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インターネットはコミュニティに何をもたらすのか

 『インターネットは流通と社会は道変えたか』より

 コミュニティの代替か、コミュニティの補完か

  ここでインターネットがコミュニティにどのような影響を及ぼすのかについて言及し、現実世界におけるリアル・コミュニティとネット・コミュニティの相互関係に注目した、いくっかの代表的研究を振り返ってみることにしよう。

  まず取り上げたいのが、ネット・コミュニティに関する世界初の有力な研究といってよいラインゴールドの『バーチャル・コミュニティ』である。ラインゴールドは、同著の冒頭で、コンピュータ介在型コミュニケーションとしてのバーチャル・コミュニティの誕生について、「この現象は、私たちの実生活からはインフォーマルな開かれた交流スペースがどんどん消えゆく中で、世界中の人びとの胸の中で膨らみ続けるコミュニティを求める渇望が生んだものだという説明ができるかもしれない」と書いた。このような彼の発言の念頭に置かれているのは、モータリゼーションや郊外ショッピングモールでの消費に象徴される都市生活様式の浸透によって、人々の地域的な絆が分断されているという認識であった。

  社会学者デランティは、ラインゴールドの議論の特徴を次の2点に集約している。すなわち第1に、バーチャル・コミュニティを「日常生活の中には存在していない」ネット上のコミュニティとして現実世界との対比で捉えること。第2に、インターネットが、「それがなければ存在しないコミュニティを構成している」と考える点である。ラインゴールドは、バーチャル・コミュニティをリアル世界から離れた対極の世界としてパラレルに描写し、インターネットを既存の現実に対し代替的な現実の提供を可能にするテクノロジーととらえる。また彼は、インターネットを、リアル世界における既存の日常的社会関係を補うというよりも、全く異なるレペルの新しい濃密な社会関係を提供するツールと理解した。

  このラインゴールドの見解について、デランティは、「その後の多くの研究の準拠点となっている」と高く評価しながらも、以下のように書いて、今日のネット社会を取り巻く「多様な状況には応用できない考え方」としている。「こうした見方はおそらく、彼の著作が、比較的少数のユーザーが事実上かなり同質的なコミュニティを構成していた, 1980年代半ばから末のインターネット文化に対応するものであったという事実を反映している」

  デランティが示唆するように今日のネットユーザーの主流は、ネットの商用化とともに、少数の「ネット住民」から、生まれたときからネットが日常生活の一部と化している大量の「デジタルネイティブ」層へと拡がってきている。また、フェイスブックやLINE、ツイッターなど、SNSの今日における利用状況からも明らかなように、現実世界での人格や関係をそのまま持ち込むリアル社会接続型コミュニティが増えている。他方、現実世界と別人格で行動するネット完結型のコミュニティは、相対的に希少な存在になってきているといえよう。

  このようなネット社会の今日的動向をいち早く見据えていたのが、マニュエル・カステルである。カステルは、リアル世界とバーチャル世界を二元論的な対立図式として把握するのではなく、ネット・コミュニティを、社会関係を変化させる力を持った社会的現実の一形態として、現実社会のリアリティの多元性の中に位置づける。

  カステルによると、インターネット上の社会的実践は、「様々な側面と様相をもつ現実生活の延長」に他ならない18。ほぽ完全なバーチャルの関係に基づく社会関係が存在する一方で、ネット・コミュニティは、その大半がリアル世界における既存の社会関係の補完という形態をとっていると彼はいう。カステルによると、ネット上の協議もロールプレイング(仮想体験)によるアイデンティティ構築も、オンライン・コミュニケーションのごく一部の側面に過ぎない。彼はさらに、現実からの離脱志向が高いロールプレイングやチャットルームにおいてさえ、リアルの生活がオンライン上の相互作用を特徴づけるとしている。

 コミュニティ解放の物理的基盤としてのインターネット

  特に留意しなければならないのが、ネット・コミュニティ研究は、われわれの経済社会におけるコミュニティの歴史的変容という、より総体的な文脈の中に位置づけられなければならないとするカステルの分析視角である。「我々の社会における社会関係の発展に支配的なトレンドは、様々な表現形態を持つ個人主義の台頭である」とカステルはいう。リアル世界とバーチャル世界の「密接不可分な社会的プロセス」として顕在化する社会関係や生活様式の新たな構造化のパターン、すなわち「ネットワーク化された個人主義」の浸透に、カステルは今日のインターネット社会の内実をみいだす。

