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第四章にみる未唯空間の構成

ひめたんの弱さ

 乃木中でひめたんの弱さが出てしまった。これを流した運営の思惑が気になる。ひめたんは弱いところがあるのが魅力です。やり切ることを魅力にしていない。

 妹のすぅにはかなわないと思った時からの思いでしょう。乃木坂でも全てをやり切る生ちゃんを見ている。そんなひめたんをファンは自分の中に投影してみている。それをあえて、映像化した運営は16thシングル選抜との絡みで出したのでしょう。

 時期的には、16thシングル作成に入っているので、メンバーは当然、決まっている。それを16日まで出さないのは、アンダーの「墓場、女子高生」(14日~22日)との絡みでしょう。

16thシングルの選抜は難しい

 今回の選抜はかなり、難しい。舞台に出ている三人と舞台に出ていない蘭世の選抜入りさせてしまうと、アンダーが支えられない。ひめたんときーちゃんを戻すとモチベーションが崩壊する。

 それよりも生ちゃんの三線を先にして欲しかった。沖縄に行ったこともブログで分かっているし、格好もさまになって映っているのだから。それで来週の乃木中で選抜発表にすればいいのに。

 紅白の時のシミュレーションで決めるしかない。生田センターで、若い連中で国民歌謡に徹する。2月22日までの体制ですね。

第四章にみる未唯空間の構成

 未唯空間は前半で流れを示して、後半で主な要素の深掘りを行なっている。第三章の社会編で行くと、3.1「社会を知る」⇒3.2「課題」⇒3.3「モデル」⇒3.4「配置」の順です。要素としては3.5「中間の存在」、3.6「地域インフラ」、3.7「合意形成」、3.8「サファイア社会」となっている。

 第四章の歴史編では、4.1「民主主義」⇒4.2「国民国家」⇒4.3「歴史認識」⇒4.4「歴史の動き」の順です。要素は4.5「未来方程式」、4.6「歴史哲学」、4.7「大きな循環」です。4.8「市民=超国家」は歴史の流れの分岐点になっている。

 いかに流れから要素を導き出すかです。4.5「未来方程式」は情報共有で変わる世界を描いています。意思の力の世界から存在の力に変わっていきます。方程式の主役は、情報共有です。

 どうして変わるかは、4.6「歴史哲学」で哲学そのものが変わり、4.7「大きな循環」で市民・中間の存在・国・超国家の縦の循環が変わっていきます。その最終形は両端の市民と超国家がつながルのです。

 だから、方程式なんでしょう。歴史の目的を「自由と平等(平和)」を両立させることとしています。個人から発するものが歴史哲学です。大きな循環は、仕事で得たサファイア循環を縦の関係に変えています。歴史は時空間を扱っているので。

「市民=超国家」と「存在と無」は同値

 最後の「市民=超国家」は唐突のように思えるけど、これは私の出発点と同値です。「存在と無」という、「あるものとないもの」、数学では「0と1」が自分の中に同居している、これは宇宙的な感覚です。だから、ローカルでの市民と超国家がつながっていてもいいし、つながっていない方がおかしい。それをゆっくりと説明するのが、未唯宇宙の目的かもしれない。

Iさんのどや顔

 Iさんのブラックエプロンが戻ってくるのは、12月みたいです。その頃になったら、三つ星★★★のどや顔を見に行きましょう。12月だとちょっと、空きすぎです。10月末に打診しましょう。とぼけて、「ブラックが来ましたか」をメール送信。

歴史考察の競争相手

 歴史のシナリオのところは、競争相手が多いみたいです。民主主義を脅かす、グローバル化と多様化。民主主義がどう変わっていくかに関心を持つ人が多い。様々な見識を活用して、ここでの答は、出していきましょう。私の場合は数学モデルで大きく捉えているので、揺らぐことができます。

未唯宇宙をまとめる理由

 未唯宇宙をまとめているのは、他者にアピールするのではなく、内なる歴史で、それしかないのかの確認です。これも全てを知りたいの一部です。

 そう考えると、全てを知るというのはきついですね。全てを知っているつもりぐらいが丁度いいかもしれない。
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OCR化した7冊

