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町づくりは高度なライブ会場から

町づくりは高度なライブ会場から

 図書館を核とする町づくり。本当に人を集めたいならば、3万人規模のライブ専用の場所を作った方がいい。狙いは表現力です。一体となって動けるような設備です。今までのサッカー場とか野球場みたいな単純なものではないITを使って、画面も多面的に表示させます。そうすれば、表現する人がそこに来ます。それに導かれて、多くの人がやってきます。

 街の活性化をハード面で考えるとしたら、図書館とライブ会場でしょう。サッカー場をIT化されたライブ会場にする。地下通路、巨大ビジョン、トロッコ等を自動化して、演者が表現に集中出来るようすると同時に、ファンと一体化した活動を可能にする。演者が来たくなるようにする。内側に35000人、外側に30000人は可能でしょう。

乃木坂三期生体制

 乃木坂47人体制になると、中心がアンダーになる。坂全体を見渡す司令塔として、生駒、玲華、若月を配置する。表現者の道を切り開く。

 三期生を考えると生駒がアンダーを仕切ることになる。全国公演で鍛える。

16thシングルのセンター

 最大の関心は16thシングルのセンターが誰なのか? 日曜日の乃木中で発表になるけど、9月16日録画みたいで、制作作業は進んでいる。来週水曜日のオールナイト日本のAKB枠を乃木坂がジャックすると新内が放送していた。ジャックするのは、橋本、生田、桜井と言うことはこのいずれかがセンターなんでしょう。年齢的にななみんが考えられるが、年末の紅白を考えるとやはり、生田ちゃんでしょう。
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不幸の表現としての「幸福」

『可能なる革命』より 「幸福だ」と答える若者たちの時代

それでは、この奇妙なねじれをどのように説明すればよいのか。これを説明するためには、「あなたは今の生活に満足していますか」とか「あなたは今幸せですか」と問われたときの心理を考慮に入れなくてはならない。

まず、「生活の全体が幸福だ」「人生に満足だ」ということは、「痛い」とか「赤い」のように直覚されるものではない。「痛い」ということの根拠は、現に私が痛いと感じているという事実以外にはない。痛みは端的に直覚される。どうして痛いのかと言われても、痛いから痛いのだとしか言いようがない。それに対して、「私は幸福だ」は、端的に直覚されるものではない。確かに、おいしいものを食べているときとか、好きな人と一緒にいるときに「幸せだな」と感じたり、試験に落第したり失恋したときに「不幸だ」と感じることはある。しかし、このときの「幸せ」とか「不幸せ」は、その個々の出来事に関して言われているのであって、人生の全体に対して言われているわけではない。「私は幸せだ/不幸せだ」という結論は、私が体験し、関係している事実を全体として総合した上での判断である。調査において、「あなたは今の生活に満足していますか」という質問項目に対したとき、被調査者は、こうした総合的な判断に迫られている。まずはこの当然のことを考慮に入れる必要がある。

「あなたは幸せですか」「あなたの人生は全体としてよいですか」。この種の質問、つまり私自身(の人生)が全体として何であり、どうであるかを評価するような質問に、否定的に答えることは、原則的には非常に難しく、ある意味では勇気のいることである。「私は不幸である」と断ずることは、私(の人生)が全体としてよくないと判定することを含意してしまうからである。つまり、それは、私と私の人生の卜ータルな自己否定を意味しているのだ。だから、人は、あえて「あなたの人生は幸せか」と問われれば、特別な理由がない限りは、これに肯定的に答える傾向がある、と考えなくてはならない。「あなたは今の生活に満足ですか」という質問に、圧倒的に多数の人が「満足」「ほぼ満足」といった肯定的な回答を出すのは、だから特別なことではない。それは、まったく「普通」のことである。

しかし、それでも、「私は不幸せです」と答える人もいる。どんなときに、そのように答えることが容易になるのか、を考えてみよう。「私は不幸せだ」「私の人生はよくない」と答えたとしても、私や私の人生をトータルには否定したことにならない場合である。それならば、どんなときにトータルな否定に至らないのか。「私は今は不幸せだ」と言えるとき、つまり、「不幸」や「よくない状態」が現在に限定できるときである。言い換えれば、「今は」不幸であるとしても、将来は、より幸福になるだろう、より肯定的なものになるだろうと想定できるとき、人は、比較的容易に、「私は不幸である」「私は人生に満足していない」と言うことができる。そう断じたからと言って、自分自身(の人生)を全否定したことにはならないからである。「この程度で満足するわけにはいかない。もっとよくなるはずだ。もっとよくできるはずだ」という前提をもっているとき、人はあえて「今は満足していない」と答える傾向がある。われわれは、「私の今の生活は不幸である」という顕在的な回答は、しばしば--すべてではないがしばしば--潜在的に、多くの場合には本人すら意識していない状態で、「私の将来の生活はより幸せである」という言明を伴っていると考えなくてはならない。

