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自律分散システム

自律分散システム

 分化と統合としての自律分散システム。未唯宇宙では分化と統合を繰返す手段が必要になると踏んでいる.その一つとして、自律分散が考えられる。

糖尿がやばい。生活をシンプルに

 ヘモグロビンが9.1です。やばい。以前、会社のナースの小塚さんから、頭に「3」を付けてみれば、様子がわかると言われた。それによると、体温が39.1℃です。何か、秒読み段階に入ったみたいです。こうなったら、シンプルにしましょう。

スタバのクリスマスイベントの先出し

 今日、スタバカードで五千円入金しようとしたら、「明日からチケットが付いてくる」と言われた。11月1日からキャンペーンは知っていたが、その前出しだそうです。これで季節のフラペチーノが飲める。糖尿はさて置き。

 11月1日から、始まるから、当日ならIさんは出勤ですね。名古屋へ映画を観に行きましょう。

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フィンランドとソ連のあいだに危険な瞬間

限りなく完璧に近い人々』より ロシア

フィンランドとソ連のあいだに最も危険な瞬間が訪れたのは、一九七八年だろう。「ソ連とフィンランドで合同軍事演習をしようという提案が持ちかけられたのです」コルベ教授は思い出す。「フィンランドの政治家は『うちの部隊がおたくの部隊のうしろについて行くとか、おたくの部隊をうちの部隊の後方に派兵するくらいにして、お互いの軍隊を混ぜるのはやめておきましょう』と言って、うまくかわしました。冷戦時代はずっと、外交による侵略、つまり見えない侵略の危険にさらされていました」

そうした水面下における侵略の試みは、さまざまな形でおこなわれたが、なかにはイーリング喜劇のようなものもあった。当時のことを思い出して、「ホーム・ロシアン」という異常な現象について語ってくれる人が何人かいた。これは鉄のカーテン版バディシステムとでもいうようなもので、フィンランドの政治家や体制側の人間が、釣り合う立場のソ連の人間とペアを組む制度だ。

「ソ連大使館はもちろん強大な権力を持っていましたし、フィンランドの政治家には全員に『ホーム・ロシアン』、つまりソ連の外交官が一人ずつついていて、とても親しい付き合いをしていました。自分の別荘や家族の集まりに招くような関係です」コルベはそう表現した。

この関係は相互に有益だった。「ソ連はフィンランドがなにをしているか、知識階級や政治家がなにを考えているか、情報収集をしていました。でも真の目的がなんだったか、みんな承知していました」とコルベは言う。ソ連は、フィンランド人が仕事でロンドンやニューヨークに行って仕入れてくる情報をとりわけ重宝したそうだ。

ニール・ハードウィックがフィンランドに来だのは、冷戦が最も厳しい時代だった。私が泊まっていたホテルのバーで、当時のヘルシンキの想い出を話してもらった。「四〇年前のヘルシンキには東欧の趣が強かったですね。基本的には、義稗づけられていること以外はすべて、禁止されていました」彼は笑った。「ホテルのバーのような場所に行くのは、ひと苦労でした。外に列を作って並び、入口にはドアマンがいて、お酒は買えますが、友人を見つけたからといって別のテーブルに移ることはできません。自分のグラスを持って勝手に移動してはいけないのです。ウェイターに頼んで持ってきてもらわなくてはなりません。窓にも目隠しの覆いが掛けられていました。酒を飲んでいる人たちが通行人から見えないようにするためです」

一般のフィンランド国民の生活におけるソ連の影響は、絶大だった。国営ラジオでは、「近隣諸国のできごと」的な番組が毎日一五分間流れ、その内容は、ハードウィックいわく、「ソ連のソフトなプロパガンダ」満載だったそうだ。また各家庭には、ハウスブックなるものを保管し、家族全員の名前だけでなく、訪問者も逐一記録することが義務づけられていたそうだ。毎年一月、家族の誰かが地元の警察に(ウスブックを持って行って並び、内容をチェックしてもらい、スタンプをもらわなくてはならない。これを怠れば罰金が科されたそうだ。

