goo

ショパン・コンクール予備予選前のDVD撮影・審査

『ショパン・コンクール』より ⇒ 生ちゃんが弾いていた「革命」は予選曲なんだ。

DVD撮影

 私の元生徒の夢は「ショパン・コンクール優勝」でも「入賞」でもなく、「出場すること」だったが、実は出場するだけでも大変なことである。というのは、ここまで語っているように書類・DVD審査があり、それを通過しても予備予選があり、セレクトされた八○名のなかにはいらないと秋の本大会に「出場」したことにすらならないからだ。

 二〇一五年(第一七回)のコンクールの場合、申し込みの締め切りは二〇一四年一二月一日だった。要項には、以下の必要書類が記載されている。

  a)申し込み書(ウェブサイトからダウンロードしてプリントアウトしたものに書き込む)

  b)一〇〇〇字程度のプロフィール

  c)生年月日を証明するもの

  d)三枚の写真(プログラムに使用できる解像度をもつポートレイトー枚を含む)

  e)音楽教育の証明書

  f)ピアノ教師もしくはピアニストによる二枚の推薦書

  g)過去三年間の音楽活動(コンクール歴など)を証明する資料

  h)本大会の第一次予選の曲目を録画した映像資料。応募者の手の動きと右側の顔がわかるもの。ひとつのカメラで撮影し、ひとつの作品の間は編集していないもの

  i)一〇〇ユーロの振り込み証明書

 ネットでの申し込みは受け付けないので、すべての書類を揃えて期日までに到着するように郵送しなければならない。海外留学組は現地の郵便事情もまちまちだから、早めに送っておいたほうが安心だ。とはいえ、師事した先生たちに推薦書(欧文、または翻訳を添付)も依頼しなげればならないし、コンクールに入賞している場合、賞状のコピーも必要。日本の音楽教育機関から卒業証明書も取り寄せなければならない。受験料の振り込みにも神経を使う(一九八〇年の第五位、海老彰子が申し込んだときはフランス語の規則書とポーランド語のそれで金額か食い違っており、フランス語の規則書にもとづいて送金した海老はいったん失格になっている)。

 しかし、いちばん手間と費用がかかるのはやはりDVD撮影だろう。コンクールの規則書には、「ヴィデオ画像にはピアニストの手の動きと右の横顔がすべて映っている必要がある。カメラは一台で、一曲を演奏している間はカットしてはならない」と書かれている(前評判の高いフランスのあるピアニストが、この規約を守らなかったため申し込みが受理されなかったという)が、撮影方法や画質については明記されていない(ここが問題だ。ミス・ユニバースのようなコンテストなら解像度が指定されるだろう。ちなみに、ポートレイトについては「プログラムに使用できる解像度」が要求されているのだが)。

 もっとも簡易な撮影方法は自宅でホームヴィデオで撮ることだが、音質、画質の点でクオリティか低くなるし、ダイナミックレンジも狭くなる。運よく録音設備をそなえた音楽大学に通っている学生の場合は、専門の技師も調律師もいるため、よい状態の録画を制作できる。楽器会社のスタジオやコンサート・ホールを借りてホームヴィデオで撮影する方法もある。この場合、楽器はよくメンテナンスされたプロ仕様だから問題ない。ホールを借りると、使用料はかかるが、ライン(音声ケーブル)から音をもらえるので音質はぐっと上がる。地方在住で地元に適当なホールがない場合、わざわざ東京に出てきて録音するケースもあるときく。もちろん、旅費、ホール代は自己負担になる。

 万全なのは、専門業者に依頼することだろう。二〇〇〇年のコンクールで第六位に入賞した佐藤美香は、たまたま私がCD録音したレコード会社で応募用のDVDを制作していた。レコード会社もコンテスタントの懐具合を知っているから、他のアーティストの収録の合間を縫って撮影したらしいが、大きな国際コンクールともなると前段階の準備も大変なのだなと思ったことをおぼえている。

 コンサートのヴィデオ撮影を請け負う業者が応募用DVDを制作する場合もある。そのひとつ、JKarts(ジェイケイ・アーツ)の木下淳は、以下のような手順で作業をすすめるという。

