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未唯への手紙

未唯への手紙

礫岩のような国家 緩慢に進行する統合

2016年10月10日 | 4.歴史
『礫岩のようなヨーロッパ』より 礫岩のような国家 ⇒ やはり、ゆっくりした統合ですね

近世ヨーロッパにおける国家形成は、おおよそ、ある君主のもとにあった諸領域が緩やかに統合の度合いを高め、礫岩から統合へと性格を変化させたプロセスだと説明することができよう。領域面における統合のプロセスは、社会生活の面にも反映している。おのおのの領域は、行政、司法、立法、経済、文化の各側面において多かれ少なかれ統合をみることができる32。それらは統合の程度を検討するための問題群であり、その程度は統合の要請や統合への抵抗を検証することから明らかにできよう。

これら五つの側面のなかでも、経済的統合と文化的統合は必ずしも礫岩のような国家の性格と衝突するものではなかった。経済と文化の統合への試みはあまりめだったものではなかった。17~18世紀のデンマーク=ノルウェーとスウェーデンにおける資本の増加をめざした重商主義政策のように経済に関する国家的統制が実現された場合もあるが、19世紀以前に実質的な「国民経済」はどこにも存在していなかった。同様のことが「国民文化」にもあてはまる。しかし、文化的統合がとりわけ宗教の分野で進行した例や、後述するようにある程度は言語の面で試みられた例もある。

礫岩のような国家を構成するさまざまな地域のあいだにあった古くからの境界は、行政、司法、立法面での統合、そしてある程度は教会組織の統合によって脅かされるようになった。君主は、支配圏の資源を可能な限り効率的に活用する目的から、諸地域が有した伝統的な特権をなきものとし、支配圏を包括する集約化された行政システムを構築し、法廷などを改革する必要を感じるようになっていただろう。君主はまた、あらたな法の発布や司法の再編、良きキリスト教君主としてのイメージを創り上げるための教会の統制を実現するために、イデオロギーが必要であることを切実に感じていたかもしれない。これらの企ては支配圏を構成する諸地域間の境界を無意味化する可能性をもったが、境界が完全に浸食されることはほとんどなかった。

いくつかの統合の事例を概観してみよう。スペインを例にとれば、1640年代の統合に向けた改革の挫折や合同からのポルトガル人たちの離反など、カスティーリャ、アラゴン、ポルトガルなどからなる合同を維持することの難しさを議論することができる。しかし、ここでは17世紀のもっとも知られた事例として、従来の歴史叙述においては高度な統合を実現したとしばしば説明されてきたフランスがあらたに獲得した地域に対して実行した政策に焦点をあててみよう。

スウェーデン王が神聖ローマ帝国の諸侯として行動したドイツのスウェーデン領とは対照的に、ウェストファリア条約でフランスが獲得した地域は、神聖ローマ帝国からフランス王国へ割譲されたものである。スペインとの境界地域にあたるセルダーニュ(サルダーニャ)の住民意識の展開について示唆あふれる研究をおこなったピーター・サーリンズによれば、あらたに征服された地域の臣民は自動的にフランス臣民と同じ政治的地位を付与されることとなっていた。

一般的なパターンは、スウェーデンにあらたに属した地域が維持した構造のように、諸地域の行政と司法の基本構造がそのまま温存されることであって、あらたにパリを中心とした構造が上から与えられた事例は例外的であるように思われる。フランスヘの「再統合」の権利をもったプロテスタント地域であるベアルンを研究したクリスチャン・デプラは、「フランスとの合同をもっとも強く支持する者たちが、ペアルン自体の司法や法、慣習の維持の必要を即座に認識していた」点を指摘している。1616年に発せられた合同勅令は地域での抵抗を受けて強制されることはなかったが、20年の軍事遠征を通じて王権はこの地域へ影響力を浸透させ、ある程度の再カトリック化も進んだ。しかし1620年の合同は「ベアルンの政治的・社会的組織にすみやかな革命をもたらすものではなかった」。国王は勝利を収めたものの、フランス国家の構造を伝統的な構造の上部に重ね合わせる前提として、伝統的な構造を維持する必要を抜け目なく見抜いていた36。

ベアルンから50年後にみられたアルザスの例から、ジョルジュ・リヴェは「絶対主義」的な統治がもつ妥協的な性格を強調している。「絶対主義の原則にもかかわらず、君主政は媒介する団体をこの地域に維持することを認めた」。さらにルネ・ピラージュによる17世紀フランスの研究では、住民が「ときに鮮やかなまでに、王国の生活の諸側面に参加するようになった」として、征服された諸地域の統合が成功を収めた伝統的なイメージが紹介される一方、「慎重に、沈着に、綿密に、巧みに」統合政策が追求されたことで、このような統合が実現された点が強調されている。このピラージュの言回しは、完全なる編入の可能性が皆無だったことをほのめかすものかもしれない。

私は、フランスもフランス革命にいたるまでは礫岩のような国家として記述することが最良であるように思える。あらたに獲得された地域だけではなく、中世以来フランス王国に貴族した地域もまた王国との関係は実際のところ種々様々なものであった。そうした諸地域のなかには、「絶対的」な君主でさえ、身分制議会とのあいだで法令や徴税、徴兵などをめぐって交渉せねばならない地域もあった。オルウェン・ハフトンも以下のように議論することで、18世紀のヨーロッパで一般的でありながら、フランスでは特殊だったこれらの事情を指摘している。

 中世以来の西ヨーロッパの行政の歴史は、中央の権力が可能な範囲において中央からの統制に異議を申し立てる中間的な権力や権利を排除しようとする過程だった。成功はあまりにも限定的なものだった。たとえば、1730年に、フランス王は絶対的な権力を宣言しようとしたけれども、その権力がおよぶ国土は異質な地域の存在によって分裂をはらむものだった。王の権力は地域の身分制議会から承認を受けねばならず、それぞれに異なる地方の法によっても承認を受けねばならなかった。なかには特別な言語で、王の権力が承認されることを表現せねばならない地域もあった。……そして貴族、聖職者、諸侯らの特権を承認せねばならなかった。

われわれは、主要なヨーロッパ国家における統合プロセスの成功と挫折を書き記すことができるだろう。後述することではあるが、統合への流れは1700年頃を境として強化されたようにもみえる。しかし、まずは二つの近世の北欧国家に立ち戻り、とりわけ17世紀における統合プロセスと礫岩のような性格の混在について、より詳細な検討を加えてみよう。

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