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ムハンマド イスラーム以前のアラビア

『イスラーム百科』より ムハンマド

ムハンマドはイスラームの預言者、人間に対する神の最終的なメッセージを伝えるために選ばれた「預言者たちの封印」である。本章ではムハンマドをその宗教的・歴史的・文化的文脈のなかにすえて数々の偉業を考察し、ムスリムたちが何世紀にもわたってムハンマドの生涯や個性、そしてその意味をいかに理解してきたかを論じる。

預言者ムハンマドは、6世紀のアラビア半島という、歴史的にみて特別な時代、特定の社会に生まれている。とすれば、あらためて指摘するまでもなく、こうした背景が彼の生涯やメッセージにどのような影響を及ぼしたかを理解するのは重要なことといえるだろう。

地理

 ムハンマド時代、アラビア半島はどのような状態だったのだろうか。通常、学識者たちはアラビア南部(とくに今日のイエメンに相当するアラビア半島南西端)と半島の残りの地域を明確に区別している。この区別は地理的な要因にもとづく。半島北部には周辺にオアシスを擁する広大な砂漠地帯が広がり、古代の人々から「アラビア・フェリクス(幸福なアラビア)」と呼ばれていた南部は、土地がより肥沃で雨も多く、苦心してっくりあげられた大規模な濯漑システムのおかげで、農業も高度に発展していた。

 このアラビア南部は住民が多く、彼らは前8世紀ごろから定住農耕を営んできた。各地に点在する町は政治機構や芸術、そして農業を比較的高度に発展させてきた。古典期のギリシア・ローマの著作家たちは、サバないしシバ人(およびとくにシバの女王)の名高い豪奢さについて語り、考古学的な出土品はこの地域における成熟した都市文化を証明している。前8世紀の記録に初出する有名なマーリブ(現在のイエメン)の濯漑システムは、驚異的な水利技術の成米として賞賛されていた。イスラームが登場する少し前、それまで数度にわたる修復をへて維持されていたマーリブ・ダムは最終的に崩壊したが[575年頃]、その名声は他のアラビア地域にまでとどいていた。この出来事は、のちにムスリムの口頭伝承に組みこまれ、アラビア半島南部で栄えたサバ王国の衰退を象徴するようになった。やがて、崩壊した王国の人々が大量に半島北部へと移住する。

 アラビア半島の他の地域は、南部とは事情がきわめて異なっていた。これらの地域では人びとの生活はつねに過酷なものだった。広大な砂漠の住民たちは、「砂漠の船」と称されたラクダの飼育とナツメヤシの栽培にささえられながら、不安定な生活を送っていた。だが、ペドウィンとして知られるアラブの[半]遊牧民は、そうした困難にもめげることのない順応性と処世術にたけていた。彼らは砂漠の奥地でラクダ飼いや羊ないしヤギの飼養者として働き、のちにマディーナ(メディナ)とよばれるようになるヤスリブやハイバルといった、オアシス都市周辺の農業地域とも密接にむすびついていた。これらの地域では、農民たちがナツメヤシや小麦を栽培していた。アラビアの砂漠地帯におけるパワー・バランスは、ラクダ飼いたちしだいだった。彼らの家畜がより多くの人々をささえることができたからである。オアシスの住民たちの近くで共生していた彼らは、ミルクや肉、獣皮といった遊牧民の産物を、ナツメヤシや小麦、さらに武器などと交換していた。

 一方、アラビア半島の海港は、交易によって地中海やアフリカ、インド洋とつながっていた。マッカ(メッカ)やその250キロメートル北に位置するヤスリブ(マディーナ)などの内陸オアシス都市は、乳香やスパイス、絹、綿のような産品を運ぶ商人たちにとって、陸路の休息地だった。ペドウィン系のアラブ人たちは、星をはじめとする自然の目印をもちいて、域内および広大な砂漠を横断して遠隔地へと向かう隊商を導く術を心えていた。クルアーン自体にも、預言者ムハンマドが属していたマッカの中心的な部族であるクライシュ族が、年に2回の隊商交易で富をえていたとある。次の一文がそうである。「クライシュ族をして無事安泰に、冬の隊商、夏の隊商の慣習を守らせ給う(アッラーのお恵み)」(106・1-2)

