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未唯宇宙第8章のオーラル

新刊書フリーク

 相変わらず、3時からの不毛な新刊書争いがイヤになる。居なくなればいいのに、図太そう。

ナナコのカード

 ナナコのカードが手に入った。1500円以上もしたのに、100ポイント(100円分)しか入っていない。生写真3枚とカードデザインが乃木坂です。それもアッシュ、ななみん、そして生ちゃんです。全員センターおよび経験者です。まあ、満足かな。

 スタバで間違った振りして、ばればれで提示していた。ナナコには入金しないようにしましょう。

ANNでの3人の会話をネットで再確認

 乃木坂というグループの良さですね。好き嫌いで判断すればいい。あの三人からこそできる感覚です。周りにはマネージャが一杯居るとANN0の新内が言っていたけど。

 ラジオ番組が声だけでなく、映像で見える。演者は声だけでなく、映像も使っている。映像に頼らない技術はすごい。

第8章に取りかかります

 第8章は第5章の仕事編から来ている。だから、仕事で獲たものをどう展開するのか。三つの事柄、販売店のようなメーカーとお客様との中間のあり方、地域のあり方、そして、車のあり方。これらから、次の世界をどう作って行くのかを第8章のてーまにしました。

 この三つについては、従来との焼き直しが多いが、先に向けてまとめています。

8.1「中間のあり方」

 中間である販売店要望では思いを持って、状況を確認して、皆の要望を叶える。そのためにつながる。

 自分自身は消費者でもなく、メーカーでもない中間の存在。ネット社会では無駄な存在、全てがなくなる。そういうことも考えられるけど、やはり、中間が居て、社会が成り立つ。新しい世界では中間が中心になる。消費者資本主義から脱することができる。

 個人が使う、メーカーがモノを作るとは異なる次元で、それらをいかに効率的に、効果的にしていくか。そのために必要な機能をまとめています。

8.2「クルマのあり方」

 二番目がクルマのあり方、クルマって何なのか。メーカーにとっての車だけではない。地域にとってのクルマ、環境問題でのクルマ、地域の中間を販売店がバックアップ。

 需要なのは、クルマがどういう社会を作って行くのか。今までのインフラを占有する形ではダメです。もっと、全域を考えていかないといけない。

8.3「地域のあり方

 コミュニティと市民の間での課題解決を行なっていく。その根本は配置です。それらを動かすものとして、サファイア循環があります。

8.4「必要機能」

 これら三つのものをつなげるものとして、何があればいいのか。メーカーのバト地域の場をクルマを仲介として、どうつなげていくのか。そこには、消費者から生活者のマーケティングとして、クルマを効率的にシェアする方向が生まれる。

 そこで、ライブラリ、ソーシャルネット、マーケティングが見えてきます。なぜ、今までそうだったのかと考えると、今後何が出てくるのか、それをどう使っていくのかがわかる。

8.5「情報」

 今までが、前半で一つのシナリオになっている。それらから要素分解するのが、8.5以降です。

 これらは30年間の仕事の中でやってきた。どう変えていくのか、どう考えていくのか。そのために、情報は非常に大きい。情報は私のために準備されたもの。

 意識改革にしても、情報共有のありなしで大きく異なる。情報共有にしてもハイアラキーで考えると一方方向であるが、配置の場合は双方向であり、色々な人がまとめると発信する、色々な思いが交差する。そのためのリテラシーも必要になる。

 情報にはフローとストック、プッシュとプル、それらのメディア、会社とか学校とか家庭をどうしていくのか。インフラを考えたと同じように、データベースをどういうカタチで持つのか。

8.6「社会基盤」

 これは情報にインフラを含めた基盤です。仕事で獲たものの延長線で考えています。ソーシャル、クラウド、ポータルとコラボ。一番難しいのはコラボレーションです。コラボの社会基盤はドコモ作り得ていない。システムだけではダメです。思いをどう表現するか、どう位置決定させるのか。

 あるとしたら、環境社会でしょう。環境に関するコラボレーション。これも一般の市民とはつながっていない。いかに巻き込むのか。クラウドでは、アマゾン、ヤフー、グーグルから有用な武器が出てきている。コラボではフェースブックです。ツイッターとかラインにしても大きいです。

