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蘭世はなぜ、選抜されなかったのか

コインランドリーを場にする

 一杯30円のネスカフェバリスタをコインランドリーに置く、ゲーセンに置く。ついでにピザの宅配専用ラインを作る。コンビニの100円よりもインパクトがある。

 一家に一台洗濯機があるよりも、大きなランドリーをシェアする方がシェア社会に向いている。冷蔵庫の代わりのコンビニ。布団回想記も所有するよりもシェア。図書館がシェアだから、可能だし、必然でしょう。一番大きな無駄である、車の所有まで、展開していけば、人類の先が見えてくる。

宗教は他者の存在が前提

 キリストは神への愛の次に隣人への愛を述べている。つまり、隣人という他者の存在を前提としている。

乃木坂二期生寺田蘭世

 蘭世が宣言しました。戦うための選抜に向けて。なぜ、蘭世を選抜しなかったのか、なぜ、新内にしたのか。アンダーライブのセンターが足りなかったから、最後の最後に変わったんでしょう。新内はムリだし、ヒナチマはマリッカと小百合がいてこそ。単独背センターができるのは蘭世のに。

 ましてや、今後の三期生を考えたんでしょう。つまり、大人の事情ってやつです。

 握手会で5部を取っていて、選抜でないのは、蘭世だけです。ファンの獲得数では群を抜いています。アッシュに似た、あの感性を好む若者は多い。

 運営が考えているのは、Xmasショーで蘭世を去年のひめたんのように出すことです。。それで人気を確認したところで、次を考えるという算段でしょう。

 アンダーライブのことを言われるとイヤな思いになる。こんな単純なことを言えた女性は居なかった。今日の個握の生誕祭で、素直な思いをブログに出すと宣言したみたいです。もう、秋元とか運営の範囲を超えています。

宗教の共同体

 初期キリスト教の共同体は誰がどのような意図で作り上げたのかわからない。それに比べて、ムハンマドは最初から共同体を、それも境界を越えた共同体を作り上げた。

 どういう共同体を作ったらいいのかの中に蘭世が入り込んでいた。二期生のモンスターは多分、蘭世でしょう。一期生は生ちゃんと飛鳥ですね。
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農本主義 資本主義が終わっても心配することはない

『農本主義のすすめ』より 資本主義の限界--反経済の思想 資本主義への違和感 なぜ農は資本主義に合わないのか 人間は経済で生きているのではない

・資本主義の行き詰まり

 ここに来て、資本主義の行き詰まりが外からの視点で次々と明らかになっています。農に関してのみ、私が考える問題点を列挙してみましょう。

 ①働き手が激減しています。

  もちろんこれは人口のように「自然減」ではなく、農業の近代化によって「離農」が促進された成果です。ところが担い手不足は深刻で、「無人トラクター」の研究に税金が投入されているのですから笑ってしまいます。大規模化して生産性をあげないと後れをとると説く資本主義的な経済学ではこうなるのは見えていたはずです。

 ②共同体でかろうじて守られています。

  農家が集まって共同経営する「集落営農」という形態が勧められていますが、コストを下げるために組織したところはうまくいっていません。うまくいっているのは、地域を守ろうとする愛郷心(パトリオテきスム)によって、一人一人の百姓が手入れを分担している組織です。つまり資本主義的な尺度ではなく、天地有情の共同体への情愛で支えられている集落営農は頑張っています。

 ③イノベーション(技術革新)は限界です。

  低コスト、労働時間の短縮を目指してきた近代化技術の技術革新は限界です。とっくに天地自然は傷ついて悲鳴をあげているのに、鈍感な専門家だけが、まだまだイノベーションはできると意気込んでいますが、もう危険領域です。たとえば無人トラクターはトラクターに労賃を払うつもりでしょうか(機械代として支払い済みだと言うでしざっ)。あるいはトラクターに天地自然に没入する喜びを感知するAIを装備するつもりなのでしょうか(科学の進歩でそれも可能だと言うでしょう)。

 ④天地自然の悲鳴がとどろいている。

  東日本の秋空に群舞した赤とんぼ(秋茜)が激減しています。がっては東京駅の前でも飛んでいたのに、近年では見られないようです。西日本の赤とんぼの大多数を占める精霊とんぼ(薄羽黄とんぼ・盆とんぼ)は毎年東南アジアから飛来して田んぼで産卵しますが、飛来数が毎年とても不安定になっています。福岡県では、殿様蛙も薔蛙も赤蛙も、赤腹井守も田螺もどじょうも、源五郎も田亀も太鼓打ちも、絶滅危惧種です。絶滅危惧種ではありませんが、雀も目高も平家ボタルも激減しています。