『あなたの常識を論破する経済学』

 不平等な結果を招いた統一通貨ユーロの誤算

 ユーロ・バブルの崩壊
  ユーロ加盟で発生したスペインの不動産バブル
  日本と同じ「緊縮財政&インフレ嫌悪」の構造

 ブレグジットが及ぼす影響
  イギリスがEU離脱を選択
  「移民問題」で国民が分断された
  ユーロ・グローバリズムの失敗
  国民を貧しくするグローバリズムとは

 キプロス危機でEU・ユーロの弱点が明らかに
  同一通貨でも異なってしまった価値
  キプロス金融立国の終焉

 生産性の差を補えないユーロ
  噴出した「中途半端な国家」の弊害
  国家間の所得移転ができず格差が拡大

 ギリシャ政府と経世済民
  失業とは究極的には「飢え」の問題
  過激政党が民衆の支持を伸ばす

 ユーロの本当の狙い
  金融政策の手足を縛るシステム
  規制緩和で得をする「1%所得者層」

 財政均衡主義という魔物
  インフラ整備ができなくなったドイツ
  「経世済民」よりルールが優先する異様さ

 ドイツの財政均衡を読み解く
  誰かが貯蓄を増やせば誰かが貯蓄を減らす
  日本には不可能なドイツの離れ業

『いま世界の哲学者が考えていること』

 実在論的転回とは何か
  21世紀の時代精神とは
  人間の消滅以後の世界をどう理解するか
  「新実在論」とドイツ的な「精神」の復活?

 人類史を変える二つの「革命」

 資本主義が生む格差は問題か
  「近代」が終わっても資本主義は終わらない?
  「ピケティ現象」の意味するもの
  格差は経済ではなく政治問題
  格差は本当に悪なのか

 グローバル化は人々を国民国家から解放するか
  21世紀の〈帝国〉とは何を指すのか
  アメリカ「帝国」の終焉
  グローバリゼーションのトリレンマ

 環境保護論の歴史的地位とは
  リスク社会の到来
  ポストモダン化する環境哲学
  終末論を超えて
  地球温暖化対策の優先順位は?
  「環境問題」を21世紀に問い直す

『ピアニストは語る』

 演奏の神秘

 作曲家との対話

 自分自身の音

 私の音楽的変容

 テンポとは

 物事は起こるがままに

 ピアノという楽器

 創造性をめぐって

『儲かる五輪』

 ギリシャ五輪
  ギリシャは五輪で没落した?
  労働者人口の四人に一人が公務員
  同一通貨を使用するための条件
  アテネの五輪廃墟は何を意味するか
  先進国以外でのオリンピック開催は無理

 五輪で伸びるシェアリング・エコノミー
  ITによる新しいシェア
  規制が緩和される方向ヘ
  民泊をやるうえでのハードル
  ライドシェアが認められるケース
  認められるのは「助け合い」のみ
  タクシー業の認可は難しい
  選択肢を増やすことが利用者のメリット

 「当事者意識」で儲ける
  世界は緊密につながっている
  時代を象徴するシェアリング・エコノミー
  低成長時代の社会のあり方とは

『海軍反省会9』

 専任の情報参謀を置かなかった海軍主脳の見識

 日米の情報

 情報戦の反省はいまだ活かされていない

 米・英・ソの情報組織

 どんな暗号も活かすのは人間次第

 暗号に対する理解なくしては運用はできない

 ソ連の現状の報告

 歴史に学び、今度こそ情報重視の体制を

 新鮮な情報を、小まめに伝えることの重要性

 「大局観」の罠--生の情報と「歴史」を繋げる専門性

 現場の報告を追い返すようなエリート意識

 大事な情報まで隠せば国を誤らせる

『情報資源組織演習』

 NDC・0類(総記)の分類法

 NDC・1類(哲学・心理学・宗教)の分類法

 NDC・2類(歴史・伝記・地理)の分類法

 NDC・3類(社会科学)の分類法

 NDC・4類(自然科学・医学・薬学)の分類法

 NDC・5類(技術・工学・生活科学)の分類法

 NDC・6類(産業)の分類法

 NDC・7類(芸術・スポーツ)の分類法

 NDC・8類(言語)の分類法

 NDC・9類(文学)の分類法

『イスラーム百科』

 ムハンマド
  イスラーム以前のアラビア
  地理
  政体と社会
  信仰と宗教
  アラビアのユダヤ教徒とキリスト教徒
  ムハンマドの生涯--ムスリムの伝承から
  生誕と幼年期
  啓示と迫害
  初期マディーナ時代 622-26年
  ウンマの強化 626-630年
  ムハンマドの晩年 630 832年

