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誰が音楽をタダにしたか

レベノンのタンブラー

 レバノンのタンブラーを持って、駅前スタバへ。グランデサイズと思っていたが、トールサイズだった。

 見た目よりも中が空洞になっている。それに冷めるのが早すぎ。

誰が音楽をタダにしたか

 それは決まっています。それは英国から始まった公共図書館です。シェアすることが分化をすすめた。

 一部のモノが儲けて、他を制限するのはインチキです。その資本主義のやり方を先に進めていく。

 本質中心でシェアする社会を目指す。

 次は本であり、クルマです。メーカーが率先することを期待します。被害者意識は許されない。置いていきます。
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気候変動 手のつけようがない公共政策問題

『気候変動』より

ほとんど手のつけようがない公共政策問題といえば、気候変動はその典型と言えるだろう。今日の嵐や洪水や山火事がどんなにひどくても、地球温暖化の最悪の影響があらわれるのは、われわれの死後かなり経ってからで、しかもそのあらわれかたもまったく予想外のものとなるだろう。気候変動は、他の環境問題とはまったくちがい、それを言うなら他のどんな公共政策問題ともまったくちがう。全世界的という点でも独特だし、長期で、逆転不能で、不確実だという点でもそれぞれ独特だ--そしてこの4つすべてが揃っている点でまちがいなく独特だ。

ビッグ4

 この4つの要因をビッグ4と呼ぼう。これらが気候変動を実に解決困難にしている。困難すぎて--世界の集合的な良心に巨大な一撃でも加わらない限り--排出削減やすでに回避不能の結果への適応だけでは、気候変動への対応は困難すぎるかもしれない。最低でも、この結果一覧に苦しみを加える必要がある。金持ちは適応できる。貧困者は苦しむ。

 さらに、こうした手のつけようのない問題に対する世界規模の技術対応を試みるものとして、ほとんど他に手がないように聞こえる、ジオエンジニアリングというものが出てくる。最も有力なジオエンジニアリングの発想は、小さな硫黄ベースの粒子を成層圏に放出して、人工的な日焼け止めもどきの役目を果たさせることで地球を冷やそうというものだ。

 気候変動の経済学について知られているすべては、この方向を示しているように見える。ジオエンジニアリングは、粗雑にやるなら実に安上がりだし、その効果も実に高いので、炭素公害のほぼ正反対の性質だとさえいえる。問題を引き起こしたのは、炭素公害の「フリーライダー」効果だ。十分な排出対策をするというのは、万人の狭い利己性にあわない。そこから脱出しようとしてジオエンジニアリングを採用するようわれわれに仕向けるのは、「フリードライバに!」効果かもしれない。実に安上がりだから、だれかが自分一人の利益のために、もっと広い影響などお構いなしにそれをやってしまうだろうというわけだ。

 だが、先を急ぎすぎた。まずはビッグ4に順番に取り組もう。まずは、なぜ気候変動が究極の「フリーライダー」問題かということから。

究極のフリーライダー問題

 気候変動はそれが世界的だという点で独特だ。北京のスモッグはひどい。ひどすぎて、本当に劇的な健康上の影響があるため、同市の役人は学校を閉鎖するなどの厳しい対策をとった。でも北京のスモッグ--あるいはメキシコシティやロサンゼルスのスモッグ--はほぼその都市に限られている。中国の粉善はアメリカの西海岸の観測所で記録はされる。これはサハラ砂漠の砂がときどき中央ヨーロッパにまで吹き飛ばされるのと同じだ。

 でもその影響はといえば、その地域に限られる。

 二酸化炭素だとそうはいかない。1トンの二酸化炭素を地球のどこで排出しようが関係ない。その影響は地域内にとどまっても、現象は全世界的だ--そして環境問題の中では--こうした例はほかにほぼない。南極上空のオソンホールは困ったものだが、最大の場合でも、全地球を覆うほどにはならなかった。同じことが生物多様性の喪失や森林減少などについても言える。これらは地域的な問題だ。それらをまとめて、世界的な影響を持つ現象にしているのは気候変動だ。

 地球温暖化が世界的な問題だという性質は、まともな気候政策の実施を妨げる要因の大きなひとつだ。有権者に、自分たち自身の公害制限を実施させるのですら難しい。そうした制限の受益者が自分たちで、他のだれにも影響せず、行動の便益が費用を上回る場合ですらそうなのだ。費用が地元の負担となるのに、その便益が全世界的となったら、有権者たちに公害制限を導入させるのはずっと難しくなる。全惑星的な「フリーライダー」問題というわけだ。