  あれほど、どこでも見かけた生きものが姿を消そうとしているのです。「それは生態系保全の課題であって、農業経済の課題ではありません」と言い放つ経済学者には唖然とします。

 ⑤所得はもういい。

  日本政府が農業の「所得倍増」というスローガンを言い出したのには、驚きました。所得を増やそう、経済効率を追求しょうとこれまでやって来た結果が、荒れ放題の田畑や山や風景や生きものたちの姿なのだから、これからの政策は経済価値の追求ではなく、非経済価値をどのように評価して、国民のタカラモノにするかという政策を構想・立案しなくてはなりません。ようするに内からのまなざしが決定的に欠けているのです。

  経済学も、非経済価値を「外部経済」として把握しようと必死になっています。把握できて、金額で評価できるところはやふてほしいと願いますが、し上せん経済では把握も評価もできない世界が多いのは目に見えています。少なくともそれはどういう世界なのかを明らかにする経済学もあっていいでしきっ。その点では、ヨーロッパの農業政策には見るべきものがあります。

  大雑把に言うと、EU諸国の百姓の所得の三分の二は、税金で賄われています。それは「日本農業は過保護だ」というょうな見方を覆すばかりか、そのょうな過保護か過保護でないかというような議論を根底から否定するものです。農の経済価値ではない、自然環境や風景や国防の役割を評価しても、その対価は市場では得られないから、住民の公的な負担(税金)で支えようとする政策が実施されているのです。

 ⑥地域がもたない。

  資本主義の先進国でも、日本のように田舎の過疎化が激しい国はありません。それなのになぜ日本だけが、人口が都市に集中したのでしーっか。理由は二つあるような気がします。

  一つめは、早く資本主義の先進国に追いつくために、経済価値のないものを踏み台にしたからです。自然環境をタダどりできたからこそ、戦後の高度経済成長は実現できたことは明白です。多くの農地や里山がエ場用地や住宅地、近年では大型のショッピング街に転用されたことを見ればいいでしざっ。土地代は支払い済みでしょうが、開発で失われた天地自然のめぐみは賠償されないままです。

  二つめは、非経済価値をきちんと評価する政治と価値観を形成しようとしませんでした。風景や自然環境はタダのまま過ぎてきました。EUのように風景や自然環境に対して、対価を払う「環境支払い」という農業政策が遅れているのは、その証拠です。

  現代日本の村は、非経済価値のタカラモノがどんどん滅んでいっています。

 ⑦非経済価値を表現できない。

  農業の語り方は、資本主義的になりすぎました。圧倒的に社会を覆う「経済」にすり寄った外側からの語り方が主流になっています。日本農業の生産額は八兆円、しかし農家の手取りは三兆円。稲作の労働時間は一〇アール当たり二五時間で、三〇年前の四割に削減できた。水田の農業粗収益は八万円だが、経営費が六万円だから、農業所得は二万円二〇アール)である、というような語り方です。

  経済至上主義に対抗するためには、非経済価値を心を込めて語らなければなりませんが、せいぜい「多面的機能」という借り物の用語で語る程度です。本気で内からのまなざしで、今年は赤とんぼいっぱい生まれたよ、平家ボタルが増えてきたよ、田んぼを渡る風はとても涼しいよ、と語って聞かせる時代になっているのに、対応できていません。

  百姓はまだまだ経済で語れば、経済で反論されることに懲りていません。百姓たちのTPP反対運動が、ほんとうに共感を得られていない理由は、国内では経済競争しても外国とは経済競争したくないという論理の破綻があるからでしざっ。農は資本主義に合わないことをしっかり表現してこそ共感の輪は広がるのです。

・資本主義が終わった後

 高度に発達した資本主義が、仮に大混乱の中で終わったとしても、たしかに投資している人は大損害を被るでしょうし、金融経済などは消滅するでしょうが、実体経済の市場はなくなることはないでしょう。範囲を狭めながらも地域に根ざして機能するようになるはずです。