 まずは会場選び。天井の低いスタジオよりはホールのような大空間のほうが望ましい。たとえば二〇分の演奏をDVDにする場合、ピアノの調律時間を除き、最低でも二時間、できれば四時間の収録時間が必要だという。マイクはペアで用意し、よりよい音で録音できたほうを採用する。電気系統に起因するノイズ、たとえば空調や照明の音がはいらないように最大限の注意を払う。カメラは三台並べ、二台は演奏者の全身か映るアングルで撮影し、もう一台は別目的で使えるように上半身のアップか映るアングルにしている。撮影後は、録画中のメモを参考に、曲ごとに通し演奏をつないだヴィデオを演奏者に見てもらい、応募用DVDに収録するテイクを決める。

 日本ならこのように最善をつくした撮影も可能だが、海外留学中のコンテスタントはもっと条件が悪い。二〇一〇年のコンクールでディプロマを受賞した渡辺友理に話をきいた。渡辺は現在、読売新聞社甲府支局の記者をつとめているが、ショパン・コンクールのころはイタリアのイモラ音楽院に留学中だった。提出期限の一か月前から録画を始めたものの、「日本のようによい録音機器がない。ピアノが悪い、狂っている。録音してくれる人がいないので、ピアノと録音機器を行ったり来たりしながらの録音」だったとのこと。

 ひとつの作品について編集はできないが、納得のいく動画ができるまで何度も撮り直すことは許されている。イモラ音楽院はコンクールを受けるのに協力的ではなかったので、友人のホームヴィデオを借りて、ミスのないように何回も撮った。音楽院のホールは演劇用の会場なので弾きづらいし、ピアノの調律もしてくれなかったらしい。

 知人が所有するホテルの一室を貸してもらって、曲ごとに撮影環境が変わらないように必ず午前中に録音することにした。ホームヴィデオの場合は、機械が勝手に大きな音を力ットしたり、小さな音を拾ったりするのでどうしても平坦になりやすい。メリハリがつくように夕ッチを工夫し、曲目も、いろいろな面を見てもらえるようにとあれこれ考えた。

 音声と画像は別々に撮っており、それを組み合わせるためには業者に頼む必要があるが、イタリアではなかなか見つからず、「泣きながら探した」と語ってくれた。

DVD審査

 コンテスタントたちがさまざまな方法で撮影したDVDを、実際にどのように審査するのだろうか。

 二〇一五年の応募者は四五五名にのぼり、書類・DVD審査はその年の二月におこなわれた(審査対象は四四五名)。二週間にわたって朝から晩まで八時間、ときには二〇時間に及ぶ過酷な審査だったという。審査員はポーランド人八名。優勝者を落としてしまった前回の反省をふまえ、ピアニストを中心に音楽学者、録音技師まで加えたメンバーで構成された。

 具体的な審査内容については、音楽評論家下田幸二が現地で取材し、『音楽の友』二〇一五年五月号に書いた記事(下田「道標」第九回)に詳しい。

 事前審査員のレシチンスキによれば、DVD審査は以下のようにしておこなわれた。

  「提出書類を見ながら演奏録画を聴き、25点満点でポイントを付けました。審査委員の生徒の場合は点数を付けられません。445人のすべての演奏を聴くのはたいへんなことですから、審査委員長のポポヴァ=ズィドロン氏のイニシアティヴで演奏を聴いていき、審査委員8人中の5人が「十分に聴いた」と申告した時点で、点数を提出しました。そして、平均値を出します」

 ここで気になるのは、第一次予選の曲目(およそ二〇~二五分)による提出録画をどのようにピッククアップして聴いたかということだ(下田によれば、練習曲とバラード、スケルツォ系に重点が置かれたとのこと)。どの楽曲でみきわめがつくか、楽曲のどの部分がポイントかなど、高度な専門的見地から選択し、判断したのだろう。誰かか「もう少し聴かないと判断できない」と申し出たときはさらに選択して聴いたのだろう。しかし、合格しなかった二八五名にとってみれば、全部聴きもしないで……という思いは残るにちがいない。

 審査員の一人に話をきいたところ、練習曲は「革命」こと『作品一〇‐一二』か多く、一〇〇回以上聴いたとのこと。右手の「タラッララー」のリズムを楽譜どおりではなく複付点で弾いているケースか多かったという指摘があった。

