その二世、三世たちである。このようなイスラーム社会の拡大が、今日の欧州を揺るがすテロの頻発、押し寄せる難民、これに反発する排外的な民族主義の台頭といった問題の背景にある。

 「ピュー・リサーチ・センター」が二〇一五年に行った報告によれば、今世紀後半にイスラーム教徒人口がキリスト教徒を超え、イスラーム教は世界最大の宗教になると予測される。同報告によれば二〇一〇年のイスラーム教徒が世界人口に占める比率は二三・二%だが、二〇一〇年時点のイスラーム人口に比して七三%の高い伸び率で人口増加が進み、二〇五〇年にはこれが二九・七%に上昇する。一方現在最大宗教であるキリスト教徒の比率は二〇一〇年時点三一・四%で、今後もほぼ横ばい状態が続くと考えられる。やがて今世紀なかばにはイスラーム教とキリスト教は人口でほぼ措抗し、世紀後半にはイスラーム教徒がキリスト教徒を超える。言うなれば世界で「イスラーム化」が進行するのである。

 そしてこの「世界のイスラーム化」は、中東・アフリカや欧州だけの話ではない。日本の近隣地域である東南アジアでもイスラームの存在感が、拡大の一途にある。経済と人口が拡大し活気あふれるASEANの人口は約六億であるが、その四割は現在すでにイスラーム教徒なのである。そしてその大半は、世界最大のイスラーム人口大国インドネシアとイスラームを国教とするマレーシアに集中している。日本国内に在住するイスラーム教徒人口を国別にみた場合も、常に一位を占めるのがインドネシアである。

 近年、政治・経済・文化の各分野において、日本のパートナーとして東南アジアの重要性が再認識され、日本はこの地域との関係性を深めつつある。ということは、世界がイスラーム化していくなかで、日本がまず向き合わねばならないのは東南アジアのイスラーム、特にインドネシアのイスラームである。本書では、そのインドネシアのイスラームについて考えていきたい。

穏健なイスラーム

 インドネシアを含めて東南アジアのイスラームは、ごく一部の例外的な過激集団を除けば、中東や南アジアと比べて「穏健なイスラーム」と言われてきた。一口にイスラームといっても、この国におけるそのありようは実に多様であって、アチエ特別州のイスラーム教徒とジャワ島のイスラーム教徒のあいだでは、信仰のありようは大きく異なっている。この多様性は、イスラームがこの国に伝えられ、各地で定着していった歴史に起因するところが大きい。

 ところでインドネシアと日本の宗教受容には、共通点がある。いずれも各地に自然崇拝、祖霊崇拝等が元々存在し、中国やインドの大文明が栄えた大陸の周縁部分の列島にあって、歴史の流れの中で地層を重ねるように大文明の影響を摂取しながら独自の宗教意識を育んできた。日本の場合は、基層にあるのがアニミズム(神道)であり、そこから仏教↓儒教↓キリスト教の順に外来宗教が流入した。インドネシアの場合はアニミズムを出発点に仏教・ヒンドゥー教↓イスラーム↓キリスト教という外来宗教が入って来て、これら複数の宗教が習合しながら発展してきた。イスラームと聞くと「乾燥した砂漠の峻厳な教え」を想起する人が多いが、インドネシアでは多雨湿潤の風土に溶けこみ、各地にしっかりと根をおろしている。

 イスラームの伝播時期は諸説あるが、確実な歴史として残るのは、北スマトラ、サムドゥラ・パサイ地域のイスラーム王が一二九七年に死去したことを示す墓碑である。その後一五世紀なかばスルタンの称号をもつムザッファル・シャーがマラッカ王国を統治し、マレー半島とスマトラ島のイスラーム化か本格化した。ジャワ島でも一六世紀からイスラーム王国が勢力を拡大させ、ヒンドゥー・仏教古代王国であったマジャパヒト王国を滅亡させる。

 東南アジア多島海のイスラーム伝播を特徴づけるのが、①数百年かけて緩やかにイスラーム化か進行したこと、②その布教者は、海のシルクロードを通って交易のために渡来したアラビア人、ペルシア人、インド人、チャム人(当時ベトナムに栄えたイスラーム王国人)、そして中国人(大航海で有名な鄭和はイスラーム教徒)と、多様な背景をもった人びとである。中東、南アジア、中央アジアは、軍事的征服によって短期間でイスラーム化したが、東南アジア海域では平和裏にゆっくりとイスラームヘの改宗が進んだ。