 農にとっては、資本主義の終焉は歓迎したいことがいっぱいあります。いくつか大事なものを列挙してみましょう。

 ①自給経済の復活。食料だけでなく、商店、職人などの仕事、エネルギーなどの地域自給が本格的に戻って来ます。

 ②市場は、小さく分割され、地域に根ざしたものになる。

 ③生産性の追求は過去のものとなり、効率よりも生産の内実が評価される。

 ④産地間競争は終わり、地域自給を土台とした狭い範囲の流通が主流になる。

 ⑤「農政」は地域に移され、国の農政は、非経済価値を増やすコーディネーターに変身する。

 ⑥農業技術は生産性よりも、天地自然(環境)への貢献を目的にしたものへ大転換する。

 ⑦農学は、社会の土台を構想するものへと変革され、百姓や住民の参画したものに成熟する。

 ⑧農産物価格は、百姓がゆったりと天然自然を守っていく仕事をすることを補償する価格になる。

 ⑨百姓のなり手が増え、過疎地は解消され、村は魅力的な空間になる。

 ⑩百姓の、天地自然に抱きかかえられて生きていくライフスタイルが再評価され時代の主流になる。

 ⑪荒れていた田畑や山野はよく手入れされるようになり、美しい風景の村が復活し、国土も輝いていく。

 ⑫天地自然そのものが、安堵するにちがいありません。生きものたちは時流の変化に神経をとがらせることもなくなり、安心して生きるようになります。

 もうこれくらいにしておきます。私は資本主義が早晩終わるという見方のほうが説得力があるように感じます。しかし、資本主義が終わろうと終わるまいと、資本主義から片足出して、現代を生き抜くことが重要ではないでしざっか。それは、ポスト資本主義に備えるという以上に、資本主義を早く終わらせる生き方になるからです。
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ロシアの未来について

『セカンドハンドの時間』より 街の喧騒と台所の会話から(二〇〇二-二〇一二)

一二○年前、ドストエフスキイは『カラマーゾフの兄弟』を書き終えました。彼はそこに永遠の「ロシアの少年たち」を書いたのです。少年たちがいつも論じあっているのは、「世界問題として、神はあるのか、不死はあるのかということだけ。神の存在を信じていない連中は、社会主義だの無政府主義だの、新しい構成による全人類の改造だのについて話しはじめるんだから、行きつくところはおなじ、ただ反対側からというだけで、おなじ問題をしゃべっているんだからね」。

革命の幽霊がふたたびロシアを徘徊しています。二〇一一年一二月一〇日、ボロートナヤ広場で一〇万人もの集会。それ以来、抗議行動はやむことがありません。今日、「ロシアの少年たち」はなんについて論じているのでしょうか。こんどはなにを選ぶのでしょうか。

ぼくは集会に行ってるんだ。ぼくらがマヌケだと思われるのはもうまっぴらだから。悪党ども、選挙を返せよ! 第一回目に、ボロートナヤ広場には一〇万人も集まって、まさかこんなに大勢がくるとはだれも思っていなかった。ぼくらはがまんにがまんを重ねていたが、ある瞬間、ウソとムチャクチャ状態が度を越してしまった。もう、たくさんだよ! みながニュース番組を見るか、インターネットでニュースを読んでいる。政治の話をしている。反対派でいることがカッコよくなった。でも、ぼくは心配してる……。ぼくら全員が口先だけの人間じゃないかと心配なんだ。ぼくらは広場に立って、どなって、そして自分のパソコンにもどって、ネットにひたりっぱなし。残るのはひとつだけだろう「仲間とじつにすてきな交流をした!」って。ぼくはすでにこんな経験をした。つぎの集会までにプラカードを描いて、ビラをまかなくてはならなかった。みんなさっさと消えちゃったんですよ。

以前わたしは政治に縁がなかったの。仕事も家庭も充ち足りていて、街頭を歩くなんて意味がないって思ってた。小事を尊ぶ理論のほうにひかれていたんです。ホスピスで働いていて、夏にモスクワ郊外で森林火災があったとき、焼けだされた人たちに食料や物資をとどけていました。いろんな経験をした……。母のほうは、四六時中テレビにかじりついていた。ウソやチェキストの過去を持った盗人たちに頭にきちゃったらしくて、テレビで見たことをわたしに話してくれた。わたしたちは第一回目の集会にいっしょに行ったんです。母は七五歳で、女優です。わたしたち、もしもに備えてお花を買ったの。だって、お花を持ってる人を撃ったりはしないでしょ。