長期性

 気候変動はその長期性の点でも独特だ。過去10年は、人類史上で最も暖かい10年だった。その前の10年は、2番目に暖かい10年だ。その前は、3番目に暖かい。2014年アメリカ気候変動評価が述べているように「アメリカ人たちは身の回りいたるところで変化に気がつきはじめている」。変化が最も露骨なのは、北極圏だ。北極海の氷は過去たった30年でヽすでにその面積を半分失い、体積を4分の3も失っている。「来る北極海ブーム」を描いた『フォーリンポリシー』誌の記事は、これらすべてを当然の前提としている。さらにそこらじゅうに目に見える変化がある。またもやアメリカ気候変動評価を見よう。

 「一部沿岸都市の住民たちは、嵐や高潮で街路が以前より頻繁に浸水するのを目にしている。大河に近い内陸部の都市も、特に中西部と北東部で以前より洪水が増えている。一部の脆弱な地域では保険料が上がりつつあり、またもはや保険を引き受けてもらえない地域も出てきた。気候が暑く乾燥したものとなり、雪解けも早まったことで、西部の山火事が春に始まる時期も早まり、秋遅くなっても続き、延焼面積も広がる」

 気候変動は起きているし、もはや消える様子はない。

 このどれひとつとして、気候変動の最悪の影響はずっと先になるという事実を覆い隠すべきものではない。その影響は、しばしば世界的で長期的な平均値の中にあらわれる。2100年における世界の平均表面温度予想や、何十年何世紀も先の地球平均海面水準の予想値などだ。これがまともな気候政策を阻害する第2の要因だ。最悪の影響はずっと先になる--こうした予想を避けるためには、いま行動しなければならないというのに。

不可逆性

 気候変動は逆転不能だという点でも独特だ。明日炭素排出を止めたとしても、何十年にもわたる温暖化と何世紀にもわたる海面上県はすでにロックインされている。いずれ起こる、巨大な西南極氷床の完全な融解は、すでに止められないかもしれない。もっと極端な気候事象がすでに起こりつつあり、今後当分は起こり続ける。

 人類が石炭を燃やしはじめた頃には存在しなかった、大気中の過剰な二酸化炭素の3分の2以上は、100年後もまだ大気中にある。1000年経っても、3分の1は優に残っている。こうした変化は長期的だ。そして--少なくとも人類の時間感覚で言えば--ほぼ不可逆的だ。これが問題を難しくする要因の3つめだ。

不確実性

 この3つの要因だけでは足りないとでも言うように、気候変動にはもうひとつ独特の特徴があって、これがビッグ4のしんがりとなるし、また4つの中で最大のものにもなっているかもしれない。不確実性だ--いま、わかっていないことがわかっていることすべて、そしておそらくもっと重要なこととして、わかっていないことすらわかっていないことだ。

 二酸化炭素濃度が今日と同水準の4002匹だった以前の時期は、地質学の時計では「鮮新世」となっている。つまり300万年以上前であり、大気中の余計な炭素を出しだのは自動車や工場ではなく、自然変動だった。地球の平均気温は現代よりも1~2・5℃くらい暖かく、海面は最大20メートル高く、カナダにはラクダがいた。

 今日では、こうした劇的な変化はどれも予想されるものではない。温室効果が全面的に効果を発揮するには、何十年、何世紀も必要とする。最近の北極海での変化はあっても、氷床が融けるには何+年、何世紀とかかる。世界の海面がそれに応じて変わるにも何十年、何世紀とかかる。二酸化炭素の濃度は300万年前は400ppmだったにしても、海面上昇はその後何十年、何世紀と遅れて発生した。この時間差は重要だし、こうした現象すべての長期性と不可逆性を示している。前出の、2つ目と3つ目の要因を見よう。でもこれは大した慰めにはならない。そしてこの4つ目の要因には重要なひねりが加わっている。
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クレムリン 大陸軍がスモレンスク陥落