  もともとコミュニティは、前近代社会の地縁や血縁、近隣関係のような、地理的近接性と直接的共同性によって特徴づけられ、限られた地理的範囲のなかの全人格で関わり合う濃密な関係をもった共同体の概念として、一般に理解されてきた。近代化の過程における学校や企業など中間集団や組織の誕生は、上述の伝統的コミュニティから、特定の関心・利益に基づき人為的につくられた機能集団としてのコミュニティヘの社会分化のプロセスであった。

  だが市場システムの発展ないしマーケティングの普遍的展開は、市場の外部から市場を支えつつも固有の経済領域を形成していたコミュニティの内部に商品関係を持ち込むことによって、社会関係の個人主義化を徐々に推し進めてゆく。伝統的核家族の解体、労働過程における関係の個人化、ならびに巨大都市の成長、郊外化やスプロール化といった新たな都市化のパターンは、カステルが「ネットワーク化された個人主義」と表現した、過去のコミュニティと明確に区別されるべき、「私」を中心とする新しい社会性のパターンを出現させることになる。彼もいうように、まさにこの過程で、個人主義的関係の構造化のための「物質的基盤を提供する」のがインターネットなのである。

  現代のコミュニティは、インターネットの普及によって加速され、コミュニティに内在する地域的制約を打ち破り進展してゆくネットワーク化のなかに、新たな存在の基礎を見出している。今日育まれる新しいコミュニティは、人々の全人格を包み込む「必然の絆」(石井)として個人主義と対立するのではなく、個人による自主的選択と重複参加が可能という意味で両立関係にあると理念的に考えられる点が重要であろう。

  ところでカステルは、次のように書いて、より広範な市民参加を可能にするモバイル端末の普及を背景とした、個々人が新たな政治的現実を生み出す自発的な協力関係形成の場としてネット・コミュニティを位置づけようとしている。「ワイヤレス・インターネットの開発は、個人化されたネットワーキングが多数の社会的な場へと拡張するきっかけを増やし、……個人が社会の下部から社会性の構造を再建する能力を高める」。だがインターネットが、草の根のネットワークからの情報発信を容易化することによって民主主義の実現を支えるという上述の主張には、懐疑的意見も多い。問題は、ネット・コミュニティが開放性というメリットを有する反面、その本性として組織の脆弱性というダークサイドを併せもち、不安定で流動的な、いわば浮遊する個々人の集合体として組織されている点にある。

  例えば、ソーシャルキャピタル論の第一人者であるパットナムは次のように述べ、インターネットを通じた民主主義の拡大という理念に根本的疑問を提示している。「バーチャル世界の匿名性と流動性は、『出入り自由』の『立ち寄り』的な関係を促進する。まさにこの偶発性が、コンピュータ・コミュニケーションの魅力であるというサイバースペースの住人もいるが、参入と退去があまりに容易だと、コミットメント、誠実性そして互酬性は発達しない」。この視角からすると、バーチャル世界は,人々のアイデンティティの断片化や機会主義的でアナーキーな行動を生じさせることによりコミュニティの衰退を促進する、不可視の巨大な情報空間ということになる。
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ギロチン 本の死と復活

 『EPUB戦記』より ギロチンまたは書物の解体新書 ⇒ かなり、甘い! 本を分化して統合する時代がやってくる。

 小林 今になって思い当たるのだけれど、ちょうど千年期の変わり目あたりに、ぼくは「電子書籍コンソーシアム」という怪しげな官民共同組織で事務局の技術責任者みたいなことをしていたわけだ。で、当時の月刊アスキーか何かの取材で、紙の本を電子化する現場に同行したことがある。そこで、大量の本の背が次々と裁断されるのを見た。たぶん、この時点でぼくの中の何かが毀れたのだと思う。本に対するある種の物神崇拝のような思いが。文字が書かれた紙を綴じるという営為は、グーテンベルクよりもずっと以前、おそらくは、人類が羊皮紙に文字を書き付けることを思いついたころから始まっていたと思うけれど、それとてもある種の文化依存的な営為だったわけだ。ぼくはそのような《本の文化》を支える《神》を殺した。綴じられた本を裁断するという行為は、そのような《神の死》の再現であり、スキャナーでひとまとまりのPDFにするという行為は、新たな姿=物理的な質量を持たない《神の復活》なのだろう。こうして、ぽくは、書物の神の《死と復活の儀式》を日々繰り返すことに、サディスティックな感覚とマゾヒスティックな感覚を絢い交ぜにしたえもいわれぬ快感を覚える。