 信仰
  イスラームの第1の柱--信仰告白(シャハーダ)
  イスラームの第2の柱--礼拝(サラート)
  イスラームの第3の柱--喜捨(ザカート)
  イスラームの第4の柱--断食(サウム)
  イスラームの第5の柱--巡礼(ハッジ)
   ムスリムの巡礼は、マッカときりはなすことができない。マッカが預言者ムハンマドの生地であり、イスラームの中心都市でもあるからだ。イスラームの儀礼と想像力を組織化したこのマッカは、信者たちが預言者やマッカに、さらに信仰と家族のネットワークをとおして互いにむすびつく、世界的なコミュニティを形作る結節点ともなった。ムスリムであるということは、毎日マッカを向いて5回礼拝をおこなう同宗者たちとつながることでもある。そのマッカは、毎年イスラームの第5の柱である大巡礼、すなわちハッジをおこなう何百万ものムスリムを世界中から引きよせている。
   ハッジは、ズー・アルヒッジャ[巡礼月、イスラーム暦第12月]に行われる[8日から10日まで]。目的地はいうまでもなくマッカの大モスク(マスジド・フル・ハラーム)だが、付随的にミナーとアラファト山、そしてそのあいだにあるムズダリファ[ジャマラートの投石用の小石集積場所]も巡礼地である。この巡礼の規定はクルアーンにもとづく。「そして誰でもここまで旅して来る能XJがある限り、この聖殿に巡礼することは、人間としてアッラーに対する(神窄な)義務であるぞ」(3・97)

 多様性
  多様な背景
  スンナ派の登場
  シーア派の台頭--アリーの役割
  ハサンのイマーム座
  フサインのイマーム座
  シーア派の分裂
  シーア派の法
  イラン・イスラーム共和国一一近代国家のイデオロギーとしての十二イマーム派
  今日のシーア派
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シーア派の台頭--アリーの役割

『イスラーム百科』より 多様性 シーア派の台頭

シーア派の台頭--アリーの役割

 前述したように、シーア派と他のムスリム集同をおもに分けるのは教義上の問題、すなわちムハンマド一族の系譜にっらなり、イマームと呼ばれる子孫たちに生まれながらにあたえられるカリスマ的な権威(イマーマ)をめぐる問題である。シーア派にとって、この問題はムハンマドの存命中に始まっている。彼らの見方によれば、ムハンマドは自分の後継者として従弟で娘ファーティマの婿、そして孫のハサンとフサインの父親アリー・イブン・アビー・ターリブを指名したという。アリーはそのきわだった資質によって、シーア派のみならず、全ムスリムからたたえられ、敬われたという。彼はシーア派の信仰や教義のなかで特別な位置を占めており、事実、シーア派を意味するShT'iteやShT'a、シーア派に属する人々を指すShT'Tといった表記は、すべてイスラーム史の最初期にできた表現、つまり[アリ一派](Shi'at'All)に由来するのだ。

 だが、アリーがムスリム共同体のカリフとなるには、ムハンマドの死から24年待たなければならなかった。彼が656年にその座に着くまえには、3人がカリフの任にあった。アリーのカリフ在任期間は短かったが、その期間はかなり混乱しており、ムスリム同士の2度の有名な戦い、すなわちラクダの戦い(656年)とスィッフィーンの戦い(657年)が起きている。そして661年1月、イラクのクーファにあるモスクで殺害され、彼のカリフ位は終わった。だが、シーア派にとって、こうした話はイスラームに対する真の神意を表わすものではない。彼らの考えでは、アリーこそが最初からウンマの指導者になるべきだったという。では、いかにしてアリーはシーア派の宗教的な伝統において、これほどまでに重要な役割をになうようになったのだろうか。なぜシーア派は、アリーが預言者ムハンマドの正統な後継者であり、ムスリム共同体の指導者だと信じているのか。

