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正月休みは退職後のシミュレート

正月休みは退職後のシミュレート

 なんか、退職後のシミュレーションをしているみたいです。やる気があるけど、全然進まない。寝ていても疲れるだけです。

 どこでも本が読めるようにしたことで、どこでも本が読めなくなっている。

 スタバにしても、相手のことを考えるから、まずいのであって、自分の子とwしか考えないのであれば、一日に何回行こうとも自由です。それが退職後の姿でしょう。

資本主義の爆弾

 資本主義の中にある爆弾。利潤を追求すればするほど、利潤率は上昇するけど、大局には徐々に低下する。全ての存在が爆弾を抱えているという、ヘーゲル哲学の核心は次のように変えることができる。

 単独してするのではなく、相互に関連し合い存在である。ヘーゲルのこの考え方が存在の力になるかどうかが肝心です。これが意思の力になると、非常にまずいことになる。

存在することの意味

 一日からの哲学については、ザ・ザイン、存在することの意味を将来にどうつなげていくのか。本当に人との関係がなければいけないのか。人との関係がつくれるのか。作れるとしてのそのための前提条件があるのかないのか。

 一番大きいのは、そう考えて、社会を変えていくのに意味があるのかないのか。多分、ないでしょう、。単に自己満足でしょう。そして、全てを知りたいことにどうつんがるのか。今、一番大きいのはこの部分かもしれない。なぜ、全てを知りたいと思ったのか。

 唯一の人との関係が経たれたときに、そう考えたい。全てを知りたいと。存在というものと、時間軸、過去・現在・未来というものに根源的な在り方が見えてくる。

時間は均一ではない

 時間が均一でないのは、<今>という時間が突出していることから分かります。過去も均一ではない。時間軸は意味を持たない。

 これは単なる、主観的なモノではなく、客観的にも時間は均一ではない。コード化されます。人類が生まれて来るまでと、生まれてきて、記録を残すようになってきた時と現代との間に均一な時間があるとは思えない。そんなまどろっこしいことをやるわけがないでしょう。

 その意味では、1億年ぐらいが1万年ぐらいにワープすることも可能だったんです。だから、進化できたんです。日常の変化から、進化を追っていくようなことはできません。1年が一日のように、1億年が1万年のように、1万年が百年のように過ぎていきます。

私以外は循環の中にいる

 人間は死すべきものである。それ以外のものは循環の中にいる。そこには主体性がない。ここの人間も同じようです。私だけが違います。

 そこから、先に進めると、日常性と非日常性。これは昔から考えてたことです。日常性の中に非日常性があり、非日常性の中に日常性がある。そういう動的な存在行動が人間の本質です。

分化と多元化

 多元化は近代の特徴です。多様化すればするほどそれが必要です。グローバルが対抗するやり方です。組織化に対して、多様化して、分化すること。それが明確な目的な目標になっていないことが、今、環境哲学な必要な理由です。

 多元化しても、個人の中ですべて、統合化することを人間の中で行ってきた。見て、聞いて、考えていきます。特に考えることが重要な理由です。別なものが統合化されてつながるのは、考えるからです。他人とつながることよりもも、自分の中でつながることで、それでもって、形作られます。そこで足りないものがあったら、それをつくり出すこと。

 自己を多元化することが、流動化する社会において、生存戦略として、一定の有用性を持つ。この多元性というのは、他人に合わせることではない。自分の中の近傍を増やすことです。点から近傍へ。その概念を持っていれば、自分というものがありながら、面積になっていきます。それらがつながることは意味があります。

 点が点である限りは意味を持たない。点が集合になり、集合が点になり、また集合とつながっていく。点と集合との関係です。生活のあらゆる局面が一点に絞られ、組織化されるよりも、色々な観点がゆるやかにつながっている方が、全体の安定に寄与する。
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フェアな未来に向けた連帯

『フェアな未来へ』より ヨーロッパの存在価値とは

EUはグローバルな資源の公正を進めるべくパイオニア的な役割を果たしてきたが、それを可能にしたのは紛れもなく、ヨーロッパ内部における緩やかな統合である。グローバル社会という枠組みのなかで生じたコスモポリタン的政策の開幕が、ヨーロッパ内部における自己定義をも強固にした。EUはその創設当初から、地理的領域が暗示する以上の大きな思想に駆動されてきた。ヨーロッパ統合の精神的父といわれるジャン・モネを突き動かしたのは、「よりよい世界に貢献したい」という願望であった。