『クレムリン』より 不死鳥

一八一二年七月、ツァーリがモスクワを訪れた。夢見心地の舞台に幕が降りようとしていた。戦争がそこまで迫っていた。アレクサンドル一世とナポレオンの関係は緊張していたが、一八○九年から一二年夏にかけて、もはや修復不能となった。それでもフランス皇帝が領土拡張のためにロシアを侵略するとは、まだ誰も予想できなかった。ロシア人もナポレオンとの決裂が、どのような結末を招くかよく分かっていなかった。非難の応酬を重ねるうちに、些細な事が肥大化した。経済関係や領土をめぐる緊張も高まり、帝国同士は開戦前夜の状況に陥った。大量殺戮の危機に直面しつつ迷走する外交は、夢遊病というより死の舞踏だった。一八一一年から一二年にかけての冬、ナポレオンは征服した帝国の隅々から部隊をかき集めた。世に名高い大陸軍は、史上最大の規模に膨れ上がった。侵攻は一八一二年六月二四日に始まった。ロシアの真夏は戦争の季節である。四日後にはナポレオン自身がヴィルナに乗り込んだ。

アレクサンドルはナポレオンの侵攻に衝撃を受けた。軍を送り反撃を加えようと考えたが、説得を受けて数日後に断念した。国民の戦意高揚が先決だった。彼が七月にモスクワを訪れたのは、事態の深刻さを一般に知らしめるためだった。ナポレオンは煽動の名人だったので、市民が動揺しないように先手を打たねばならなかった。目的は一応達成した。若く眉目秀麗なアレクサンドルは、行く先々で群衆に囲まれた。クレムリンも人で一杯になった。舞踏会でも並木道でも、最新流行のファッションより愛国心が関心の的となった。皮肉屋のアレクサンドル・プーシキンが語っている。「伊達男たちの姿が消えた。某氏はフランス製の嗅ぎ煙草を捨てた。フランスの雑誌をまとめて焼いた者もいる。シャトー・ラフィットの愛飲をやめて、キャベツのスープに切り替えた者もいる。みんなが一度とフランス語を話さないと誓った」。多くの人々が義援金を出し、農奴を兵士として提供した。自ら義勇軍に志願する者もいた。街の広場に紫色の絹のテントが出現した。そこに意気軒昂な若者たちが列をなし、ツァーリの軍隊に加わる手続きをした。人々はモスクワこそロシアの誇りであると語り合った。戦火を恐れ逃避を企てる市民たちもいた。ナポレオンはサンクトペテルブルクではなく、モスクワを攻めるとの噂が流布した。

噂を裏付けるような知らせが相次いだ。大陸軍は抵抗も受けずに、間もなくスモレンスクの城壁まで到達した。大陸軍はこのスモレンスクを落として、さらに東を目指すための補給拠点にするつもりだった。一八一二年八月のことである。ナポレオンは古都はすぐに陥落すると判断していた。奴隷のような扱いを受けている民衆は、大陸軍を友愛と自由をもたらす解放者として歓迎する可能性さえあると考えていた。だが現実は違った。彼は頑強な抵抗に遭遇した。ドニエプル川を望む堅固な城壁は、敵が試しに仕掛けた最初の一撃をはね返した。そのうち散発的な攻撃の応酬で火災が発生した。放火であったかもしれない。想定外の展開だった。目撃証言によると「炎が渦巻き、すさまじい勢いで広かった……スモレンスクはすさまじい勢いで不吉な灰燼に帰した」。ナポレオンは「ヴェスヴィオ火山の噴火」のようだと大喜びだった。だが幕僚たちは補給基地に想定した都市が焼け落ちる様を眺めながら、ロシア人がナポレオン流の自由主義を受け入れるという甘い期待も、同時に消え失せたことを思い知った。

フランスの士官たちは焼け跡を視察した。豊かさを謳歌していたスモレンスク市民は大方、敵が入城する前に逃げ出していた。だが数百人がボリス・ゴドゥノフ時代のロシア煉瓦の下に取り残された。歴戦の強者も、その惨状に衝撃を受けた。大陸軍のあるドイツ士官は「焼け落ちた二棟の建物の間を歩いていくと果樹園があって、果実は炭と化していた。木の下には生きながら焼かれた人間の遺体が五、六体、放置されていた」と記している。スモレンスク焼失の噂は、モスクワで疫病のように広がった。数多くの大火を経験してきたモスクワの住民は、非情な炎と灼熱の恐怖を知り尽くしていた。モスクワではその日、馬を雇う値段が四倍になった。日が暮れないうちに、郊外への道は馬車と荷車の列で一杯となった。多くは南や東へ向かった。ロストフや遠くカザンを目指す者もいた。ヴォルガ川に臨むニージューノヴゴロドは、夏を過ごす別荘の賃貸料が一夜で三倍に跳ね上がった。