政体と社会

 アラビア半島の北部・中部・東部にいたアラブ人たちは、中央集権化された政体をもっていなかった。ベドウィン社会は支配的な政治システムに拘束されるのをこばみ、牧畜民や農民、都市商人たちに等しく適用される部族組織内の伝統的なやり方をたもっていた。氏族や部族は規模も構造も、そして威信も異なっていたはずだ。おそらくその日常生活は小さな部族集団の活動を中心とし、露営地や給水地を共有していた。

 他の遊牧社会と同様、ベドウィンの社会もまた基本的に平等だったが、各部族は首長をひとりいただいていた。彼の地位はその個人的なカリスマに由来した。この首長のっとめとしては、部族を守る、神聖な象徴物を保護する、争いをおさめ、客をもてなすことなどがあった。これら部族間の正義は、こうむった被害と同等の報復をすることによってたもたれていた。まさに「目には目を、歯には歯を」である。こうしたシステムのおかげで、部族の成員一人ひとりの安全のみならず、その家族や財産も保証されていた。

 ベドウィンの部族民は兵力をそなえた社会に住み、みずから武器をたずさえていた。牧草地を手に入れるため争いでは、彼らは他の遊牧民集団ないし近隣部族の土地へと侵入し、ときには都市までも攻撃した。彼らベドウィンにはまた独自の決闘作法があった。そこでは勇気や忍耐、さらには戦士としての能力が称揚され、それらは宗教的な信仰を形式的に遵守すること以上に重視されていた。

信仰と宗教

 かつてベドウィンたちは偶像や石、樹木などの崇拝をともなうアニミズム的な信仰を実践し、おそらくこれら神聖物のまわりを、定められた回数だけ歩いたリ走ったりしながら巡拝していた(1)。予言者たち(カヒン)はさまざまなシャ-マン的役割をにない、未来を予示し、治療をおこない、水脈を占ってもいた。彼らはまた何箇所かの聖所(ハラムないしハウタ)を崇拝していたが、その一部は管理者がおらず、他の聖所は宗教的な世襲エリートが管理していた。これらの聖所は、避難所や部族間の抗争を処理する中立的な場所としてももちいられていた。それゆえ、聖所とその周域ではいかなる戦いも禁じられた。やがて異教の神々が一部の聖所に祀られるようになる。たとえばフバル神は、マッカのカアバ(カーバ)神殿--黒曜石もしくは限石由来のテクタイトがはめこまれている立方体の建物--に祀られ、さらに3柱の女神、すなわちアアラートとアル=ウッザ--いずれもウェヌス(ヴィーナス)などに比定される--、そして運命の女神マナートは、とくにマッカ地方で信仰されていた。これら3女神は、アラビア半島内で広く敬われていた創造神アッラーの娘とされており、毎年その聖所近くでは定期市が開かれていた。

 5世紀をすぎると、マッカを支配していたクライシュ族は巡礼に関心をいだくようになる。この巡礼は毎年聖なる月にマッカを訪れ、心身を清浄にして、アブラハム(イブラーヒーム)とその息子イシュマエル(イスマーイール)によって建てられたとされる、カアバ神殿の神域(ハラム)を7度まわることで、神々の恩恵に浴しようとするものだった。カアバ神殿を囲むこの神域は、避難所としてもちいられており、そこでは一切の争いが禁じられていた。事実、アラブ人部族がマッカに巡礼したさいは、あらゆる争いが一時停止した。こうした巡礼は前イスラーム時代のマッカ人にとって、富と威信の源泉となっていた。にもかかわらず、これら異教の神々と結びついた形ばかりの宗教の実践は、おそらくベドウィンにとってかなり負担だった。死がさだめられたときにおそってくるまで、真の宗教をもちあわせていなかった彼らは、まさに勇気と持久力をもってみずからの人生を耐えなければならなかったからである。その想いはアラビアの前イスラーム時代[これをジャーヒリーヤ(無明時代)とよぶ]の口誦詩に反映されている。

 遊牧民や都市住民は、誇りと連帯感をうながすアラビア語という重要な絆を同様に共有していた。争いが禁じられているときには、彼らはしばしば部族の成員たちが祖先たちの驚異的な偉業を朗々と吟唱する、アラビア語の詩にともに耳を傾けもした。そうした機会に、アラブ人たちはみずからが帰属する部族への忠誠心を超えた、共通の遺産やアイデンティティをもっていることを互いに感じたにちがいない。まさにこのような背景こそが、ムハンマドをして、イスラーム、つまりアラビア半島自体を出自とする新しい一神教的な啓示によって鼓舞された、超部族的な共同体の創設を準備させたのである。
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NDC・1類(哲学・心理学・宗教)の分類法

