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未唯への手紙

未唯への手紙

シーア派の台頭--アリーの役割

2016年10月03日 | 3.社会
『イスラーム百科』より 多様性 シーア派の台頭

シーア派の台頭--アリーの役割

 前述したように、シーア派と他のムスリム集同をおもに分けるのは教義上の問題、すなわちムハンマド一族の系譜にっらなり、イマームと呼ばれる子孫たちに生まれながらにあたえられるカリスマ的な権威(イマーマ)をめぐる問題である。シーア派にとって、この問題はムハンマドの存命中に始まっている。彼らの見方によれば、ムハンマドは自分の後継者として従弟で娘ファーティマの婿、そして孫のハサンとフサインの父親アリー・イブン・アビー・ターリブを指名したという。アリーはそのきわだった資質によって、シーア派のみならず、全ムスリムからたたえられ、敬われたという。彼はシーア派の信仰や教義のなかで特別な位置を占めており、事実、シーア派を意味するShT'iteやShT'a、シーア派に属する人々を指すShT'Tといった表記は、すべてイスラーム史の最初期にできた表現、つまり[アリ一派](Shi'at'All)に由来するのだ。

 だが、アリーがムスリム共同体のカリフとなるには、ムハンマドの死から24年待たなければならなかった。彼が656年にその座に着くまえには、3人がカリフの任にあった。アリーのカリフ在任期間は短かったが、その期間はかなり混乱しており、ムスリム同士の2度の有名な戦い、すなわちラクダの戦い(656年)とスィッフィーンの戦い(657年)が起きている。そして661年1月、イラクのクーファにあるモスクで殺害され、彼のカリフ位は終わった。だが、シーア派にとって、こうした話はイスラームに対する真の神意を表わすものではない。彼らの考えでは、アリーこそが最初からウンマの指導者になるべきだったという。では、いかにしてアリーはシーア派の宗教的な伝統において、これほどまでに重要な役割をになうようになったのだろうか。なぜシーア派は、アリーが預言者ムハンマドの正統な後継者であり、ムスリム共同体の指導者だと信じているのか。

 シーア派は一連の出来事を次のように語る--。ムハンマドは妻アーイシャの家で他界した。それは誕生してまもないムスリム共同体にとって悲劇的・破壊的な打撃となった。すでに少しふれておいたが、ムハンマドは息子ふたりに先立たれていた。では、だれがコミュニティを指導するのか。これが緊急の課題だった。ムハンマドの後を継ぐのにもっともふさわしいのがアリーだとする主張は、きわめて印象的なものだった。幼くして孤児になったムハンマドは、アリーの父親である叔父のアブー・ターリブに育てられる。やがてアリーは最初のイスラーム信者のひとりとなった。ムハンマドの伝記編纂者のイブン・ヒシャームは、アリーが最初のイスラームを受け入れた男性だったとしている。ムハンマドがマッカからマディーナヘヒジュラ(聖遷)を敢行したさい、アリーは預言者の代わりにマッカに残り、危険を顧みずにムハンマドのベッドで寝ていたという。のちにマディーナでムスリム共同体がつくられると、彼はムハンマドの娘ファーティマと結婚する。伝承によれば、軍事的才能と勇気の持ち主だったアリーは、パドルの戦いで、敵軍の3分の1を片手で殺したとされる。ウフドとフナインのあいつぐ戦いでは、ムハンマドを守り、ハイバルの戦いでは、鉄扉を盾代わりにもちいたともいう。さらに彼は、ムハンマドの代わりに重要な任務をまっとうし、ときにはムハンマドの書記役もつとめた。ムハンマドがマッカ市民と結んだフダイビーヤの和議[628年。フダイビーヤはマッカ郊外の地]では、彼が和議書を草し、631年には、ムハンマドからミナー巡礼者たちに対するクルアーン第9章の朗誦と、マッカにある偶像の破壊を命じられている。

 アリーの一族的な結びっきや敬虔かつ勇気のある行動は、スンナ派とシーア派双方から崇めているが、後者はさらにそれを一歩進め、632年3月16日のエピソードについて次のよ引こ語る。ムハンマドがマッカヘのハッジ(別離の巡礼)から戻ったこの日、ガディール・フンムの池のほとりで立ちどまり、鞍で説教壇を設けた。そして、アリーの腕をとって自分の脇に立たせ、彼が自分の後継者であり、ムスリム共同体の指導者になるだろうと宣言して、こう言ったという。「諸君、分かってほしい。アリーと私の関係は、アーロンとモーセの関係と同じだということを。ただ、わたしのあとに預言者は現われないだろう。私の亡きあと、アリーが諸君のワリー(守護者)[聖者とも。クルアーンでは「神の友、親しい友人」]となる。だれであれ、わたしをマウラー(主人)[保護者・被護者]とする者には、アリーがウムラーとなる]

 この伝承は、スンナ派によるアリー崇拝の中核となっており、イマーム制に対する同派の教義的なかなめでもある。こうして同派はワリーという語をアリーと関連づけて解釈し、彼がコミュニティの守護者であり、ムハンマドの後継者として明確に指名された唯一の存在だとする。ほとんどのシーア派によれば、スンナ派の歴史解釈における最初のカリフ3人--アブー・バクル、ウマル、ウスマーンー-は、簒奪者だったという。ムハンマドの知識を受けつぎ、それをムスリムの信者たちに解きあかしたのが、ほかならぬアリーだったというのである。

 こうしたアリーの説教や手紙、格言などは、11世紀にシャリフ・アッ=ラディ[970―10150バグダード生まれのシーア派学者・詩人]が編んだ、大著『ナフジュル・バラーガ(雄弁の道)』にまとめられている。シーア派にとって、アリーはムハンマドにつぐ人物であり、純潔で神に導かれ、誤ることのない信仰の持ち主だった。最後の審判の日へいたる道を歩む人々のとりなしをおこなおうともした。数多くの奇跡的な偉業を帰せられた彼はまた、ムスリムのカリグラフィーではライオンとしてしめされている。

 シーア派はアリーに対する崇拝を公にしているが、ムスリムが可能なら生涯1度はおこなうべきとされるマッカ巡礼と同様、バグダードの170キロメートル南に位置する都市ナジャフ[クーファ南西郊にあり、刺殺されたアワーの遺体埋葬地]に、敬虔な巡礼[ジヤーラ]をおこなうようすすめている。シーア派にとって、ナジャフはイスラーム第3の聖地とされる。そこにはアリーの霊廟が建っているからである。ムスリムは簡素な墓に埋葬されたムハンマドにならうべきとする勧告にもかかわらず、今日、アリーの霊廟は金箔もまばゆいドームがそびえる壮大さを誇っている。このナジャフヘの巡礼は、ムハンマドの生誕日や他の重要な生誕祭と同様、アリーの誕生日と命日におこなうようとくにすすめられる。シーア派は、イスラームの真の知識がアリーと彼の子孫たち、つまり同派のイマームたちに対する崇敬からのみえられると考えている。ムハンマドの精神がいわば彼らに及んでいるとするのだ。ここで注目したいのは、シーア派のモスクから礼拝の呼びかけ[アザーン]がなされると、スンナ派の唱言の最後に、さらに「そしてアリーは神の友(フリー・アッラー)」という文言が追加されているということである。もしムスリムの訪問者が見知らぬ町に来て、モスクのミナレットからの呼びかけにこの言葉が入っているのを聞けば、そこがシーア派の地であることをただちに理解するだろう。

今日のシーア派

 さまざまなイスラーム宗団につけられた教義的なラペルは、慎重に扱う必要がある。くりかえすようだが、十二イマーム派は世界のシーア派のなかで最大規模の信者数をもっており、今日シーア派といえば通常は彼らをさすまでになっている。だが、いうまでもなく彼らだけがシーア派なのではない。前述したように、ザイド派やイスマーイール派もまたシーア派であり、さらにより少数の宗団もある。これら小宗団のうち、もっとも知られていない宗団のひとつがアラウィー派だが、じつは2011年以降、シリア内戦のニュースでしばしば登場するのが同派なのである。

 これもすでにみておいたが、スンナ派とシーア派との主たる亀裂因は、もともとはだれがムスリム共同体を指導するかの解釈のちがいにあった。しかし、シーア派はその分裂過程においても、救済史や重要な暦日、追悼儀礼、霊廟、ハディース集成書、さらにイスラーム法の定式化などを独自に発展させた。

 では、シーア派とスンナ派とは何か異なるのか。この問いに対する多くの非ムスリムの答えはあまりにも漠然としており、正確ともいえない。こうした理解不足は政治問題についてもみてとれる。たとえば2006年のニューヨーク・タイムズ紙で、ジエフ・スタイン[1944生。コラムニスト・ノンフィクション作家]は、ワシントンの高官たちがこの問題について著しく無知・無関心であることを暴露している。彼の一文を引用していえば、CIAによるムスリムのスパイ補充や情報分析活動を分析する、下院情報小委員会の委員長をっとめていたある共和党女性議員は、スンナ派とシーア派の違いを知っているかと質問された。そして、アルカーイダ[主体はスンナ派]の指導者がどの派に従っているのかを尋ねられて、こう答えたという。「アルカーイダはもっとも過激派です。それゆえスンナ派では…。まちがっているかもしれません。でも、わたしは正しいと思います]。こうした宗教的リテラシーは今日の重要な問題といえる。それが強大な力をもつ者たちにみられる場合はとくにそうである。

 シーア派は伝統的に自分たちを、世界中でしいたげられている恵まれない数[与万人の訴えを支持する存在だと考えてきた。専制君主や貧者を搾取する者たちと戦ってきたからである。フサインの話はこの信念によく合っている。彼は沿しみを味わい、暴君に対して立ち上がろうとする人々にとっての象徴的な人物だった。シーア派の祝祭にみられる極端なまでの感情的な高揚は、参加者だちの先祖がたえしのばなければならなかった迫害の記憶と、世界の戦争で破壊された地域におけるシーア派とスンナ派のあいだの、今も続く緊張感によって増幅されている。

 今日、シーア派イスラームは世界的な現象となっている。その活力の源泉は、まちがいなくこれからも続くであろう多様性にある。シーア派の信者たちは中東のムスリム多数派の国々だけでなく、世界各地のコミュニティに住みながら、彼ら独自の特性や実践を守っている。政治的な大変動や経済的な諸問題によって大規模な移住を余儀なくされたシーア派のコミュニティは、ロサンゼルスやトロント、ロンドンなど、広域に拡散しながら発展をとげ、今ではインターネットやメディアのおかげで、彼ら同士の世界を横断してのコミュニケーションが容易になっている。これら移住者と故郷とのむすびつきは、とくに非ムスリムが圧倒的に多い遠方の地で、信者たちがいかに生活するかを指導するマルジャー[マルジャー・アッ=タクリードとも。字義は「習従の源泉、模倣の鏡」]--中東におけるシーア派イスラーム法の最高権威--の支援によって維持されている。

 宗派間の対立が続いたあと、何世紀にもわたって中東のスンナ派とシーア派はむしろ協調的に共存した。だが、21世紀初頭のいわゆる「アラブの春」の余波によるさまざまな変革によって、両宗派のかっての対立があらためてかきたてられ、その結果、平和と宗教的協調の可能性は悲劇的に遠のいたように思える。しかし、視野を広げて世界全体のムスリムをみれば、あきらかに両派の信者たちはさらなる分裂より統合へと向かっているといる。そして将来、そうした動きが確固たる希望の土台を築くはずである。

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