 またこの地域に拡がったイスラームは、イスラーム神秘主義の影響が強かったと考えられる。イスラーム神秘主義は聖者信仰等イスラームが土着信仰と結びつく習合的色彩が強い。これが異なる宗教が摩擦なく共存することにプラスに作用していると考えられる。

 インドネシアのイスラームが柔軟かつ多様であり、穏やかな性格を有するのは、これらの特質に由来するのかもしれない。

 しかしながら、「穏やかな」インドネシア・イスラームが、時に激烈な闘争、反乱に人びとを動員するエネルギー源ともなってきた。オランダ植民地時代に発生したパドゥリ戦争(一八二一~三七)、ディポネゴロ戦争(一八二五~三〇)、アチエ戦争(一八七三~一九一二)は、イスラーム教徒による植民地権力者への反乱という側面を有し、独立闘争の先駆けとして、インドネシアの歴史では位置付けられている。

 このなかでもパドゥリ戦争の展開は興味深い。一九世紀はじめ、交通手段の発達によって東南ジアからメッカヘの巡礼者が増えつつあった。メッカ巡礼(ハジ)帰国者たちのなかで、当時アラビア半島で興った原理主義的なワッハービズムの影響を受けた者たちが、禁酒、禁煙などを求め、従わない者たちを攻撃するなど急進化し、これがやがて反オランダ闘争に変化していった。

 中東イスラーム世界で発生したイスラーム改革運動、その一部が変容したイスラーム過激主義が、交通・通信手段の発達を通じて東南アジア多島海イスラームに伝播しテロリズムの脅威をうむという今日のIS問題の原型を、一九世紀はじめのパドゥリ戦争に見出すこともできるのである。
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礫岩のような国家 緩慢に進行する統合

『礫岩のようなヨーロッパ』より 礫岩のような国家 ⇒ やはり、ゆっくりした統合ですね

近世ヨーロッパにおける国家形成は、おおよそ、ある君主のもとにあった諸領域が緩やかに統合の度合いを高め、礫岩から統合へと性格を変化させたプロセスだと説明することができよう。領域面における統合のプロセスは、社会生活の面にも反映している。おのおのの領域は、行政、司法、立法、経済、文化の各側面において多かれ少なかれ統合をみることができる32。それらは統合の程度を検討するための問題群であり、その程度は統合の要請や統合への抵抗を検証することから明らかにできよう。

これら五つの側面のなかでも、経済的統合と文化的統合は必ずしも礫岩のような国家の性格と衝突するものではなかった。経済と文化の統合への試みはあまりめだったものではなかった。17~18世紀のデンマーク=ノルウェーとスウェーデンにおける資本の増加をめざした重商主義政策のように経済に関する国家的統制が実現された場合もあるが、19世紀以前に実質的な「国民経済」はどこにも存在していなかった。同様のことが「国民文化」にもあてはまる。しかし、文化的統合がとりわけ宗教の分野で進行した例や、後述するようにある程度は言語の面で試みられた例もある。

礫岩のような国家を構成するさまざまな地域のあいだにあった古くからの境界は、行政、司法、立法面での統合、そしてある程度は教会組織の統合によって脅かされるようになった。君主は、支配圏の資源を可能な限り効率的に活用する目的から、諸地域が有した伝統的な特権をなきものとし、支配圏を包括する集約化された行政システムを構築し、法廷などを改革する必要を感じるようになっていただろう。君主はまた、あらたな法の発布や司法の再編、良きキリスト教君主としてのイメージを創り上げるための教会の統制を実現するために、イデオロギーが必要であることを切実に感じていたかもしれない。これらの企ては支配圏を構成する諸地域間の境界を無意味化する可能性をもったが、境界が完全に浸食されることはほとんどなかった。

いくつかの統合の事例を概観してみよう。スペインを例にとれば、1640年代の統合に向けた改革の挫折や合同からのポルトガル人たちの離反など、カスティーリャ、アラゴン、ポルトガルなどからなる合同を維持することの難しさを議論することができる。しかし、ここでは17世紀のもっとも知られた事例として、従来の歴史叙述においては高度な統合を実現したとしばしば説明されてきたフランスがあらたに獲得した地域に対して実行した政策に焦点をあててみよう。

