goo

五輪で伸びるシェアリング・エコノミー

『儲かる五輪』より 五輪で伸びるシェアリング・エコノミー

ITによる新しいシェア

 近年、急速に注目が集まっているビジネスにシェアリング・エコノミーがある。

 第三章で紹介した「民泊」「ライドシェア」が代表格だ。

 すでに手元にあるモノや時間、労働力をシェアすることで対価を生み出すというもので、大昔から人間がコミュニテイのなかでやってきたことだ。ただ、かつてのコミュニティでは、対価はお金で支払わず、貸し・借りの関係をつくり、関係を深めることに役立ててきた。

 しかし、近代以降の社会ではコミュニティよりも、お金を生み出す会社や仕事場での関係が重視される。そこでは当然のことながらお金がすべての価値を決定する。したがって、お互いに持っているもの、余っているものをシェアし合うという行為は少なくなった。個々人が独立し、核家族を構成する社会では、貸し・借りの関係は重い。かといって、見知らぬ人とシェアし合うのはリスクが大きい。そこで、シェアするという発想は一度は過去のものになった。

 しかし、IT社会の到来がシェアするという行為に新しい可能性を与えた。

 社会の中で必要としている人と、与えることができる人のマッチングを行い、わずらわしいお金のやりとりを引き受け、なおかつ、低価格のコミッションでサービスを提供できる。インターネットと、スマホやタブレット、PCなどの情報端末を組み合わせることによって、それが可能になった。それもリアルタイムで。

 すでに紹介した、Airbnb、Uber以外にも、さまざまなサービスが始まり、競合する企業がつば競り合いをしている。代表的なサービス例とその事業者をまとめた。                          。

 このなかでも、とくに大きな市場を形成すると思われるのが、住居と移動手段である。つまり、Airbnb、Uberはそのど真ん中にいる。理由は(一)世界中どこでも提供でき、必要としている人がいる、(二)短期かつそれほど多くない回数の利用者が多いからである。

 (一)は人間の生活を考えると想像しやすい。世界中どこでもなくてはならないのは衣食住と移動手段である。そのうち(二)に当てはまるかを考える。衣類は買うのが普通だ。式服などの特殊なものは着る回数が少ないが、すでにレンタル・サービスがある。また、中古市場で廉価な服が手に入るため、シェアするニーズはそれはどない。食はこの場合、家事の代行サービスやケータリング・サービスということになるが、これもすでにサービスを行っている企業がたくさんある。また、シェアできるのは短期間、それほど多くない回数と考えると、家事代行にはそれなりに時間がかかるし、毎回別々の人が少しずつ家事を代行するのは効率が悪い。したがって、残るのは住。それに、移動手段ということになる。移動手段のシェアは、ちょっとした買い物の代行にも使えるから、家事代行の一部を担うこともできるだろう。

規制が緩和される方向ヘ

 シェアリング・エコノミーはこれから可能性がありそうだ。しかし、日本では規制がある。民泊、ライドシェアについて、現状では規制によってサービスが行えない、あるいは制限されることはすでに書いた。さらに、過剰な規制のために、逆に違法状態が常態化していて、合法的にビジネスをしている人がバカをみていることも書いた。

 しかし、そこで諦めてしまってはビジネスにはならない。それに、この規制は近い将来、緩和(正確にいえば適正化)される可能性が高い。その根拠は、これもすでに書いたことだが、政府の方針として、シェアリング・エコノミーを推進する方向性がすでに出ていること。そして、その理由が、東京五輪二〇二〇の開催で外国人訪日客が爆発的に増えると予想しているからだ。

