goo

ピエティ ヨーロッパを変えよ

『新・資本論』ピエティより

ジョブズのように貧乏

 みんなスティーブ・ジョブズが大好きだ。ジョブズはビル・ゲイツ以上に好感度の高い起業家の代表格であり、大金持ちであって当然だと考えられている。というのも、ゲイツがオペレーティング・システムの事実上の独占によって(とはいえ彼はウィンドウズを発明したわけではあるが)富を築いたのに対し、ジョブズはiMac、iPod、iPhone、iPad等々じつにたくさんのイノベーションを世界にもたらし、情報機器の使い勝手にもデザインにも革命を起こしたからだ。

 たしかに、そのうちどこまでがこの一人の天才によるもので、どこまでが何千人もの技術者によるものなのかは、誰もよくわかっていない。技術者の名前は忘れ去られる。まして、エレクトロニクスや情報科学の基礎研究に携わる無数の研究者の名前は言うまでもない。彼らの研究成果が日の目を見なかったり、特許をとらなかったりすれば、なおのことである。それでも、どんな国、どんな政府も、あのような起業家が自国に現れてほしいと願っているにちがいない。

 ジョブズとゲイツは、才能にふさわしい富を築いたという点でも、起業家の代表格だと言える。フォーブス誌の長者番付によると、ジョブズの資産は八〇億ドル、ゲイツは五〇〇億ドルである。これを知ると、ちゃんとお金は才能のある人のところへ行くのだと、世の中はなかなかよくできていると、つい満足したくなる。だが残念ながら、富が才能や努力に見合っているとは言えない。満足感に浸っていないで、もうすこし深くこの点を掘り下げてみるのも無駄ではなかろう。

 まず疑問を感じるのは、イノベーターであるジョブズの資産が、ウィンドウズの上がりで食べているゲイツの資産の六分の一にすぎないことだ。この事実は、競争原理にはいまなお改善の余地があることを示しているように思われる。

 さらに憂蜃なのは、アップルがここ数年メガヒットを連発し、その創造的な発明が全世界で大人気になっているにもかかわらず、ジョブズの資産がリリアンヌ・ベタンクールの資底(―五〇億ドル)の三分の一以下であることだ。彼女は一度も働いたことがなく、ただ父親から遺産を受け継いだだけである。フォーブス誌の良片肝付を以ると、ジョブズより上に遺産相続者が一〇人以上いる(それでも噂によれば、同誌は遺産をできるだけ低めに見積もるような計算方式を採川しているらしい)。

 それだけではない。資産が。定水準を超えると、その川元方は企業経営者の収入よりもはるかに速いペースで、というよりも爆発的に、増えるようになる。一九九〇年から二〇一〇年にかけて、ビルーゲイツの資産は四〇億ドルから五〇〇億ドルに、リリアンヌ・ベタンクールの資産は二〇億ドルから二五〇億ドルに増えた。どちらも、年平均二二%以上、インフレを差し引いても実質一〇~一一%増えた勘定である。

 彼らのケースは極端にしても、一般的にも資産は大きいほどハイペースで増える。中規模な資産は年平均三~四%しか増えないし、もっとささやかになれば、さらにペースダウンする。たとえば“Livret A”と呼ばれる非課税貯蓄口座の利率は現在二・二五%だから、インフレを差し引くと〇・五%以下になってしまう。だが巨額の資産であれば、投資リスクを冒すこともできるし、運用のプロを雇うこともできる。このため実質的な投資収益率は七、八%に跳ね上がり、最大級の資産ともなれば、持ち主の才能や職業的能力のいかんにかかわらず、あっさり一〇%以上に達する。要するに、金は金を生むのである。

 このことは、さまざまな政府系ファンドにも、また大学の基金にも当てはまる。北アメリカでは、寄付による基金が一億ドル未満の大学の場合、一九八〇~二〇一〇年の投資収益率は年五・六%だった(インフレ調整済み、すべての運用費用差し引き後だから、これはこれで悪くない)。これに対し、一億~五億ドルの基金の投資収益率は年六・五%、五億~一〇億ドルでは七・一%、一〇億ドル以上では八・三%である。そして御三家ハーバード、プリンストン、イェールの場合には、一〇%近かった(この三校はいずれも、一九八〇年の時点ですでに寄付金総額数十億ドルを誇り、二〇一〇年にはビル・ゲイツやリリアンヌ・ベタンクールにひけをとらない数百億ドルに達している)。

 財産が増えるからくりは単純だが、そのすさまじさは好ましくない。この傾向がいつまでも続くと、富の分布ひいては経済的影響力の格差はますます拡大し、二極化するだろう。これを食い止めるには、累進制のグローバル資産課税が望ましい。未来の起宸家を優遇するために、少ない資産に適用する税率は低くする。一方、勝手に増えていくようなし額の資産には高い税率を設定する。だが現状を見渡す限り、もしこれが実現するとしても、はるか先になりそうだ。

ヨーロッパを変えよ

 グローバル金融危機の発生から五年が過ぎた今年、アメリカでは成長が復活した。日本にもその兆しがある。ひとりヨーロッパだけが、景気低迷と信頼欠如の悪循環に閉じ込められたままのように見える。欧州大陸は、危機前の経済活動の水準に近づく気配もない。そのうえヨーロッパの公的債務は、他の富裕国に比べればずっと低い水準にとどまっているにもかかわらず、債務危機を乗り越えられそうもないのだ。