ぼくが生まれたのはもうソ連邦じゃなかった。なにか気にくわないことがあれば、ぼくは街頭に出て抗議する。寝る前に台所でぶっくさいうのじゃなくてね。

ぼくは革命をおそれている……。「ロシアの反乱は思慮もなければ容赦もない」って、知ってるから。しかし、家で身をひそめているのはもう恥ずかしいことだ。ぼくは「新しいソ連邦」も「一新されたソ連邦」も「真のソ連邦」もいらない。「われわれふたりで考えて決めた。きょうは彼が大統領、あしたはわたしだ。ピープルはのんでくれるだろう」なんてのは、納得できないよ。ぼくらは家畜じゃあない、ぼくらは民衆だ。集会には、以前見かけなかった人びとが出てきている。闘いのなかで試練をくぐりぬけた六〇年代人と七〇年代人、そして、多くの大学生。つい最近まで彼らは、あの、ソンビ化箱のなかのことなんてケッと思ってたんだ、ぼくらをだまして信じさせてるんだから……。そして、ミンクのコートのおくさま連中、メルセデスで集会にのりつけたやつら。彼らが最近まで夢中になってたのは、カネ、モノ、快適な生活、しかし、それだけじゃ少なすぎるってことがわかったんだ。それだけじゃもう足りないんです。ぼくみたいに。行進しているのは飢えた人びとではなく、満腹した人びと。プラカードは……大衆の作品だ。「プーチン辞任しろ!」「おれが一票入れたのはこの悪党じゃない、べつの悪党だ!」。ぼくが気に入ったのは「あなたがたはぼくらの代表者でも理解者でもない」というもの。ぼくらは、クレムリンを襲撃して占拠するつもりではなく、ぼくらがなに者なのか、それをうったえたかったんだ。広場を去るとき、シュプレヒコールをくりかえした「またもどってくるぞ」。

わたしはソヴィエト時代の人間で、すべてがこわいの。これが二〇年前なら、わたしはなにがあっても広場に出ていかなかったと思うわ。いま、集会はひとつもさぼりません。サハロフ大通りにも、新アルバート通りにも行ったわ・「白い環」にも参加した。自由であることを学んでいるの。いまのような、ソヴィエト時代のままのわたしで死にたくないから。白分のなかのンヴィエト的なものをバケツですくってすててるの。

集会に行ってるわ、夫が行ってるからよ。

わたしはもう若くない人間だ。プーチンのいないロシアにまた住みたい。

頭にきちゃったんだ、ユダヤ人やチェキストやホモに……

ぼくは左派です。平和的なやりかたではなにも勝ちとれないって、ぼくは信じて疑わない。ぼくは血を渇望している! わが国では血を流さなくちゃ大事はなされない。なんのためにぼくらが街頭に出ているのか。ぼくは立って、クレムリンに攻撃をしかけるのを待っているんです。これはもう遊びじゃない。とっくにクレムリンを占拠すべきだったんですよ、大声をあげて歩きまわるんじゃなくて。農業用フォークとバールを取れって、号令をかけてください。ぼくは待ってるんだ。

ぼくは友人といっしょです……。一七歳です。プーチンについて知ってること、ですか。柔道家で、柔道八段をもっている。うーんと、それぐらいかな、プーチンについて知ってるのは。

わたしはチエ・ゲバラじゃなくて、意気地なしだけど、集会はひとつもさぼらなかったわ。自分が恥ずかしくないと思う国で生きたいの。

わたしはバリケードのなかにいるべき人間、わたしの性格ってこんなの。こんなふうに育てられたから。父はスピタク地震の復旧作業にボランティアで行った。そのせいで早く死んじゃった。心臓まひで。わたしは小さいときから父とではなく、父の写真とくらしてるの。行くか行かないか、それは一人ひとりが自分で決めなければいけないことよ。父は自分で決めて行った……行かないこともできたのに……。友人も、わたしといっしょにボロートナヤ広場に行きたがってたけど、あとで電話がかかってきた「あのね、わたしには小さな子どもがいるの」。わたしにだって老いた母がいるわ。わたしがでかけるとき、母はバリドールをなめている。それでもやっぱりわたしはでかけるの。

子どもたちにわたしのことを誇りに思ってほしいの。

これはぼくにとって自尊心のために必要なんです。

かにかをやろうとしてみなくちゃ。

ぼくは革命が起きると信じている……。革命、これは長くて根気のいる仕事だ。一九〇五年のロシアで最初の革命は失敗と壊滅に終わった。それから一二年後の一九一七年に、帝政をこっぱみじんにふっとばすような爆発が起きたんです。ぼくらにだって自分たちの革命が起きるんですよ!

わたしは集会に行く、あなたはどうする?