 これらの武器は十分に浸透している。ゲームのためと思っているものの目的を変えれば、社会に十分に活用できる。

 多分、メディアをもっと入れた方がいいです。ポータルにしても一機能ではなく相互的にすることです。ポータルを受け側にして、コラボは結論づけするところでクラウドとメディアを商売につなげる。メディアをどこにするかがポイントです。

8.7「分化と統合」

 販売店、クルマ、地域、コミュニティを分化させて、統合させることをまずは行なっていく。クルマ社会をどう作るのかをやっておけば、社会全体の分化と統合に役立つ。分化するレベルも違うし、統合するレベルも小さくなっている。キーとなるサービスの高度化なども生まれる。

 分化は販売店の中と地域のコミュニティでの分化を主に考える。システムはメーカーの中のシステム、販売店内のシステム、そして、市民との間のシステムは仕事の延長で考えてきました。

 それぞれにとって、必要な機能は偏ってはいるけど、ポータルの開発時に行ないました。6千拠点で実験済みです。

8.8「クルマ社会」

 それぞれバラバラにされて、配置されたクルマをどう使っていくのか。そのベースとなるものの話です。サービスの高度化が全面的に出てきます。このアイデアが生まれた時に、スタバのIさんに具現化できた。

 クルマ社会がどうなるのか。どういうカタチになるのか、単に自動運転がどうなるのか、電気自動車がどうなるかではなく、もっと大きな単位、社会のあり方、人類が生きていくためにどうしたらいいの化のヒントになります。
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豊田市図書館の25冊

209『一気にわかる世界史』“中心”の移り変わりから読む

192『キリスト教一千年史 上』地域とテーマで読む

192『キリスト教一千年史 下』地域とテーマで読む

619.89『図説 コーヒー』

209.71『ロレンスがいたアラビア 上』

209.71『ロレンスがいたアラビア 下』

238.07『セカンドハンドの時代』「赤い国」を生きた人びと

210.3『騎馬文化と古代のイノベーション』

135.3『ヴォルテール回想録』

675『マーケティングのすすめ』21世紀のマーケティングとイノベーション

611.1『農本主義のすすめ』

507『未来の創造』人類の健康と繁栄に向かって 技術を生かすグローバルリーダー育成の教科書

295.17『バンクーバー』

293.09『関口知宏のヨーロッパ鉄道大紀行』オランダ、ベルギー、オーストリア、チェコの40日間

311.7『ポピュリズム化する世界』

383.81『誰も語らなかった すしの世界』わが国におけるすしの文化誌史的研究

331『コンパクト経済学 ミクロ・マクロの基本80』

382.53『アメリカ先住民を知るための62章』

007.3『IoTの衝撃』競合が変わる、ビジネスモデルが変わる

049『できる大人の常識力事典』

319.34『アウシュヴィッツのコーヒー』コーヒーが映す総力戦の世界

936『愛は戦禍を駆け抜けて』報道カメラマンとして、女として、母として

302.38『限りなく完璧に近い人々』

911.04『折々のうた-春夏秋冬-秋』

911.04『折々のうた-春夏秋冬-冬』
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ダカール大学の〝五月蜂起〟

『人類学者への道』より 新しいアフリカを求めて

フランスの大きな影

 はじめてダカールを訪れたあるフランス人学生が、私に「玄関だけ立派な家の、玄関を見たような気がする」と話してくれたことがある。たしかに、ダカールは人口三〇〇万の草原の国セネガル共和国の首都としてはややふつりあいで、身体のわりに大きすぎる頭をおもわせるところがある。

 もともとこの町は、かつての広大なフランス領西アフリカの首府としてつくられた。ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカを結ぶ空と海の交通のかなめでもあるアフリカ西端のこの岬の町には、西アフリカ一を誇る港や空港をはじめ、行政・経済・学芸のセンターなど、フランスの西アフリカ統治の中枢が集められた。他のアフリカ諸国の都市が、独立後めざましく発展してゆくなかで、ダカールが少なくとも外見上あまり変化していないのも、こうした事情によるところが大きい。

 パリ直輸入の商品が、フランス人経営の店のショーウインドーにはなやかに並ぶ表通りから一歩裏町に入ると、数世紀前のポルトガルの田舎町にでも足をふみ入れたかのような錯覚にとらわれることがある。紙の花のようなブーガンビレアが赤く咲いている、おだやかだがひどく貧しい南欧風の中庭で、色の浅黒い女が洗濯をしている。