「協調を重視する世界パワー」としてのヨーロッパは、同盟を築き、ネットワークをかたち作ることに力を尽くさなければならない。国家間政策ではすでにそうした方向に動きだしている。近隣の国に対する恐怖がきっかけで結成された地理的な同盟が、世界的な目標を互いに追求するための国家の連合に取って代わられることもますます多くなっている。もちろん、真正の全世界的な同盟はいまだ私たちの視野には現れていない。当面は、強大国と覇権国とが協調しあうようなことはないだろう。こうした現状に対する唯一可能な戦略は、京都議定書という国際法的な枠組みが現に存在するように、必要とあらば米国を外してでも各国が共同で重要課題に着手し、米国に対してはいつでもそこに戻ってこれるよう門戸を開いておくことだ。つまり、たとえ米国政府が資源の公正政策に消極的であっても、まずは意欲的な国々が多数集まって調整しあい、グローバルな問題の解決に立ち向かっていくことである。グローバルな場で満場一致の解決法を! -これを普遍主義だとみなすのは誤った理解のし方だ。現状を考えれば、私たちには「Xを除いた普遍主義」という戦略を追求することしかできない。対人地雷禁止条約も国際刑事裁判所規程も、ヨーロッパとカナダが米国の参加を待っていたなら決して成立することはなかっただろう。このふたつのケースは、米国という強大国が参加しなくてもヨーロッパやカナダ、日本、そして南の諸国だけで価値ある協定を生みだせることを証明した。

再生可能エネルギーのための国際組織の設立は、促進が期待されるこの種の世界規模プロジェクトの代表格といえる。ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)や国際原子力機関(IAEA)などの原子力協力プログラムに現在割かれている資金の相応分を他のエネルギー政策に振り向けるには、一握りの先進工業国の協力だけで十分なのである。実際、国際再生可能エネルギー機関(IRENA)の設立をめざす付属文書はすでに出来上がっており、二〇〇三年四月にはドイツ連邦議会が関連組織の創設を承認した。ただ残念ながら、二〇〇四年六月開催の再生可能エネルギー国際会議(ボン)ではこの計画を前進させることはできなかった。米国とサウジアラビア抜きで最後まで貫きとおせる勇気がなかったことが主な原因である。

しかしながら二一世紀の多層的な国際社会にあっては、国民国家だけがそうした戦略目標の達成に寄与しうるパートナーではない。近年、市民社会の立役者も数多く国際政治や外交の舞台に登場してきている。とくに公正と環境の領域でその浸透が目立っている。こうした役者たちの多くは各分野のスペシャリストとしてグループを形成し。高度な専門性を生かして国際政策の調整に力を注いでいる。国家や産業界に加えて、いまや個々の市民社会組織が、国際問題に取り組む第三の役者として脚光を浴びはじめているのである。

NGOが国際政治の舞台で力を発揮するようになったのは、一九九〇年代の初め、リオ地球サミットに世界中から多くの市民運動家が駆けつけた頃からである。第一回国連環境開発会議=リオサミット(リオデジャネイロ、一九九二)、世界人権会議(ウィーン、一九九三年)、世界人口会議(カイロ、一九九四年)、世界社会開発サミット(コペン(ーゲン、▽几九五年)、世界女性会議(北京、一九九五年)等、国連主催の一連の会議には何千人もの市民社会の担い手たちが参加した。第二次世界大戦以来の国際関係に、市民社会組織は新たな性質を付与することとなった。NGOによって代表される権益の多くが、彼・彼女らの行動なしには声なき声に終わってしまうものである。例えば、海洋の珊瑚礁汚染やタスマニア〔訂数回〕の原生林汚染などに対する怒りの声もそのひとつだ。くり返し声を上げるNGOの存在は、EUの貿易政策に対するものも含め、政治を批判的にチェックする「社会の良心」の役割を果たす。

資源の公正をめざすヨーロッパの戦略は、市民社会を代表する南北のNGO--例えばオックスファム、グリーンピース、FoF、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティーインターナショナル、第三世界ネットワークなどーと連携することで、初めてより強い影響力と社会的基盤を得ることができる。とくに各国政府が調査研究、説得外交、ネットワーク化などで影響力を強めたいと切望するとき、こうした団体とつながりを作ることが大事となる。事実、三〇〇近くの環境市民団体からなる気候アクションネットワークの存在なくして、気候変動枠組み条約も京都議定書も現在のかたちでは成立しえなかっただろう。各国政府とNGOとの連携は、対人地雷禁止条約や国際刑事裁判所規程の成立に向けたキャンベーンにおいても主要な駆動力となった。また、二〇〇三年九月開催のWTO閣僚会議(カンクン)では、南の諸国政府が、不公正な貿易ルールやグローバルな自由貿易に対抗するためにNGOとの同様の連携を積極的に模索した。

NGOと政府とのより広範な協力関係は(イブリッドな組織-NGoでも政府間組織でもない組織-としても結実している。初期の例としては国際自然保護連合(IUCN)が挙げられる。IUCNは一九四八年にユネスコ(国連教育科学文化機関)傘下の機関として誕生した、スイスに事務局を置く組織である。IUCNのメンバーになれるのは国内のNGOや国際NGO、政府や政府関連機関であり、メンバー国でない国の国家機関も参加することができる。こうしてIUCNは一四〇カ国から一〇〇〇近くのメンバーを集めることができた。さらに、IUCNモデルを適用した成功例としては世界ダム委員会(WCD)が挙げらにび。政府、産業界、NGOから構成されるこの団体は、一九九八年に組織されて以来、巨大ダムの建設に関する社会的、エコロジー的基準を作成し提案してきた。その成功の秘密は、組織の独立性を維持させたこと、ダムの支持者・非支持者の双方を広く取りこんだこと、組織の透明性をできる限り確保したことにある。このことは「グローバルな政策ネットワーク」を通じた国際問題の解決において重要な先行例となった。このネットワークでは、個々の領域で重要な活動をしているすべてのプレーヤー(政府、企業、市民社会の代表)がともに連携しあい、それぞれにとって受け容れ可能な解決法をみちびきだす。これは、非階層的な構造を持つ市民社会組織が積極的に連帯すればグローバルガバナンスにかかわる複雑な問題でも解決への道が開けることを明確に示唆するものだ。
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時間の原点としての「現在」