 欧米社会で広まりつつあるシェアリング・エコノミーが、日本でまったく普及していないとしたら、訪日客は不便を感じるだろう。しかも、ホテル不足は確実視されており、かといって、オリンピック目当てにホテルを新たに開業したところで、その後の稼働率をキープできる保証はどこにもない。また、移動手段に関しても、日本のタクシーは国際的な相場から見て高い。加えて、過疎化が進む地方ではタクシーそのものがサービスを縮小している。訪日客のなかにはSNSなどで情報を得て、日本の田舎を見てみたいと考える人たちも多い。その人たちが移動手段がないという理由で地方への旅行をあきらめるとしたら、地域活性化にもマイナスだ。

民泊をやるうえでのハードル

 そこでまず、これからシェアリング・エコノミーに参入するとしたら何が障害になるかを具体的にシミュレーションしてみよう。まず、空き部屋を貸し出す民泊から見てみ

 民泊の場合、宿泊料を取って人を泊めるということで、旅館業法等がネックになる。次ページがその概要である。

 これだけの規制を個人がクリアするのは不可能だ。むろん、顧客の安全を守るための規制が主だとはいえ、時代に合わないと思えるものや、過剰だと思われるものがある。

 そもそも個人が住宅の一部を旅行者向けに短期で貸し出すという想定がなされていない。

 旅館業法に沿うためには、営業許可の申請が必要だ。しかし、まず「定員」でつまずく。自宅で五部屋以上貸せる人はめったにいない。民泊の場合、一部屋からでなければ貸そうという人はなかなか現れない。

 また、床面積の条件や、ロビーが必要など現状の一般住宅では難しい条件もある。建築基準法、消防法への適合も求められ、そのうえ所在地にも制限がある。宿泊名簿とその管理は、現在、厚生労働省所管の省令により、情報通信技術を使ったものでかまわないとなっているためクリアできるが、そうしたソフト面ではアップデートされているものの、ハード面では事業者を対象にしたごく狭い定義での旅館業を想定しているだけである。

 そこで、民泊について書いた部分で紹介したように、政府では特区内という条件をつけて外国人向けの宿泊サービスに限って規制を緩和している。ただ、これもすでに書いたように、実際にやってみようとすると困難だ。

 しかし、東京五輪二〇二〇直前になってからでも、民泊が解禁される可能性はありえる。なぜなら、解禁という以上、建物の改修のようなハード面に手を加えることなく、ITの利用などでソフト面で安全を確保することが前提になるため、直前の解禁でも宿泊客が流れ込んでくる可能性があるからだ。

 そのためには東京五輪二〇二〇の前評判が高まり、海外からの訪日客が予想を超える数になることが何よりの後押しになる。

ライドシェアが認められるケース

 もう一つの代表的なシェアリング・サービスであるライドシェアについても、現時点の法規制内でどこまでできるのか、どこに壁があるのか、検討してみよう。

 まず、自分のクルマを自分で運転し、人を乗せてお金をもらう場合。道路運送法(昭和二六年法律第一八三号)第七八条の規定により、自家用車は有償の運送に使ってはいけないことになっている。災害のために緊急を要する場合を除き、国土交通大臣の登録又は許可を受ける必要がある。

 だが、登録、許可が必要ない場合がある。

 「道路運送法における登録又は許可を要しない運送の態様について(事務連絡平成一八年九月二九日 自動車交通局旅客課長)一の(一)~(四)」と定められているので概要を紹介しよう。原文は国土交通省のウェブサイトで読める。

 (一)サービスの提供を受けた者からの給付が、「好意に対する任意の謝礼」と認められる場合。

 つまり事前に対価を決めているわけではなく、あくまで自発的な謝礼だという場合。

 具体的な例もあがっているので引用すると「家事援助等のサービス後、たまたま用務先が同一方向にあり懇願されて同乗させたなどの場合で、利用者の自発的な気持ちから金銭の支払いが行われたとき」「過疎地等において、交通手段を持たない高齢者を週に一回程度近所の者が買い物等に乗せていくことに対して、日頃の感謝等から金銭の支払いが行われた場合」である。