 シーア派は一連の出来事を次のように語る--。ムハンマドは妻アーイシャの家で他界した。それは誕生してまもないムスリム共同体にとって悲劇的・破壊的な打撃となった。すでに少しふれておいたが、ムハンマドは息子ふたりに先立たれていた。では、だれがコミュニティを指導するのか。これが緊急の課題だった。ムハンマドの後を継ぐのにもっともふさわしいのがアリーだとする主張は、きわめて印象的なものだった。幼くして孤児になったムハンマドは、アリーの父親である叔父のアブー・ターリブに育てられる。やがてアリーは最初のイスラーム信者のひとりとなった。ムハンマドの伝記編纂者のイブン・ヒシャームは、アリーが最初のイスラームを受け入れた男性だったとしている。ムハンマドがマッカからマディーナヘヒジュラ(聖遷)を敢行したさい、アリーは預言者の代わりにマッカに残り、危険を顧みずにムハンマドのベッドで寝ていたという。のちにマディーナでムスリム共同体がつくられると、彼はムハンマドの娘ファーティマと結婚する。伝承によれば、軍事的才能と勇気の持ち主だったアリーは、パドルの戦いで、敵軍の3分の1を片手で殺したとされる。ウフドとフナインのあいつぐ戦いでは、ムハンマドを守り、ハイバルの戦いでは、鉄扉を盾代わりにもちいたともいう。さらに彼は、ムハンマドの代わりに重要な任務をまっとうし、ときにはムハンマドの書記役もつとめた。ムハンマドがマッカ市民と結んだフダイビーヤの和議[628年。フダイビーヤはマッカ郊外の地]では、彼が和議書を草し、631年には、ムハンマドからミナー巡礼者たちに対するクルアーン第9章の朗誦と、マッカにある偶像の破壊を命じられている。

 アリーの一族的な結びっきや敬虔かつ勇気のある行動は、スンナ派とシーア派双方から崇めているが、後者はさらにそれを一歩進め、632年3月16日のエピソードについて次のよ引こ語る。ムハンマドがマッカヘのハッジ(別離の巡礼)から戻ったこの日、ガディール・フンムの池のほとりで立ちどまり、鞍で説教壇を設けた。そして、アリーの腕をとって自分の脇に立たせ、彼が自分の後継者であり、ムスリム共同体の指導者になるだろうと宣言して、こう言ったという。「諸君、分かってほしい。アリーと私の関係は、アーロンとモーセの関係と同じだということを。ただ、わたしのあとに預言者は現われないだろう。私の亡きあと、アリーが諸君のワリー(守護者)[聖者とも。クルアーンでは「神の友、親しい友人」]となる。だれであれ、わたしをマウラー(主人)[保護者・被護者]とする者には、アリーがウムラーとなる]

 この伝承は、スンナ派によるアリー崇拝の中核となっており、イマーム制に対する同派の教義的なかなめでもある。こうして同派はワリーという語をアリーと関連づけて解釈し、彼がコミュニティの守護者であり、ムハンマドの後継者として明確に指名された唯一の存在だとする。ほとんどのシーア派によれば、スンナ派の歴史解釈における最初のカリフ3人--アブー・バクル、ウマル、ウスマーンー-は、簒奪者だったという。ムハンマドの知識を受けつぎ、それをムスリムの信者たちに解きあかしたのが、ほかならぬアリーだったというのである。

 こうしたアリーの説教や手紙、格言などは、11世紀にシャリフ・アッ=ラディ[970―10150バグダード生まれのシーア派学者・詩人]が編んだ、大著『ナフジュル・バラーガ(雄弁の道)』にまとめられている。シーア派にとって、アリーはムハンマドにつぐ人物であり、純潔で神に導かれ、誤ることのない信仰の持ち主だった。最後の審判の日へいたる道を歩む人々のとりなしをおこなおうともした。数多くの奇跡的な偉業を帰せられた彼はまた、ムスリムのカリグラフィーではライオンとしてしめされている。

