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ピエティ 不平等の火薬庫

『新・資本論』ピエティより

自由とは何か

 リべラシオン紙の経営危機を巡る騒動には、少なくとも根本的な問題を浮き彫りにするという効果があった。企業の所有主が大株主であって、その株主が権力行使に執着している場合、自由は何を意味するのか、という問いである。強大な権限を握る所有者の独裁を防ぎ、資本と生産手段を民主的に運営する参加型経営を実現するためには、二一世紀の企業のガバナンスはどうあるべきだろうか。これは永遠の問いであり、ソビエトというアンチモデルの崩壊で解決されたように見えたが、実際には繰り返し問われ続けてきた難問である。

 新聞をはじめとするメディア企業において、この問題はとくに重大な意味を持つ。メディア企業の所有構造はまちまちで、財団や組合形式であることが多いが、最近になって所有者が利益追求姿勢を強めている。これには、第一に記者の経済的自立の確保、第二に革新的な資金調達モデルの追求という二つの目的がある。メディア業界の経営危機は深刻さを増しているうえ、競争激化と媒体の細分化に直面しており、経営モデル自体の見直しを迫られている(このことは、ジュリア・カジェの最近の研究でもあきらかにされた)。

 資本所有の形態は、世界中の文化・教育関連部門が模索している問題でもある。ハーバード大学が運用する寄付金は、ヨーロッパの大手銀行の資本金よりも大きいが、私の知る限りでは、同大学を株式会社に移行しようと提案した人はいない。もうすこし規模の小さい例を挙げると、パリ・スクール・オブ・エコノミクス(パリ経済学校、二〇〇六年創設)は運営委員会に民間出資者が参加している。民間出資者の数は今後いくらか増える予定だが、政府および学術分野の出資者数を必ず下回るように調整される。これはなかなかいいやり方だ。権利濫用の誘惑に駆られる点では、大学へ個人的に寄付する篤志家も新聞の大株主も変わりはないのだから、予め用心しておくに越したことはない。

 火のところ、権限分散の問題は、教育やメディアに限らずサービス裳や製造気など、さまざよな統治モデルが共存するあらゆる部門に存在する。たとえばドィッ金気の従業員は、経営参加度がフランスよりもはるかに高い。それが高品質のクルマ作りを邪魔していないことはあきらかである(ギョーム・デュヴァルの最新作『メイド・イン・ジャーマニー』を読むと、それがよくわかる)。

 リべラシオン紙の場合、事態はことのほか重大である。大株主のブルーノ・ルドゥーはいわゆるタックスヘイブン(租税回避地)の愛用者で、自身は税逃れをしていながら、「(リベラシオンの)救済には公的機関から補助金でも出してもらうほかない」などと言い始め、さらにテレビ番組の中で、「誰があいつらに給料を払ってやっているのか、フランス人全員に証人になってもらいたいものだ」と言い放った。耳を疑う発言であり、新聞記者に対する前代未聞の暴言である。これを聞いては、いかにルドゥーが自分はリベラシオンを救いたいのだと言い張ったところで、とても本音とは思えない。とはいえこの今言は、同じ日に当人があきらかにしたプロジェクトとは完全に一致する。それによれば、「リベラシオン」のブランドを活かして「ソーシャルネットワーク」化し、本社ビルはカフェやテレビスタジオなどを備えた文化センターにするという。

 こうした言葉の暴力、金さえあれば何でも許されるという傍若無人ぶりを前にしては、市民として、またりベラシオンの読者として、手をこまぬいているわけにはいかない。たしかにりベラシオンの記事には、ときに失望させられることはある。それでも新聞が、有用な情報の流れやばかばかしい情報の洪水を活性化させることはまちがいない。そして民主主義は、情報を広く伝え世相を反映する日刊紙の言論なしには機能しないことを忘れるべきではない。

 リペラシオンは存続しなければならない。そのためには、あちこちで言いふらされている株主の二枚舌を暴かなければならない。メディアは、公的資金のお恵みを受けて生き延びてはならないのである。そもそもリベラシオンを含めてメディア企業は、受け取る以上に高い税金や社会保険料を払ってきた。

 より大きな枠組みでこの問題を考えてみよう。フランスの経済モデルは、毎年生み出される富の約半分を税金や社会保険料などさまざまな拠出金の形で共有し、国民全けが恩志を受けるインフラ、公共サービス、国防に充当することで成り立っている。払う側と受け収る側というものはない。誰もが払い、誰もが受け取る。

 たしかに経済の一部の部門、たとえば完全な民間部門では、売上げによって費川の全額をカバーすることが前提とされている。だからと言って、公共インフラの恩恵を受けていないわけではない。一方、医療や教育といった部門では、利用者が払う料金では費用のごく一部しかカバーできない。このようなしくみになっているのは、医療や教育などのサービスを誰もが受けられるようにするためだが、もう一つの理由は、完全競争モデルでは事業者が利益の最大化に走り、この種の事業にそぐわないことを歴史から学んだからでもある。いや、そぐわないどころか、甚だ好ましくない。

 芸術、文化、メディアなどは、両者の中間にあると言えよう。独立性と競争原理が創造を刺激し活性化することは、たいへん好ましい。だが力を持ちすぎた株主には注意が必要だ。健全なモデルを構築するためには、おそらく資金調達に占める民間資本の比率も両者の中間に設定すべきだろう。つまり、高等教育機関よりは大幅に高く、しかし化粧品会社よりは大幅に低くする。もちろん、むやみに権力を振るいたがる拝金主義者は業界から退場してもらおう。

不平等の火薬庫

 ここ一週間、世界の目は再びイラクに集まっている。一月にはすでに、イスラム過激派組織ISIL(イラクとレバントのイスラム国)が、イラク中部の都市ファルージャを制圧。ここは首都バグダッドから一〇〇キロメートルと離れていないにもかかわらず、正規軍は奪回に失敗し、現体制の脆弱さを露呈することになった。いまやイラク北部全体が陥落しそうな勢いである。ISILは現時点で、新国家樹立のためにシリアの組織と連携しているようだ。この新しい国家は、シリア北部からイラク中部の広い地域にまたがっており、一九二〇年に欧州列強が定めた国境線はあっさり無視された。

 一連の戦闘は宗教戦争と認識され、スンニ派対シーア派の衝突と見なされることが象い。こうした観点からの分析はもちろん必要だが、顕著な不平等が社会的緊張を引き起こしたという面も見落とすべきではない。この地域では、富の配分かきわめて不平等だ--おそらくは世界で最も不平等である。多くの専門家は、ISILの出現は、サウジアラビアと、首長制をとる中東産油国(アラブ首長国連邦、クウェート、カタール)にとって重大な脅威だと指摘する(とはいえ、これらの国はどこもISILと同じスンニ派だが)。ある意味では、一九九一年のイラクによるクウェート併合が、より大きな規模に再現されているとも言える。

 そこまで言わないにしても、人の住まない狭い地域に集中する石油資源の存在によって、この地域の政治・社会システムが重層化し、脆弱化していることはあきらかだ。エジプトからシリア、イラク、アラビア半島を通ってイランにいたる地域を調べてみよう。この地域の人口は約三億に達するが、その一〇%にも満たない産油国だけで、この地域のGDP合計の六〇%を占めている。しかも産油国では、一握りの人間がこの天から授かった資源の不当に大きな分け前を独占し、大多数の国民、とりわけ女性や移民などは、半ば隷従状態にある。この体制を軍事的・政治的に支えているのは欧米であり、ありかたくもおこぼれに与って、サッカークラブの資金に充てたりしているのだ。欧米の民主主義と社会正義の教訓が、中東の若者に何の感銘も与えないのも驚くにはあたらない。

 データ収集に関する最小限の条件をいくつか設ければ、中東の所得の不平等は、従来最も不平等とされてきた国(アメリカ、ブラジル、サハラ以南のアフリカなど)よりも甚だしいという結論を容易に導き出すことができる。

 不平等の実態を探る方法は、ほかにもある。二〇二二年にエジプト政府が国内の学校教育全体(小学校から大学までを含む)に投じた予算は、一〇○億ドルを下回った。同国の人口は八五〇〇万である。そこからほんの数百キロ離れたサウジアラビアは、人口が二〇〇〇万、石油収入は三〇〇〇億ドルに達する。カタールは人口三〇万に対して石油収入は一〇〇〇億ドル以上だ。こうした状況で、国際社会は、エジプトに新たに数十億ドルの融資を行うべきか、それとも同国が約束した炭酸飲料とタバコ税の引き上げを待つべきか、逡巡している。

 このような不平等の火薬庫を前にして、何か打つ手はあるだろうか。まずはこの地域の人々に対し、欧米の最大関心事は社会の発展と地域の政治統合であって、政治指導者個人との関係維持ではないことを示す必要がある。EUの共通エネルギー政策は、ヨーロッパの価値観や社会モデルの尊重は認めても、中東における目先の国益優先を認めているわけではないのだ。これは、ウクライナやロシアにおいても同じことである。われわれの知る限り、アメリカの覇権はイラクの災厄につながった。力への陶酔は支配的地位の濫用につながりやすく、それは明日にでも再び起きかねない。

 つい先日も、規模は小さいながら(しかし無視できるほど小さくはなく)、フランス最大手の銀行BNPパリバがそれをしでかしたばかりだ。アメリカが金融制裁の対象としたスーダンやイランとあきらかに不正な金融取引を継続し、銀行幹部が辞任する事態となったのである。同行の経営陣は、がってはよき経営の手本を世界に示すことに熱心だったはずで、まさか巨額の罰金をアメリカ政府に支払い、その結果としてヨーロッパの金融業界を混乱に陥れかねないリスクを背負い込むことに熱心だったわけではあるまい。グローバル化か進む中でヨーロッパとしての重みを維持し、より公正な世界を実現するために、ヨーロッパの結束がかつてなく求められている。
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