こう考えると、「あなたの今の生活に満足していますか」といった類の質問に、一般には、高齢な者ほど、「満足している」とか「幸せ」といった肯定的な回答を返す率が高まるのはどうしてなのか、ということが説明できる。図1-3(一九七六/一九八六年)や図1-2(一九七三年)を見ると明らかなように、この種の回答に肯定的に答えた者の率を年層別にグラフにすると、一九九〇年代中盤以前は、だいたい右肩上がりの線になるのだった。高齢者ほど、満足だと答えるからである。しかし、少し考えると、死が近づき、体力も他の能力も衰えてきてもいる高齢者の方が、まだ若い人より、「今の生活」に満足している、というのは奇妙なことである。彼らの多くが、今に満足し、今が幸せだと答えるのは、彼らには、多くの将来が残っていないからなのである。高齢者自身、そのことを理解している。「今よりずっと幸せになる長い将来」を想定できないときに、今が不幸であると判断することは、結局、自分自身の人生をトータルによくないものとして否定するに等しい。とすれば、よほどの理由がない限り、「幸福だ」「満足だ」と自己判定するはかないではないか。

こうした考察を経た上で、現在の若者たちが、「今の生活に満足している」「今が幸せだ」と回答する傾向が高まっているのはどうしてなのか、という本来の問いに回帰してみよう。これは、若者が老人のように回答しているという現象なのである。「幸せだ」と回答する若者が増加していることを、功利主義的に見てよい徴候だなどと考えてはならない。あるいは、逆に、これを、己が置かれた状況を理解していない愚かな楽天の表出と解してもならない。若者の反応は、このどちらの見方をも否定しているのだ。彼らの多くが、「今の生活が幸せだ」と回答するのは、彼らには未だ多くの人生の時間が残されているにも拘わらず、その残された将来の中で、今よりも幸せになるとは想定できないからである。彼らは、前世代の若者より特に楽しく生きているから、幸せだと答えているわけではない。どちらかと言えば逆である。彼らは、愚昧な楽天家だから幸せなわけではない。むしろ、冷徹に将来を予想していために、今を幸せと認定せざるをえないのだ。将来、よりよくなると当たり前のように想定できないとき、人は、「今は幸せだ」と答える傾向がある。

こうした推論を裏づけるデータもある。日本青少年研究所が二〇〇〇年に実施した国際比較調査「新千年生活と意識に関する調査」によると、「二一世紀は人類にとって希望に満ちた社会になるだろう」という考えに同意しない日本の若者の比率は、六二・一%である。これは他国と比べて突出して悲観的な展望である(韓国二八・五%、アメリカ一一・九%、フランス三三・六‰)。二〇世紀の最後の年、日本の若者たちは、来るべき二一世紀に、何かよいこと、楽しいこと、心躍らせることが起きるとは予想できずにいる。

同じような含意をもつ調査の結果が、五年ほど前(二○一一年一月)、日本労働組合総連合会(いわゆる連合)から公表された。これは、若者だけではなく、一五歳から五九歳までの男女に対して、二○一〇年一二月に実施された調査である。この中に、一年後、五年後、一〇年後、三〇年後に関して、「日本は今より良くなっていると思うか」という質問がある。

この質問に、「良くなっている」と答えた者(「非常に良くなっている」+「ある程度良くなっている」)の率は、一年後に関しては、たった八・五%である。「良くなっている」の回答率は、後にいくほど少しずつ増えてはいくが、しかし、それがほんのわずか五割を超えるのは(五・六%)、最後の三〇年後だけである。その三〇年後の日本に関してさえも、確信をもってよくなるだろうと答える者、つまり「非常に良くなっている」と答えた者は、たった八・九%だ。おそらく、ほとんどの人にとって、具体的にイメージをもつことができる未来は、せいぜい一〇年後までであろう。つまり、三〇年後とは、「想像できないほど先のこと」という意味である。そのくらい先になれば、もしかすると今よりは改善されていると考える者が、なんとか半数ほどいる。逆に言えば、具体的な想像力が及ぶ範囲の将来に関しては、より改善される、より幸福になるとは想定できない、というわけだ。

こうしたデータは、若者たちが、現在の生活に関して「幸福」と回答するのは、むしろ、将来の人生に関して(より大きな)幸福を当然のように前提することができないからである、とするここでの仮説を支持している。この仮説の通りだとすれば、「幸福だ」という回答は、字義とはまったく逆のことを、ある種の不幸(想定された将来における不幸)をこそ表現していることになろう。別言すれば、「今は幸福だ」という言明は、希望がもてないことの裏返しの表現である。
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〈存在への問い〉を問いつづける 死に臨んでいる存在

