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<インターネット>の次に来るもの トラッキング(追跡していく)

『<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則』より ⇒ ブログ「未唯への手紙」は思考をトレースするためのもの!

セルフ・トラッキングは健康分野だけでなく、さらに広い応用が可能だ。それは人生と同じぐらい大きな話だ。ウェアラブルとなった小さなデジタルの目や耳が、誰に会って何を言ったかといった1日のすべての瞬間を記録し、われわれの記憶を助けてくれる。やり取りしたメールや文章を記録すれば、現在進行形の心の日記になる。そこには聴いた音楽や読んだ本や記事、訪れた場所も加えていける。日常の行動や出会いの中でのちょっとしたこと、そうした日常から離れた出来事や経験も同様に、ビットの世界へと流れ込み、時系列な流れと混ざり合っていく。

その流れは人生の流れと呼ばれる。それは1999年に、コンピューター科学者のデビッド・ガランターが最初に提唱したものだが、ただのデータのアーカイブ以上のものだ。彼はライフストリームを、コンピューターを構成する新しいインターフェースだと考えていた。デスクトップに代わるのは、新しい時系列な流れだ。ウェブブラウザーではなくストリームブラウザーだ。がランターと彼の大学院の学生エジック・フジーマンは、ライフストリームのアーキテクチャーを以下のように定義している。

 ライフストリームは時系列に並べられた文書の流れで、あなたの電子版人生の日記のようなものだ。あなたが作った文書や他人が送ってきた文書はすべてライフストリームに格納される。そのストリームの最後尾には最も過去の文書がある(いわばあなたの電子版人生の出生証明書だ)。その最後尾から現在へと前に進んでいくと、写真、手紙、領収書、映画、留守番電話、ソフトウェアといったより最近の文書が現れる。この現在を超えて未来に行くと、備忘録、カレンダーや仕事の予定など、これから必要になる文書が出てくる。

 ゆっくり腰を下ろしてどんな文書が来るか見てみるといい。ストリームの先頭にはどんどんと新しい文章が積まれていく。カーソルを動かすことでそのストリームを閲覧でき、画面卜の文章に触れればページがポップアップして中身をさっと見ることができる。あなたは過去に戻ってもいいし、未来に行って来週することや次の10年の予定を見ることもできる。あなたのサイバーな人生のすべてが、まさに目の前にある。

誰もが自分だけのライフストリームを生成する。私があなたに会ったとすると、私とあなたのライフストリームは時間軸で交差する。また次週会うとすれば将来また交差するし、去年会っていたり写真をシェアしていたりすれば、過去に交差している。われわれのストリームは艮い糾み紐のように複雑に絡み介っているが、どのストリームも厳密に時系列に並んでいるのでそれを追りていくのは簡単だ。われわれは自然と時間軸に沿ってある出来事に行き着いていく。「それはクリスマス旅行の後だったけれど、誕生日の前にあったな」という感じだ。

ライフストリームを物事を整理することの喩えに使う利点について、ガランターはこう言っている。「『その情報をどこに置いたんだろう?』という疑問に対する答えはいつも一つしかない。それは私のストリームの中だ。時間軸や年代記、日記、日誌、切り抜き帳といったアイデアは、ファイルの階層構造という考え方よりもさらに古いし、人間の文化や歴史に根差したよっぽど本質的な方法だ」。ガランターはかつてサン・マイクロシステムズの代表にこう語っている。「私が新しい記憶として、例えば、ある晴れた日にレッド・パロットの店の外でメリッサに会ったとしたら、その記憶に名前を付けたり人名簿に書き込んだりはしない。私は記憶の中にあるどんなものも、検索の鍵として使うことができる。同じように、電子ドキュメントに名前をいちいち付けるべきではないし、ディレクトリーに登録する必要もない。他のストリームを自分のストリームに混ぜ込めばいいのだ--他のストリームの持ち主が許可してくれる範囲で。私自身の個人的なストリーム、つまり私の電子版人生の物語は、他人のストリームも入れることができ、そうしたストリームは私が参加する集団や組織に属するストリームとなる。そしてやがては、例えば新聞や雑誌のストリームも自分の中に取り込んでもいい」

ガランターはこのソフトの商用化を1999年以来何度か試みたが上手くいかなかった。彼の特許を買った会社は、アップルがライフストリームのアイデアを盗んで、タイムマシンというバックアップのシステムに使ったと訴訟を起こした(アップルのタイムマシンでファイルを修復する場合は、時間軸を横に動かして目的の日まで遡る。その時点でコンピューターに入っていたものの内容が「スナップショット」として残っているのだ)。

しかし現在のソーシャルメディアでは、実際に稼働しているライフストリームの事例をいくつか見ることができる--フェイスブックだ(中国ならウィーチャット)。あなたのフェイスブックはあなたの人生に関する写真やアップデート、リンク、アドバイス、その他の文書で構成され流れ続けている。そのストリームの先頭に、常に新しいものが付け加えられるのだ。いま聴いている音楽や観ている映画を表示するウィジェットを追加することもできる。時間軸に沿って過去を回顧するインターフェースまで付いている。10億以上の他の人々のストリームがあなたのストリームと交差し合う。友人(もしくは他人)が投稿に「いいね!」を押したり、画像に写っている人にタグ付けすれば、二つのストリームが絡み合う。フェイスブックは毎日のように、最新の出来事やニュースのストリーム、それに会社のアップデートを世界規模のストリームに加えてい

しかしこうしたことですら、全体像の一部に過ぎない。ライフストリームとは活発で意識的なトラッキングだとも考えられる。人々はスマートフォンで写真を撮ったり、友人にタグを付けたり、フォースクエアで熱心にチェックインしたりして積極的に自分のストリームをキュレーションしている。フィットピット[Fitbit]で運動したデータや、万歩計の歩数ですらそうなのは、つまりそれらが注意を向けるべきものだということだ。ある程度の注意を振り向けない限り、自分の行助は変えられない。

意識されることなく活発でもないが、同様に重要なトラッキングの分野もある。この受け身型のトラッキングは、ライフログとも呼ばれる。それはただシンプルに、機械的に、自動的に、うわの空で、すべてのものを完璧にずっと追跡する。すべてのものが、なんのバイアスもなく、一生汎にわたって記録される。それは、将来もし必要になったら注意を払えばいい。ライフログは紀録したもののほとんどを一度も利用しないので、極めて効率が悪く無駄の多い手法だ。しかし他の多くの非効率なプロセス(例えば進化など)と同じく、そこには天才的なところがある。現在ライフログが可能になったのはもっぱらコンピューターやメモリー、センサーなどが格段に安価になったためで、たいしたコストもかからずにそれらを浪費できるようになったからだ。そして、コンピューターの能力を創造的に浪費することは、多くの最も成功したデジタルプロダクトや企業の秘訣であり、ライフログを使う恩恵もまた、コンピューターを無駄遣いすることで得られる。

ごく初期のライフログの例としては、1980年代半ばにテッド・ネルソンが行なっていたものがある(彼はそういう呼び方をしていないが)。ネルソンはハイパーテキストを発明した人物だが、他人との会話をすべて、どこでどんな内容であったとしても、録音したり映像に収めたりしていた。彼は何千人にも会っていたので、大きな倉庫を借りて、その中一杯に録音したテープを保管していた。もう一人は1990年代のスティーブ・マンだ。彼は当時MITにいて(現在はトロント大学)、頭にビデオカメラを装着し、毎日の生活を映像に記録していた。すべてを毎日、一年中だ。ここ25年間、起きている間はカメラを動かしっぱなしにしていた。彼の装置では、片方の目の前にスクリーンが付いていて、カメラが彼の視点から映像を撮っていたが、これはグーグルグラスに先駆けること20年も前の話だ。1996年7月にマンと初めて会ったとき、彼は自分がやっていることを「定量測定セルフ・センシング」と呼んでいた。顔の前にカメラがあって半分がよく見えず、マンとはあまり自然に会話できなかったが、彼はいまだに自分の人生すべてをいつでも記録している。
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