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道元の強靫な思考

『日本精神史』より 『正法眼蔵』--存在の輝き ⇒ 道元の思考の方が世界宗教っぽい

道元の強靫な思考は、こういう現実肯定の存在論を生み出すところまで行った。現実を超えたむこうに超越的な彼岸や来世を見るのではなく、現実のそのむこうにさらなる現実をうかがうその思考は、宗教的思考というより哲学的思考というにふさわしいが、道元にしてみれば、それこそが仏法の真髄にせまる思考にほかならなかった。仏法を思考するとは、現実に背を向けるのではなく、現実にいっそう肉薄することだ。同時にそれは、乱世にあって乱世に呑みこまれることなく、ものごとの本質を洞察することによって、生きるに値する世界を現出させようとすることだ。法然や親鸞の思考が、乱世に生きる人びとの悲惨と苦難と絶望を目の前にして、一切衆生平等往生を強く希求し、阿弥陀仏の大悲大慈を絶対的な真実と見なすことによって専修念仏や悪人正機の思想をたぐり寄せ、もって時代の不幸と不条理を克服しようとしたとすれば、道元は、時代の混乱と迷妄に正面から向き合い、混乱と迷妄のその奥にゆるぎない真実を探り出すことによって、時代の不幸と不条理を克服しようとしたのだった。仏法の行きわたった世界においては、「迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり」であるとともに、「まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし」であるといえるのも、そして「諸仏諸祖の行持によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達」し、逆に、「われらが行持によりて、諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達する」といえるのも、現実の奥にいっそう現実的な存在の輝きを洞察する、透徹した思考の働きによることだった。道元にとって、思考することが心に充実を得ることであり、安らぎを得ることだった。

透徹した力強い道元の思考は、その一方でまことに融通無碍な動きをする。無軌道といいたくなるほどに自在な動きをする。すでに引用した第一「現成公按」の「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」というリズミカルな文など、思考の自在な動きの好見本とすることができるが、もう少し気楽な事柄に取材した例として、同じ第一「現成公按」に次の文がある。現代語に訳して引用する。

 魚が水を泳ぐのに、どこまで行っても水の果てはないし、鳥が空を飛ぶのにどんなに飛んでも空の果てはない。とはいっても、魚や鳥は昔から水や空を離れることはない。ただ、水や空を広く使う必要があるときは遠くまで行き、小さく使うだけのときは近くを動く。そうやってそれぞれがその場の全体を使いつくし、どこといって動きまわることのない場所はないのだが、鳥はもし空を出ればたちまち死んでしまうし、魚はもし水を出ればたちまち死んでしまう。とすれば、以水為命(水が命である)であることが分かるし、以空為命(空が命である)ことが分かる。また、以鳥為命(鳥が命である)とも、以魚為命(魚が命である)ともいえる。また、以命為鳥(命が鳥である)とも、以命為魚(命が魚である)ともいえる。こうしてさらに先へと進むことができる。(岩波・日本思想大系『道元上』三七上二八ぺよン)

空に果てがないというのは、天空を見上げた感覚として分からないではない。しかし、水に果てがないというのはどういうことか。文脈からして、海の広さをいうのではあるまい。道元はみすからが泳ぐ魚の身になって、水に果てがない、といっているのだ。とすれば、水域の大小は問題ではない。小さな池の魚でも、小川の魚でも、大海の魚でも、泳ぎまわるその場所を果てしないと感じている。そう道元は考えるのだ。鳥も同じで、天空がどこまでも続くから果てしないのではなく、広く飛ぶ鳥は広いなりに、小さく飛ぶ鳥は小さいなりに、空を果てしないと感じているというのだ。