『西洋哲学の10冊』より ハイデガー『存在と時間』

現存在の全体性を捉えるためには、それの終わりを分析する必要があります。現存在の終わりとは〈死〉です。人間は死にます。しかし、それは動物が死亡することとは違います。

「死という言葉が指している終りは、現存在が終末に達していることではなく、この存在するものが終末に臨んでいることをいう。死とは、現存在が存在するやいなや、自分自身で引き受けるあり方である」(第四八節)。

死という終わりを捉えなくては現存在の全体性を捉えたことになりませんが、しかし人間は自分自身の死亡を自ら経験することはできません。死んだら自分自身が消滅してしまうのだから、死にせよ何にせよ経験することはできません。しかし、現存在はいずれ来るだろう死に対していつも何らかの態度をとっています。そういう仕方でいつも死に関わっています。ハイデガーは現存在のそのようなあり方を「死に臨んでいる存在」と名付けます。現存在の全体性は、これを分析することによって捉えることができるようになるのです。

死は〈いずれ来るだろうもの〉ですが、そのくいずれ〉は何十年後などと決まっているわけではありません。縁起でもないといわれるかも知れませんが、いますぐ、ということでもありえます。人間はいつでも死ぬことができます。いまこの瞬間に、生きることも、死ぬこともできます。現実には私たちはたいてい生きる方を選んでいますが、しかし死ぬこともできるというのは厳然たる事実でしょう。

よくよく考えてみれば、現存在はそのようなあれかこれかの決断をつねにしているのです。選び取ることをしないというのもひとつの決断なのであって、それも含めてつねに決断をしているのです。このように、いずれにせよ、現存在にとって自分の死についての決断は自分自身で引き受けざるをえないものであり、それを誰か他人に代わってもらうことはできません。たとえば、他人まかせにしようとして、「いつか適当なときに自分を殺してくれ」と誰かに頼むとしても、そういう依頼を決断するのは自分自身以外の何者でもないでしょう。その意味で死はけっして他人事にはならないものです。自分の死が他人事でないことに気づくと、現存在は孤独化されます。そのように孤独化されるとき、現存在は他人と連絡を失うことになります。他人とおしゃべりしている場合ではなくなるのです。

しかし、私たちはたいてい死に臨んでいる自分自身の存在をそのように捉えてはいません。他人事のように考えています。ハイデガーは、現存在が自分自身から自分自身を理解しているあり方を本来的といい、自分以外のもの、たとえば世間の常識のようなものにしたがって自分自身を理解しているあり方を非本来的といいます。ハイデガーはこの非本来的な自己理解について次のように述べています。

世間の常識にしたがって自分自身を理解している現存在は、「死をたえず発生する災難として--〈死亡例〉として--〈承知〉している。……死は世界の内部で起こるありふれた出来事である。……そして世間はまたこの出来事にそなえて、すでにひとつの解釈を用意している。死について口にだして、あるいは言葉をはばかるようにして世間がくもらす〉話とは、〈ひとはいつかきっと死ぬ、しかし当分は自分の番ではない〉という話である」「〈ひとは死ぬ〉という話し方は、死はいわば世間のひとの身の上に起こる他人事だという意見をひろめる」(いずれも第五一節)。

「〈死はたしかにやってくる、しかしいますぐというわけではない〉と、ひとはいう。このくしかし〉によって、世間は死が確実であることを打ち消す。……こうして世間は、死の確実性が帯びている特異な性格、すなわち死はいかなる瞬間にも可能である、ということを覆い隠してしまうのである」(第五二節)。

死は確実にやってくるということ、自分の死についての決断はけっして他人に代わってもらうことができないということ、そして人間はいつでも死を決断できるということ、こういうことを覆い隠してしまう非本来的な自己理解を克服して、死に臨んでいる自分自身の存在をそれとして捉えることはどのようにして可能となるのでしょうか。ハイデガーは、それは「良心の声」による、と考えます。

他人とのおしゃべりに夢中になっているとき、現存在は世間話に耳を奪われて自分自身の自己を聞き逃しています。このように自己を聞き逃している自己喪失状態から現存在を連れ戻すためには、世間話に耳を奪われているあり方が打ち破られなければなりません。「良心の声」は、一種の衝撃となって現存在を揺さぶり、その非本来的なあり方を打ち破るのです。

良心の呼び声は、思いがけなく、それどころか私たちの意に反して私たちを不意打ちするのであって、けっして私たち自身が計画して遂行するものではありません。その呼び声は一種の衝撃なのですが、しかしそれはただ衝撃であるにとどまって、なにか文字にできるようなメッセージを語るわけではありません。「呼び掛けられた自己には何ものも伝達されない。呼び掛けられた自己は、自分自身へと向かうように、すなわち自分の最も独自なありうることへ向かうように呼び起こされる」(第五六節)。