 カポ・ベルディアンと呼ばれているポルトガル系の移民や、シリア・レバノン人の商人、褐色の肌のモール人、さまざまな地方からやってきた黒人、そしてそれらの混血かおり、仕立屋、雑貨屋、ペンキ屋、一膳めし屋がある。香辛料と落花生油と噛みタバコと、少し濃密すぎる汗腺から揮発するもの等々の匂いが入りまじって、いたんだ壁や床にしみついている。

 ダカールのあるベール岬は、一五世紀中ごろ以来、サハラ以南のアフリカ大陸で、最も古くからヨーロッパ人が進出したところである。ポルトガル人、オランダ人、イギリス人、フランス人がこのアフリカ進出の要地の争奪をくりかえした。ダカール沖のゴレ島は、アメリカむけの黒人奴隷の積出しの拠点でもあった。同じセネガルのサンルイやリユフィスクとともに、ダカールの町にはアフリカとヨーロッパの数百年にわたるなまなましい交渉の歴史が集積している。セネガルの詩人大統領サンゴールをはじめ、フランス語で詩やエッセーを書く「文人」を数多く生み、戦後の「プレザンス・アフリケーヌ」(アフリカの存在)文化運動の、パリにつぐ中心となったのも、この岬の町であった。

 植民地時代の最後の年、一九五九年に設立されたダカール大学も、アビジャンなど他の国の都市に、近年になって大学や専門学校ができるまで、フランス語圏西アフリカでただひとつの大学であった。現在も他の諸国の高等教育の施設がまだ十分に整っていないため、フランス語圏アフリカの国々から大勢の学生がこの大学にきて学んでいる。ダカール在住のフランス人やシリア・レバノン人など非アフリカ人の子弟も多い。フランスの大学と共通の制度のなかで運営されており、フランスの大学と同じ資格で入学・卒業ができる。

 合計約二千人の学生のいる法経・文・理・医薬の四学部、中央図書館、フランス・黒人アフリカ研究所をひきついだIFAN(黒人アフリカ基礎研究所)、設備のととのった寄宿舎などが、熱帯植物の植えられた芝生に散水器がしずかにまわっている海岸ぞいの広大な敷地にならんでいる。スタッフは学長、学部長をはじめ、ほとんどすべてがフランス人である。援助・協力協定によって、フランス人スタッフの給与はフランス政府が支払っている。

線香花火の〝五月蜂起〟

 一昨年、ガーナのクーデターの直後、暴力による政府転覆に反対の意思表示をする学生スト(クーデター経験国のダオメーとトーゴの学生が主体だった)があったほかは、平穏そのものだったこの大学が、バリの五月運動につづいて、ストに入り、警察が介入し、無期限に閉鎖された。

 昨年一〇月、セネガル政府は財政の窮乏を理由に、ダカール大学の貧困学生への政府奨学金を滅額することを発表した。去る五月末、急進的な学生組織セネガル学生民主同盟(UDES)は、フランス人学生のイニシアチブで、五月運動のフランス学生との連帯をよびかけ、昨年一〇月のこの決定に抗議して、五月二七日からの無期限授業放棄と、学年末試験(六月が学年末試験の時期にあたる)のボイコットを決議した。

 この事態に直面して、二六日夜、文部大臣ムボウはラジオでダカール大学生に呼びかけ、国家財政が窮乏しているので奨学金の減額はやむをえないこと、しかし財政のゆるすかぎりで教育の向上のための努力をつづけることを強調した。

 二七日、学生同盟はピケを張って学内に学生が入ることを阻止し、大学はスト状態に入った。ダカール市内の高等学校にも、反政府の抗議やストの動きが波及した。大統領府は試験ボイコットを行なった学生を、無条件で退学させると発表した。

 五月三〇日、大学ストの四日目、町で失業者や浮浪者、靴みがきの少年たちが自動車をひっくりかえして火をつけ、商店のショーウインドーのガラスをこわして、かっぱらいをはじめた。非常事態が宣言され、治安当局は武力鎮圧の命令をうけ、浮浪者たちに発砲し、この日のうちに二五人の負傷者が出た。