 安斎 ScanSnap を買った当初は、捨ててもいいような雑誌や論文集などを片っ端からやっつけていただけなんだけれど、だんだん大事な本にまで手を初め始めると、本の霊性とはなんだったのかという問題が立ちはだかってくる。それはまさに書物の脱構築ということなんでしょう。デジタル化された本は、百科事典のようにますますアクセスしやすくなるものもあるけれど、デジタル化したとたんに姿を消してしまう本もある。本というインターフェースは、電源もいらないし、パラレルだし、ぱらぱらめくりができる。しかも、本は触覚や嗅覚にも訴える。本は記憶の地図でもある。ギロチンにかけると失われるものが、面白い。

 「ギロチン」をキーワードに、書物の脱構築を考えてみたいですね。

 小林 書物にある種の《物神性》を認めるか、単なる《メディア+情報コンテンツ》と考えるかは、それこそ共訳不可能な価値観の違いでね。おそらく両派の間には、議論なんて成り立ちっこない。安斎さんにしても、二つの価値観の間で、自己が引き裂かれているに違いない。大げさに言えば、この《引き裂かれ感》は、精神分裂というか一つの小さな自己の崩壊なわけだ。

 安斎 本に立ち上がるアウラに似たクオリアがあるのは確かなことで、もうひとつ確かなのは電子メディアは自覚しているよりずっと稚拙なレベルでしかないということ。本をギロチンにかけながらそこを考えぬく、という戦略に間違いはない

 小林 ちょっとした心境の変化があった。本は、保存するためにスキャンするのではなく、読むためにスキャンする、ということ。会議資料などは、圧倒的に保存するためにスキャンする気持ちが強いのだけれど、本については、まだまだ、保存のためにスキャンするという気持ちにはなりにくい。《読むのだ》《持ち歩いて読むために解体するのだ》という意識が、本の物理的解体への抵抗感を押しのける働きをする。

 一線を越えたうえでの、思考実験。

  ・対価を払って買った書物の所有権は自分にある

  ・買った書物を足蹴にしようが解体しようが所有者の自由

  ・買った本のスキャニングは著作権法上の私的複製として正当な行為

  ・自分が所有する本をブックオフに売るのも正当な商行為

 しからば、

  ・ブックオフに《解体済み書物コーナー》を設けたらどうか

  ・図書館にも《解体済み書物コーナー》と《スキャニングサービスコーナー》を設けたらどうか

 安斎 僕はこの「ぎろちん本」システムはまったく合理的だと思うんだけれど、実際にやり始めたときに抵抗勢力が立ち上がるのは目に見えてますね。《解体済み書物》は、デジタルコンテンツと等価なのか、という議論になる。するとそもそも言語はデジタルだろう、ということになる。じゃ、なんでブックオフはOKで、レンタルソフトはダメなのか、ということになる。アポリアですね。

 小林 「ギロチンオフ(R)」とかやっておいたら儲かるかなあ。インターネットで「本のギロチン断罪とスキャニングサービス」やるとか。

 メンタルスタッフ(三宅芳雄さん) 一線を越えた… 凄いですねぇ。自分ではとてもやりそうにないのは、本に対する愛着の強さが関係しているのかな。(私は強くないからやらないのですよ。)倒錯の世界?(笑)

 小林 オークション、というのもいいですね。問題は、ぼくに、実行に移す勇気があるかどうか、だけなわけですが。まあ、ぼくに出来ることといえば、梶井基次郎の『神様』を気取って、図書館の不要図書コーナーにでも、そっと解体済みの本の束を置いておくことぐらいでしょうか。いずれにしても、思考実験をしてみて、明らかになったことは、《製本して本にする》ということは、実は、複製を困難にする実に有効な制約手段でもあった、ということです。解体された本が、製本という制約から解き放たれると同時に、一塊の物理的存在だったときに持っていたオーラというか物神性を喪失する、というか、ぼくの側が抱く、本の物神性という幻想/呪縛から解き放たれる感覚は、まさに、倒錯的な快感なんですねえ、これが。複製を困難にする制約と物神性の担保という異なる側面を併せ持つ《製本》という行為は、こう考えてみると、実に巧妙な文化装置だったわけです。いやはや。

 machiko(草原真知子さん) うーむ。いろいろ考えてしまいますね。私自身は「本は大切に」とたたき込まれて育ったせいか、よく海外などで本の上にコーヒーカップを載せている人を見るだけで、背筋がぞくぞくとしてしまうほうです。