 (二)サービスの提供を受けた者からの給付が、金銭的な価値の換算が困難な財物や流通性の乏しい財物などによりなされる場合。

 換金性の低いものであれば謝礼を受け取ってもOKということだ。例としてあげられているのは「日頃の移送の御礼として、自宅で取れた野菜を定期的に手渡す場合」「地域通貨の一種として、ボランタリーなサービスを相互に提供し合う場合であって、例えば、運送の協力者に対して1時間1点として点数化して積立て、将来自分が支えられる側になった際には、積立てておいた点数を用いて運送等のサービスを利用できる仕組み等、組織内部におけるボランタリーなサービスの提供を行う場合」。現金を介さず、地域通貨やポイント制など、コミュニティ内で相互にサービスし合えるような仕組みならよいということだろう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

グローバル化は人々を国民国家から解放するか

『いま世界の哲学者が考えていること』より グローバル化は人々を国民国家から解放するか

21世紀の〈帝国〉とは何を指すのか

 マルクスが資本主義の崩壊を予言したとき、想定していたのは19世紀の「産業資本主義」でした。ところが、資本主義はマルクスの想定を超えて生きのび、20世紀を迎える頃には「金融資本」と結びついた「帝国主義」が成立し、さらに21世紀になると新たな段階に到達しました。その新たな資本主義を、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートは2000年に出版した書物で「帝国」と呼びました。その書物の冒頭で、彼らは「帝国」の特徴を次のように描いています。

  〈帝国〉が、私たちのまさに目の前に、姿を現わしている。この数十年のあいだに、植民地体制が打倒され、資本主義的な世界市場に対するソヴィエト連邦の障壁がついに崩壊を迎えたすぐのちに、私たちが目の当たりにしてきたのは、経済的・文化的な交換の、抗しがたく不可避的なグローバリゼーションの動きだった。市場と生産回路のグローバリゼーションに伴い、グローバルな秩序、支配の新たな論理と構造、ひと言でいえば新たな主権の形態が出現しているのだ。〈帝国〉とは、これらグローバルな交換を有効に調整する政治的主体のことであり、この世界を統治している主権的権力のことである。

 ここでネグリとハートが「帝国」と呼んでいるのは、具体的には、20世紀末に進展したグローバリゼーションに対応しています。たとえば、彼らが次のように述べるとき、グローバリゼーションについての記述と理解できるでしょう。
  生産と交換の基本的要素--マネー、テクノロジー、ヒト、モノ--は、国境を越えてますます容易に移動するようになっており、またそのため国民国家は、それらの流れを規制したり、経済にその権威を押しっけたりする力を徐々に失ってきているのだ。

 『〈帝国〉』が出版されたとき、世界的にセンセーショナルな反響を呼び起こし、「帝国」という言葉が、いわば流行語のようになりました。とくに、ジジェクが「21世紀の『共産党宣言』?」と呼んで、その重要性を強調しましたので、『〈帝国〉』の評価はいやがうえにも高まりました。ところが、そうした流行とは裏腹に、『〈帝国〉』には根本的な発想において、曖昧さが潜んでいるように思えます。

 たとえば、ネグリとハートが「帝国」を語るとき、いったい何を想定しているのかはっきりしないのです。彼らは、「帝国」をグローバリゼーションのプロセスによる「新たな世界秩序」と呼んでいます。グローバリゼーションが資本主義的な経済的活動であるとすれば、「帝国」はそれに対応する政治的な組織と考えることができます。ところが、そうした政治的組織として、彼らが何を想定しているのか、明確とは言えないのです。
 まず、具体的な「アメリカ帝国」でないことは明言されています。そうだとしたら、「帝国」が何を指し示しているのか、語る必要があります。ところが、ネグリとハートは「帝国」が具体的に何を指すのか、ほとんど語っていません。たとえば、領土を求める「帝国主義」と対比しながら、彼らが「帝国」について次のように語るとき、いったい何を想定しているのか分かりません。