モスクワ防衛は二人の人物に託された。ミハイル・クトゥーゾフ公が軍事の責任者となった。彼はトルコとの戦争に従軍、オーストリアでナポレオンに破れていた。サンクトペテルブルクとキエフの総督も歴任し、モスクワの戦略的、心理的な重要性を理解していた。だが戦争でロシアを最終的な勝利に導き、存亡の危機を乗り切ることを優先的に考えた。モスクワ市政は保守的な富豪、フョードル・ロストプチーン伯爵が牛耳っていた。彼は一八一二年の最初の数カ月、外敵侵入の可能性に無関心だったが、今や愛国心の権化に変貌していた。スモレンスク陥落の後も、モスクワを決してフランス軍に渡さないと主張していた。その約束は結果的に実現するのだが、伯爵の言葉を信じる者は当初ごく少なかった。彼はモスクワの防備を固めた。資金と手段がある市民は、ほとんどが逃避を考えていた。残った貧乏人や「闇の社会の人間」に、武器が支給された。クレムリンでは大砲を再び磨き上げ、砲口を街路に向けて並べた。皇帝は九月六日、伯爵の愛国主義を称え肉筆の感状を下賜した。文面は完璧なフランス語だった。当時のロシアでは、この種の文書はすべてフランス語で作成された。

一八二一年は素晴らしい豊作だった。リンゴやプラムなどの果物は、特にできが良かった。戦いの場から遠く離れていれば、何万人もの若い兵士を生死の危機にさらしている戦争も忘れて過ごせた。モスクワでは、ありとあらゆる噂が駆けめぐった。最後まで希望を捨てない屈強な市民が、わずかなから残っていた。クトゥーゾフも楽観的な男だった。いかなる代償を払ってもモスクワを死守すると繰り返し約束した。一八一二年九月七日、彼の部隊は欧州の歴史で最も悲惨な戦闘を体験した。戦闘は二日で終わった。モジャイスクに近いボロディノで起きた戦いは、血で血を洗う大戦闘となった。近距離に対峙した双方の砲は絶え間なくうなり、戦闘は明け方から夜まで続いた。ロシア側は四万五〇〇〇人、フランス側は二万八〇〇〇人の命を失った。大量殺戮劇の実相は、数字だけでは感得できない。

砲声がやむと、ナポレオンはいつものように戦場を視察した。「すべてが恐怖の念をかきたてた」。幕僚のフィリップ=パウロ・ド・セギュール伯爵が後に述懐している。「低い空から冷たい雨が降り、猛烈な風が吹いていた。民家は灰に埋もれ、無惨に掘り返された平原を破片や残骸が覆っている。……戦場の至る所で兵士たちが遺体の間を歩き回り、亡き同僚の背嚢から食糧を取り出している」。死体の山の中に埋まって命拾いをした者も多かった。あるロシア兵は引き裂かれた馬の死骸の中で、数日間その肉を食べて生き延びた。ロシア軍は春を待って戦場を片づけた。三万五四七八頭の馬を葬った。人間の死体はさらに多かった。一八二一年一〇月の下旬、フランス軍は撤退の途上にあった。白い雪原の上空を黒いカラスが群舞するのを見て、そこがかつての戦場であることを知った。兵士の足取りは弱々しかった。滑らかな平原に突然、無数の不気味な隆起が出現した。半ば埋もれた人体だった。
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新たなディアスポラ アルメニア人の全世界的共同体