『情報資源組織演習』より

1 1類の全体構成

 NDCの1類(1で始まる分類記号)は、哲学・心理学・宗教に割り当てられている。全体は以下のような構成となっている。

  100/108 哲学

  110/118  哲学各論

  120/129  東洋思想

  130/139  西洋哲学

  140/148  心理学

  150/159  倫理学.道徳

  160/169 宗教

  170/178  神道

  180/188  仏教

  190/198  キリスト教   199  ユダヤ教

2 哲学

 2.1 哲学・思想の総論・各論

  1(哲学)の後にOが来る場合(100/108)は、「地域やテーマを特定しない哲学・思想全般」を表す。

  110/118は、哲学の個別テーマを扱う「哲学各論」である。 111 (形而上学。存在論)、112 (自然哲学.宇宙論)、114 (人間学)、115 (認識論)、116 (論理学.弁証法.方法論)などのテーマを論じた資料を分類する.ただし、これらのテーマを個々の哲学者が論じた著作や、それについての解説書は、130/139 (西洋哲学)の個々の哲学者が属する項目に分類する.例えば、114.5 (実存主義.実存哲学)には、実存哲学について論じられた資料を分類するが、実存哲学者カール・ヤスパースの主著「理性と実存」は、134 (ドイツ・オーストリア哲学)の下の134.9 (生の哲学.現象学.実存主義:ヤスパース)に分類する.

 2.2 東洋思想と西洋哲学

  120/129 (東洋思想)は、121 (日本思想)、122/125 (中国思想)、126 (インド哲学)のように地域ごとに細分され、さらに、学派別に代表的な思想家の名が列挙されている。

  130/139 (西洋哲学)は131 (古代)、132 (中世)、133 (近代英米)、134 (ドイツ)、135 (フランス)のように時代・地域で細分され、さらに哲学の分野によって多数の哲学者の名が列挙されている。

3 心理学

 3.1 心理学から精神分析学まで

  14(心理学)の後にOが付く場合は、テーマを特定しない心理学全般を表す141は、感覚、記憶、思考、愛情、欲求、性格などの心理各論の分類である。

  146には臨床心理学、精神分析学、心理療法、カウンセリング、カウンセラーなどに関する資料を分類する。なお、精神医学の資料は、493.7に分類する。

 3.2 超心理学、易占

  147には、超能力などの超心理学、幽霊などの心霊研究の資料を分類する。

  148には、易占、いわゆる占いの資料を分類する。

4 倫理学.道徳

 15(倫理学)は善悪の基準やよりよい生き方の指針を探求する分野である。哲学の著作でも、倫理、道徳のテーマを主として論じた資料はここに分類する。

 ただし、西洋の個々の哲学者の著作で倫理学を扱った資料は110/118 (哲学各論)の場合と同様、130/139 (西洋哲学)の個々の哲学者の項目に分類する。例えば、倫理学の古典であるアリストテレスの『ニコマコス倫理学』は131.4(古代哲学・アリストテレス)、カントの『道徳形而上学の基礎づけ』は134.2 (近代ドイツ哲学・カント)に分類する。

 東洋の道徳思想としては156 (武士道)、157 (報徳教。石門心学)がある。また、人生訓や処世法は159 (人生訓。教訓)に分類する。

 医療倫理や情報倫理など、個別主題に関連する倫理は、医療や情報といった個別主題の項目に分類する。たとえば医療倫理は49(医学)の下の490.15に、情報倫理は007(情報学)の下の007.3に分類する。

 また、特定の職業倫理はそれぞれの職業や分野を表す分類項目のもとに分類する。 

5 宗教

 5.1 宗教

  160 (宗教)には、特定の宗派ではなく、宗教一般、宗教というテーマ全般について総合的に扱った資料を分類する。宗教の理論は161 (宗教学)、総合的な宗教の歴史は162 (宗教史(*地理区分))となる。

  日本にゆかりの深い神道、仏教、キリスト教の3つは、160ではなく170/190に分類する。日本古来の神社宗教である神道は170、飛鳥時代に伝来した仏教は180、室町時代の末期に伝来したキリスト教は190に分類する。また、キリスト教の母体となったユダヤ教は199に分類する。

  その他の個別の宗教については、160 (宗教)の下に分類項目が用意されている。例えば、166 (道教)、167 (イスラム)、168 (ヒンズー教。ジャイナ教)、169 (その他の宗教。新興宗教)がある。