  帝国主義とは対照的に、〈帝国〉は権力の領土上の中心を打ち立てることもなければ、固定した境界や障壁にも依拠しない。〈帝国〉とは、脱中心的で脱領土的な支配装置なのであり、これは、そのたえず拡大し続ける開かれた境界の内部に、グローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいくのである。〈帝国〉は、その指令のネットワークを調節しながら、異種混交的なアイデンティティと柔軟な階層秩序、そしてまた複数の交換を管理運営する。

 「帝国」に関するこうした曖昧さは、社会変革の理論としては決定的な難点だと思われます。というのは、何に対して闘えばいいのか、はっきりしないからです。マルクスが想定したのは近代的な労働者やプロレタリアートでしたが、ネグリとハートはグローバリゼーションにもとづく多様な人々(「マルチチュード」)を「帝国」に対抗する勢力と考えました。しかし、「マルチチュード」とは具体的に誰を指すのか、明確とは言えません。

 こうして、「21世紀の『共産党宣言』?」と呼ばれたにもかかわらず、『〈帝国〉』は打倒すべき敵も、また打倒する主体も明確に規定できなかったように見えます。そもそも、グローバリゼーションに対応した「新世界秩序」とは何を指すのでしょうか。また、グローバリゼーションによって、国民国家は本当に衰退するのでしょうか。

アメリカ「帝国」の終焉

 『〈帝国〉』の出版当時、ネグリとハートが否定したにもかかわらず、彼らの「帝国」を「アメリカ帝国」と重ねて読む人が少なくなかったと思います。じっさい、90年代の初め、ソヴィエト連邦が崩壊して以来、アメリカは一極覇権主義のもとで、あたかも「帝国」のように、グローバルな政治支配を追求してきました。そうした状況を背景に、『〈帝国〉』が出版されたのですから、「帝国=アメリカ」と理解されたのは、無理からぬことだと思います。しかも、『〈帝国〉』を読むと、ネグリやハートの意に反して、「アメリカ帝国」の強大さが実感されます。さらに、「9・11同時多発テロ」やアフガニスタン攻撃、イラク戦争などは、まさに「世界の警察」として、アメリカが「帝国」を演出しているように見えました。

 こうした「アメリカ帝国」像に対して、真っ向から対立する議論を展開したのが、フランスの人類学者エマニュエル・トッドです。彼は、メディアで「アメリカ帝国」の強大さが誇張されていたさなかの2002年に、『帝国以後』を発表して、「アメリカ帝国」の崩壊を予言したのです。トッドは、ソヴィエト崩壊後の10年を次のように総括しています。

  最近10年間に起きたこととは、どういうことなのか? 帝国の実質を備えた二つの帝国が対決していたが、そのうち一つ、ソヴィエト帝国は崩れ去った。もう一つのアメリカ帝国の方もまた、解体の過程に入っている。しかしながら共産主義の唐突な転落は、アメリカ合衆国の絶対的な勢力伸長という幻想を産み出した。ソ連の、次いでロシアの崩壊ののち、アメリカは地球全域にその覇権を広げることができると思いこんだが、実はその時すでに、おのれの勢力圏への統制も弱まりつつあったのである。

 「アメリカ帝国の終焉」というテーゼは、同じフランスの思想家ジャック・アタリも語っています。アタリは『21世紀の歴史』(2006年)において、世界が今後どこへ向かうかを描いています。「アメリカ帝国の終焉」と題された第四章で、彼は年代を明確にしながら、次のように予言しています。

  2035年ごろ、すなわち長期にわたる戦いが終結に向かい生態系に甚大な危機がもたらされる時期に、依然として勢力をもつアメリカ帝国は、市場のグローバリゼーションによって打ち負かされる。特に、金融の分野で、保険会社などの巨大企業がアメリカを打ち破る。これまでの帝国と同様に、アメリカは金融面・政治面で疲弊し、世界統治を断念せざるを得ないだろう。世界におけるアメリカの勢力は巨大であり続けるであろうが、アメリカに代わる帝国、または支配的な国家が登場することはない。そこで、世界は一時的に〈多極化〉し、10か所近く存在する地域の勢力によって機能していくことになる。