ぼく個人は、九一年と……九三年に……へとへとになった。革命なんかもうまっぴらだよ。第一に、革命がビロードなんてのはめったにないし、第二に、ぼくは経験ずみだが、ぼくらが勝ったとしても、九一年の二の舞になるんだ。多幸感は急速に終わるだろう。戦場は戦場どろぼうのものになるだろう。グシンスキイやベレソフスキイ、アブラモーヴィチのような連中がまたでてくるんだよ。

反プーチン集会って、ぼくは反対だよ。運動が起きてるのは基本的に首都なんだ。モスクワとペテルブルグはプーチン反対派を支持しているが、地方はプーチンの味方なんだよ。ぼくらの生活って悪いか?ほんとうに前よりもよくない生活をしてるか? これを失うのはこわいよ。九〇年代にぼくらがさんざん苦労したことは、みんなが覚えてる。またすべてをパーにしちゃって血を流すなんて、だれだってやだよ。

ぼくはプーチン体制の心酔者じゃない。「小皇帝」にはうんざり、ぼくらが望んでいるのは、交代させられる指導者たちだ。変化はもちろん必要、でも、革命は必要ない。それに、アスファルトを警官に投げつけるのも、ぼくは気に入らないんだ。

すべての資金を提供したのはアメリカ国務省だよ。西側の人形使いたちだ。ぼくらは、やつらの筋書き通りに、一度ペレストロイカをやった。で、その結果どうなったか。ぼくらはどん底につき落とされてしまった。ぼくが行くのはこんな集会じゃなくて、プーチン賛成派の集会だ。強いロシアに賛成派の!

この二○年のあいだに状況が一変することが何度かあった。その結果はどう? そのたびにいつものマントラ「プーチン退陣! プーチン退陣!」。ぼくはこの芝居に行かないんです。まあ、プーチンが辞めたとしても、そのあと玉座につくのは、新しい専制君主なんですからね。いままでも盗まれていたが、これからも盗まれるだろう。残るのは、アパートの唾だらけの入り口、みすてられた老人たち、恥知らずの役人連中、あつかましい交通警官……そして、賄賂をわたすのがふつうのことになるんだろう……。ぼくら自身が変わらなければ、政府を変えたってぜんぜん意味ないだろ? ぼくは、わが国の民主主義なんてどんなのも信じていない。東洋の国なんです……。封建制度……。司祭たちがインテリのかわり……

ぼくは群衆がきらいなんです……家畜の群れだ……群衆はなにも決めることができない、決めるのは個人なんだよ。政府は、きわだった個人がうえにいないよう努力した。反政府側には、サハロフもエリツインもいない。「雪」革命は自分たちのヒーローを生みださなかった。綱領はとこ? なにをやろうとしているのか? ちょっとどなりながら、ちょっと歩きまわってる……。あのネムツォフだって……ナヴァリヌイだって……休暇でモルディブやタイに行ったって、ツイッターに書いてるんだよ。パリを楽しんでいるって。想像してみてくださいよ、一九一七年にレーニンがいつものデモのあとでイタリアヘ行ったり、アルプスにスキーに行ったりするのを。

わたしは集会に行かないし、投票にも行かない。幻想はいだいてないの……

あなたたちのほかにもロシアがあるって、知ってるんですか。サハリンまで……。それで、そのロシアは、どんな革命も望んでいないのよ、「オレンダ」のも「バラ」のも「雪」のも。革命なんてもうごめんだわ。祖国をそっとしといてよね。

明日どうなろうと、知ったこっちやないわ……

わたしはいやなの、共産主義者や民族主義者……ネオナチとおなじ行列に入って歩くなんてのはね。あなたたちなら、だぶだぶの服を着て十字架をもったクー・クラックス・クランといっしょに行進できる?そのデモ行進がどんなにすばらしい目的を持っていたとしても、いやだわ。わたしたちが夢みてるロシアって、ちがうのよ。

行かない……。警棒で頭をぶんなぐられるのはこわい……

お祈りをしなくちやいけない、集会に行くんじやなくて。神さまがわたしたちのもとにプーチンをつかわした……

わたしは、窓の外の革命旗が気にくわない。わたしは進化に賛成よ、建設に賛成……

ぼくは行かない……政治ショーに行かないことの言い訳もしない。あんな集会は、安っぽいでっちあげだ。ソルジェニーツィンがおしえてくれたように、ウソに妥協せず、自分で生きなくてはならない。そうしないと、ぼくらは一ミリも進むことができない。ぐるぐるまわってるだけだ。

いまのままでも祖国が好きよ……

ぼくは自分の関心範囲から国を除外したよ。ぽくの優先順位は、家族、友人、そして自分のビジネス。わかるように説明できたかな?

市民のきみ、きみは人民の敵ではないのか?

必ずなにかが起きますよ。それもまもなくね。いまのところ革命はないが、キナ臭さが感じられる。みなが待っているんです。だれが、どこで、いつ?

ぼくはやっとふつうの生活をはじめたばかりだ。ちょっと生活させてくれよ!