このように良心の声に呼びかけられて、現存在は自分自身の本来のあり方に気づかされることになります。

良心の声は外部の人々や事物に向いている関心を自分自身のあり方の真相に向けさせます。既述のように、なによりも確実なことは自分の死であって、じつは人間の人生上のさまざまな希望や計画のすべてが、結局のところ、死に臨んでいることに由来しているのです。限りある人生を有益に過ごそうと思うことも、人生は暇つぶしにすぎないと思うことも、いずれも死への対処です。だが、そのような肝心要の死というものが、いつ来るのかまったく分からない、まったく無規定なものなのです。極端なことをいえば、自殺を試みてさえ、確実に死ねるかどうかは分かりません。「死は、不断に確実な可能性でありながら、しかしその可能性がいつ不可能となるかについてはいかなる瞬間にも無規定のままにとどまる可能性である」(第六二節)。

このような真相に直面させられたら、現存在は自分の足元が崩れ去って、なにもなくなってしまうように感じるのではないでしょうか。無のただなかに放り出されているように感じるのではないでしょうか。自分の存在を確固とした根拠の上に据えることによって安心しようとしても、それは無駄だということです。動物には本能という生存の根拠があります。動物の行動は自己保存欲求や種の保存の欲求というような本能にがんじがらめに縛られ、その存在は確固として根拠づけられています。げんに自己保存の本能にさからって自殺する動物は存在しません(動物にも自殺と見える行動があることが知られていますが、最近の生物学の見解によれば、それらはすべて一種の病気による異常行動であって、覚悟の自殺というのはないそうです)。しかし、動物とは異なり、現存在にはそのような確固とした根拠などというものはありえないのです。人間にも〈本能〉はありますが、私たちはそれに抵抗したりそれを無視したりすることもできてしまうのです。現存在は、自分自身を安心させることができません。現存在にとっては、アットホームな気安さよりも、「居心地のわるさの方が実存論的・存在論的にはいっそう根源的な現象である」(第四〇節)とハイデガーはいいます。そのように、確固とした根拠にもとづくことのない現存在は「不気味なもの」ともいうべきでしょう。

私たちは死の無の底なしのただなかに放り出され、いわば宙吊りにされているのです。現存在は、無のうちに宙吊りにされた状態、サスペンディドの状態にあって、サスペンスを感じています。このサスペンスの気分をハイデガーは「不安」と名付けます。「死に臨んでいる存在は本質的に不安である」(第五三節)。

人間が人間である限り、いつもその根底には不安がただよっているのです。ですから、そのような不安は、なんらかの事物に対して感じられるものではありません。日常的には、「今度の試験は準備不足で合格できるかどうか不安だ」などといいますが、ハイデガーのいう意味での「不安」にはそういう意味はありません。むしろ不安に襲われるときには、試験準備というようなこと、またさまざまな仕事をめぐる思いといった日常的なもろもろの心配事がすべてもうどうでもよいことになってしまうのです。そのとき、外界にあるすべてのものが無意味なものとしてあらわになります。そのときにこそ、無があらわになっているのです。目の前のものが消えるわけでもないし、目の前が真っ暗になるわけでもありませんが、存在するものの全体が滑り去って行くような気がする。そのようにして、仕事や勉強する気持ちはまったく中断されてしまうのです。このような心境で、現存在は、好奇心が満たされないというような日常的な退屈とはまったく別の意味ですが、ある種の〈暇〉な状態に陥ることになります。そのようにして、現存在は自分自身の死に臨んでいる存在に直面し、それをそれとして自覚的に捉えることができるようになります。暇のことを古代のギリシア語でスコレーといい、この語から派生して後世「学校」を意味するスクールという語もできてくるのですが、労働することとは決定的に異なるこういう意味での暇なあり方から、哲学的に問うことが始まるのです。

さて、すでに見たように、存在とは「存在するものを存在するものとして規定しているものであり、存在するものがいつもそれを見越して存在するものとして理解されているところのもの」であり、それはもはや「一種の存在するものではない」のでした。存在がそのようなものだとすれば、無こそがそれだということになります。無が存在するものをまさに存在するものとして規定し、存在するものは無を見越して存在するものとして理解されるのです。良心の声に語りかけられて、不安に襲われることによって、現存在は自分自身の居るところが無の場所であるということに気づきます。そのとき現存在は、本来的な意味で暇になってこの無の場所をそれとして思索することができるようになります。そのようにして、現存在は存在への問いを問えるようになるのです。
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