メディアや出版業界は、ソ連の神経を逆なでするような内容の報道をしないよう、つねに注意を怠らなかった。「先輩の話では、外交方針についてはとくにデリケートだったようです」ヘイッキ・アイトコッスキは、そう語った。「新聞社は外相から強い圧力を受けていたそうです。フィンランドが独立国家でいられるか否かは、モスクワの一存にかかっていることを、基本的には誰もが承知していました。ですから、たとえば反ソ的な書籍は図書館から撤去されました。ゴルバチョフがヘルシンキに来て、フィンランドは中立国家だと発言したときは、大ニュースになりました。今日なら、『だからどうした。フィンランドはもともと自由国家じゃなかったのか?』と思うでしょうが、当時は大見出しで紙面を飾りました。ゴルバチョフは『独立国家』だと言ったのではありません。『中立』、つまりソ連圏の一部ではない、と言ったのです。『君たちは自由だ、好きなことをしてよい』と」(アイトコッスキは触れなかったが、一九九一年にゴルバチョフが誘拐され、退陣させられたとき、『ヘルシンギン・サノマーツ』紙は、そうなって良かったという趣旨の社説を掲載した。明らかにソ連共産党政治局の機嫌を損ねないよう配慮した論調だった)。

そのような配慮をするのも無理はない。冷戦時代の大半、フィンランド国境にはソ連の戦車がずらりと並んで発進命令を待っていたのだから。それに、仮にソ連が侵攻してきたら、誰がフィンランドを助けに来てくれるというのだろう。ヘアネットをかぶったスウェーデン軍か? それとも非武装化されたドイツか? フィンランドはアメリカからはあまりに遠い。だからフィンランド人は自分か最も得意とすることを実行したまでだ。理念よりも現実を優先し、プライドを飲みこみ、頭を下げて、やるべきことをこなす生き方に適応していったのだ。口に出してはならないことが飛躍的に増えていったことは、想像に難くない。

これまでの軍事的敗北、国内を分裂させた紛争、実用主義の必要に迫られて自主性を抑えてきたことなどは、フィンランドの自尊心を深く傷つけたに違いない。そして一九八九年に鉄のカーテンが崩壊すると、フィンランドはほぼ破産状態になって残された。ソ連が分解してしまうと、フィンランドは最大の貿易相手国を失った。輸出は激減し、数カ月のうちに経済は一三パーセント縮小した。一九九〇年代は、二〇世紀にさんざん経験してきた辛苦の数々を再び繰り返し、傷をなめつづけた長い一〇年間だったに違いないと想像する。

「いやいや、とんでもない。その時代はフィンランドのサクセスストーリーだよ」私の意見を聞いてローマン・シャッツは言った。「今ほどフィンランドの人口が増えた時代はない。ぼくはフィンランドの歴史が苦しみと占領の連続だったとは思っていないよ。一九一七年に独立して以来、フィンランドは国や文化を築くために必要なものをすべて手に入れてきたんだから」

だからこそ、フィンランド人は実利的な国民と言われるわけだ。だがこの一〇〇年間にフィンランド人の魂にはどのような影響があったのだろうか。「フィンランド人は実利的に生きざるを得ないんだ」シャッツは言った。「氷点下四〇度の気温のなかで暮らし、クマもいるんだぜ。二〇万個の湖や八ヵ月も続く冬に対応できれば、ロシア人なんか恐くないさ。フィンランド人には抜け目ない生存本能がある。ぼくに言わせれば、フィンランド化[ソ連に関する事柄について自己規制すること一は肯定的な言葉だ。なぜならこの状況に対応できる唯一の方法なんだから」

「自分たちが犠牲者だという感覚は、コ度も持っていません」コルベ教授も同意見だ。「一度も占領されずに済んだことが、フィンランドにとっての成功ですから」

だが実利主義にロマンは見出しにくい。現実主義的な政治路線に誇りを感じるのは難しいし、煙の立ちこめるクレムリンの一室で秘密の情報を交換したり、ハンコの別荘でロンドンで仕入れてきた情報を渡したり、ソ連大使館のクリスマスパーティーでスモークサーモンとウォッカを交換する男たちを英雄扱いはしにくい。そういう意味では、フィンランド化という言葉もまた、長年、フィンランド人との会話で口にできない数多くの話題の一つであったことは、驚くにはあたらない。

現在のフィンランドメディアはロシアをどう扱っているだろう? たとえばプーチン大統領は最近、フィンランドが現在、議題に載せているNATOの兵器の配備を許可したら、「報復措置」を取ると脅していた。フィンランドの新聞は、今でもロシアの指導者に対して尊敬の念を持って接しているのだろうか。「いえ、ロシアに対するバッシングを抑制することはありません」とアイトコッスキは言った。「私たちはもはや親ロシア派では決してありません。ただ、プーチン政権が邪悪で好戦的になったらどうなるか、という潜在的な脅威はつねにあります。そうなったら明らかにフィンランドはそれほど安全ではなくなります。なぜならフィンランドはロシアに近すぎますし、歴史書を読んだことのある者なら誰でも知っているように、一〇〇パーセント確かなことなどないのですから、心の底から安心することはできませんよ」
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アウシュヴィッツのブナ第四工場