ロシアは眠っている。期待しなさんな。
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ムハンマドがっくった共同体

『キリスト教一千年史』より 唯一神の他に神はなし--イスラームの勃興

ひとつの神しか存在しないと主張することで、ムハンマドは仲間のアラブ人たちに、彼らが崇めていた神々はそもそも神ではないと言った。しかし唯一神に関する彼の断言はもうひとつの主張を含んでいた。神の言葉は新しい預言者を通じて彼らにもたらされたのであり、その預言者とはムハンマドだという主張である。ゆえにイスラームは、この単純な表明(アラビア語ではシャハーダと呼ばれる)「唯一神の他に神はなく、ムハンマドは神の使徒である」で定義されるようになった。このメッセージは、個々人が応えることを求めた。すなわち、神に従い神の意思に従って生活を送ることが、すべての人類の義務なのである。

アラビア語で「イスラーム」という語は神への服従を、「ムスリム」は服従する者を意味した。ムハンマドは、人間一人ひとりが逃れられない選択を迫られていると教えた。唯一神を礼拝してその意志に従うか、自分自身の希望と計画に従うかである。正しい選択に対する責任は個人の手に委ねられているが、神は自らを頼る者たちの生活を哀れみ、彼らを導くであろう。

ムハンマドが説教を始めた時代、メッカとアラビア半島にはキリスト教徒とユダヤ教徒も住んでいた。クルアーンからは、ムハンマドが(もしかするとシリア語を話すキリスト教徒を通じて)キリスト教のいくつかの側面に精通していたこと、聖書の伝統にもなじんでいたことが明らかである。もっとも印象的な例は、創世記のヨセフの物語である。クルアーンのひとつのスーラ(一二章)丸ごとが聖書の人物であるヨセフに捧げられているのである(創三七-五〇章)。クルアーンでは細部がいくらか異なるが、聖書の物語のあらましは変わっていない。ただし物語から受ける印象はまったく異なっている。聖書ではヨセフは、古代イスラエルの契約の歴史の中で重要な人物として現れる。一方でクルアーンのヨセフは、唯一神への完全な帰依を他の者たちに促す、ひとつの道徳的模範にすぎない。

クルアーンに収められている預言者のメッセージは、ヘブライ人の預言者たちを彷彿とさせる生き生きとしたイメージでしばしば表現されている。ムハンマドは彼らの叙述を直接は知らなかったが、折にふれユダヤ教やキリスト教の背後にある文学の伝統に訴えた。クルアーンの中で神の声がムスリムに語りかけている。「もしわれらが汝に下してやったものについて疑いをいだいているなら、汝より先に啓典を読んでいる人々に尋ねてみよ」(一〇章九四節)

ムハンマドは、ユダヤ教徒もキリスト教徒も、唯一神の礼拝にふさわしい宗教の形態を実践してはいないと確信していた。クルアーンでは、キリスト教の教えが批判のために持ち出されている。ある場所では、三位一体の神というキリスト教の教えと、イスラーム流の神の理解を区別するために、ニカイア信条からの文言が言及されている。「言え、『これぞ神にして唯一者……生まず、生まれず、一人として並ぶ者はない』」(クルアーン一一二章)。別の場所ではキリスト教徒は「〔神に何ものかを〕並置する者たち」と呼ばれている。彼らは、神が並び立つ存在を持つ、つまり永遠なる息子にして神であるキリストが存在すると信じているからである。

預言者のメッセージはおもに仲間の部族民に向けられ、キリスト教徒やユダヤ教徒に向けたものではなかった。しかし、彼がメッカの住人に、多数の神々への礼拝を放棄するよう促すと、多くの人々は拒絶するか、彼をあざけった。彼は何人かの改宗者を得たものの、近隣の街メディナヘ少数の支持者とともに移住を余儀なくされ、そこに安住の地を見いだした。移住(アラビア語でヒジュラ)は六二二年に起こり、この日付がイスラーム暦の一年目と考えられるようになった。西洋文明がキリストの誕生から年代を数えるように、ムスリムはこの出来事を年代の起点としている。

メディナにおけるムハンマドの使命は、宗教的であるとともに政治的なものだった。彼に下された啓示に従って生活を営む、新しいタイプの共同体を作ることを試みたのである。当初からムハンマドは、ムスリム(神に服従した者たち)は個人としても社会としても敬虔な生活を送るべきだと教えていた。クルアーンの言葉によると、「おまえたちは、人類のために出現した最上の集団である。おまえたちは正しいことを勧め、醜悪なことを禁じ、神を信ずる」(三章一一〇節)。この共同体は部族に限定されてはおらず、少なくとも原則においては、アラブ人の中の部族の境界を越えた、さらには人種や民族を超えた普遍的な集まりとなった。ムハンマドが信徒の集団を呼ぶのに用いた言葉はウンマ(アラビア語で共同体や人々の意味)であった。彼の死から数十年後、ウンマは、一日五回の祈りに毎年一か月の断食であるラマダーンといった、独自の礼拝の形体を持った独立国家の様相を帯びていく。