 ここで注目しておきたいのは、トッドやアタリの「アメリカ帝国終焉論」が、「サブプライム危機」以前に発表されていたことです。彼らは、アメリカが「帝国」のような絶頂期にあると思われていたときに、むしろその崩壊を見届けていたわけです。

グローバリゼーションのトリレンマ

 アタリが予言するように、アメリカ帝国が市場のグローバリゼーションによって打ち負かされるかどうかは別にして、ここであらためてグローバリゼーションに立ち戻ってみましょう。というのも、グローバリゼーションには、きわめて深刻な「パラドックス」が潜んでいて、その理解なくして未来世界を展望できないからです。

 トルコ出身の経済学者で、現在はプリンストン高等研究所の教授であるダニ・ロドリックが、2011年に『グローバリゼーション・パラドクス』を出版し、グローバリゼーションにどう対処すべきか、議論を展開しています。彼によると、次の三つの道(「トリレンマ」)が可能であり、私たちはこの中から選択しなくてはならないのです。

  国民民主主義とグローバル市場の問の緊張に、どう折り合いをつけるのか。われわれは三つの選択肢を持っている。国際的な取引費用を最小化する代わりに民主主義を制限して、グローバル経済が時々生み出す経済的・社会的な損害には無視を決め込むことができる。あるいは、グローバリゼーションを制限して、民主主義的な正統性の確立を願ってもいい。あるいは、国家主権を犠牲にしてグローバル民主主義に向かうこともできる。これらが、世界経済を再構築するための選択肢だ。

  選択肢は、世界経済の政治的トリレンマの原理を示している。ハイパーグローバリゼーション、民主主義、そして国民的自己決定の三つを、同時に満たすことはできない。三つのうち二つしか実現できないのである。

 つまり、①「もしハイパーグローバリゼーションと民主主義を望むなら、国民国家はあきらめなければならない」。あるいは、②「もし国民国家を維持しつつハイパーグローバリゼーションも望むなら、民主主義のことは忘れなければならない」。そして、③「もし民主主義と国民国家の結合を望むなら、グローバリゼーションの深化にはさよならだ」。ロドリックは、こうした三つの選択肢を、次のような図として示しています。

 問題は、この三つの選択肢(トリレンマ)のうち、どれが望ましい選択なのか、ということです。①はグローバルな連邦主義をめざし、国家主権を大きく削減するものです。②はネオリベラリズム(新自由主義)が推し進めている政策ですが、これが可能なのは「民主主義を寄せつけない場合だけ」とされます。これに対して、③はハイパーグローバリゼーションを犠牲にする政策ですが、民主政治の中心的な場として国民国家を残すわけです。

 では、ロドリックは、どの選択肢を採用するのでしょうか。結論的に言えば、彼は③を採用し、その政策を「賢いグローバリゼーション」と呼んでいます。

  私の選択を言わせてもらうと、民主主義と国家主権をハイパーグローバリゼーションよりも優先すべきだと思う。民主主義は各国の社会のあり方を守るための権利をもっており、グローバリゼーションの実現のためにこの権利を放棄しなければならないのであれば、後者を諦めるべきなのだ。

  この原則は、グローバリゼーションの終わりを意味するものだと思うかもしれない。決してそうではない。(中略)われわれは最大限のグローバリゼーションではなく、賢いグローバリゼーションを必要としている。

 たしかに、①のグローバルな連邦主義は不可能に見えますし、国家の多様性を無視する点で望ましくないでしょう。また、②のネオリベラリズム的政策は、世界的な金融危機や格差拡大など、グローバリゼーションに暗い影を落としています。しかし、そうだとしても、③「賢いグローバリゼーション」はいかにして可能なのか、あらためて検討する必要がありそうです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

SNSは市民のためのメディアではない?

『いま世界の哲学者が考えていること』より 人類史を変える二つの「革命」

SNSは独裁国家を倒して「民主主義」を実現できるのか?

 まず、IT革命が社会に大きな影響を与えた、最近の出来事から始めることにしましょう。2010年にチュニジアから始まり、その後エジプトヘと飛び火し、やがてアラブ世界全体へと波及した民主化運動(いわゆる「アラブの春」)のことは、まだ記憶に新しいのではないでしょうか。

 この民主化運動のとき、FacebookやTwitterをはじめとしたSNSが決定的な役割を果たした、と言われています。IT革命が社会変革を可能にした出来事と見なされているのです。

 発端となったチュニジアの革命を振り返ってみましょう。その革命は、失業中だった一人の青年が、路上で野菜を販売していたところ、販売に許可がないとして役人に商品を没収されたことから始まりました。青年は、それに対する抗議として焼身自殺を図ったのですが、この自殺について新聞やテレビなどの既存のメディアは取り上げませんでした。

 ところが、その現場に居合わせた人(いとこ)が、携帯電話で動画を撮影し、それをFacebookにアップロードしたのです。そして、この動画を多くの人が見ることによって、民衆の怒りが爆発することになりました。

 これとともに、チュニジアの民主化運動には、政府などの秘密情報を暴露するサイト「ウィキリークス」も、大きな影響を与えました。チュニジアでは、ベン・アリーが1987年に大統領に就任して以来、その家族、親族、友人などを優遇していたのですが、この内情をウィキリークスはインターネットで暴露したのです。

 こうした情報もまた、新聞やテレビでは伝えられませんでした。アラブ世界の中で、チュニジアはインターネットに接続しやすい環境でしたので、こうしたウィキリークスの情報によって、国民の意識が大きく変わったのです。

 このように考えると、インターネット、(撮影機能付き)携帯電話、FacebookやYouTubeのなどがなかったならば、チュニジアの革命は起きなかった、と言えるかもしれません。この状況はエジプトの場合も同様です。つまり、インターネットのブログ、FacebookやTwitterなどによって、デモが組織され、ついにはエジプトの独裁的なムバラク政権が倒れたのです。とすれば、IT革命が民主化を可能にしたように見えるのではないでしょうか。

 この見方は、たとえば総務省の平成24年版情報通信白書でも表明されています。ドバイの政府系シンクタンク(ドバイ政府校)のレポートを援用しながら、次のように述べられています。

  チュニジアで発生した「ジャスミン革命」以降のデモ活動について、(中略)ソーシャルメディアにおいて参加の呼びかけが行われている。アラブ地域での抗議の呼びかけの多くは、主としてFacebookによりなされており、同校では、「Facebookが、人々が抗議行動を組織した唯一の要因ではないが、それらの呼びかけの主たるプラットフォームとして、運動を動員した要因であることは否定できない。」とし、Facebookの浸透度が低い国においても、活動の中核にいる人々が他のプラットフォームや伝統的な現実世界の強固なネットワークを通じてより広いネットワークを動員する有益なツールであった。」としている。

 こうした理解は、いわば伝説のようになりましたが、現在では異論も多く提出されています。たとえば、金曜日に行なわれる民衆の伝統的な集団礼拝、衛星放送の「アルジャジーフ」なども、抗議運動に大きな影響を与えた、と言われています。そのため、SNS革命といった表現は、誇張されすぎているかもしれません。じっさい、民主化運動のその後の動向を見ると、SNSの影響については検討が必要だと思います。

スマートフォンの存在論

 「アラブの春」でSNSがどれはどの役割を果たしたのかは疑問が残りますが、それでもインターネットやモバイルの端末が華々しく活用されたのは確かなことです。もしインターネットがなかったならば、そしてまた(撮影機能付き)携帯電話(スマートフォンとしておきます)が普及していなかったならば、アラブの民主化運動は始まらなかったのではないでしょうか。一人の青年が焼身自殺しても、その場で撮影されず、またFacebookやYouTubeにも、アップロードされることはなかったわけです。

 そこで、「アラブの春」から少し離れて、スマートフォンのあり方に目を向けてみたいと思います。というのも、現在の日常的な場面でも、スマートフォンの利用は目を見張るものがあるからです。たとえば、電車に乗ると、ほとんどの人がスマー卜フォンの画面に見入っています。今では、大人も子どもも、四六時中スマートフォンをいじっています。この事態を、いったいどう理解したらいいのでしょうか。スマートフォンは私たちにとって、どのような意味をもっているのでしょうか。

 ここで、第1章でも紹介したイタリア現代哲学の旗手マウリツィオ・フェラーリスの「ドキュメント性」という概念に注目したいと思います。というのも、フェラーリスはスマートフォンのあり方を哲学的に分析して、「ドキュメント性」という概念で表現したからです。

 フェラーリスは、かつてマーシャル・マクルーハンが「メディア論」で提示した予言を取り上げます。マクルーハンによれば、現代はグーテンペルクの活版印刷(書物)の時代が終わり、映像や音声(テレビや電話)の時代に突入しています。そのため、一般にも、書くことの時代が終わったと信じられるようになりました。近代が「書物」の時代とすれば、現代は「音声・映像」の時代というわけです。その象徴が携帯電話と言えるかもしれません。固定電話と違って、いつでもどこでも、相互に話し合うことが可能になったのです。

 ところが、フェラーリスは、このマクルーハンの規定に異を唱え、現代はむしろ、マクルーハンの予言とは反対の方向、つまり「書くことのブームヘと向かっている」と考えます。現代の携帯電話は、たんに話すためだけでなく、メールを書いたり、Twitterに書き込んだり、ネット情報を読んだり、映像や音楽をアップ・ダウンロードしたりするために使われています。

  少しずつ、私たちは話すのをやめ、書き始めた。今や一日中書いている。私たちの電話で書いていないときは、電話で読んでいる。じっさい、携帯電話は、私たちが読んだり書いたりするのを容易にするために、より大きくなった。そして、私たちが読みも書きもしていない稀なときには、私たちは記録している(写真を撮ったり、ヴィデオを撮影したり、メモを取ったり等している)。

 こうした理解にもとづいて、フェラーリスは、現代のスマートフォンが、もはや話すためのものではなくて、「書き、読み、記録するための機械」になっている、と述べています。この規定は、今日のスマートフォンのあり方から言えば、きわめて妥当だと言えますが、それをフェラーリスはさらに、「ドキュメント性」という概念で表現しています。「書くことのブームは、私が〈ドキュメント性〉と呼ぶものの重要性のもっとも意義深い証拠の一つである」。

 では、この「ドキュメント性」には、どのような特質があるのでしょうか。フェラーリスは、次の3点を挙げています。一つ目は公共的なアクセス可能性、二つ目は消滅せずに生き残ること、三つ目はコピーを生み出せることです。そこでためしに、これを「アラブの春」の運動に当てはめてみましょう。

 まず、青年の焼身自殺は映像として記録され、青年は死亡しても生き残ると言えます。この映像は、ネットにアップされることで、公共的にアクセス可能なものとなります。また、この映像が、FacebookやTwitterなどでコピーされて、多くの人に拡散していったわけです。これは、話す機能だけの携帯電話では不可能ですし、たんにカメラに収めるだけでも可能とはなりません。むしろ、「ドキュメント性」を中心的な機能とするスマートフォンだからこそ、可能になったと言えます。したがって、スマートフォンがなかったならば、「アラブの春」は始まらなかったかもしれません。

SNSは市民のためのメディアではない?