 一方、学長の要請でセネガル警察はダカール大学内に入り、キャンパスを占拠している学生を実力で排除した。小ぜりあいが起こり、約五〇入の学生が負傷、そのうち四人は重傷を負い、一人が死亡した。死亡したのは理学部の実験室で学生が製造していた爆弾「カクテル・モロトフ」を投げようとしたシリア人学生であった。これと同時に、セネガル政府は大学の無期限閉鎖を決定し、ダカール市内の映画館、キャバレー、食堂、バーも同日午後七時以後閉鎖させた。公道上で五人以上集まることや、一切の集会、示威行為、ダンスパーティー、タムタム踊りなどが禁止された。

 同じ三〇日の夜、セネガル国民労働者同盟(UNTS)は、学生弾圧への抗議と賃上げ要求をかかげて、無期限ストを決議した。サンゴール大統領はラジオを通じて、ストは違法であり、ストライキ中の給料は支払われないとのべた。また、学生の動きは、「外国勢力」の教唆によるものであり、断固たる措置をとると強調した。

 三一日朝には、ダカール市を中心に、セネガル中枢部の経済活動はマヒ状態におちいり、労働者のストはあちこちで散発的な暴動に変ろうとしていた。政府は労働者同盟の書記長アリウヌ・シセをはじめ、三一人の組合指導者を逮捕した。一方、サンゴールを支持する農民の集団が、六月一日には地方から大挙してダカールに到着すると発表された。

 約九〇〇人の逮捕者を出した官憲の鎮圧によって、六月一日の朝にはダカールの町は平静になった。警察と軍隊は終始サンゴール大統領に忠実であった。六月三日には、地方からダカールに集まった多数の農民が、弓矢を手にしてサンゴール支持のデモ行進をした。政府とセネガル国民労働者同盟の会談の結果、逮捕された組合指導者は全員釈放された。

 事件そのものはあっけなく政府によって「鎮圧」された。ダカール大学は新学期を前にして閉鎖されたままであるという。「スチューデント・パワー」としてとりあげるには、あまりにもろかったこの出来事は、最近来日した、同じ西アフリカのアビジャン大学教授をしているあるフランス人が私に話したように、単に「パリの五月運動に刺激されて、ダカール大学のフランス人学生の過激分子が扇動して起こした事件」にしかすぎなかったのであろうか。
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〈知覚→学習→行動〉の先に国家=中央に重きをおく中央集権化史

『地域経済社会学』より

明治以降の日本社会の歴史を振り返れば、それは中央集権化のそれであった。いつの時代からか、わたしたちの思考方法も、またこの流れに沿ったものとなった。人びとの意識構造は、〈知覚(認識)→学習→行動〉のサイクルの下で形成される。これは社会学が指し示す。ただし、人びとの知覚というものはさまざまである。

人びとは生まれた地域環境、家庭環境、教育環境、職場環境などによって、感じ方や考え方は必ずしも同じではない。人びとの知覚は、そうした環境との相互作用という学習の下に形成され、そして人びとは行動する。その行動がさらにその人たちの知覚をかたちづくる。同様に国民という意識も、国の政策や制度という環境との相互作用によってかたちづくられ、学校という環境の場で標準化・統一化されたプログラムの下で、さらに固められ、その行動に影響を及ぼす。

中央集権化史としての日本近代史は、〈知覚→学習→行動〉の先に国家=中央に重きをおく歴史でもあった。そうしたなかで、それまでの藩が行政単位的に、あるいは形式的に県に置き換えられた。そのなかで、それまでの地域意識a地域分権的意識がどこかで根絶されてきたのではあるまいか。人びとの意識もまた植物の根と同様に、養分や水分が断たれると枯れる。

そうしたなかで、経済のグローバル化への対応がつよく叫ばれ、その反作用として日本的たるものの国民意識が、他方で強調されてきた。画一的な国民意識が強調されればされるほど、皮肉にもその描くイメージは空疎なものとなる。先にみた知覚には、学習や行動における反作用の働きがある。実は、この働きがあるからこそ、人びとは、創造的に社会のあるべき姿を自分の足元=地域から描こうともする。

その意味で、中央集権化とは、他方で地方分権化との相互作用のなかで健全な方向を維持しうる。とはいえ、片肺飛行的な中央集権化は、その過程で数多くの問題を引き起こしながら進んでもきた。それでは、健全な地域社会を維持し発展させるための経済的かつ文化的基盤とは一体何であるのか。むろん、地域社会の発展を考える際に、地域経済以上に地域文化の重要性を指摘する人たちもいる。だが、そうした地域文化もまた地域経済のきちんとした基盤なくしては健全に成立し、継承されるとは思われない。

わたしたちは、全国や世界の動きについては、マスメディアを通じて知る。だが、わたしたちの実感は、自分たちの狭い生活圏にある。わたしたちの生活時間のほとんどは、普段、生活する地域-地元-のなかで費消される。わたしたちの多くは失業問題の深刻さ、景気回復の実感、消費生活の充実、教育問題の複雑さ、福祉問題の深刻さ、生活環境の悪化等々は自分たちの生活圏の変化を通じて実感する。

他方、わたしたちは、自分たちの生活圏における実感を通じて、他の地域でははたしてどうであろうかと常に問いかけているのだろうか。おそらく、多くの人たちにとって、それはマスメディアが報じる地域ニュースに即応して、ほんの一瞬だけ思い起こすだけかもしれない。わたしたちは、そうした感じを持続させ、自分たちの地域の想像力として他地域、全国、そして世界へと拡大すべきだ。現在のインターネット社会で、キータッチひとつでそれが可能であるとはいえ、それが想像力につながるのだろうか。

そうした地域の想像力こそが、わたしたちの社会が抱える問題への有力な接近方法となりうる。また、明日への展望力になるようにも思える。米国の社会学者ライト・ミルズ(一九一六~六二)は、その種の素朴な個人ペースでの想像力を「社会学的想像力」ととらえた。調査研究などは、エコノミストやコンサルタントなど職業専門家によってますます標準化され、あるいは政府、調査機関やシンクタンクなどによって組織化されるなかで、ミルズは、わたしたちが個人に立ち戻って社会の諸問題に立ち向かうことを強く説いた。

ミルズの最後のまとまった著作となった『社会学的想像力』で、社会学的想像力の大切さを説いてからほぼ半世紀が経過した。いま、あらためてそのような想像力が必要となりつつある。個人史では、もっぱら「中小企業研究」を生業としてきたわたし自身、米国中小企業(スモールビジネス)研究において、ライト・ミルズの著作に出会って四半世紀以上が経過した。今回、あらためて四〇歳代半ばで逝った孤高の「知的職人」-社会学者ライト・ミルズの著作のほぼすべてを系統的に読み直してみた。そして、ライト・ミルズの亡くなる三年前ほどに公刊した『社会学的想像力』を導きの糸-刺激-として、いろいろな側面から地域経済社会を考えてみた。

本書では、なんでも「グローバル論」で語られる経済論や政策論のなかにあって、なんでも「地域論」で語るつもりはない。だが、わたしたちが地域=経済社会について、どのような姿を描くべきなのかをわたしなりに探ってみたい。なぜ、不況や災害などがあっても、人びとは自分たちの地域を去らず、なぜそこに踏みとどまったのか。あるいは、その地域はなぜ人たちを惹きつけてきたのだろうか。

この問いへの模範解答とそこから導かれる政策方向は、現在の地域経済社会を単にかつての地域経済社会へと復帰させ再現することではない。失ったものをそのまま取り戻すことなどできない。とすれば、地域の現状はともかくとして、今後の地域社会を考える上で重要な諸要素は何であるのか。これらの点を整理しつつ、地域的想像力を生かした地域経済社会論を展開させたい。そして、その先に地域経済社会学をどのようにして確立できるのか。その途についても探ってみたい。
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ゲッティンゲン大学 数学の終焉

『ヒトラーと物理学者たち』より 科学に仕えることは国家に仕えること ⇒ ゲッティンゲン大学には行きたかった。幾何学者として、

公的な義務がないにもかかわらず、公務員法に抗議して辞職した唯一のユダヤ人はハーバーだけではなかった。ドイツの科学コミュニティは、ジェイムズ・フランクがゲッティンゲン大学の物理学教授の椅子を明け渡すという決定に対し、同じように衝撃を受けた。原子の量子論に関する研究で一九二五年にノーベル賞を受賞していたフランクは、第一次世界大戦中に二つの鉄十字勲章を授与されており、あらゆる基準からみて、何ら差別を受ける筋合いのない退役軍人だった。しかしフランクは、自分の子どもたちを二流の市民として扱うような国家に雇われ続けることはできないし、人々が不当に退職させられているのを引き下がって眺めていることもしたくないと説明した。同僚の何人かはフランクに対して、若き物理学者ルドルフ・ヒルシュの言葉を借りれば、「料理された直後は熱すぎて何も食べられない」、つまり熱はそのうち冷めていくものだ、という理由で説得を試みた。しかし多くの学者は、特に『ゲッティンゲン新聞』にフランクの辞職の手紙が掲載されたとき、その露骨に「政治的な」行動を非難した。そして、ゲッティンゲン大学の職員四二名が、「妨害行為に値する」と抗議して請願書に署名した。

フランクは国を直ちに出たわけではない。彼はアカデミックでない職を見つけようとしてゲッティンゲンに留まっていた。マックス・ボルンは六月にアインシュタインに、「彼(フランク)の試みが成功する可能性はもちろんまったくないでしょう」と書き送っている。ボルン自身もこのときまでにゲッティンゲン大学を辞めることを決めており、アメリカやフランスでのさまざまな仕事の情報を得るべく、イタリアのチロル地方に滞在していた。注目を集めることを避けるため、ボルンはフランクのような大胆なやり方を採ろうとは思っていなかった。ボルンがアインシュタインに打ち明けたように、「私にはフランクのような神経が備わっていないようだし、また彼の意図も分からない」ためであった。さらに、ボルンは述べている--

 妻と子どもたちについて言えば、ようやくこの数か月のあいだに、自分たちがユダヤ人であること、すなわち(喜ばしき専門用語を使えば)「非アーリア人」であるこピを意識するようになりましたし、私自身でさえ、とくに自分がユダヤ的であると思ったことはありませんでした。もちろん今では、いやと言うほど意識しています。というのは、実際に私たちがそうみなされているからだけでなく、抑圧や不正義が私に怒りと反逆心を引き起こしたからです。

数学者のリヒャルト・クーラントもゲッティンゲン大学を追放された。とはいえ、彼の場合は簡単ではなかった。クーラントは、状況に異議を唱えて争うという方法を採った。それは見込みのないことであり、さらには彼が共産主義者であるというキャンペーンが張られることになった。結局、クーラントに出国という決定を促したのは家族への不安であった。肉体的な危険性を感じたというわけではなく、ドイツ社会に沁みこむ毒に感染するのではないかという危惧であった。クーフントは後に、「一番下の息子は、なぜ自分もヒトラー・ユーゲントに入るべきではないのかを理解できなかったようだ」と書いている。

ゲッティンゲン大学は久しく、数理物理学の宝石のような場所だった。しかし、あいつぐ免職と辞職によって、その科学的地位は損なわれていった。国を出た人々にはほかに、ハンガリー人の物理化学者エドワード・テラー、数学者ヘルマン・ヴァイル、ジェイムズ・フランクの義理の息子アーサー・フォン・ヒッペル、帰化したロシア系ユダヤ人ユージン・ラピノヴィッチ、そして物理学者のハインリヒ・クーンたちがいた。彼らの多くは、フランク(シカゴ大学に身を落ち着けた)と同様に、連合国の極めて重要な戦時研究、特にマンハッタン計画に従事した。テラーは、第二次世界大戦後の熱核融合による水素爆弾の開発の中心的な推進者の一人となった。このような大脱出の直後、数学者ダフィト・ヒルベルトはある宴会の席で、教育相ベルンハルト・ルストの隣に座ることになった。大臣が彼に、「ユダヤ人の影響から解放されて、ゲッティンゲン大学の数学はどうかね?」と尋ねた。「ゲッティンゲンの数学ですって? もはや何もないというのが現実ですよ」とヒルベルトは答えた。

私たちはここまで、「非ユダヤ人」が何の異議申し立てもせず、いかに右記の出来事の大半を受け入れてきたのかをみてきた。ある者は自分の地位や未来への不安のためから、ある者は運命論もしくは「ドイツの科学を守る」ためという考えから、またある者は、新法から利益を得る立場にあるがゆえに、単純に同意した。苦しい言いわけをする者たちもいた。ウォーレン・ウィーバーはKWGの事務局長フリードリヒ・グルムについて、彼は「視線をテーブルに落として状況への弁護をするが、彼の弁護はまったく印象に残らず、底の浅いものであった」と書いている。ウィーバーの抗弁に対してグルムは、黒人に対するアメリカ人の偏見を引用して言い返している。ウィーバーは、彼にしろ、他のリベラルにしろ、これを支持せず擁護せず言いわけもしなかったのではないかとその違いを指摘した。グルムは何も言い返すことができなかった。ウィーバーは、「プランクのような、数少ない実際に高貴で勇気ある人々のほかに、誠実な人、どこかしら率直に思える人には出会わない」と書いている。

ユダヤ人の同僚たちを「支援し」、あるいは「守った」科学者たちであっても、彼らの行動が究極的にその排斥の過程を進めることになり、さらには支持することにさえなるということに心至らなかった。彼らは遺憾の意を示しながら、ユダヤ人科学者たちが海外で職を見つける手助けをしたが、ドイツに留まろうとしたクーラントのような少数の人々への支援は乏しかった。また彼らは、湯ダヤ人の同僚たちの後任を探す過程に参加することで、空席となった理由の正当性を暗黙のうちに受け入れた。ハイゼンペルクはボルンをゲッティングン大学に留まるよう説得できず、ボルンが去った後に空いたポストヘの自らへの指名を受け入れたが、結局は、政治状況のために実現しなかった。

国家に対する組織的抵抗の経験が何らない科学者たちには、ほかに何ができるかについての考えはなかった。彼らは、自分たちがおとなしく従うことで、国家の無法を制限できるのではないかと期待した。バイエルヘンによれば--

 留まることができる者は留まるべきだ、がスローガンだった。物理学の指導者たちが目指したのは、個々人の困難を最小限にし、可能であれば、免職や退職を取り消し、そして何をおいてもドイツ科学の国際的な地位を保つことだった。……彼らは、国家社会主義の最悪の部分は過ぎ去っていくだろうし、ドイツの名声のための科学の重要性は永遠であると考えていた。

しかし彼らは、最悪の部分は速やかには過ぎ去らないということをすぐに悟らされた。一九三四年八月の後、すべての公務員はヒトラー本人に対して忠誠を誓う宣誓書に署名すること、つまり総統国家への究極的な誓約を求められた。ライプツィヒ大学のハイゼンベルクとデバイは一九三五年一月に署名し、ライプツィヒ大学は不承不承ナチ化されていった。イタリアからの客員研究員エットーレ・マョラナは、「スワスティカ(かぎ十字)が至るところでみられる。ユダヤ人の迫害はほとんどのアーリア人を喜ばせている」と記している。学生たちは、残っているユダヤ人教授たちを公然と罵りはじめ、「非ドイツ精神」に反対するデモを行なった。ライプツィヒ大学は、「指導者原理」(独裁者個人による議論の余地のない指導性を重んじる)を採用する新しい組織となり、新学長アルトゥール・ゴルフは、学生と教授は今や「ヒトラーのもとの同志」であると述べた。一九三三年一一月にライプツィヒ大学のアルバート・ホールで開かれた、国家社会主義大学教員連盟主催の会合では、「ドイツの大学および専門学校の教授たちのアドルフ・ヒトラーヘの献身」というナチ支持のスローガンが賛美された。この会議はヨハネス・シュタルクによって企画され、フライブルク大学の学長であり哲学者のマルティン・ハイデガーの演説がなされたことで知られる。

一九三五年までに、ドイツ国内の科学者の五人に一人、物理学者にかぎれば四人に一人が解雇された。そして、権力と影響力のある(ほとんどというわけではないが)いくつかの地位は、党に従順であるために昇進した二流の人間によって占められた。さらにナチスは、誰が科学を行なったのかではなく、どのような科学が成されたかを強調するようになっているかにみえた。一九三三年六月に、帝国内務相ヴィルヘルム・フリックは、「科学の自由についてのあらゆる点において、科学への奉仕は国家への奉仕でなければならず、科学的成果は人々の文化に役立たなければ価値がないと考えるべきである」と宣言した。またバイエルン邦の教育文化相は、ミュンヘンの大学教授たちを前にした演説で、「今後、あなたたちにとって重要なことは、何か真理であるかを決定することではなく、それが国家社会主義の革命の精神に適っているかどうかを決定することである」と述べた。

しかし、こうした言葉が良き科学への呪いの言葉のように聞こえるとしても、実際には、そうした空疎なスローガンはほとんど何の影響ももたらさなかった。ナチの指導者たちは、科学の中身を評価できる立場になく、そもそも科学に大きな関心を抱いているわけでもなかった。物理学にナチスの教義を侵犯させようというのは、国家が認める事業ではなく、数名の著名ではあるがユダヤ人に敵意をもつ者による自己宣伝であり、究極的には無益な試みであった。
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