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未唯への手紙

未唯への手紙

イスラームの第1の柱--信仰告白(シャハーダ)

2016年10月03日 | 2.数学
『イスラーム百科』より

信仰告白は宗教コミュニティの宗規にのっとった信条形式で、イスラームの弟1かつ最重要な柱である。そこでは次の文言が唱えられる。「アッラーのほかに神はない。ムハンマドは神の使徒(ラスル・アッラー)である」。この証言は、神に服従してイスラームヘの改宗を望む者が、証人の前で3度声を上げてくりかえす。また、すべてのムスリムはシャハーダを唱えてから、日々の祈りをばしめる。

シャハーダは単純かつ短い唱言であり、2つの部分からなる。最初の唱言である「アッラーのほかに神はない」は、純粋で妥協を許さない--神教の表明である。このメッセージはムハンマドがなおも多神教徒[ムシュリク]が多かったアラビア半島の同胞たちと、キリスト教徒たちに向けられたものである。ィスラームでは、唯一神だけがもっているものになんらかの実体ないし人物があやかると主張することは、呪うべき罪とされる。この罪はアラビア語でシルクと呼ばれる。こうした主張をおこなったのは、「アッラーの娘たち」として知られ、ムハンマドの宣教時にカアバ神殿で崇拝されていた、マッカの3女神を信奉する異教のアラブ人たちである。さらに、「アッラーのほかに神はない」という唱言はまた、キリスト教の教義である聖三位一体とイエスの神性に対する強力な挑戦でもある。

一方、シャハーダの後半部「ムハンマドは神の使徒である」は、ムハンマドの預言者としての地位、すなわち神の使徒であることを確認・有効化するものである。アラビア半島の母国では、自らが神から授かった啓示を伝える真の預言者であるというムハンマドの主張は、異教の同胞たちから非難され、一笑に付された。かろうじてアラビアのわずかなユダヤ人だけが、ムハンマドが説教を通じて伝えたメッセージを受け入れようとしたにすぎなかった。彼の死後、キリスト教徒たちもまた彼が預言者であるとする主張を疑った。今日、一部のキリスト教徒は、たしかにシャハーダの前半部で示される一神教を支持しているものの、一般のキリスト教徒は、シャハーダ後半部で表明されているようなムハンマドの位置づけを受け入れない。それでも世界中で16億人近くいるムスリムは、祈りのさいに、ムハンマドが神の使徒であるとする信仰を確認しているのである。

神が唯一の存在であるということ(タウヒード)は、イスラームのもっとも重要な考えである。それゆえ、クルアーンはイエスに神性をあたえることは由々しき罪だと非難している。

 これ啓典の民(キリスト教徒)よ、汝ら、宗教上のことで度を過してはならぬぞ。アッラーに関しては真理ならぬことを-ことも言うてはならぬぞ。よくきけ、救主イーサー(イエス)、マルヤム(マリア)の息子はただのアッラーの使徒であるにすぎぬ。また、(アッラー)がマルヤムに託された御言葉であり、(アッラー)から発した霊力にすぎぬ。されば汝ら、アッラーとその(遣わした給うた)イ吏徒たちを信ぜよ。決して「三」などと言うてはならぬぞ(三位一体の否定)。差し控えよ。その方が身のためにもなる。アッラーはただ独りの神によしますぞ。ああ勿体ない。神に息子があるとは何事ぞ。天にあるもの地にあるものすべてを所有し給うお方ではないか。イ呆護者はアッラー独りで沢山ではないか(4・171)。

イスラームは、この神の唯一性という中心的な教義をユダヤ教と共有している。伝承にあるように、神がシナイ山でモーセに啓示として授けた最初の十戒は、まさにこのメッセージだった。「お前はわたしのほかに何ものをも神としてはならない」(旧約聖書『出エジプト記』20・ 3)。クルアーンで神の唯一性を説いた重要な章は、第112章「信仰ただひと筋」である。そこにはこう記されている。

 告げよ、「これぞ、アッラー、唯一なる神、

 もろ人の依りまっるアッラーぞ。

 子もなく親もなく、

 ならぶ者なき御神ぞ」(112・1-4)。

シャハーダの核である「アッラーのほかに神はない」という唱言は、アラビア語の碑文にもっとも数多く頻出している。それはモスクの礼拝室にもみられ、さらに多くの国では、ムスリム王朝が発行した鋳貨にも刻まれている。こうしてこの唱言はムスリム共同体に広まり、人生における神の役割をたえず喚起しているのだ。

ムスリムの学者たちは何世紀にもわたってシャハーダの根本的なメッセージ今吟味し、ムスリム共同体にそのより深い意味を説きながら、より広範な信条丈を占いてきた。たとえばガザーリーによれば、「神は本質において唯一者であり、パートナーをもたず、ただひとりで、類似者はなく、不滅で、敵対者もいず、匹敵する者もいない。(…)神は最初であり、最後でもある/)という。ガザーリーはまたシャハーダの前半と後半部が一緒に唱えられなければならないと強調してもいる。つまり、シャハーダは(使徒の証人による〈ムハンマドは神の使徒である〉という唱言を伴わないかぎり、不完全かつ脆弱なものだというのだ。

シャハーダの質的な重要性については、15世紀にガザーリーのイランから遠く離れたアルジェリアで活動していた、ムスリム学者のムハンマド・イブン・ユースフ・アッ=サヌースィ [1435? -90]が、雄弁かつ熱情をこめて以ドのようにまとめている。

 啓示によってシャハーダは心の中にあるイスラームの表現となっており、それをタトれてはだれであれその信仰を受け入れられない。それゆえ、理性的な人間はしばしばシャハーダを想い起こして、そこに含まれる信仰箇条を心に刻まなければならない。そうすることによって、これらの信仰箇条とその意味が肉と血にまざりあうのだ。そして神が望むなら、彼(信者)はそれらのうちに際限のない神秘と驚異を見るだろう。

アッ=サヌースイはまた、次の点も明確にしている。すなわち、ムスリムがシャハーダの後半部を唱えれば、その文言が、初期の預言者たちに対する信頼や彼らが説いた内容を要約していることに気づくはずだ、と。[ムハンマドがそうしたすべての真実を確認するために登場しているからである]。そういうのだ。

では、いかにしてシャハーダを実行するか。すべてのムスリムは真摯な心がまえをもち、意味を適切に理解しながら、それを正確に記憶し、声を出して唱えなければならない。理想的には、ムスリムは毎日そして生涯を通じてシャハーダを唱え、自らの経験をとおしてシャハーダの重要性を確認・深化させなければならない。それが場所と時間を問わず、つねに力と有効|生をもっているからである。さらにシャハーダは、人間がいつわりの神を敬ったりせず、ひたすら唯一神と向きあうよう後おしもする。クルアーンはそれについてこう言明している。[アッラー、此の生ける神、永遠の神をおいて他に神はない](2・255)。一神教としてたしかにイスラームは厳格なものだが、シャハーダはムスリムの日常生活の基盤となる信仰のもっとも大切な枠組みを表現し、要約しているのである。この教義はイスラームの柱の他のすべてをつらぬいている。

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