スウェーデン王が神聖ローマ帝国の諸侯として行動したドイツのスウェーデン領とは対照的に、ウェストファリア条約でフランスが獲得した地域は、神聖ローマ帝国からフランス王国へ割譲されたものである。スペインとの境界地域にあたるセルダーニュ(サルダーニャ)の住民意識の展開について示唆あふれる研究をおこなったピーター・サーリンズによれば、あらたに征服された地域の臣民は自動的にフランス臣民と同じ政治的地位を付与されることとなっていた。

一般的なパターンは、スウェーデンにあらたに属した地域が維持した構造のように、諸地域の行政と司法の基本構造がそのまま温存されることであって、あらたにパリを中心とした構造が上から与えられた事例は例外的であるように思われる。フランスヘの「再統合」の権利をもったプロテスタント地域であるベアルンを研究したクリスチャン・デプラは、「フランスとの合同をもっとも強く支持する者たちが、ペアルン自体の司法や法、慣習の維持の必要を即座に認識していた」点を指摘している。1616年に発せられた合同勅令は地域での抵抗を受けて強制されることはなかったが、20年の軍事遠征を通じて王権はこの地域へ影響力を浸透させ、ある程度の再カトリック化も進んだ。しかし1620年の合同は「ベアルンの政治的・社会的組織にすみやかな革命をもたらすものではなかった」。国王は勝利を収めたものの、フランス国家の構造を伝統的な構造の上部に重ね合わせる前提として、伝統的な構造を維持する必要を抜け目なく見抜いていた36。

ベアルンから50年後にみられたアルザスの例から、ジョルジュ・リヴェは「絶対主義」的な統治がもつ妥協的な性格を強調している。「絶対主義の原則にもかかわらず、君主政は媒介する団体をこの地域に維持することを認めた」。さらにルネ・ピラージュによる17世紀フランスの研究では、住民が「ときに鮮やかなまでに、王国の生活の諸側面に参加するようになった」として、征服された諸地域の統合が成功を収めた伝統的なイメージが紹介される一方、「慎重に、沈着に、綿密に、巧みに」統合政策が追求されたことで、このような統合が実現された点が強調されている。このピラージュの言回しは、完全なる編入の可能性が皆無だったことをほのめかすものかもしれない。

私は、フランスもフランス革命にいたるまでは礫岩のような国家として記述することが最良であるように思える。あらたに獲得された地域だけではなく、中世以来フランス王国に貴族した地域もまた王国との関係は実際のところ種々様々なものであった。そうした諸地域のなかには、「絶対的」な君主でさえ、身分制議会とのあいだで法令や徴税、徴兵などをめぐって交渉せねばならない地域もあった。オルウェン・ハフトンも以下のように議論することで、18世紀のヨーロッパで一般的でありながら、フランスでは特殊だったこれらの事情を指摘している。

 中世以来の西ヨーロッパの行政の歴史は、中央の権力が可能な範囲において中央からの統制に異議を申し立てる中間的な権力や権利を排除しようとする過程だった。成功はあまりにも限定的なものだった。たとえば、1730年に、フランス王は絶対的な権力を宣言しようとしたけれども、その権力がおよぶ国土は異質な地域の存在によって分裂をはらむものだった。王の権力は地域の身分制議会から承認を受けねばならず、それぞれに異なる地方の法によっても承認を受けねばならなかった。なかには特別な言語で、王の権力が承認されることを表現せねばならない地域もあった。……そして貴族、聖職者、諸侯らの特権を承認せねばならなかった。

われわれは、主要なヨーロッパ国家における統合プロセスの成功と挫折を書き記すことができるだろう。後述することではあるが、統合への流れは1700年頃を境として強化されたようにもみえる。しかし、まずは二つの近世の北欧国家に立ち戻り、とりわけ17世紀における統合プロセスと礫岩のような性格の混在について、より詳細な検討を加えてみよう。
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礫岩からのゆったりした統合

礫岩からのゆったりした統合

 礫岩からのゆったりした統合を北欧は行なってきた。EUのように急速な事態を避けてきた。ヨーロッパは礫岩です。国民国家の集まりです。統合するにはゆったりでないといけない。分化した個人もゆったりした統合を考えていく。

哲学とは

 哲学というのは、この生きている、いやな気分に立ち向かうためでしょう。何しろ、今もいやな気分です。<今>と言うこと自体も。

 哲学は自分のモノです。
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