  164 (神話)は、地域が特定できる場合は、164のもとで地理区分する。

   例)北欧の神話 164+389 (地理区分の北ヨーロッパ) =164.389

  なお、ギリシア神話、ローマ神話は、ギリシアやイタリアの地理区分をせず164.31 (ギリシア神話)、164.32 (ローマ神話)の分類項目が用意されている。

 5.2 神道、仏教、キリスト教の各教派

  神道、仏教、キリスト教については、それぞれの宗派(神道なら出雲大社教、天理教など、仏教なら曹洞宗、浄土宗など、キリスト教ならカトリック、プロテスタントなど)によって、さらに細かく分類することに注意が必要である。神道(170)では178、仏教(180)では188、キリスト教(190)では198に各教派の項目が用意されている。教派・宗派が特定できる場合は、178、188、198の中から個別の宗派を探して分類する。また、各教派の分類項目の後には固有補助表から「-1(教義)」「-2(教史/宗史/教会史)」「-3(教典/宗典/聖典)」「-4(説教集)」など、必要な細分を与えることができる。
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海軍反省会 歴史に学び、今度こそ情報重視の体制を

『海軍反省会9』より 専任の情報参謀を置かなかった海軍主脳の見識 ⇒ 敗戦の理由は明確です。米国なんぞと戦ったからです!

保科 あの、先ほど久原(一利・兵60)さんの情報に関する内容に、若干、付け加えておきたいと思うのはですね、この大東亜戦争を通観しまして、ほとんど情報によって艦隊は動いておるという、情報作戦。これからも非常にこれが重大な影響を持つだろうと思う。そういう意味で、実はその、私はこの中央情報機構を整備しようということを、予算委員会で請求をしたわけであります。ところが、先ほど申し上げました通り、全然官房長官なんか運動してないわけです。そして、ああいう結果で予算委員会っていう重大なる委員会で、ああいう発言をしたにもかかわらず、審議を行ってないわけです。まあ池田(勇人)総理が亡くなったということもあるけれど、それに引き続いて大平(正芳)君が総理になった。それで、池田(勇人)君が亡くなったあと、佐藤(栄作)さんが継いで、その官房長官に、椎名悦三郎ですよ。椎名悦三郎が、官房長官になった。

で、私は非常に、この非常に睨懇にしとったものですから、彼に是非この中央情報機構を整備しろと言ったところがね、彼は撤回した。これ、どういうことを言うかというと、自分が、過去随分色んなところから情報が来るけれども、取捨選択に困る、どれが本当か分からん、さっぱり分からないと、こう言うんだ、彼はね。官房長官で、総理に献策をする人が、情報に関する信頼っていうのは全然持ってないわけ。

それで私には、その、しっかりこの中央情報機構を、だから、真に入った情報を取捨選択をして検討をして、そして、この活用するっていうことをやらなければ、これからの政治もうまくいかないと。ところが、こうやってる間に彼、全く同感だっていうのに、死んでしまった。それで、私も落選をして、(議員を)辞めましたから。それで、これが一時絶えましたんだけれども、これが、反省会をやるうえでもっとも重要な、私は、検討されるべき材料であるということで、海空技術調査会で、とくに久原(一利・兵60)さんに来て頂いて、この問題の検討して、そうして一つの案ができたわけです。それで、これを総理にも話して、そして先ほど申し上げた通りに官房長官にも話をして、そしてこれを、まあ、何とかして中央情報機構を作ろうっていうところに持っていく努力をしているわけです。

これは、中々やっぱりこの時代には非常にやっかいな問題であると思うけれど、これをやらなきゃだめだと私は思っているわけだ。戦争の最大の教訓は、情報作戦をやるに必要なる本当の情報を、国家情報をキチッとこれを整えるということであると思う。そういう以外において、反省会でもこの情報問題をですね、せっかく海空技術調査会で検討した材料があるんですから、そういうものに沿って、私は、いつまで生きるか分かりませんけれど、ここまで終戦後、努力をして持ってきたわけですから、これを是非無駄にせずに情報作戦がこれからうまくいくように、一つやってもらいたいと、こういう感を深めているわけです。