『アウシュヴィッツのコーヒー』より

ブナ第四工場

 近代社会の戦争経済は合成樹脂ゴムの消費量を飛躍的に伸ばした。BASFなど、ドイツ有数の化学産業は従来から諸外国の高分子化学産業との関係を強め、イタリアやオランダ、そして日本と取引関係に入って久しい。これらの国々から輸入した原料からメタノールやアンモニアを製造するのである。ゴムの獲得に大きな意味をもっていたのは、東アフリカ植民地であるが、これも第一次世界大戦で失われた。ドイツは、ロシアとの戦争を可能にするための必需品というべきゴムを国外から輸入して、数多くのブナエ場が建設されることになったのである。

 ブナとは、IGファルベンの化学者たちがブタジェンとナトリウムから合成したゴムの商品名である。

 バルバロッサ作戦が日程に上った時点で新たにブナエ場を立ち上げるに際して、問題はそれをどこに作るかであった。新工場は中間製造物や副産物を低コストで生産できる総合化学工場という魅力溢れる、相当な金額と技術を結集する工場である。これは空襲の恐れのない土地に作らねばならなかった。前年ドイツが仕掛けたイギリス本土爆撃が頓挫していたことは、問題を複雑にしていた。選ばれたのは上部シュレージエン。ポーフンド侵攻の後、ドイツ東部と称されるようになっている土地であった。連合国の空襲の恐れはない。しかし問題は、労働力をどう確保するかであった。もっとも近くの街らしい街はクラカウであるが、八十キロも離れている。シュレージエンの町アウシュヴィッツ自体は人口一万五千でしかない。一大工業団地というべきブナ第四工場を支える労働力を提供できる人口ではないのである。

 ドイツ当局はむろん、ドイツ領としたシュレージエンの土地のドイツ化を計らねばならなかった。ドイツ人を移民に誘い、人口増大を計り、この土地に工場を建設する企業には免税も計らねばならないだろう。しかし、この土地の人気は高まらなかった。ポーランド語でオシフィエンチムという名を変えてアウシュヴィッツというドイツ名を与えたが、響きが良くない。アウは河岸河岸は例えばセーヌ河畔のように、恋人が仲むつまじくしている風情は悪くはないのだが、組み合わせが悪い。シュヅィッツは「汗をかく」を連想させる語である。恋人たちが汗をかくこともなくはないであろうが、河岸で大汗をかくのは、チグリス・ユーフラテス河でもミシシッピー川でも、結局、沼沢地で汗を流す奴隷労働のイメージが重なる。

 『夜と霧』でアウシュヴィッツの実態を克明に伝えたヴィクトールーフランクルの見たこの土地のイメージも決定的に悪い。閑散とした土地に、幾つかまばらに、厳密には六つ、バラックが立つだけである。しかもこれらのバラックは煙草工場として使用されていた。ナチズムのファシストは筋金入りの禁煙ファシストでもあった。チェーンスモーカーは、性根の腐ったユダヤ人のイメージなのである。結局アウシュヅィッツは、健康長寿志向のドイツ人の住みたがる場所ではない。

 その土地にドイツの化学産業の雄というべきIGファルペンのブナ第四工場を建てるというのである。労働力をどうするつもりなのか。ヨーロッパの国々はそれぞれの国の有するすべての人的エネルギーを戦争に差し向けた総力戦のまっただ中なのである。ドイツの「計画」は戦争捕虜の労働力をあてにしていた。一九四二年一月二十五日の日付をもつヒムラーの命令書にはこうあったという。ロシア人の捕虜は期待できなくなったので、今後は、ドイツから出国したユダヤ人の男女を大量に強制収容所に送ることになる。四週間以内に、十万の男性ユダヤ人と五万のユダヤ女性を受け入れる手筈を整えよ、大規模な経済的委託が数週間のうちに強制収容所にくるだろうというのである。

 IGファルベン・ブナ第四工場とアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所とでは、そのどちらが先に建設を決定されたのか。IGファルベン・コンツェルンは、強制収容所の囚人を強制労働者として使用した最初の私企業であったので、この潜在的な労働力割当量が企業経営の根底に組み込まれ、アウシュヴィッツという場所を選んで立地する決定要因であったのではないかという嫌疑が起こるべくして起きたのである。