『アルメリア人の歴史』より

十九世紀末までに、オスマン帝国やロシア帝国、イランやエジプト以外のアルメニア人共同体は、同化するか、その経済的、政治的影響力を失っており、概して、いくつかの都市部の中心地において影響力なき集団となっていた。一八九五~一八九六年の虐殺やスルタンのアブデュルハミトの反アルメニア人政策によって、多くのアルメニア人は小アジアからの移住を余儀なくされた。ヨーロッパや中東の共同体に加わった者がいた一方で、アメリカ大陸へ旅立った者もいた。アルメニア人ジェノサイドによって何千もの難民が生まれ、彼らはやがて新旧両世界に定住した。かなりの数は一九一八~一九一九年や一九三〇年代初頭にアルメニア共和国に向かったものの、前述のように、一九二〇~一九二一年に逃げ去った者や、一九三六~一九三九年の時期にスターリンによって追放された者もいた。およそ一〇万人の帰還者たちの第二の波は一九四五~一九四八年にソヴィエト・アルメニアに到来し、第三のはるかに小規模な集団は一九五三~一九六五年に到来した。しかしながら、一九八五年までに戦後の帰還者たちの半数近くは西側へ移住していた。第二次世界大戦後の四〇年間を通したアジアや北アフリカでの革命や内戦の結果、その地のアルメニア人共同体は減少し、ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカ大陸でアルメニア人ディアスポラは発展した。ソヴィエト連邦の崩壊に続く経済的困難によって、百万人以上のアルメニア人がロシア、ヨーロッパ、北アフリカ、オーストラリアヘの移住を余儀なくされた。こうして過去百年間の歴史的事件の結果、新たなアルメニア人移住者たちが共同体のアルメニア人アイデンティティを復興させることによって、以前のディアスポラを活性化させるという傾向が生まれた。現在、アルメニア人、ユダヤ人、そしてその他のいくつかの集団のみが、彼ら自身の国家よりもディアスポラにより多くの成員を有する。世界の七百万人以上のアルメニア人のうち、わずか二五〇万人のみがアルメニア共和国に居住していると見積もられている。ユダヤ人と同様に、地球のほぼ全ての国でアルメニア人に出会えるであろう。以下の概説ではこれらの共同体の大半が検討されるであろう。

ギリシア

 一八九五年以前、ギリシア全土にはわずか約五百人のアルメニア人が存在したのみであった。この集団の大部分はテッサロニキに居住していた。元来ムシュ出身の彼らは、一八七二年にドイツによって、テッサロニキをイスタンブルと結ぶ鉄道建設やその他の事業のために雇われ、帰還しなかったのであった。一八九五~一八九六年の虐殺の後、さらに多くの者が到来し、オスマン帝国に対する第一次バルカン戦争でギリシア側に加わった者もいた。最大のアルメニア人の集団は一九二二年以降、スミルナ(イズミル)からのキリスト教徒追放に続いて到来した。一万七千の孤児を含む約一五万のアルメニア人が、スミルナからの五〇万のギリシア人難民と共にギリシアにやって来た。当時のギリシアの経済状況はそれゆえに緊迫していた。大半のアルメニア人は留まることを望まず、一九二四年、約一〇万がその他の国々に旅立った。損なわれた生活を再建し始めた六万の残されたアルメニア人の生活は、第二次世界大戦中のドイツの占領によって、改善することはなかった。第二次世界大戦後、何千もの人々がアルメニア、北アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパヘと去り、かろうじて一万のアルメニア人がギリシアに残されただけであった。小規模であったものの、共同体はさらに教育があり富裕なものになった。共産主義体制崩壊によって、ロシア、アルメニア、ジョージア出身のアルメニア人が到来し、今や共同体は二万五千以上を数えるようになった。アルメニア福音教会を含む多くの教会やクラブは、大半の者たちがアテネに住むギリシアのアルメニア人の必要を満たしている。ギリシアとアルメニア共和国との間の非常に良好な外交関係によって、共同体はジェノサイドを追悼し、ギリシア政治においてより活発な役割を果たすことが可能となった。

レバノン

 レバノンのアルメニア人はしばらくの間、ソヴィエト連邦や合衆国の外でイランの次に最も重要なアルメニア人共同体であった。近代の共同体の中核は、オスマン帝国での虐殺やアルメニア人ジェノサイドの結果として到来した。一九二六年までに、レバノンには約七万五千のアルメニア人が存在しており、レバノン憲法によって彼らやその他の少数派には市民権が与えられ、同時に、それによってアルメニア人は議会の彼ら自身の代表者を選出することが可能になった。その国家の地理的な位置やフランスによって提供された安定は、キリスト教徒が優勢な政府と並んで、さらに多くのアルメニア人をそこに引きつけ、一九三〇年にキリキアのカトリコス座はベイルート郊外のアンテリアスに移転した。アルメニア・カトリックやアルメニア福音派の教会もまたベイルートに中心地を設立した。以前に触れたように、一九三九年、ムサ・ダグを含むアレクサンドレッタ県はトルコに移譲された。その結果として三万のアルメニア人がシリアやレバノンに移住した。ムサーダグのアルメニア人はアンジャルの高原に定住した。