 でも、本の非物質化自体には抵抗はなく、必要な資料が分厚い本のわずか数ページだったりすると、それをスキャンしてテキスト化したりします。雑誌はせっせと解体してスキャンします。それでも、やはり本を解体するのは相当に決意が要りそう。
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アレクサンドリア大図書館が創立

 『翻訳のダイナミズム』より 響きと怒りの挿話 アレクサンドリア大図書館

 前三世紀半ば、アリストテレスの弟子のなかでもその名を知られたデメトリオス・パレレオスは、アテナイを統治していたこともある人物でありながら、その市を逃れてアレクサンドリアヘ赴き、当地の大図書館長となったという。出立のきっかけとなったのは、胎動する逍逡学派を襲った政治上の陰謀と逆境であった。当該事件の詳細はさておくとして、アレクサンドロス大王の後継者アンティパトロスの直系たる、エジプトのプトレマイオス一世ソテルは当時、アリストテレス思想の積極的な庇護者となって、その派の提唱に従って、そのときわかっていたあらゆる分野の知識を集めようとしていた。アリストテレスは、古代で初めて真の図書館を築こうとした人物として知られており、真の知識は収集--世界の事実と他者の知恵の収集--から生じるとした彼の根幹にある持論をもとにして、まさしくアレクサンドリア大図書館が創立されたのだった。これを具体的な文言で言い換えると、この〈全知〉の図書館の一大使命は、アレクサンドリアに〈世界のあらゆる人の書いた書物〉をもたらし、果てにこの都市をその帝王の名に違わず、史上最大級の帝国の中心とすることであった。ゆえにアリストテレスの直弟子がこの大計画の立ち上げ時に責任者となったのは時宜にかなったことだった。

 その館長時代のある折にデメトリオスが思いついたのが、この図書館を自分の新たなる支援者のために役立てるという大案だった。その案とは、様々な人々から強大な統一国家を築くための帝王学や覇道について書かれた巻子本を集めるというものである。この発想はデメトリオスの信念が元となっているところがあり、とりわけユダヤ人の歴史・律法・思想の書物は、時が移り変わってもなお変わらぬ信念と勇気を教えてくれるということで、優れた知見が得られるはずだと考えていたのだ。そう思うに至ったのは、アリステアスなるギリシア人名を有するユダヤ人の説得によるものらしく、この者はいわば身分を偽りながらも自分の同胞の大きな得になるよう動いたというわけだ。ユダヤ人から本を集めてはというデメトリオスの奏上に乗ったプトレマイオスは、その実行を命ずる。とはいえ当該作品には翻訳が必要だった。コプト語やギリシア語、フェニキア語では書かれておらず、また当時の通説のようにシリア語でもなく、ヘブライ語で記されていたからだ。そもそも訳されなければ役に立てようもないのである。

 大図書館の課題そのものが、翻訳だったというわけではない。ただし拡大してゆく蔵書を研究・注釈・分類していくことは、この施設のあるべき姿のひとつとして、お抱えの学者たちに認められていた。この世のすべての本はギリシア語に訳されねばならない--図書館は、果たされ得なかったアレクサンドロスの征服を別の形でなさねばならなかったのだ。実際、マケドニア人に建設されるか発展させられたヘレニズム時代の大都市にはどこにも、文書館としての施設がそれぞれ備わっていた。アレクサンドロスによって送り込まれた各都市の支配者たちは、征服の先兵として自分たちがどうしようもない辺境にいることを自覚するよう迫られていたし、ゆえにインドからバルカンに至るまで、自分たちが治める人民のことを知る必要性が高かったのである。そして支配するための方法が、その者たちの本を所有・翻訳することであった。つまるところ、凱旋式でも図書館の建物でもない、他ならぬ翻訳こそが、自分たちの高邁な運命を確固たるものにする武器だったのである。

 とはいえ話はここで終わらない。ヘブライ聖書の重要性とその翻訳の必要に納得したプトレマイオスは、はたと、何千人というユダヤ人がエジプトの牢獄や奴隷収容所で囚われの身になっていたことを思い出す。そのほとんどが、実父が推し進めた先のシリア遠征で捕虜となった者たちだった。おのれの権威に傷を付けないまま、求める翻訳をいちばん信頼できる形で確実になしとげようと、プトレマイオスは全員--十万人以上--を解放すると約束する。さらに、寛大な心で一同を体制に組み入れようと、多くの者を兵士や役人にし、幾人かには責任ある高い地位につけさせた。イェルサレムに送付された当該の布告で、プトレマイオスは上記のことを実行したことを伝えると、その返礼としてかの地の大祭司の命で、イスラエルの十二氏族から六名ずつ計七十二人の賢者の一団が派遣されてきた。そして一同は西にあるパロスという小島へ赴き、設備の整った堅牢なその場所に閉じこもって、七十二日でその仕事を完遂したのである。ただ一同は自分たちの行いが、古代世界最大の知の収集家であるアリストテレスの大著作群に端を発した、叡智の帝国という理念に貢献したとは思いも寄らなかっただろう。歴史にはこの一度の訳業が何万人もの命を救う一助となったと記録されるのみである。
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本が紙であることの弊害