 シーア派はアリーに対する崇拝を公にしているが、ムスリムが可能なら生涯1度はおこなうべきとされるマッカ巡礼と同様、バグダードの170キロメートル南に位置する都市ナジャフ[クーファ南西郊にあり、刺殺されたアワーの遺体埋葬地]に、敬虔な巡礼[ジヤーラ]をおこなうようすすめている。シーア派にとって、ナジャフはイスラーム第3の聖地とされる。そこにはアリーの霊廟が建っているからである。ムスリムは簡素な墓に埋葬されたムハンマドにならうべきとする勧告にもかかわらず、今日、アリーの霊廟は金箔もまばゆいドームがそびえる壮大さを誇っている。このナジャフヘの巡礼は、ムハンマドの生誕日や他の重要な生誕祭と同様、アリーの誕生日と命日におこなうようとくにすすめられる。シーア派は、イスラームの真の知識がアリーと彼の子孫たち、つまり同派のイマームたちに対する崇敬からのみえられると考えている。ムハンマドの精神がいわば彼らに及んでいるとするのだ。ここで注目したいのは、シーア派のモスクから礼拝の呼びかけ[アザーン]がなされると、スンナ派の唱言の最後に、さらに「そしてアリーは神の友(フリー・アッラー)」という文言が追加されているということである。もしムスリムの訪問者が見知らぬ町に来て、モスクのミナレットからの呼びかけにこの言葉が入っているのを聞けば、そこがシーア派の地であることをただちに理解するだろう。

今日のシーア派

 さまざまなイスラーム宗団につけられた教義的なラペルは、慎重に扱う必要がある。くりかえすようだが、十二イマーム派は世界のシーア派のなかで最大規模の信者数をもっており、今日シーア派といえば通常は彼らをさすまでになっている。だが、いうまでもなく彼らだけがシーア派なのではない。前述したように、ザイド派やイスマーイール派もまたシーア派であり、さらにより少数の宗団もある。これら小宗団のうち、もっとも知られていない宗団のひとつがアラウィー派だが、じつは2011年以降、シリア内戦のニュースでしばしば登場するのが同派なのである。

 これもすでにみておいたが、スンナ派とシーア派との主たる亀裂因は、もともとはだれがムスリム共同体を指導するかの解釈のちがいにあった。しかし、シーア派はその分裂過程においても、救済史や重要な暦日、追悼儀礼、霊廟、ハディース集成書、さらにイスラーム法の定式化などを独自に発展させた。

 では、シーア派とスンナ派とは何か異なるのか。この問いに対する多くの非ムスリムの答えはあまりにも漠然としており、正確ともいえない。こうした理解不足は政治問題についてもみてとれる。たとえば2006年のニューヨーク・タイムズ紙で、ジエフ・スタイン[1944生。コラムニスト・ノンフィクション作家]は、ワシントンの高官たちがこの問題について著しく無知・無関心であることを暴露している。彼の一文を引用していえば、CIAによるムスリムのスパイ補充や情報分析活動を分析する、下院情報小委員会の委員長をっとめていたある共和党女性議員は、スンナ派とシーア派の違いを知っているかと質問された。そして、アルカーイダ[主体はスンナ派]の指導者がどの派に従っているのかを尋ねられて、こう答えたという。「アルカーイダはもっとも過激派です。それゆえスンナ派では…。まちがっているかもしれません。でも、わたしは正しいと思います]。こうした宗教的リテラシーは今日の重要な問題といえる。それが強大な力をもつ者たちにみられる場合はとくにそうである。

 シーア派は伝統的に自分たちを、世界中でしいたげられている恵まれない数[与万人の訴えを支持する存在だと考えてきた。専制君主や貧者を搾取する者たちと戦ってきたからである。フサインの話はこの信念によく合っている。彼は沿しみを味わい、暴君に対して立ち上がろうとする人々にとっての象徴的な人物だった。シーア派の祝祭にみられる極端なまでの感情的な高揚は、参加者だちの先祖がたえしのばなければならなかった迫害の記憶と、世界の戦争で破壊された地域におけるシーア派とスンナ派のあいだの、今も続く緊張感によって増幅されている。