 そこで、もう一度「アラブの春」に戻って、SNSの果たす役割を考えてみましょう。社会学者のジグムント・バウマンとデイヴィッド・ライアンが対談した本のなかで、ライアンは次のような問いを提起しています。

  ソーシャルメディアは2011年に起きた「アラブの春」やウォール街占拠運動など、数多くの抗議活動や民主化運動の中で華々しく活用されました。これによって当局が抗議活動への参加者を追跡し続けられるようになったことも事実ですが、それでソーシャルメディアの社会的な組織化に対する有効性は帳消しになってしまうのでしょうか?

 ここでライアンが指摘しているのは、ソーシャルメディアの危険性です。たとえばFacebookは、インターネットで自分の情報を公開して、多くの人がその情報を共有し、ネットワークが形成されるシステムです。しかも、その情報は、実名で登録されるようになっています。

 しかし、そうしたシステムは、反政府運動を行なうときは、きわめてリスキーと言わなくてはなりません。危険人物が特定されると、そこから人脈をたどって、芋づる式にキャッチできるからです。政府の警察は、血眼になってサイバー空間を取り締まっていますから、Facebookを政治活動に利用する方がいいのか、疑問と言えます。

 これはYouTubeに関しても同じことが言えます。実際に起きたことですが、市民がネットにアップした映像で、反政府活動に参加した人の名前が特定され、逮捕されたことがあります。ですから、無防備に人物の映像をネットで公開することは、避けなくてはなりません。

 ご存じのように、警察自身が、市民を取り締まるために、反政府デモなどは常々撮影しています。ところが、市民が自らネットに映像を投稿してくれるのですから、警察にとっては飛んで火に入る夏の虫といったところでしょうか。

 ここから分かるのは、SNSは民主化のツールというだけでなく、監視の手段としても利用されることです。とすれば、民主化運動の中で、SNSの果たした役割を過大評価するのは、控えなくてはなりません。一方で、民衆が情報を発信するためには、さまざまな通信手段を使わざるを得ません。しかも、それが映像であったり、身近な人物であったりすれば、より一層効果的となるでしょう。ところが、こうした手段は、民衆を監視する方法としても、かなり有効に働くのです。

 このように見ると、先はどのライアンの問いに対して、バウマンが次のように答える意味を理解できると思います。「あなたのおっしゃっていることは、一本のナイフはパンを切るためにも喉を切るためにも使用できるということですね。(中略)その指摘はまったく正しいと思います」。そうだとすれば、IT革命と呼ばれる出来事にも、違った見方が必要となるのではないでしょうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

儲かる五輪?

未唯へ

 また、ICレコーダーが誤作動していた。対策がない。

 スタバでのボイスはあまりにも、周辺の音を取り込みすぎる。SX1000の指向性マイクを使いましょうか。

乃木坂の映像

 2013年の乃木坂の映像をチェックしていた。映像はあまり良くない。暗くしても見ることはできます。

 ほとんど見るものがなくなっている。新しく入ってくるのは乃木中、らじらー、ANN0ですね。

儲かる五輪?

 「儲かる五輪」は、色々なことがごちゃごちゃになっています。キーワードで最小限のところで選択します。

 だけど、ここで「シェア社会」が来ることに違和感があります。こんな色物ではないはず。正々堂々と社会を根底から変えていかないとダメ。

 五輪とかアスリートとかで騒いでいるけど、そんな一瞬のためにインフラを構築してはいけない。もっと、先の生活を見て、市民の覚醒から地域で作って行かないと単にゴミを作るだけです。それは後戻りできない。

 ネットが進んできたので、東京に集中することは必要ではない。ライブもVRで味わえるようになれば、地方公演も不要になる。

 特に、アベの話はインフラとは関係ない。国債という国民に借金を負わせて、逃げることしか考えていない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )