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インドネシア 穏健なイスラーム

『インドネシア イスラーム大国の変貌』より 世界の「イスラーム化」

世界の「イスラーム化」

 「グローバリゼーション」と聞いて、冷戦終結以降、唯一の超大国となった米国から大量の資本、情報、人材が世界中に出まわる様を連想する人が多い。しかし実は、グローバリゼーションの発信源は、米国のみにとどまらない。米国発のグローバリゼーションに抗するかのような、巨大な潮流が世界には存在する。そのひとつが、「イスラームのグローバリゼーション」である。欧米諸国に反発し、対抗し、混じり合って複雑な色彩を国際社会にもたらしている大河のような流れが、イスラーム諸国から生じ、国際政治や経済の争点となっている。

 「イスラームのグローバリゼーション」とは、具体的にはイスラーム教徒の移動と人口の拡大、イスラーム経済ネットワークの拡大、イスラーム的価値観の影響力・存在感の拡大等を指す。

 なかでもイスラーム教徒の国境を越えた移動、移動を通じて彼らがはりめぐらせるネットワーク、人口増加という要因は、中長期的に世界地図を書き換える可能性を秘めている。つまりこれまでイスラーム教徒が少なかった地域でもイスラーム社会が根をはり、その数を増やし始めているのである。

 昨今の報道で注目されているのが、欧州のイスラーム社会だ。米国の民間調査機関「ピュー・リサーチ・センター」によれば、二〇一〇年時点でEU内のイスラーム教徒の数は二〇〇〇万人に達している。主要国ではドイツに四七六万人、フランスに四七一万人、英国に二九六万人のイスラーム教徒が暮らしている。総人口に占めるイスラーム教徒の数は、ほぼ全ての国で一%以上であり、フランスでは七・五%に達している。かつて労働力として旧植民地宗主国に働きにきて、そのまま定住することになった人びとと、その二世、三世たちである。このようなイスラーム社会の拡大が、今日の欧州を揺るがすテロの頻発、押し寄せる難民、これに反発する排外的な民族主義の台頭といった問題の背景にある。

 「ピュー・リサーチ・センター」が二〇一五年に行った報告によれば、今世紀後半にイスラーム教徒人口がキリスト教徒を超え、イスラーム教は世界最大の宗教になると予測される。同報告によれば二〇一〇年のイスラーム教徒が世界人口に占める比率は二三・二%だが、二〇一〇年時点のイスラーム人口に比して七三%の高い伸び率で人口増加が進み、二〇五〇年にはこれが二九・七%に上昇する。一方現在最大宗教であるキリスト教徒の比率は二〇一〇年時点三一・四%で、今後もほぼ横ばい状態が続くと考えられる。やがて今世紀なかばにはイスラーム教とキリスト教は人口でほぼ措抗し、世紀後半にはイスラーム教徒がキリスト教徒を超える。言うなれば世界で「イスラーム化」が進行するのである。

 そしてこの「世界のイスラーム化」は、中東・アフリカや欧州だけの話ではない。日本の近隣地域である東南アジアでもイスラームの存在感が、拡大の一途にある。経済と人口が拡大し活気あふれるASEANの人口は約六億であるが、その四割は現在すでにイスラーム教徒なのである。そしてその大半は、世界最大のイスラーム人口大国インドネシアとイスラームを国教とするマレーシアに集中している。日本国内に在住するイスラーム教徒人口を国別にみた場合も、常に一位を占めるのがインドネシアである。

 近年、政治・経済・文化の各分野において、日本のパートナーとして東南アジアの重要性が再認識され、日本はこの地域との関係性を深めつつある。ということは、世界がイスラーム化していくなかで、日本がまず向き合わねばならないのは東南アジアのイスラーム、特にインドネシアのイスラームである。本書では、そのインドネシアのイスラームについて考えていきたい。

穏健なイスラーム

 インドネシアを含めて東南アジアのイスラームは、ごく一部の例外的な過激集団を除けば、中東や南アジアと比べて「穏健なイスラーム」と言われてきた。一口にイスラームといっても、この国におけるそのありようは実に多様であって、アチエ特別州のイスラーム教徒とジャワ島のイスラーム教徒のあいだでは、信仰のありようは大きく異なっている。この多様性は、イスラームがこの国に伝えられ、各地で定着していった歴史に起因するところが大きい。

 ところでインドネシアと日本の宗教受容には、共通点がある。いずれも各地に自然崇拝、祖霊崇拝等が元々存在し、中国やインドの大文明が栄えた大陸の周縁部分の列島にあって、歴史の流れの中で地層を重ねるように大文明の影響を摂取しながら独自の宗教意識を育んできた。日本の場合は、基層にあるのがアニミズム(神道)であり、そこから仏教↓儒教↓キリスト教の順に外来宗教が流入した。インドネシアの場合はアニミズムを出発点に仏教・ヒンドゥー教↓イスラーム↓キリスト教という外来宗教が入って来て、これら複数の宗教が習合しながら発展してきた。イスラームと聞くと「乾燥した砂漠の峻厳な教え」を想起する人が多いが、インドネシアでは多雨湿潤の風土に溶けこみ、各地にしっかりと根をおろしている。

 イスラームの伝播時期は諸説あるが、確実な歴史として残るのは、北スマトラ、サムドゥラ・パサイ地域のイスラーム王が一二九七年に死去したことを示す墓碑である。その後一五世紀なかばスルタンの称号をもつムザッファル・シャーがマラッカ王国を統治し、マレー半島とスマトラ島のイスラーム化か本格化した。ジャワ島でも一六世紀からイスラーム王国が勢力を拡大させ、ヒンドゥー・仏教古代王国であったマジャパヒト王国を滅亡させる。

 東南アジア多島海のイスラーム伝播を特徴づけるのが、①数百年かけて緩やかにイスラーム化か進行したこと、②その布教者は、海のシルクロードを通って交易のために渡来したアラビア人、ペルシア人、インド人、チャム人(当時ベトナムに栄えたイスラーム王国人)、そして中国人(大航海で有名な鄭和はイスラーム教徒)と、多様な背景をもった人びとである。中東、南アジア、中央アジアは、軍事的征服によって短期間でイスラーム化したが、東南アジア海域では平和裏にゆっくりとイスラームヘの改宗が進んだ。

 またこの地域に拡がったイスラームは、イスラーム神秘主義の影響が強かったと考えられる。イスラーム神秘主義は聖者信仰等イスラームが土着信仰と結びつく習合的色彩が強い。これが異なる宗教が摩擦なく共存することにプラスに作用していると考えられる。

 インドネシアのイスラームが柔軟かつ多様であり、穏やかな性格を有するのは、これらの特質に由来するのかもしれない。

 しかしながら、「穏やかな」インドネシア・イスラームが、時に激烈な闘争、反乱に人びとを動員するエネルギー源ともなってきた。オランダ植民地時代に発生したパドゥリ戦争(一八二一~三七)、ディポネゴロ戦争(一八二五~三〇)、アチエ戦争(一八七三~一九一二)は、イスラーム教徒による植民地権力者への反乱という側面を有し、独立闘争の先駆けとして、インドネシアの歴史では位置付けられている。

 このなかでもパドゥリ戦争の展開は興味深い。一九世紀はじめ、交通手段の発達によって東南ジアからメッカヘの巡礼者が増えつつあった。メッカ巡礼(ハジ)帰国者たちのなかで、当時アラビア半島で興った原理主義的なワッハービズムの影響を受けた者たちが、禁酒、禁煙などを求め、従わない者たちを攻撃するなど急進化し、これがやがて反オランダ闘争に変化していった。

 中東イスラーム世界で発生したイスラーム改革運動、その一部が変容したイスラーム過激主義が、交通・通信手段の発達を通じて東南アジア多島海イスラームに伝播しテロリズムの脅威をうむという今日のIS問題の原型を、一九世紀はじめのパドゥリ戦争に見出すこともできるのである。
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