寺崎 非常にあの、同感ですね。

新見 ええ、わしもいつも考えているんですけれども、今度の太平洋戦争のような、国家興亡のよってかかる、和戦にあたっては、国家を挙げての、敵情判断をしなければならかったろうと思うんですね。それ今、保科(善四郎・兵41)さんが言われましたように提案されても、それが取り上げられないというのが、その当時の日本の体質ってものが、それを吸収するだけの能力がなかったんですね。それで、私は先はどから保科(善四郎・兵41)さんたちが、今の久原(一利・兵60)さんも説明がありましたが、今こちらとしても情報機関を整備することを提案されておるようですが、これは非常に結構なことだと思いまして、もし、大東亜戦争を始める頃にですね、日本にこういった機関があったならば、あの勝算のない戦争を始めることはなかったろうと思うんですね。その点において、今度、保科(善四郎・兵41)さんを中心としてそういうことを提案されて、望むことに対しては満腔の敬意を表します。どうぞ成功されるようにお願いしたいと思います。

それから、過去色々、その、ミッドウェー海戦に続いて久原(一利・兵60)さんの暗号に対する日本の取り組み方から、ええ、日本及びアメリカの両国の暗文というか、あるいは情報に対する日本の軽視の状況というようなことを、色々書かれたものがあるのですが。これを読んでみまして、まことに同感しました。その最後にですね、久原(一利・兵60)さんの書いておられることは、これから、こういう情報軽視は、海軍の体質であったのであるか、あるいは、その体質が起こった由来はどうであったのかということを書いておられます、最後にね。それについてね、私はいつも考えていることがあるんですがね。ここでみなさんが論議されて、研究された経過を見ましてでもですね。この日本はその、情報を非常に軽視しておる。そして、まあ、暗号に対する海軍の熱意のなかったということも同感でありますが。どうしてそのこういうことになったか、これは、まあ、私は、日本の海軍だけじゃなくて、日本国民全体に私は、体質だったと思うんですね。そういう情報に対する、情報の軽視ですね。それ、どういうわけでそういうふうになったかってことを追究、考えて頂く。やっぱりね、これは、過去の日本の戦争に対する経験の、近代戦の経験がなかったことですね。無論第一次大戦には参戦したけれども、惨憺たるあの戦争の渦中に投じたのではなくて、東洋にあって経済的には非常に恵まれた境遇に立ったものでしたから、近代戦争について研究するっていう熱意が足らんかったですね。

みなさんが、今までここで研究された通りに、どうも日本のやり方っていうのは、近代の大戦、大国間の戦争っていうものを非常に甘く考えていたですね。これはみなさんもご同感だろうと思うんです。それで、そういうことがどうして起こったかっていうとですね、やっぱり、日本は第一次大戦に参戦したけれども、今言いましたように東洋に国があって惨憺たる戦争の渦中になかったのであるからして、その、実際欧米の各国はみなその体験をしているんだろうれども、日本だけは、その、逆にですね真剣な研究を(しなかった)。

まあ、暗号だけにしても、なんですねえ、おそらく、ミッドウェー海戦で、アメリカは日本は計画通りにやるって対応したっていうのを伺いました。まあ、そのときの戦争の記憶があるんですね。これは、一九一五年八月二十四日の、あの有名なドッガー・バンクの海戦ですね。これまあ、ドイツが暗号を使って、その、計画をちゃんと、もう暗号でもって命令したんですね。そして二十四日の朝八時に、ドッガー・バンクの南西端に出動するように、どんと地点まではっきり暗号でやった。それも(英国)海軍本部が諜知して、そしてその対抗手段を取ったんですね。

で、ちょうど八時に英独の巡洋艦部隊が触接して、次いで巡洋戦艦の主力部隊が触接して、午前八時頃から十二時頃までも、約四時間の猛烈な追撃、退却戦が起こったんですね。まあ、この海戦を色んな教訓とした、海戦ですけれども、時間がありませんけれども。そういうことですね。

この前暗号を使用したんですけれども、暗号の解読方法が違うんですよね。イギリスはドイツの暗号知ったかっていえば、これはみなさんご存じのことと思うけれども、開戦の劈頭にですね、ドイツのマグデブルグっていう軽巡洋艦が、フィンランド湾のオーデンスホルムっていう小さい島があるんですね、そこへ擱座したんですね。それで乗員はみな、暗号表など色々と海中投棄して、そして船体を放棄したんですね。それをロシア側が引き揚げて、そしてその暗号表のコピーを連合国へ配付したんですね。それでもうイギリスは持っておって、それで解読したんですが。あとに使われている暗号とは違うんですよ。暗号表引くんですからね、解読って難しい、そりゃあまあ状況が違うんですけれども。やっぱりそういうふうにね、暗号を利用して、解読整備をして作戦に利用したと、まあ、ドッガー・バンク海戦っていうのは、(明らかな)事実があるんですがね。