バラバラの始まりはツイッター

 バラバラの始まりはツイッターかもしれない。あの140文字の中でバラバラ。一つだけでは意味をなさない。受け手側でつながっていく。

 ツイッターが最初に出てきたときは何に使うのか分からなかった。だから、キーワード文化とつなげた。

 ツイッターから始まったバラバラにする分化がいま、統合に向かって動き出す。

本が紙であることの弊害

 本が紙であることの弊害。重たいとかかさばる以外に、濡れたり、折れたり、取れたりする。これは本が悪いんです。コンテンツと関係ないところで起きている。

 図書館はコンテンツではなく、本を守ろうとします。だから、電子書籍に対応できないでいる。岡崎でのトラブルはやはり、図書館側が悪い。「存在と時間」のページが取れてしまったけど、豊田市図書館では問題にならなかった。わざとやったわけではないからと。

 ブラッセルへ行ったときに言われたのは、紙にする木がないから本が少ないし、高いと行っていた。石油が出てくる前に、木を伐採尽くした。レベノン杉のことを考えると、ヨーロッパの精神が理解できる。石油が出て来なかったら、ヨーロッパのデジタル化は先に進んでいた。

 ついでに、北欧でデジタル化が進んでいる。都市が偏在しているので、図書館の規模が小さいし、共有できない。デジタルではその状況が変えられるし、冬でも電子書籍が容易に手に入る。シェア文化には欠かせないアイテムです。

他者を前提としない心理学

 心理学はもっと哲学的にならないといけない。対人関係でなく、個人の中に起きていることに目を向けるとどうしても哲学になります。

 人がいないところの心理学。他者を前提としない。

哲学系アイドル

 アイドルでもなぜ、自分がそこに居るのかを言うけど、それを深くえぐるのは生ちゃんしか居ない。今後、哲学系のアイドルは増えるでしょう。中高生で一番、悩んでいる張本人です。

 というのは、ブログを見ていると、自分の心の中を探っているアイドルに対して、ファンが付いてきています。皆、それに悩んでいる。それを言葉にできる人に興味を持っています。自分を投影しながら、アイドルを応援します。これは以前のアイドル増とは異なり、自分の心の中を見せる。そのために、モバメとかブログのコメントで表現しています。

 今、一番忙しいのが、少年少女です。悩みは深い。共感できるモノを探して、先に進みます。

代わりに調べてもらった

 色々な本からの抜粋するのは、代わりに調べてもらったと言うことでいいでしょう。学生のコピペの論文ではないのだから。

 歴史は細かいところを全て知るわけにはいきません。なにしろ、全てというものがないんだから。関心を持った人が表したモノにリンクを張っていく。作権を保証しなければ、それで十分です。事実の記述に著作権はないでしょう。継承があるだけです。

 歴史の図を取ってみても、艦隊の動きなどは分かるわけがない。衛星があるわけないので、皆が空想して絵にして、色々なところで本になったものを使っていく。

「インターネットは流通する社会をどう変えたか」

 このような本を書くぐらいなら、乃木坂を題材にして書けば、具体的に、総合的に一気に分かる。データだけで表現したつもりでいても何を分からない。色々なものが複合的な社会を描かないと。

 ネットを使うことで、東京と他の地域が全然違う世界になっているのが、一緒になっていく。その次がどうなっていくかをライブとか握手会から消費者活動を見ていかないといけない。CDはあくまでも握手券です。

 商品としての握手。その裏側にある、人間の心理は購買活動と同等です。16thシングルのしても、選抜も福神もセンターも分かっていないし、楽曲も分かっていないのに、皆、予約をしています。そうしないと、握手会のチケットが手に入らない。半年後にそのメンバーが居るかどうか分からないのに、3月握手会チケットを購入しています

 このマーケティングをCDがどうのこうのとか、インターネットがどうのこうのと言ってところで意味がない。先に進んでいます。国際化という前に、東京と地方との関係。この部分がどうなるのか、テレビとネットの関係、次のマーケティングがどうなっていくのか。
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