そのように無理なく魚や鳥に内在する道元の思考は、さらにそこを出て鳥の居場所である空や、魚の居場所である水へと内在していく。以鳥為命(鳥が命である)と以魚為命(魚が命である)の二語は、それぞれ空の立場と水の立場に立っていわれたものだ。空と水はいろんな動植物を内にふくみ、それらが動き、生き、暮らす場としてあるが、空の側から鳥に注目すれば、鳥こそが空を本領とするにふさわしい空の命であり、水の側から魚に注目すれば、魚こそが水を本領とする水の命だと考えられる。魚から水へ、鳥から空へ、そのように自在に動くのが道元の思考だ。さらには、以命為鳥(命が鳥である)といい、以命為魚(命が魚である)という。思考は今度は命に乗りうつっている。空と鳥のあいだを、あるいは水と魚のあいだを自由に行き来する命に乗りうつって、命が二定の形を取って現に存在するに至ったもの、それが鳥であり魚であるといっているのだ。漢字四文字を使った展開はそこで終わっているが、道元自身、「さらに先へと進むことができる」といっているように、以命為空、以命為水とか、以鳥為鳥、以魚為魚といった思考の展開は十分に可能なのだ。

現実のすべてが存在の輝きをもってあらわれ出る世界は、そのような融通無碍の思考によって洞察され表現されるものにほかならない。思考が融通無碍の動きによって現実の世界に肉薄するとき、現実の一つ一つの存在が新鮮な輝きをもってあらわれてくるのだ。修学・修行のなかで自己と仏祖がつながり、やがて自己が忘れられていくように、同じ修学・修行のなかで自己と世界が、自己と全自然が、自己の一つ一つの存在がつながり、やがて自己が忘れられていく。池に魚が泳ぐのが見える。空に鳥が飛ぶのが見える。わたしたちの目は魚を追い、鳥を追う。が、水がなければ魚は生きられす、空がなければ鳥は生きられない。そう考えるとき、魚のむこうに水が、鳥のむこうに空が、価値あるものとしてあらわれ出る。さらに、魚と水、鳥と空との関係そのものへと考えが及べば、そこに行き交う命が価値あるものとしてあらわれ出る。そのような魚、鳥、水、空、命のあらわれが存在の輝きにほかならない。驚くべき自由な、自立した思考だが、道元はそれが自分だけに特有の思考ではなく、万人に共有される思考だと考えていた。思考とは本来そのように自由な自立した運動体だと考えていた。そう考えていたからこそ、存在することそのことが価値であるような現実空間をのびやかに動きまわるおのれの思考の軌跡を、くりかえし倦きることなく人びとに提示しようとしたのだ。

『正法眼蔵』は読みやすい書物でも分かりやすい書物でもない。途中で投げ出したくなることも珍しくない。しかし、霧のなかに迷いこんでいまいる場所も行く先も皆目見当がつかないようなときでも、書き手のひたむきさは疑えない。ごまかしたり惑わしたりする気などまったくなく、まっすぐ考え、まっすぐこちらに向かって語りつづけるのが『正法眼蔵』だ。見てとれるのは、思考が純粋な形を取ってそこにあらわれているさまだ。読み手としては、迷っても惑っても考えつづけていくしかなく、実際、考えつづけるうちに多少とも論の筋道をたどれるようになる。思考と思考が通じ合うのだ。道元は現実のすべてが存在の輝きを具えてたがいに響き合うことこそ、世界の本来のありかただと考えたが、そのありかたは書物を媒介にした書き手と読み手のあいだにも成立しうると考えていた。いや、書き手と読み手のあいだでは思考が通じ合う以上、その通じ合いはとりわけ純粋な、まさしく身心脱落の名に値する通じ合いだと考えていた。乱世とも濁世ともいわれる時代にあって、強い現実肯定の意志につらぬかれ、なにかが、なにごとかが存在するとすれば、存在するというそのことに価値があるとする、雄渾で豊饒な存在論ないし世界観は、そのような思考への信頼なくしてはなりたちえないものであった。

道元は厳しい戒律をおのれに課し、仏道一筋の日々を生きぬこうとする仏者だった。しかし、『正法眼蔵』は信仰の書というより思索の書と呼ぶのがふさわしい。信仰の力よりも思索のエネルギーが読者にせまってくるのが『正法眼蔵』なのだ。法然も親鸞も十分に思索の人だったが、その思索が仏書に依拠するものであったことは否定できない。道元の思索は、仏書を手がかりとしつつみすからの足で立とうとする。読むうちに、仏の慈悲よりも存在の輝きに心が開かれるのも、そのことと深く関係する。
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