 アルメニア人は迅速に経済的、政治的重要性を獲得し、レバノンの自由主義的な政府によって、全てのアルメニア人政党が地位を確立することが可能となった。一九五八年の短いレバノンの国内紛争の間、アルメニア人は分裂し、両派の側についた。一九七四年までに二〇万を超えるアルメニア人が存在し、彼らは二四の教会、約七〇の学校を有し、その中にはアメリカ・アルメニア人宣教協会と中東アルメニア福音教会連盟によって一九五五年に創立された(イカジアン大学のような高等教育機関も含まれていた。加えて、五〇以上の体育、愛国、慈善組織やさまざまな文学的、文化的な定期刊行物や新聞が存在した。レバノン内戦(一九七四~一九八九年)は被害をもたらし、アルメニア人は中立に留まり、彼らの共同体の施設は無傷で残ったものの、数千の者たちがより安全な地域、特に合衆国に去った。約七万五千が留まっており、彼らの中立性や彼らの指導者たちの尽力により、シリアが後押しした国民和解文書〔ターィフ合意〕において役割を果たし、再びレバノンの独特な情勢の恩恵を享受している。レバノンとアルメニア共和国との間の外交的紐帯は大変友好的なものである。四七のアルメニア人学校や経済発展のためのアルメニア人基金を含む無数の協会や組織によって、共同体は回復への道を歩み、議会や中央政府にも成員を有している。近年のレバノンにおける政治的混乱によって、再びこの情勢は変化するかもしれない。

トルコ

 ジェノサイドは西アルメニアやトルコの無数のその他のアルメニア人の中心地を破壊した。トルコのアルメニア人共同体のうちで残されたものは主としてイスタンブルに集中していた。第二次世界大戦に続く反アルメニア人政策-一九四二年の少数派に対する富裕税や一九五五年のイスタンブルやイズミルのアルメニア人やギリシア人の店舗への暴徒の襲撃--によって、一部の者は移住を余儀なくされた。しかし、残りのアルメニア人たちは、できる限り自らのアイデンティティをどうにか作り上げ維持することを学んだ。アルメニア人学校ではジェノサイドやその他の民族の問題について話すことが禁じられていた。アルメニア人の中には彼らの姓を改め、よりトルコ風の音であるloglu語尾を用いる者もいた。一九五六年以降、状況は大いに改善された。アルメニア人の孤児たちが内陸部から集められ、イスタンブルに連れて来られた。アルメニア人はいかなる公認の差別もなく、彼らの経済的、文化的活動を続けた。今日、約六万のアルメニア人共同体は無数の組織や協会、三〇を超える活動中の教会、二〇の学校、二つのスポーツ団体、九の合唱団、一つの大きな病院を有している。アルメニア人が一四五三年のオスマン帝国の到来以前からイスタンブルに大規模な共同体を既に有していたことから、イスタンブルのアルメニア人共同体が自身をディアスポラと見なしていないということは興味深い。トルコのアルメニア人の主要な問題は、新たな聖職者を養成する本物の神学校やアルメニア語を教授する高等教育機関が存在しないことである。彼らの二〇の学校に約五千のアルメニア人生徒を有しているにもかかわらず、彼らは国外から教師を雇用することができず、アルメニアの大学や教育機関に彼らの卒業生を送る点て困難を抱えている。アルメニア人学校では週六時間しかアルメニア語を教えることはできず、残りのカリキュラムは主としてトルコ人教師によってトルコ語で教えられている。大半のアルメニア人はトルコ語を話す方を好み、一部ではアルメニア人とトルコ人との間での通婚も起こっている。

 イスタンブルのアルメニア総主教座はアルメニア総主教と同様に、ディアスポラとトルコの双方において彼らの特権の一部を保持しており、トルコ政府当局者との間で頻繁に行き来がある。ヨーロッパや北アメリカでのアルメニア人の政治活動やカラバフ紛争によって、アルメニア教会や墓地に対する暴力的な行為が行われているものの、フラント・ディンク〔ジェノサイドを告発して暗殺されたジャーナリスト〕の殺害と一部のトルコ当局者や自由主義者の側での声明や行為は、トルコのアルメニア人にとり良い兆しとなっている。
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