 IGファルペンは、歴史にただ受動的に翻弄されただけと言い張るには強大すぎる企業であり、この企業の果たした役割は大きな謎となって残る。とりわけこのIGファルペンがアウシュヴィッツ強制収容所のすぐ近くに工場を建設して、強制収容所の囚人を労働力として使用したことが、そもそもこの私企業の及ぼす範囲内におさまるものであるのか、それともそもそもそれを計算した上で工場立地の場所決定したものなのか、はニュールンベルク裁判の大きな争点の一つであった。国際犯罪としてのNSDAP(ナチ党)と一蓮托生でIGファルベンを「犯罪組織」として歴史から抹殺してしまうとすれば、戦後のドイツ化学・医薬品産業は成り立たなかったであろうことも明らかであった。

 IGファルベン・ブナ第四工場は極めて高度な生産力を示した。この土地が選ばれた空襲の恐れがないという条件は、一九四四年、アメリカ軍が南イタリアに滑走路を築き、アウシュヴィッツを空襲射程圏内に収めたことによって崩れた。しかし、ブナの製造に遅滞を見せたIGファルベン・ブナ第四工場はもうひとつの製品製造、死体製造に関しては最後まで、予定の製造工程を保持し続けたのである。

ブナ・スープとそのカロリー

 アウシュヴィッツ強制収容所で毎朝飲まれていたスープはブナ・スープと呼ばれていた。コーヒーの歴史を最初から追ってきた本書にとっては、「ブナ」という言葉がアフリカではコーヒー豆を指していた言葉の偶然に驚く。東アフリカのブナからとったスープはエチオピアから紅海を渡り、イスラム・スーフィズムの世界から黒い「ザムザムの水」として世界に広まったのである。アウシュヴィッツのブナ・スープがコーヒー豆から採ったというのではむろんない。ブナ・スープには、コーヒーのアロマは漂っていない。アウシュヴィッツ強制収容所のそばに建てられたIGファルペンの第四ブナ工場の製造する合成ゴムの臭いがきつく臭った。

 近代は色素が大きな利潤を生み出した時代である。『戦争と平和』でも『風とともに去りぬ』でもよい、この時代の戦争を描く映画を見れば、すぐに分かるように、この時代の戦争はまず色鮮やかな軍服を着た大量の兵隊が登場する。軍服を色鮮やかに染め上げる自然色素は主として植民地産物である。植民地を持たないドイツの弱点であるが、色素にすら不自由するドイツが一大転機を迎えたのは、ドイツの所有しない自然色素を補う化学産業が育ち、そこからまた薬品産業が育ったことである。それらの化学産業が総結集してできたのがIGファルベンである。IGファルペンとは、直訳的に言えば「色の利害共同体」である。

 IGファルペンのブナ・スープはいかにもIGファルペンらしく、日替わりで色を変える。褐色、緑、黄色。野菜というよりは雑草と言うべき食材がそれぞれの色をつける。運が良ければ、ジャガイモのかけらが浮んでいることもあったにせよ、栄養価は極端に少ない。このような食事事情を生き延びるための身につけなければならない習性は、いかにお腹を空かせていても出されたスープ鍋に飛びつかないことである。スープは上が薄く、下が濃い。その差は平均寿命日数の歴然とした差となって現れるのである。色の濃いスープを採ることができるのは古参の囚人であった。

 パンはその日のうちに食べ尽くすこと。パンは円形のものを五等分して夜に配られる。配られたらすぐに食べ終える。翌朝に、コーヒーを飲みながらパンを食べるなどという生活習慣は命取りになる。夜のうちにパンが盗まれれば直接、死に繋がる。従ってパン泥棒は大罪である。パン泥棒が見つかれば、死の制裁が加えられる。それがこの極限的な生存の場で施行される社会正義である。