 今日、シーア派イスラームは世界的な現象となっている。その活力の源泉は、まちがいなくこれからも続くであろう多様性にある。シーア派の信者たちは中東のムスリム多数派の国々だけでなく、世界各地のコミュニティに住みながら、彼ら独自の特性や実践を守っている。政治的な大変動や経済的な諸問題によって大規模な移住を余儀なくされたシーア派のコミュニティは、ロサンゼルスやトロント、ロンドンなど、広域に拡散しながら発展をとげ、今ではインターネットやメディアのおかげで、彼ら同士の世界を横断してのコミュニケーションが容易になっている。これら移住者と故郷とのむすびつきは、とくに非ムスリムが圧倒的に多い遠方の地で、信者たちがいかに生活するかを指導するマルジャー[マルジャー・アッ=タクリードとも。字義は「習従の源泉、模倣の鏡」]--中東におけるシーア派イスラーム法の最高権威--の支援によって維持されている。

 宗派間の対立が続いたあと、何世紀にもわたって中東のスンナ派とシーア派はむしろ協調的に共存した。だが、21世紀初頭のいわゆる「アラブの春」の余波によるさまざまな変革によって、両宗派のかっての対立があらためてかきたてられ、その結果、平和と宗教的協調の可能性は悲劇的に遠のいたように思える。しかし、視野を広げて世界全体のムスリムをみれば、あきらかに両派の信者たちはさらなる分裂より統合へと向かっているといる。そして将来、そうした動きが確固たる希望の土台を築くはずである。
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イスラームの第1の柱--信仰告白(シャハーダ)

『イスラーム百科』より

信仰告白は宗教コミュニティの宗規にのっとった信条形式で、イスラームの弟1かつ最重要な柱である。そこでは次の文言が唱えられる。「アッラーのほかに神はない。ムハンマドは神の使徒(ラスル・アッラー)である」。この証言は、神に服従してイスラームヘの改宗を望む者が、証人の前で3度声を上げてくりかえす。また、すべてのムスリムはシャハーダを唱えてから、日々の祈りをばしめる。

シャハーダは単純かつ短い唱言であり、2つの部分からなる。最初の唱言である「アッラーのほかに神はない」は、純粋で妥協を許さない--神教の表明である。このメッセージはムハンマドがなおも多神教徒[ムシュリク]が多かったアラビア半島の同胞たちと、キリスト教徒たちに向けられたものである。ィスラームでは、唯一神だけがもっているものになんらかの実体ないし人物があやかると主張することは、呪うべき罪とされる。この罪はアラビア語でシルクと呼ばれる。こうした主張をおこなったのは、「アッラーの娘たち」として知られ、ムハンマドの宣教時にカアバ神殿で崇拝されていた、マッカの3女神を信奉する異教のアラブ人たちである。さらに、「アッラーのほかに神はない」という唱言はまた、キリスト教の教義である聖三位一体とイエスの神性に対する強力な挑戦でもある。

一方、シャハーダの後半部「ムハンマドは神の使徒である」は、ムハンマドの預言者としての地位、すなわち神の使徒であることを確認・有効化するものである。アラビア半島の母国では、自らが神から授かった啓示を伝える真の預言者であるというムハンマドの主張は、異教の同胞たちから非難され、一笑に付された。かろうじてアラビアのわずかなユダヤ人だけが、ムハンマドが説教を通じて伝えたメッセージを受け入れようとしたにすぎなかった。彼の死後、キリスト教徒たちもまた彼が預言者であるとする主張を疑った。今日、一部のキリスト教徒は、たしかにシャハーダの前半部で示される一神教を支持しているものの、一般のキリスト教徒は、シャハーダ後半部で表明されているようなムハンマドの位置づけを受け入れない。それでも世界中で16億人近くいるムスリムは、祈りのさいに、ムハンマドが神の使徒であるとする信仰を確認しているのである。

神が唯一の存在であるということ(タウヒード)は、イスラームのもっとも重要な考えである。それゆえ、クルアーンはイエスに神性をあたえることは由々しき罪だと非難している。

 これ啓典の民(キリスト教徒)よ、汝ら、宗教上のことで度を過してはならぬぞ。アッラーに関しては真理ならぬことを-ことも言うてはならぬぞ。よくきけ、救主イーサー(イエス)、マルヤム(マリア)の息子はただのアッラーの使徒であるにすぎぬ。また、(アッラー)がマルヤムに託された御言葉であり、(アッラー)から発した霊力にすぎぬ。されば汝ら、アッラーとその(遣わした給うた)イ吏徒たちを信ぜよ。決して「三」などと言うてはならぬぞ(三位一体の否定)。差し控えよ。その方が身のためにもなる。アッラーはただ独りの神によしますぞ。ああ勿体ない。神に息子があるとは何事ぞ。天にあるもの地にあるものすべてを所有し給うお方ではないか。イ呆護者はアッラー独りで沢山ではないか(4・171)。

イスラームは、この神の唯一性という中心的な教義をユダヤ教と共有している。伝承にあるように、神がシナイ山でモーセに啓示として授けた最初の十戒は、まさにこのメッセージだった。「お前はわたしのほかに何ものをも神としてはならない」(旧約聖書『出エジプト記』20・ 3)。クルアーンで神の唯一性を説いた重要な章は、第112章「信仰ただひと筋」である。そこにはこう記されている。

 告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、

 もろ人の依りまっるアッラーぞ。

 子もなく親もなく、

 ならぶ者なき御神ぞ」(112・1-4)。

シャハーダの核である「アッラーのほかに神はない」という唱言は、アラビア語の碑文にもっとも数多く頻出している。それはモスクの礼拝室にもみられ、さらに多くの国では、ムスリム王朝が発行した鋳貨にも刻まれている。こうしてこの唱言はムスリム共同体に広まり、人生における神の役割をたえず喚起しているのだ。

ムスリムの学者たちは何世紀にもわたってシャハーダの根本的なメッセージ今吟味し、ムスリム共同体にそのより深い意味を説きながら、より広範な信条丈を占いてきた。たとえばガザーリーによれば、「神は本質において唯一者であり、パートナーをもたず、ただひとりで、類似者はなく、不滅で、敵対者もいず、匹敵する者もいない。(…)神は最初であり、最後でもある/)という。ガザーリーはまたシャハーダの前半と後半部が一緒に唱えられなければならないと強調してもいる。つまり、シャハーダは(使徒の証人による〈ムハンマドは神の使徒である〉という唱言を伴わないかぎり、不完全かつ脆弱なものだというのだ。

シャハーダの質的な重要性については、15世紀にガザーリーのイランから遠く離れたアルジェリアで活動していた、ムスリム学者のムハンマド・イブン・ユースフ・アッ=サヌースィ [1435? -90]が、雄弁かつ熱情をこめて以ドのようにまとめている。

 啓示によってシャハーダは心の中にあるイスラームの表現となっており、それをタトれてはだれであれその信仰を受け入れられない。それゆえ、理性的な人間はしばしばシャハーダを想い起こして、そこに含まれる信仰箇条を心に刻まなければならない。そうすることによって、これらの信仰箇条とその意味が肉と血にまざりあうのだ。そして神が望むなら、彼(信者)はそれらのうちに際限のない神秘と驚異を見るだろう。

アッ=サヌースイはまた、次の点も明確にしている。すなわち、ムスリムがシャハーダの後半部を唱えれば、その文言が、初期の預言者たちに対する信頼や彼らが説いた内容を要約していることに気づくはずだ、と。[ムハンマドがそうしたすべての真実を確認するために登場しているからである]。そういうのだ。

では、いかにしてシャハーダを実行するか。すべてのムスリムは真摯な心がまえをもち、意味を適切に理解しながら、それを正確に記憶し、声を出して唱えなければならない。理想的には、ムスリムは毎日そして生涯を通じてシャハーダを唱え、自らの経験をとおしてシャハーダの重要性を確認・深化させなければならない。それが場所と時間を問わず、つねに力と有効|生をもっているからである。さらにシャハーダは、人間がいつわりの神を敬ったりせず、ひたすら唯一神と向きあうよう後おしもする。クルアーンはそれについてこう言明している。[アッラー、此の生ける神、永遠の神をおいて他に神はない](2・255)。一神教としてたしかにイスラームは厳格なものだが、シャハーダはムスリムの日常生活の基盤となる信仰のもっとも大切な枠組みを表現し、要約しているのである。この教義はイスラームの柱の他のすべてをつらぬいている。
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