未唯への手紙
未唯への手紙
アレクサンドリア大図書館が創立
『翻訳のダイナミズム』より 響きと怒りの挿話 アレクサンドリア大図書館
前三世紀半ば、アリストテレスの弟子のなかでもその名を知られたデメトリオス・パレレオスは、アテナイを統治していたこともある人物でありながら、その市を逃れてアレクサンドリアヘ赴き、当地の大図書館長となったという。出立のきっかけとなったのは、胎動する逍逡学派を襲った政治上の陰謀と逆境であった。当該事件の詳細はさておくとして、アレクサンドロス大王の後継者アンティパトロスの直系たる、エジプトのプトレマイオス一世ソテルは当時、アリストテレス思想の積極的な庇護者となって、その派の提唱に従って、そのときわかっていたあらゆる分野の知識を集めようとしていた。アリストテレスは、古代で初めて真の図書館を築こうとした人物として知られており、真の知識は収集--世界の事実と他者の知恵の収集--から生じるとした彼の根幹にある持論をもとにして、まさしくアレクサンドリア大図書館が創立されたのだった。これを具体的な文言で言い換えると、この〈全知〉の図書館の一大使命は、アレクサンドリアに〈世界のあらゆる人の書いた書物〉をもたらし、果てにこの都市をその帝王の名に違わず、史上最大級の帝国の中心とすることであった。ゆえにアリストテレスの直弟子がこの大計画の立ち上げ時に責任者となったのは時宜にかなったことだった。
その館長時代のある折にデメトリオスが思いついたのが、この図書館を自分の新たなる支援者のために役立てるという大案だった。その案とは、様々な人々から強大な統一国家を築くための帝王学や覇道について書かれた巻子本を集めるというものである。この発想はデメトリオスの信念が元となっているところがあり、とりわけユダヤ人の歴史・律法・思想の書物は、時が移り変わってもなお変わらぬ信念と勇気を教えてくれるということで、優れた知見が得られるはずだと考えていたのだ。そう思うに至ったのは、アリステアスなるギリシア人名を有するユダヤ人の説得によるものらしく、この者はいわば身分を偽りながらも自分の同胞の大きな得になるよう動いたというわけだ。ユダヤ人から本を集めてはというデメトリオスの奏上に乗ったプトレマイオスは、その実行を命ずる。とはいえ当該作品には翻訳が必要だった。コプト語やギリシア語、フェニキア語では書かれておらず、また当時の通説のようにシリア語でもなく、ヘブライ語で記されていたからだ。そもそも訳されなければ役に立てようもないのである。
大図書館の課題そのものが、翻訳だったというわけではない。ただし拡大してゆく蔵書を研究・注釈・分類していくことは、この施設のあるべき姿のひとつとして、お抱えの学者たちに認められていた。この世のすべての本はギリシア語に訳されねばならない--図書館は、果たされ得なかったアレクサンドロスの征服を別の形でなさねばならなかったのだ。実際、マケドニア人に建設されるか発展させられたヘレニズム時代の大都市にはどこにも、文書館としての施設がそれぞれ備わっていた。アレクサンドロスによって送り込まれた各都市の支配者たちは、征服の先兵として自分たちがどうしようもない辺境にいることを自覚するよう迫られていたし、ゆえにインドからバルカンに至るまで、自分たちが治める人民のことを知る必要性が高かったのである。そして支配するための方法が、その者たちの本を所有・翻訳することであった。つまるところ、凱旋式でも図書館の建物でもない、他ならぬ翻訳こそが、自分たちの高邁な運命を確固たるものにする武器だったのである。
とはいえ話はここで終わらない。ヘブライ聖書の重要性とその翻訳の必要に納得したプトレマイオスは、はたと、何千人というユダヤ人がエジプトの牢獄や奴隷収容所で囚われの身になっていたことを思い出す。そのほとんどが、実父が推し進めた先のシリア遠征で捕虜となった者たちだった。おのれの権威に傷を付けないまま、求める翻訳をいちばん信頼できる形で確実になしとげようと、プトレマイオスは全員--十万人以上--を解放すると約束する。さらに、寛大な心で一同を体制に組み入れようと、多くの者を兵士や役人にし、幾人かには責任ある高い地位につけさせた。イェルサレムに送付された当該の布告で、プトレマイオスは上記のことを実行したことを伝えると、その返礼としてかの地の大祭司の命で、イスラエルの十二氏族から六名ずつ計七十二人の賢者の一団が派遣されてきた。そして一同は西にあるパロスという小島へ赴き、設備の整った堅牢なその場所に閉じこもって、七十二日でその仕事を完遂したのである。ただ一同は自分たちの行いが、古代世界最大の知の収集家であるアリストテレスの大著作群に端を発した、叡智の帝国という理念に貢献したとは思いも寄らなかっただろう。歴史にはこの一度の訳業が何万人もの命を救う一助となったと記録されるのみである。
前三世紀半ば、アリストテレスの弟子のなかでもその名を知られたデメトリオス・パレレオスは、アテナイを統治していたこともある人物でありながら、その市を逃れてアレクサンドリアヘ赴き、当地の大図書館長となったという。出立のきっかけとなったのは、胎動する逍逡学派を襲った政治上の陰謀と逆境であった。当該事件の詳細はさておくとして、アレクサンドロス大王の後継者アンティパトロスの直系たる、エジプトのプトレマイオス一世ソテルは当時、アリストテレス思想の積極的な庇護者となって、その派の提唱に従って、そのときわかっていたあらゆる分野の知識を集めようとしていた。アリストテレスは、古代で初めて真の図書館を築こうとした人物として知られており、真の知識は収集--世界の事実と他者の知恵の収集--から生じるとした彼の根幹にある持論をもとにして、まさしくアレクサンドリア大図書館が創立されたのだった。これを具体的な文言で言い換えると、この〈全知〉の図書館の一大使命は、アレクサンドリアに〈世界のあらゆる人の書いた書物〉をもたらし、果てにこの都市をその帝王の名に違わず、史上最大級の帝国の中心とすることであった。ゆえにアリストテレスの直弟子がこの大計画の立ち上げ時に責任者となったのは時宜にかなったことだった。
その館長時代のある折にデメトリオスが思いついたのが、この図書館を自分の新たなる支援者のために役立てるという大案だった。その案とは、様々な人々から強大な統一国家を築くための帝王学や覇道について書かれた巻子本を集めるというものである。この発想はデメトリオスの信念が元となっているところがあり、とりわけユダヤ人の歴史・律法・思想の書物は、時が移り変わってもなお変わらぬ信念と勇気を教えてくれるということで、優れた知見が得られるはずだと考えていたのだ。そう思うに至ったのは、アリステアスなるギリシア人名を有するユダヤ人の説得によるものらしく、この者はいわば身分を偽りながらも自分の同胞の大きな得になるよう動いたというわけだ。ユダヤ人から本を集めてはというデメトリオスの奏上に乗ったプトレマイオスは、その実行を命ずる。とはいえ当該作品には翻訳が必要だった。コプト語やギリシア語、フェニキア語では書かれておらず、また当時の通説のようにシリア語でもなく、ヘブライ語で記されていたからだ。そもそも訳されなければ役に立てようもないのである。
大図書館の課題そのものが、翻訳だったというわけではない。ただし拡大してゆく蔵書を研究・注釈・分類していくことは、この施設のあるべき姿のひとつとして、お抱えの学者たちに認められていた。この世のすべての本はギリシア語に訳されねばならない--図書館は、果たされ得なかったアレクサンドロスの征服を別の形でなさねばならなかったのだ。実際、マケドニア人に建設されるか発展させられたヘレニズム時代の大都市にはどこにも、文書館としての施設がそれぞれ備わっていた。アレクサンドロスによって送り込まれた各都市の支配者たちは、征服の先兵として自分たちがどうしようもない辺境にいることを自覚するよう迫られていたし、ゆえにインドからバルカンに至るまで、自分たちが治める人民のことを知る必要性が高かったのである。そして支配するための方法が、その者たちの本を所有・翻訳することであった。つまるところ、凱旋式でも図書館の建物でもない、他ならぬ翻訳こそが、自分たちの高邁な運命を確固たるものにする武器だったのである。
とはいえ話はここで終わらない。ヘブライ聖書の重要性とその翻訳の必要に納得したプトレマイオスは、はたと、何千人というユダヤ人がエジプトの牢獄や奴隷収容所で囚われの身になっていたことを思い出す。そのほとんどが、実父が推し進めた先のシリア遠征で捕虜となった者たちだった。おのれの権威に傷を付けないまま、求める翻訳をいちばん信頼できる形で確実になしとげようと、プトレマイオスは全員--十万人以上--を解放すると約束する。さらに、寛大な心で一同を体制に組み入れようと、多くの者を兵士や役人にし、幾人かには責任ある高い地位につけさせた。イェルサレムに送付された当該の布告で、プトレマイオスは上記のことを実行したことを伝えると、その返礼としてかの地の大祭司の命で、イスラエルの十二氏族から六名ずつ計七十二人の賢者の一団が派遣されてきた。そして一同は西にあるパロスという小島へ赴き、設備の整った堅牢なその場所に閉じこもって、七十二日でその仕事を完遂したのである。ただ一同は自分たちの行いが、古代世界最大の知の収集家であるアリストテレスの大著作群に端を発した、叡智の帝国という理念に貢献したとは思いも寄らなかっただろう。歴史にはこの一度の訳業が何万人もの命を救う一助となったと記録されるのみである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 本が紙である... | ギロチン 本... » |
コメント |
コメントはありません。 |
コメントを投稿する |