 DVD審査の練習曲は本大会の第一次予選と同じで、二つのグループから一曲ずつを選択する。「革命」は第一グループにはいっていて、他に『作品一〇‐一』、『作品一〇‐四』、『作品一〇‐五』、『作品一〇‐八』、「木枯らし」こと『作品二五‐一一』。「革命」を選んだコンテスタントは、より難度の高い『作品一〇‐一』や「木枯らし」を回避したと解釈することもできる。

 予備予選出場者の曲目表を見ると、一五八名(棄権も含む)のうち「革命」を入れているのは二九名。DVD審査の合格率より大分低い。五年後に「革命」で申し込みを考えている人は、右手のリズムに配慮する必要があろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

独裁者と天才的自動車設計家の希望

『偽りの帝国』より

ヒトラーが国民車開発を命令

 さて当時欧州には、新たな暗雲が広がりつつあった。1933年にアドルフ・ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が、ドイツで政権を獲得したのだ。皮肉なことに、ナチスの台頭はポルシェの自動車業界での地位をさらに高め、産業史に彼の名前を深く刻み込んだ。ナチスが彼に「国民車」つまりフォルクスワーゲンの開発を命じたからである。

 傑出した自動車設計家としてのポルシェの名声は、当時すでに欧州に広まっていた。ポルシェは1933年5月に、初めてヒトラーと会った。ポルシェもヒトラーも、オーストリア生まれであり、そのドイツ語には非常に特徴的な訛りがあった。このため、2人はたちまち意気投合した。

 当時自動車はまだ贅沢品であり、多くの市民には手が届かない高嶺の花だった。ヒトラーは国民の歓心を買うために、「価格が1000ライヒスマルク以下で、多くの市民が買える小型車を普及させる」という構想を打ち出した。

 ヒトラーが白羽の矢を立てたのが、ポルシェだった。一方ポルシェも、ヘンリー・フォードが大衆向けの車を大量生産しているのを見て、ドイツでも市民のための小型車を開発したいという夢を持っていた(彼は米国でフォードの自動車工場を見学して、強い感銘を受けている)。つまり独裁者と天才的自動車設計家の希望が、ぴたりと合致したのだ。1934年年6月にドイツ自動車産業帝国連合会(RDA)は、ポルシェにこの乗用車の開発を命じた。

 ポルシェは1936年10月に、ヒトラーのオーバーザルッベルクの別荘の前で、独裁者に国民車の最初のプロトタイプを披露した。ヒトラーは、当時としては斬新な、丸みを帯びた車体のデザインに満足げだった。こうして誕生したのが、ケーファー(かぶと虫)の愛称で今もファンを持つフォルクスワーゲンである。

 共産党や社会民主党を禁止し、議会や司法、言論界、産業界などを次々と翼賛体制下に置いたナチスは、国民の余暇も組織化・集団化しようとした。ナチスは労働組合を解散させて、ドイツ労働者戦線(DAF)という独自の労働組織を作った。そしてDAFの下部組織として、余暇を翼賛化するために、「クラフト・ドゥルヒ・フロイデ(KdF=歓喜力行団)」という組織を作った。この団体の活動目的の一つは、マイカーの普及だった。

 ナチスはアウトバーン(高速道路)の整備とマイカーの奨励によって、庶民に手軽なドライブ旅行の夢を見させようとした。1938年から国民は、毎週5ライヒスマルクのクーポン券をKdFから購入できるようになった。購入額が990ライヒスマルクに達すると、フォルクスワーゲンを買えることになっていた。このためフォルクスワーゲンは当時KdFワーゲンとも呼ばれた。

「マイカーの夢」で国民を幻惑したナチス

 ポルシェはナチス・ドイツで、めざましく出世する。彼はヒトラーによって、国民車準備企業(GEZUVOR)の技術部門を担当する取締役に任命された。ポルシェの国籍は、オーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊して以来、チェコスロバキアになっていたが、ポルシェとフェリーら家族はヒトラーの命令で、ドイツ国籍を取得する。独裁者は、ナチス経済を支えるエリートが外国人では都合が悪いと考えたのだろう。

 ヒトラーとポルシェという2人の「元オーストリア人」がドイツのモータリゼーションの基礎を作ったというのは、興味深い現象である。ポルシェという人物の存在は、オーストリア・ハンガリー二重帝国が産業、技術面でいかに高い水準を持っていたかを示す。そして第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー二重帝国が瓦解したことが、ヒトラーのドイツでの政権奪取を可能にし、2人の軌跡が交わったことが、VWの誕生につながったのである。

 1930年代に撮影された1枚の写真がある。フォルクスワーゲンの黒塗りのオープンカーにヒトラーを乗せて、ポルシェの長男フェリーが試運転を行っている。制帽と制服姿のヒトラーは満足した様子である。車の周りでは、黒い制服を着た親衛隊(SS)のボディガードたちが総統を守るためにずらりと並び、その後ろで市民たちが、右手を高く挙げてナチス式の敬礼を行っている。だが後部座席に座った背広姿のポルシェはぐったりとした様子で、不満そうだ。根っからのエンジニアだったポルシェは、こうした政治的ショーが苦手だった。ポルシェは、ナチスの制服を着ることを固く拒否し、公式の場でも常に背広で通した。

 だがポルシェは、当時の多くの経済人同様に、ヒトラーに追従した。「長いものには巻かれろ」と考えたのだろう。彼はナチス党員になったばかりでなく、親衛隊にも加わる。親衛隊は、ナチスによるユダヤ人や反体制派の迫害で中心的な役割を果たした、犯罪的な組織である。

 ポルシェは、国民車を製造するための「フォルクスワーゲン製作有限会社」の総支配人に任命され、北部のファラースレーベン(今日のヴィルフスブルク市の一部)に工場を建設した。当時ナチスはこの町を、「ファラースレーベン近郊のKdFワーゲンの町」と呼んでいた。

 1938年の工場の起工式では、ヒトラーが巨大な釣十字の旗の下で、工場の礎石を置いた。ヒトラーはこの工場を「国家社会主義に基づく、ドイツ民族共同体のシンボル」と呼び、「毎年150万台の国民車を生産する」という計画を発表した。この工場が、現在のVW本社工場の母体である。ポルシェは国民車開発の功績によって、ナチス政権下の「国防経済リーダー」およびシュトゥットガルト工科高等学校の名誉教授の称号を与えられた。

 だがKdFの「マイカーを普及させて国民にレジャーの楽しみを与える」という計画は、ヒトラーの「欧州征服戦争」という真の狙いを隠すための煙幕だった。

 第一次世界大戦後のドイツ国民は、超インフレによる通貨破壊と大量失業、戦勝国から課された重い賠償請求に打ちひしがれていた。ナチスは、国民にパンと仕事を与えることを約束して、選挙によって合法的に政権を奪取した。ナチスが国民に与えると約束したもう一つの物が、「誰もが買える車」だった。自動車は、ナチス政権の魅力を高めるための道具として使われたのだ。

軍需工場と化したVW

 1939年9月1日。ヒトラーが仮面を脱ぎ捨てて、機甲部隊をポーランドに侵攻させ、第二次世界大戦が始まった。ファラースレーベンの工場が開戦までに製造した国民車の数は、約630台にすぎない。ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンらナチス関係者が国民車を数台買ったものの、市民には一台も売られなかった。

 庶民のマイカーを製造するはずだったファラースレーベンの工場は、軍需工場となった。

 完成していた少数の国民車は、前線で将校の車として使用された。また国民車のシャーシ(車台)を使って、ドイツ軍のためにジープ(キューベルワーゲン)が約5万台生産された。民生用の国民車同様に空冷エンジンを持つこの軍用車は、酷寒のロシアや、暑さの厳しい北アフリカなど過酷な条件の下でも走るタフな車として、ドイツ軍将兵から深く信頼された。

 ヒトラーはポルシェを戦車設計委員会の委員長に任命する。ポルシェは「ポルシェ・ティーガー(虎)」と呼ばれた重戦車や、長大な88ミリ砲を搭載した重駆逐戦車(ポルシェの名前を取って「フェルディナンド」と呼ばれた)、さらに重さが188トンの超重戦車「マウス」を設計。これらの戦車の一部には、ポルシェが若い頃に開発したガソリン・エンジンと発電機を併用する、一種のハイブリッド機構が使われていた。

 しかしフェルディナンドは機械的なトラブルが多く、しばしば前線で立ち往生したため、兵士たちの間では不評だった。マウスは、2台の試作車が作られただけで実戦を経験せずに終戦を迎えた。ポルシェが設計した戦車の中で、大量生産された物は一つもなかった。ポルシェはレーシングカーの開発には天才的な力量を発揮したが、戦車の設計は下手だったのだ。

 ナチスヘの協力は、ポルシェの経歴に大きな汚点を残した。ファラースレーベンの工場では、ロケット兵器V1号式戦闘機のエンジンなどの軍需生産が行われた。ナチスは強制収容所に捕らわれていたソ連軍の捕虜、ポーランドやフランスから連行されてきた市民など約2万人に軍需工場などで強制労働を行わせ、その内少なくとも500人が過労や病気で死亡している。第二次世界大戦後、ポルシェは戦争協力者という疑いを持たれ、フランス軍に逮捕されて同国の刑務所に2年近く拘留されている。

 ポルシェは熱狂的なナチス信奉者ではなかったが、世界初の大型ミサイルV2号を開発したヴェルナー・フォン・ブラウンらと同じく、ナチスの邪悪な本質は見て見ぬふりをして、ヒトラーの戦争遂行と支配体制を支えた多くの技術者の一人だった。

 1945年に第二次世界大戦が終わると、ファラースレーベンの工場を含むドイツの北西部地域は、英軍の統治下に置かれた。1949年に英軍は工場の管理をニーダーザクセン州政府に委託し、同社はフォルクスワーゲンヴェルク有限会社として再出発した。現在も同州政府が大株主であるのは、このためである。また当時英軍は同州政府に対し、労働組合に大きな権限を与えるように命じた。今日のVWで労組が強い影響力を持っていることの原点も、ここにある。

 戦後フォルクスワーゲンヴェルク有限会社は、ケーファー(カブト虫)の生産を続けた。ケーファーの年間生産台数は、1965年に100万台を突破。ナチスのマイカー普及計画は、戦後になって開花したのだ。

 ケーファーはドイツだけでなく、外国でも人気を集めた。この車は、1938年から2003年までに2150万台生産され、2002年にVWゴルフに追い抜かれるまで、世界で最も多く生産された自動車だった。日本でも、空冷独特のエンジン音を持ち、クラシックな雰囲気を持ったケーファーのファンは多かった。ケーファーは、瓦礫の山から不死鳥のように蘇った、西ドイツの奇跡の経済復興の象徴となった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

多くを求めすぎた攻勢(デミヤンスク包囲戦)

『第二次大戦の<分岐点>』より 北方軍集団 五つの激闘

1941年末の一連の反攻の成功は、スターリンに過大な期待を抱かせることになった。彼が夢見たのは、南方ではウクライナの資源地帯とクリミア半島を奪回し、セヴァストポリの守備隊を救出、モスクワ前面ではスモレンスクに進撃し、ドイツ中央軍集団を殲滅することであった。そして、北では、レニングラードを解放し、北方軍集団を撃破する!

このころ、氷結したラドガ湖の上を通しての補給路、いわゆる「命の道」を除いては、レニングラードは孤立している。放置すれば、大都市レニングラードのインフラストラクチャーは崩壊し、飢餓が訪れるであろう。そうした観点からすれば、スターリンがレニングラード解放作戦を急がせたのも、政治的には当然であった。が、それは、かろうじて「バルバロッサ」をしのぎきったばかりのソ連軍には過大な任務であり、その無理は、以後の作戦遂行過程で無惨なまでに露呈することとなる。

1941年12月17日、赤軍大本営は、レニングラード正面軍、ヴォルホフ正面軍、北西正面軍に、レニングラードからノヴゴロドに至る戦線での攻勢を準備するよう命じた。作戦構想は、こうである。まず北では、レニングラード正面軍が南東、ヴォルホフ正面軍が北西に進撃、ドイツ軍を挟撃・殲滅、レニングラードの解放にあたる。一方、南西正面軍も、その南で攻勢を発動、ドイツ軍部隊を拘束しつつ、デミヤンスク、スタラヤ・ルーサを攻略、またヴォルホフ正面軍と協同して、ドイツ軍の退路を断つことになっていた。赤軍大本営は、攻勢発起のための準備陣地奪取と部隊の集中をロー月26日までに完了すると予定していたが、ドイツ軍の抵抗と悪天候により、作戦発動を1月6日まで延期することに決めた。しかし、それでも時間が足りず、ヴォルホフ正面軍の歩兵ならびに戦車部隊の集中は1月7日ないし8日、砲兵の配置は1月10日ないし12日までかかった。ところが、一刻も早く勝利を、と焦るスターリンは、予定通り1月6日に攻勢を開始せよと厳命したのである。

赤い独裁者の望み通り、1月6日に開始されたヴォルホフ正面軍の攻撃は停滞した。ヴォルホフ川西岸に陣取ったドイツ軍の抵抗が激しかったこともさることながら、正面軍主力がまだ東岸後方にいたため、ごく一部の兵力しか投入できなかったからだ。たまりかねたヴォルホフ正面軍司令官キリル・A・メレツコフ上級大将は、赤軍大本営に3日間の攻撃停止を要請し、認められた。ただし、スターリンは、ヴォルホフ正面軍を再編成し、1月13日に、より協同の取れた攻勢を再開せよと留保をつけている。加えて、お目付役として、赤軍政治総局長レフ・Z・メフリスをメレツコフのもとに派遣した。攻勢が失敗すれば、メフリスが、メレツコフの助言者から審問官に変わることはいうまでもない。だが、1月17日に再開された第2打撃軍を中心とする攻勢は、功を奏した。ヴォルホフ正面軍は、ようやく対岸の陣地からドイツ軍を駆逐し、彼らに脅威を与えることができたのである。

予期しなかった本格的攻勢に、レープ元帥は襖悩した。北方軍集団の戦線が、膨らみきった薄いものであることを誰よりもよく知っていたのは、ほかならぬ元帥である。レープは、自分を解任するか、さもなくば、機動の余地があるうちに撤退させる許可をくれと、OKHに請願する。だが、戦線の反対側の独裁者は、スターリンに負けず劣らず酷薄だ。レープは「健康上の理由で」北方軍集団司令官職を解任されたのであった。

一方、ヴォルホフ正面軍の左翼、南方では、北西正面軍が1月7日にスタラヤ・ルーサめざす攻撃を開始していた。さらに南のカリーニン正面軍による攻勢がドイツ軍を圧迫したことにも助けられ、北西正面軍はめざましい進撃を見せ、その先鋒部隊は攻勢2日目にスタラヤ・ルーサ外縁部に達していた。スキー部隊は凍ったイリメニ湖の氷上を通って、ドイツ軍の後方に進出、補給線を遮断する。その東方、デミヤンスク周辺では、ドイツ第2軍団が罠にかかった。1月下旬までに、同軍団は、ラムシェヴァを通る細い回廊地帯を除いて、ほぼ包囲されてしまう。

2月に入って、ソ連軍の攻勢はテンポを増した。第2打撃軍はノヴゴロド北方でヴォルホフ川の線を突破し、急進していた。レニングラード正面軍もキリシ西方で前進し、南北からの挟撃のかたちをつくる。ドイツ軍にしてみれば、危険な毒キノコを思わせる突出部が形成されたのである。

ところが、3月中旬までに、赤いキノコは毒を抜かれていた。第2打撃軍は、巧妙に構成されたドイツ軍の陣地網に、充分な砲兵援護や兵姑支援がないまま不用意な攻撃を行ったため、ひどく消耗しきっており、ドイツ軍を撃滅しつつレニングラードを解放するなどという二重任務はとうてい達成できない状態になっていたのだ。また、南に眼を転じると、北西正面軍はスタラヤ・ルーサとデミヤンスクを攻めあぐねていた。赤軍大本営は、レニングラード・ノヴゴロド攻勢の成否は、北方軍集団の右翼を潰滅させることが前提になると考えていたから、両市を迂回進撃するのではなく、占領せよと命じていたのだ。ゆえに、北西正面軍はラムシェヴァ回廊を遮断しデミヤンスクを奪取するための攻撃とスタラヤールーサヘの突撃を繰り返した。しかし、空輸により物資を補給されたデミヤンスク包囲陣の抵抗は頑強で、スタラヤ・ルーサの守備隊もまた一歩も譲らなかった。かくて、膠着状態が訪れる。

ドイツ軍は、この好機を逃さなかった。3月2日、レープの後任として北方軍集団司令官となったゲオルク・フォン・キュヒラー上級大将と会見したヒトラーは、3月7日から12日のあいだに戦線の間隙を埋めるとともに、突出してきたソ連第2打撃軍を包囲、またデミヤンスクの友軍を解囲する作戦を遂行するよう命じた。キュヒラーはこれに応じて、反撃作戦を練った。今や、第2打撃軍は、わずか10キロほどの幅の回廊状の地域を通っている二筋の細い道(ドイツ軍は、それぞれ「エリカ」と「ドーラ」と通称していた)に補給を頼っている。これを断てば、第2打撃軍は無力となるのだ。一方、デミヤンスク方面では、ヴァルター・フォンーザイトリッツ=クルッバッ(中将の6個師団、ザイトリッツ支隊が、ラムシェヴァを通る回廊を拡大し、デミヤンスクの味方を救援する攻撃にかかる。このようなドイツ軍反撃の兆候をみた赤軍大本営は、3月17日付でヴォルホフ正面軍に対し、先手を取って攻撃し、第2打撃軍の補給路を確保せよという意味の指令を出したが、もう遅かった。「肉食獣」作戦、ドイツ軍の反撃は、3月15日午前7時30分に開始されていたのである。

第2打撃軍がつくった突出部を南北から挟撃したドイツ第18軍は、ソ連軍の激しい抵抗に悩まされはしたものの、3月18日には「エリカ」、その翌日には「ドーラ」を遮断した。さらに3月20日、南北の挟撃部隊が手をつなぎ、ドイツ軍を包囲殲滅する役目を帯びていた第2打撃軍とそれに随伴していた第59軍は逆に包囲されてしまった。ソ連軍は、ただちに反撃に出て、「エリカ」を奪回したが、糸のごとく細い補給路であることに変わりはない。第2打撃軍が戦略的に意味のある攻撃を実行する能力は奪われてしまったとみてよかろう。

そのはるか南、デミヤンスク方面でも、ザイトリッツ支隊が3月20日に攻撃をはじめ、およそIか月後の4月20日までにラムシェヴォ回廊を奪回、4キロ幅の通路に拡大した。ソ連軍はこれを遮断しようと攻撃を繰り返したものの、大損害を出して撃退される。

こうして大勢は決した。これ以降も小競り合いが繰り返されたが、ヴォルホフ正面のドイツ軍撃滅、デミヤンスクやスタラヤ・ルーサの奪取といった目的、何よりもレニングラード解放という大命題が達成されることはなかったのである。ソ連軍の冬季攻勢が、こうした結果に終わった理由について、従来は、デミヤンスクのそれをはじめとするドイツ軍の奮戦に帰せられることが多かった。しかしながら、今では、むしろソ連軍の作戦に問題があったことがわかっている。おそらく、ソ連軍は、目標を絞り、兵力を集中すれば、戦略目標を達成できるだけの実力を備えていた。けれども、彼らは、というより、スターリンはあまりにも多くを望みすぎ、結果として、ドイツ軍が守り抜くことを許してしまったのだ。敢えていうなら、ドイツ軍の頑張りがソ連軍の企図をくじいたのではない。個々の部隊の戦いぶりが作戦・戦略レベルに影響を与えるような状況を、ソ連軍の作戦立案の不備がつくってしまったのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

モノが分化するIoT

モノが分化するIoT

 受け手側で本を作る。

 人が多面的になるのが分化ならば、本とかメディアが多面的になるのも分化です。モノに対しても分化が起こる。モノと人間が環境も含めて一緒になる。これもIoTなんでしょう。

 バラバラなものが本としてまとまる。統合です。分化と統合を繰り返すことで世界を作り出す。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )