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ハイデガーからアーレントヘ

『アーレント=ハイデガー往復書簡』より ⇒ ハイデガーの講義を聞いて、すっかり惚れ込んだハンナ・アーレント へのハイデガーからの書簡 フライブルグ大学

1 ハイデガーからアーレントヘ

 二五年二月一〇日

 親愛なフロイライン・アーレント!

 どうしても今晩のうちに出かけていって、あなたの心に語りかけずにはいられません。

 私たちのあいだでは、すべてが率直で、明白で、純粋でなくてはいけない。そうであってのみ、私たちは出会うのを許されたというそのことにふさわしくなれるのです。あなたが私の教え子になり、私があなたの教師になったことは、私たちに起きたできごとのきっかけにすぎません。

 私には、あなたを所有することはけっして許されますまい。しかしあなたは今後ずっと私のいのちの一部となるでしょう、そして私のいのちは、あなたをよりどころにして成長してゆくのです。

 私たちの存在をつうじて私たちがどんな別のありようになりうるのか、私たちにはけっしてわかりません。しかし、私たちがどのくらい破壊的・阻害的に作用してしまうかは、少し思慮を働かせればわかることです。

 あなたの若いいのちがどのような道をとるのかは、まだ見えていません。その道を私たちは柔順に受けいれましょう。そしてあなたにたいする私の忠実さは、ただひとえに、あなたが自分自身に忠実なままでいられるよう、力添えをすることでなくてはなりません。

 あなたの《心の動揺》が消えたということは、あなたが娘らしい純な本質のもっとも内なる核を見いだしたということです。そしてあなたはいつか理解し、感謝することでしょう--私にではありません--《面会時間》のときのあの訪問が決定的な一歩だったということに。あのときあなたは、敷かれた軌道から身をそむけて、男だけが耐えうる学問的研究のおそろしい孤独に足を踏み入れたのです--男ですら、その重荷と、生産的たろうとする死に物狂いの努力をもちこたえてはじめて耐えうる孤独に。

 《喜びなさい!》--これがあなたへの私の挨拶となりました。

 そしてみずから喜ぶときにのみ、あなたは喜びを与えうる女性、そしてまわりのすべてが歓喜、安心、やすらぎ、そして生への尊敬と感謝となるような女性になるでしょう。

 そのようであってはじめてあなたは、大学が与えうるもの、与えるべきものを、わがものにするための正しい用意ができたことになります。そこにこそ真正さと真剣さがあるのであって、あなたの同性の多くに見られる強迫じみた猛勉強にではありません--そんな熱心さはいつかは崩れ去って、彼女たちを途方にくれさせ、みずからに不誠実たらしめるのです。

 そして独特の精神労働に取り組もうとするのであればなおのこと、女にもっとも固有な本質を根本的に保持することが決定的に重要です。

 出会うのを許されたということを、私たちは贈りものとして胸の奥ふかくに大事に守ってゆきましょう。清らかに息づいているその贈りものを自己欺瞞などによって醜く歪めたくないものです。つまり、魂の友情などといった幻想は抱かないことにしましょう、そんなものは人間のあいだには成り立ちえないものなのですから。

 私はあなたの純真な瞳、あなたの愛らしい姿かたちを、あなたの曇りない信頼、あなたの乙女らしい本質の善良さと純粋さから、切り離すことができないし、切り離したくもありません。

 だが、そうすると、私たちの友情という贈りものは、私たちがそれを守ることで成長したいと思うような一つの義務となります。そしてそれはただちに私に謝罪をうながします。散歩の途中で私が一瞬われを忘れてしまったことを、赦してください。

 でも、どうかあなたへの感謝を言わせてほしい、そしてあなたの曇りない額にくちづけするとき、願わくばあなたの本質の純粋さを、私の仕事に取りこむことが許されますように。

 喜びなさい、よきぴとよ!

 あなたのM・H

2 ハイデガーからアーレントヘ

 二五年二月二一日

 愛するハンナ!

 なぜ愛は、ほかの人間的可能性のすべてを越えるほど豊かで、当事者たちにとって甘美な重荷になるのだろう? それはぼくたちが自分を、自分の愛するものへ、それでいて自分でありつづけるものへと変えてゆくからだ。そのときぼくたちは愛する相手に感謝したくなり、その人を満足させるにはどんなことをしても足りないと思うのだ。

 おたがいに感謝するだけではすまない。愛は感謝を自分自身への忠実さに、相手への無条件の信頼に変える。こうして愛は、愛にもっとも固有の秘密をたえず増大させてゆく。

 近さはここでは、相手から最大限遠くにいることだ--その遠さは、視界をけっしてぼやけさせるものではない--むしろ《きみ Du》を、一つの啓示のように透明に--しかしとらえがたく--〈ただそこにいること Nur-Da〉にしてしまうのだ。他者が突如われわれの人生に閑入してきて眼前にいるということは、どんな感情をもってしても克服できることがらではない。人間の運命は、人間の運命にみずからを委ねるのであって、純粋な愛のなすべき務めは、この〈みずからを委ねる Sichgenben〉ということを、最初の日とおなじように活きいきと保ちつづけることなのだ。

 もしきみが一三歳でぼくに出会ったとしたら、もしそれがいまから一〇年後であったとしたら--そういう謎解きはやってみてもしかたない。そうではない、いま出会ったのだ、きみの人生が静かに女のそれになろうとしているときに、きみが予感、憧憬、開花、笑い声を--きみの少女時代を--失うことなく、女らしくくつねにひたすら与える Immer-nur-Schenken〉というありようの善良さ、信頼、美しさの源泉として、きみの人生にともに持ちこむべきときに。

 この瞬間にたいして、ぼくになにができる?

 つねに心をくばること。きみのなかでなにか一つでも壊れることがないように。きみの過去が困難や苦痛として抱えているものが純化してゆくように。異物だの他人の口出しだのが、入りこんだりしないように。

 きみの環境で女性的本質のもつ可能性は、《女子学生》たちが思っているのとはまったくちがうし、彼女らが予想しているよりはるかに有利なのだ。きみにぶつかって、空虚な批判は砕け散り、僣越な否定は退散するがいい。

 男の問いは、ひたすらな献身に接して畏敬を学び知らなくてはならない。一面的な仕事への没入は、女性的存在の根源的な全体性に触れて、世界のひろがりを学び知らなくてはならない。

 好奇心、うわさ話、学校での見栄の張り合いは、根絶できまい。高貴さを自由な精神生活に与えることは、女だけが、そのありようにおいてよく果たしうるものだろう。

 新しい学期がはじまるころは、もう五月だ。ライラックが古びた塀越しに咲きこぼれ、人目をしのぶ庭々に、果樹が枝もたわわに花をつけるだろうね--そしてきみは薄い夏服姿で古い門を通ってゆく。夏の夕暮れがきみの部屋へ入ってきて、きみの若い魂の鐘を鳴らし、ぼくたちのいのちのひそかな明るさを告げ知らせるだろう。やがて草花が目ざめ、きみのかわいい手がそれを摘む。森の土には苔が。きみのしあわせな夢がそこを歩むだろう。

 そして、ぼくはまもなく孤独な山歩きで、山に挨拶するだろう。その岩だらけの静寂にきみもいつか相まみえ、その稜線に、きみの本質の抑えられていたものがこだまして、ふたたびきみへもどってくるだろう。そしてぼくは山の湖を訪れて、断崖のもっとも険しい急斜面から、しずかな湖底を見おろすだろう。

 きみのM
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