まあ、というかミッドウェーで繰り返されたわけだねえ。それでね、この暗号解読は、アメリカは非常に、第一次大戦の、いや、第一一次大戦のアメリカが参戦するまでの、この第二次大戦における教訓などをね、教訓を後のために一九四〇年、昭和十五年の八月の頭にですね、軍令部作戦部次長のゴームレー少将をイギリスに派遣したんですね。そのときには、イギリス側は秘密に属するあらゆる教訓を、ゴームレーに聞かしたっていうことですかね。まあこれらは原則、本にも書いたんですけども。これは後日対日戦争に利用したものと思われるって書いたんですけれども。それに先にあとに考えてみること、今まで、こうで、話を聞きますっていうとね、ゴームレーがイギリスから聞いた色々な情報をね、適応しておると私は思うんですよ。そういうふうでしてねえ、どうもその日本の情報に対する態度。それから、情報、暗号解読までありますけれども。その対応やそれからアメリカの、そのパイロットも随分違うんですね。何か、久原(一利・兵60)さんが指摘されるように熱意が足りなかった。その、非常に情報を取得するっていう努力が足らなかったと思うんですね、日本には。第一に開戦を決定するにも、どうも敵情判断っていうものが的確に行われているかどうかってことは疑問に思っているんですけど。

どうも私は、その、日本は情報によって敗戦したんだということが言えると思うんですね。まあ、やっぱりね、過去の戦争っていうか今度は近代戦の戦争っていう、近代戦っていうのはどういう性質のものであるかっていう、近代戦の本質っていうものをですね、日本は非常に了解してなかったと思うんですよ。日本は開戦したときにはね、これは非常に重大なことですがね、甘く見とったんですね、近代の戦争を。保科(善四郎・兵41)さんと同じように(情報組織を作るのは)非常に結構なことだと思ってご成功をお祈りしています、これからもよろしくお願いいたします。

寺崎 ありがとうございました。

久原 あの(最上、三隈衝突の)要因が広範囲にわたって分かりました。最上と三隈の衝突の事故がございましたが、これと違った資料を私は持っていますのでちょっとご紹介申し上げます。それは、当時の艦長の曽爾章(兵44)さんが自費出版されました「軍艦最上」という本を私持っておりますけれども、そこに五一期の山内正規(兵51)さんが航海長でおられたので、その手記が載っております。

それによりますと、ここは開距離八○○メートルとなっておりますが、開距離は一〇○○メートルだったようであります。そして信号がありまして、最初、赤赤(左四五度回頭)があって、回頭しておったわけです。で、その後に無線電話でというふうになっておりますが、これは無線電話ではなくて、また、もう一回赤赤が出たようです。そこで、七戦隊というのは非常に混乱をしております。赤赤が出まして、それがまた消えて赤赤出たと。これは確認をするために(再度)赤赤をやったんだろうということを考えた船と、そうでない、合計九〇度(の変針)というふうに取った船とあったようです。その後すぐ無線電話かありまして、係数九つというのがあったそうです。そのときに、あっ、これは九〇度回頭かなあというふうに思っておって、最上は前続艦に付いて行っとったところが、前続艦と思ったのが前続艦じゃなくて鈴谷だった。といいますのは、(前続艦の)三隈が四五度回頭でやっておるものですから、見えなくなってしまう。そして、どうも、しかしおかしいということでまた戻しているわけです。そこで突然、もうほとんど至近距離に三隈の船首がやって来たということで、咄嵯に取り舵いっぱいということを令されましたけれど、ぶつかっちゃったということのようであります。ちょっとそのへんがこの記述と若干違っておりますので、たぶん、あのー、山内(正規・兵51)航海長が、もう二十年くらい前に書かれておりますので、これのほうが正しいんじゃないかという感じがいたしますんで、ご紹介申し上げました。以上です。

寺崎 ありがとう。
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他者とのしゃべり

他者とのしゃべり

 パートナーからの電話以来、他者とはしゃべっていない。外なる世界との接続部分が一カ所しかない。だから、雑記帳が埋まらない。この金土日は本の情報で埋めます。あえて、言葉を入れない。実際、本以外は何も考えていないのだから。
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