初め、ウンマは一部族の形をとっていた。独立を固めるために、ムスリムはムハンマド自身の部族、クライシュ族に対して襲撃を敢行した。八年に及ぶ何度かの軍事衝突の末、ムハンマドはクライシュ族に対する権威を獲得し、メッカのカーバ神殿(アブラハムとその息子イシュマエルによって建てられたと言われていた[創一六章一五節])が、この新しい宗教のもっとも神聖な聖堂であると宣言した。六二二年、彼は平和裏にメッカヘ巡礼し、これによってのちにムスリムたちが行なう巡礼の型が成立したのであった。カーバ神殿の黒い石に口づけすることは、唯一神、すなわちアブラハムの神に対する服従と帰依の行為とみなされた。数か月後、彼はシリア遠征の準備をしている間に没した。

ムハンマドがっくった共同体は、この預言者の人格によってまとまっていたため、その死は、生まれたばかりの国家を不安定な時代へと追いやった。しかし指導者たちはすぐに、アブー・バクルという名の男を選び出した。彼はメッカ出身の豊かな商人にして、預言者ムハンマドの使命を信じた初期の人々のひとりであり、ムハンマドの愛妻アーイシャの父であった。ムハンマドの養子アリーが後継者となるべきだという者たちは、これに異議を申し立てた。新しいリーダーはカリフ、つまり預言者の後継者と呼ばれた。この決定の影響は大きかった。イスラームそれ自体がひとつのまとまりであり、宗教的権威と政治的権威の区別がないことを意味したからである。アブー・バクルは六三四年に、カリフとなってわずか二年で没したが、最も忠実な支持者のひとりウマル・ブン・アルハッターブを後継者に指名していた。ウマルは初めて「信徒の長」の称号を帯びた人物である。カリフ位がすぐに継承されたことで、この新しい共同体は全員が忠誠を尽くすべきひとりの長を持つという原則が守られた。
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キリスト教共同体の形成

『キリスト教一千年史』より

キリスト教は共同体として生まれた。教会の内的生活がいかに秩序づけられるべきかという問題は、その実践に関する取り決めにとどまらない問題であった。私は「細織する」ではなく、あえて「秩序づける」という表現を使った。それはキリスト教において権威や統治は、単に機能の問題ではなかったからである。秩序はそれ自体を超えた意味を含んでいる。というのも、初期キリスト教にとってリーダーシップは、いかに事を運ぶか何か最も効率よいかという問題だけでなく、使徒たちの教えを正確に伝えることでもあったからである。ヘブライ人への手紙にあるように、監督と教えの間、リーダーシップと神の権威の間には、霊的な親近性が存在する。「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ一三章七節)。イグナティオスの書簡は、司教職という、キリスト教に独特かつ長く続く「制度」となっていくものの、初期の段階について知る機会となっている。キリスト教の初期の歴史の中で、司教はしばしば中心的な存在である。

第一世代では、リーダーシップはキリストが存命中だったころの弟子で、復活の証人となった人々に委ねられていた。権威は記憶と結びついていた。最初の指導者たちの役目は、イエスから受けた教えとイエスについての伝承を守り伝えることである。最初の数十年間に諸教会が頼った二人の人物は、生前のイエスの弟子たちのリーダーであったペトロと、イエスの「兄弟」ヤコブであった。パウロのようなカリスマ的で意思の強い人物でさえ、エルサレムで「柱」(ガラ二章九節)と呼ばれ尊敬されていた人々を別格視していた。パウロは回心の後、ベトロとヤコブに異邦人への伝道を祝福してもらうために、わざわざ聖都へと旅をしている。

とはいえ、新たな共同体は、パレスチナだけでなく、シリアや小アジア、ギリシア、遠く離れたイタリアのローマにさえも設立された。これらの教会の設立者は、その会衆とともに住んでいたわけではなかった。パウロは常に移動しており、書簡で連絡をとっていて、設立した教会には合間合間にしか訪れていなかった。彼は常駐の牧者ではなかったのだ。彼の不在中(そして死後も)多くの問題が生じた。たとえば、イエスについての伝承を伝えることに誰が責任を持つのか? 教会に関する事柄を監督するのは誰なのか? 祈りを捧げる際に会衆を導き、共同の食事を主催するのは誰か? 誰が改宗者に洗礼を施すのか? 規律に関する問題を扱うのは誰なのか? パウロが信徒団を創設したコリントでは、共同体は権威を求めて争う人々で分裂していた。ある者は「わたしはパウロにつく」と言い、またある者は「わたしはアポロに」と言った(一コリ一章一一-一七節)。

結局最初の伝道者たちは、若い共同体に自立を認めた。一世紀末ごろに書かれた使徒言行録は、第一世代からその次への移行期に光を当てている。使徒言行録によれば、パウロはエフェソスの教会を最後に訪れた際に「教会の長老たち[プレスビュテロス]」を呼び集めて別れを告げ、眼前の勤めに備えさせた。パウロは自分が始めた仕事を続けるよう勧めた。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者[エピスコポス]に任命なさったのです」(使二〇章二八節)。

「長老」プレスビュテロスと「監督」エピスコポスが、入れ替えても意味が通る使われ方であることに注目してほしい。早晩エピスコポスという語は「司教」、プレスビュテロスは「司祭」を表すギリシア語になっていく。しかしこの段階では、これら二つの語は長老たちによる会議の成員という意味で、区別なく用いられていた。聖霊への言及は、選別という過程があっただけでなく、長老を特有の職務を持った特別な存在にする儀式があったことも意味している。古代イスラエルと違い、キリスト教には先祖代々特定の家系で継承される祭司職はなかった。ユダヤ人のなかでは、レビ族の一員のみがエルサレムの神殿で祭司として仕えることができた。教会では、聖職者は会衆のうち分別と能力のある成員から選ぽれ、権威を授けられなければならなかった。一世紀の終わりごろに書かれた書簡から、これが「手を置く」(一テモ四章一四節)ことによってなされたのがわかる。

二世紀の初めまでに、いくつかの地域では長老制は単一の役職、つまり、長老たちの会議と協調して働く司教というシステムに移行しはじめた。イグナティオスは単独司教(モノエピスコポス)と呼ばれる、地域の教会の代表としての一人制司教の創生期について証言している。しかし教会生活を秩序づけるためのこの方法が、キリスト教世界全体の規範になるには、しばらくの時間を要した。他の地域、特により大きな都市では、それぞれ長老を持つさまざまな小集団が存在した。それが二世紀の間に、一都市にひとりの司教という原則が徐々に定着していき、二世紀末にはほぼ普遍的となった。

その理由はいくつかある。単独の司教は教会の統合の象徴であった。イグナティオスが述べている通り、ひとつの聖体、ひとつの祭壇、ひとつの聖体拝領の杯、キリストはひとりであり、そして司教はひとりなのだ。司教との交わりがなければ、典礼の儀式も、共同の活動も、公の教えもありえない。おもに儀式に関わる働きを担っていた異教の祭司と違い、司教は祭司であると同時に共同体の監督であり、教師でもあった。司教は孤児や寡婦、貧者の世話について責任を負っていた。司教同士も書簡で連絡を取り、のちに、教会すべてに関わる問題が生じた際には問題解決のため集まった(それが教会会議や公会議と呼ばれるようになった)。強力なリーダーシップは、一致と安定、さらには生き残りには不可欠であった。教会が人数や影響力の点で成長するにつれ、司教はキリスト教共同体の代表となる。司教という職には、固有の統治形態を持つ独特な社会としての教会をめざした、体制の誕生が見てとれる。教会が入信や典礼の実施、規律のような問題について規則を定めはじめると、教会生活を管理する規則の監督責任を司教が負った。この職が人格や能力を超越した社会的地位を持ったことで、信徒の愛と好意が司教という人物へ向けられるようになった。

言うまでもなく、司教は長老や執事に支えられていた。イグナティオスは次のように潤色して書いている。「司教は指導者として神の座を、長老団は使徒会議の座を占め、(最も私に親しい)執事たちには、イエス・キリストヘの奉仕を委ねられますように」。長い時間をかけて、長老と執事の役職はより正確に定義された。司教が不在の際、長老は聖体拝領を行ない、説教し、洗礼を授ける。執事は祭壇で礼拝に奉仕し、礼拝で福音書を朗読し、貧者や困窮者、老人や体の弱い者、寡婦の世話をした。三世紀までに、読師(典礼において朗読する者)や副助祭、侍祭(祭壇で奉仕する者)、祓魔師、守門といった、その他の下位の「役職」が生まれたが、明確な位階制が存在し、司教が共同体の長と認められていた。秩序が位階制を必要とすることは、シェイクスピアが『トロイラスとクレシダ』の中で的確に述べた真実である。「序列を廃してその弦の調子を狂わせれば、耳ざわりな不協和音を生じます。あらゆるものが対立抗争しはじめます」
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