 一日にマーガリンを三グラム、週に一度、三〇グラムのソーセージ、一〇〇グラムのチーズないし擬乳が栄養のすべてである。囚人は夏時間の五時、冬は六時に起床、三十分ほどかけて来るべき一日の用意をする。それからお昼まで働き、一時間の休憩。この時間にいわゆるブナ・スープを採る。その栄養価は個々の囚人の所属する民族と宗教によって差別される。その後、夏は十八時まで、冬は十七時まで労働。その後、帰宿行進、点呼。乏しき時代の乏しき食事はその他のことに従事することを不可能にする。二十一時消灯、夏は二十一時三十分。全体として日々の摂取カロリーは一〇〇〇から一二〇〇カロリー、囚人の果たさなければならない仕事に対しては余りに少ないカロリーであり、この栄養源では人体が胃酸や腸液を生産できないために、頻繁に下痢を起こす。この生活を続ければ、確実に週ニキロないし四キロの減量に通じる。普通の人が、この条件で栄養の欠落を自己の体力で埋め合わせることのできるのは三ヶ月。囚人の多くが病気になり、死ぬのは不思議ではない。囚人が体力を落とし、いかにも見るからに病人に見えてくると、「回教徒」と呼ばれる。
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分化と統合としての自律分散システム

『未来の創造』より システム技術とイノベーション ⇒ 未唯宇宙では分化と統合を繰返す手段が必要になると踏んでいる.その一つとして、自律分散が考えられる。

新幹線は中央集中制御 東京圏のJR在来線は自律分散型制御

 さて、今までは抽象的な話でしたが、私が深く関わった事例である鉄道システムについて、どのように課題が変わってきたのかをご紹介します。

 日本は鉄道大国です。路線の総延長距離は中国が世界一ですが、いかに社会に密接に使われているのかというと、日本は断トツに世界一です。なおかつ、これほど正確無比に列車を動かしている国はほとんどありません。遅延は在来線で平均1分、新幹線は1分を切っています。雪や台風、強風などの自然災害や、人身事故、故障・点検、混雑の影響などでダイヤが乱れることは珍しくありませんが、よほどのことがない限りは安全で、総体的には正確です。

 1964年の東京オリンピックの年に開通した東海道新幹線は、2014年に開業50周年を迎えました。年に1回、世界高速鉄道会議がありますが、やはり世界中が新幹線の運行制御を大変素晴らしいと称賛します。

 当時、東海道新幹線の列車運行管理システムは、全部の列車の状態の監視とそれに対する指令を1カ所で集中管理する列車集中制御「CTC」で、指令員が制御所で列車の状態を見ながら、「よし、これでよし」と制御していました。

 その後、山陽新幹線が岡山、そして博多まで延び、東海道新幹線の運行頻度が上がったことで、CTCの指令員の負担軽減や運行管理の確実性を上げるため、コンピューターで列車制御を行う自動化を取り入れることになりました。

 私が日立に入社して、最初に取り組んだ運行管理システムが「COMTRAC」で、信頼性を確実なものにするため、東京駅にコンピューターを3台設置しました。3台のうち2台で常にデータをチェックし、「コンピューターが間違えないようにしよう」が中心テーマでした。既に東京と博多間の全列車をトラッキングし、1キロメートル単位のどの区間に列車がいるのかを列車盤から読み、それをダイヤと照合させて、列車の通り道を切り替える転てつ機を動かす、あるいは信号を出す、などの制御をしていました。制御という意味では一応完成版です。

 1972年に最初に完全自動化して以来、今日に至るまで、コンピューターは何世代か変わり増強されてきましたが、基本的な制御は変わらず、一貫して、現在のJR東海、JR東日本、JR西日本、JR九州で使っていただいています。初期の頃は「ひかり」も「こだま」も最高速度は同じでしたが、「のぞみ」が登場し、数年おきに最高速度が更新され、ダイヤも複雑になりました。けれどもダイヤが途中から分岐したり、列車がなくなったり出現することはなく、列車制御の観点からすると、新幹線は割合単純です。

 しかし、この考え方は、大都市のJR在来線への適用はできませんでした。つまり、1力所に集中して指令員が出していた指示を、人間よりも正確なコンピューターに代わらせるという発想でつくったコンピューター・システムは大都市の在来線には不向きだったのです。なぜ不向きかというと、例えば世界で一番複雑な鉄道システムである東京圏のシステムでは、毎日線路が変わるからです。「そんなことはないだろう」と思うかもしれませんが、東京圏のどこかで線路の位置を変えるところが毎日1カ所はあるのです。線路の変更、ダイヤの変更は本当に日常茶飯事なのです。しかも、他社との相互乗り入れが複雑ですから、ダイヤから見ると、列車が湧いてきて、消えていくのです。また、システムをお使いになられる方々も広範囲ですので、どこかで何か事象が起きても、その事象に関する情報がすぐに伝わりにくいのです。