 理屈に合わない事態はこれだけではない。ヨーロッパの社会モデルは世界で最も優れており、われわれにはこれを守り、よりよいものにして、世界に誇る理由が十分にある。ヨーロッパの人々が保有する資産(不動産、金融資産から負債を差し引いた純資産)の総額は、世界で最も多い。中国をはるかに上回り、アメリカよりも日本よりも多いのである。また、通説とは異なり、ヨーロッパ人が世界の他地域に保有する資産は、他地域の人間がヨーロッパに保有する資産をあきらかに上回っている。

 ではなぜヨーロッパは、こうした社会・経済・金融面の優位性を持ちながら、危機を克服できないのだろうか。答は、こうだ。枝葉末節でいつまでも対立し、政治では小人、税制ではザルであることに満足しているからである。ヨーロッパは、互いに張り合う小さな国(そう遠くない将来に、フランスもドイツも、世界経済の基準から見れば小さな国になることは確実である)の集まりであり、さまざまな地域機関は現状に適応できておらず、機能不全に陥っている。

 一九八九年のベルリンの壁崩壊と翌年の東西ドイツ統合の衝撃からわずか数カ月のうちに、ヨーロッパの首脳たちは単一通貨の創設を決めた。リーマン・ショックに端を発するグローバル金融危機から五年が過ぎたいま、人々はあのときと同じ勇気を待ち望んでいる。問題ははっきりしている。一七の国が金利の異なる国債を発行し、異なる税制を持つ二七の国が互いに隣国の税収の横取りを狙っている状況では、単一通貨は機能しない、ということである。それがいやなら、共同債の発行や共通税を実現するために、ヨーロッパの政治構造を根本的に変えなければならない。

 問題の元凶は、欧州理事会(加盟国首脳と欧州委員会委貝長で構成される)と、その下の閣僚会議(EU財務相会議など)にある。大方の人が、欧州理事会は最終決定機関としての議会の代わりを果たせるのだと、信じるふりをしている。

 しかしこれは幻想にすぎない。幻想はどこまで言っても幻想で、実現はしない。理由は簡単である。一円一代衣の欧州理事会では、公明正人に公開討論が行われる民主的な議会を組織することはできないからだ。このような決定機関は、国家のエゴのぶつかり合いの場となり、集団としては無能力となる。個人の能力の問題ではない。メルケル=オランドもメルケル=サルコジも似たり寄ったりだ。

 理事会というものは、一般的な規則を決めたり条約改正の交渉をしたりするには、都合がいい。だが財政同盟や共通税の検討、財政赤字の水準の決定、構造変化への適応(共同債に移行するとなれば、各国の判断で国債を発行することはできなくな邑、域内共通税の課税ベースや税率の設定といったことを民主的に決定するためには(まずは現在多国籍企業が多額の税逃れをしている国で課税を始めなければならない)、ユーロ圏の真の議会、予算・財政に関して最終議決権を持つ議会が必要になる。

 いちばん自然なのは、各国の議会から、たとえばドイツ連邦議会やフランス国民議会の予算・財政委員会から議員が集まるという具合にすることだろう。毎月一週間集まって、共通の議題を討議し決定を下す。こうすれば各国は首脳一人ではなく、三〇~四〇名の議員で代表されることになる。その結果、採決も国益のぶつかり合いにはならないはずだ。フランスの社会党(PS)議員はドイツの社会民主党(SPD)議員と、国民運動連合(UMP)の議員はドイツキリスト教民主同盟(CDU)の議員に同調するだろう。そして大事なのは、討論が公開され、論点が明確になり、最終的にはクリーンな多数決で決着することだ。

 もうそろそろ、欧州理事会の見せかけの「満場一致」から脱却しなければならない。「ヨーロッパを救った」という発表は決まって朝の四時に行われる。そして昼頃には、首脳たちは何もわからずに決めていたのだとみなが気づくことになる。きわめつけの無責任は、ユーログループとトロイカ(欧州連合、欧州中央銀行、IMF)が満場一致で決めたキプロスの一件だろう。その後数日間で起きたことの責任を誰も公にはとっていない。

 各国政府は、いまだに現在の体制に固執している。ドイツのリベラルからフランスの左派にいたるまで、ヨーロッパの政治を決めるのは欧州理事会だというコンセンサスができ上がっているのである。

 なぜ、こうなったのか。表向きには、フランス人は連邦制を望んでいない、したがってその方向での条約改正はあり得ない、と説明されている。これはまた奇妙な議論と言わねばならない。二〇年以上前に通貨主権を卜放し、そのうえ財政赤字についてひどくこまかい規則(たとえば咋年決まった「新財政協定」によれば、上限はGDP比〇・五%、守れなかったら罰金)を決めたときから、事実上は連邦制になっているのである。

 問題ははっきりしている。首脳と高級官僚が牛耳る事実上の連邦制にこの先も突き進むのか、それとも民主的な連邦制に賭けるのか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ピエティ ギ... ピエティ 不... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。