 このような状況ですから、1カ所で全てを制御する方法は不向きだということになり、自律型制御を導入していくことになったのです。列車は、前の列車とぶつからないように運転してダイヤと整合を取っていますから、制御に全情報は必要ではなく、近づいてきた列車が分かればよいので分散制御でよいのです。けれども情報は全体で共有しなければいけないので、集中させます。このような考え方でできたのがJR東日本の東京圏輸送管理システム「ATOS」です。全駅が隣接2駅間だけでやりとりして列車運行を制御し、あるところにセンターを置いて、情報をそこに集中させています。在来線では、どこかで何かが止まっていることは、当たり前で、何らかの理由で一部が止まっていたとしても全体が止まることはありません。サービスは24時間です。私が工場で仕事をしていた頃に、このような基本アーキテクチャーをつくりました。

常にアップデート可能な 自律分散型の制御システムが求められている

 こういうシステムの大きなポイントの一つは、「これじゃなきや駄目だ」という限定的な方法でつくらないことです。ほとんどのコンポーネントは特別品ではなく市販品をうまく組み合わせてつくるというコンセプトになっています。さらに、乗客にとっては非常にオープンでガイダンスがよく分かり、しかも変更がすぐアップデートされるようなシステムであると同時に、私たちのお客さまである鉄道会社から見ると、日々のオペレーションになくてはならない情報を全部提供できるシステムとなっています。

 このような考え方を「一つのシステムの基本技法」あるいは「システムの基本コンセプト(概念)」と常に捉えていくことは非常に大事です。これからの時代に求められるものは、常にどこかが修復やアップデートしながら動いていく、生き物のようなシステムだと思います。私たちは自律分散システムと呼びますが、社会のインフラストラクチャーはこのような考えでつくっていくべきではないでしょうか。人間社会は常に変わっていて動いていきますから、「これしかない」という限定的なつくり方をしてしまうと、応用は利かずフレキシビリティーに欠けるシステムになりがちです。今、都市設計におけるエコシティーやスマートシティーのコンセプトもこういう形にすべきではないのか、と私たちは一生懸命提案し、そして、一緒につくり上げていくことにトライしています。

 整理します。長期稼働を保証するシステム・アーキテクチャーでは、部品は壊れてもそのシステム全体が生き物としての寿命をきっちり持っているということです。しかも、それを大規模で広域にどう取り組んでいくのか。また、それだけのニーズに応えようとすれば、必ず異なるシステム要素が入ってくるため、異種システムとうまく連携できることが非常に重要だと私たちは考えています。

 ここまでの話の中で、まさに、技術で制御してはいけない、あるいはできないのが「人」です。では、その「人」をどのようにして一つの社会の仕組みの中で生き生きと活躍してもらうのかという視点が非常に重要になってきます。そういう意味では、「人」起点の取り組みがこれからのエンジニアリング、トータルシステムには大きなポイントになってくるだろうと思います。

異業種融合で自律分散システムをオープンイノベーションする

 鉄道の例でお話ししましたが、自律分散コンセプトのように柔軟で、しかも止まることなく、長い期間使えるコンセプトを深化させて支えていく方向へ持っていくことが必要です。私たちは、環境の変化に対して即応できるようなシステム・アーキテクチャー、あるいは違ったさまざまなところでっくり込まれたシステムを統合していく仕掛けにまで持っていきたいと考えています。

 そして、そのようなことができるように資源、ヒト、モノ、カネを使っていかなくてはなりません。その実現に向けて、かなり総合的なプランニングしていくことが大きな課題になっています。

 さらに、イノベーションでは、異文化間の融通・融合を引き起こし、持続可能な社会を実現することが大きなターゲットになってくると考えています。異種間融合では、全体の協調によって持続可能な社会をつくっていくことが重要です。今私たちが共生自律分散といっている狙いは、資源やエネルギーの活用、ビジネス・モデルのつくり方、さらにもう一歩先へ進んでリスクをどう減らしていくのか、より安全なセキュリティー体制をどのようにしてつくっていくのかといった課題を、次のステップヘ持ち上げて解決したいということにあるのです。

 私たちとしては、先ほどお話しした鉄道のATOSのような協創をさらに広げていかなくてはならないと思っています。これはどういうことかというと、ATOSはJR東日本と私たちが一緒につくり上げてきたもので、ューザーであるお客さまと協創はしましたけれども、他の方々と標準化などに取り組んでつくり上げたわけではないからです。そこで、もう少しオープンな世界、オープンイノベーションが必要になると思っています。
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