『時間の本』より

しかし、「定義の問題」がどうであろうと、われわれは、実際、日々の生活において時間を体験している。時間はどのような形で存在するのか、時間が均二かどうか、時間はIつしかないのか、複数の時間があるのかといった問題とは関係なく、われわれが時間を体験していることは確かである。自分が小学生であったのは何年前であり、初めて映画を観だのは幾つの時であったか、自分の過去として覚えている。そして、その過去が今ここにある自分にまで連なっていると思っている。あるいは、友人たちとサッカーに興じているとき、ボールを追う一瞬一瞬の中で時間が経過するのを体験する。

そこには、過去のさまざまな原因によって時間が〈過去↓現在(↓未来)〉と流れるのか、あらかじめ決められた未来があってそこに向かって〈未来↑現在(↑過去)〉と流れるのか、あるいは、そのような流れではない別の形かはわからないとしても、「現在」という「時間」を感じていることは確かである。あるいは、〈過去〉も〈未来〉も、「現在」の自分かいるから想定できるのだという意味で、〈過去〉も〈未来〉も実在しているわけではなく、あるのは「現在」のみで、流れる時間など存在しないと考えてもいっこうに構わないが、「現に」私がここにいることを知っていることだけは確かなのである。そして、この「現に」いる私は、時間がどのようなものであれ、食事を摂り、運動し、友人と話をするすべてにおいて、あるいは、音楽を聴き、読書に耽るなかで、この「今」が過ぎ去ろうとしながら、なお「今」があることは感じている。

このように、誰もが体験しているはずの時間が、どんなものかと考えてみると、奇妙なことではあるが、よくわからないのである。そのために、「時間」については、これまでに数えられないくらいの考察がなされてきたことも事実である。過去に原因があって世界が動いていくとする仏教思想(しかし、ナーガールジュナの『中論』のように時間を否定するものもある)があるかと思えば、最後の審判にむかって時間が流れるとするキリスト教思想(これも、神の永遠性は存在するが、時間は虚妄であるというアウグスティヌスのようなものもある)があり、さらには、運動自体をも否定しようとしたエレア派のゼノンの論理もある。そもそも、いま論議をしている相手の経験している時間とこの私の経験している時間とは、果たして同じと言えるのだろうかと考えると、まさに時間についての言説は百花瞭乱の趣を呈するのである。

ただ、時間を考える際に、最も困難であるけれども重要なことは、自分があると感じている「現在」から出発しなければならないことである。先ほど、私は、「現に」私がここにいることを知っていることは確かだと言ったが、この「現に」「ここに」いるとはどういうことかという考えを突き詰めていくと、「現在」というものが浮かび上がってくるのである。

ところが、この「現在」が、すでに序章で述べたことであるが、現在でありながら過ぎ去っているものであり、同時に未だにないものでもあるということ、「現在」という有限な一瞬でありながら、同時に、過ぎ去った「過去」とこれから来る「未来」とにかかわっているのである。言い換えれば、「時間」とは、「現在」という一瞬でありながら、「過去」あるいは「未来」と切り離して分割することができないところに成り立つものであるということである。

しかも、こうした「時間」に対して、それは単なる主観によるもので、社会生活において共通した時間(例えば、テレビやラジオの時報や、歴史学的に検証され、世界共通のカレンダーとして示されている年月日など)こそが本来の「時間」だと言う者もいるかもしれない。

「あなたが今感じている現在という時間は、あなただけのもので、あなたが死ねば終わってしまうけれども、あなたが死んでも、世界は存在し、時間は流れるのです」というわけである。たしかに、われわれは、社会生活において共通しか時間のもとに生きている。その共通時間がなければ、電車やバスの時刻表も作れず、万能手帳やモバイルにスケジュールも書き込めない。その共通時間のおかげで、友人とカフェで合う約束をして、久しぶりで楽しい話もできるのである。だが、そのとき、その友人の時間と、私の時間は、同じだと言えるだろうか? 同じであることを、どう証明できるのか? そもそもわれわれが考えている時間とは、一つしかないと言えるのであろうか? 時間は一つではなく、複数あるのではないだろうか? 各人各人が個別の時問のなかにいるのに、共通していると思っているだけなのではないだろうか?

そうしたなかで、カントは、古くから客観的に考えられていた時間を、われわれの主観によるものであり、人間に共通した直観の形式であるとした。直観の形式であるというからには、時間は主観の側のものであって、「客観的」対象の側のものではない、すなわち、「物自体」の形式ではないということである。与えられた客観の形式ではなく、われわれが対象を受け入れるときの、主観に内在する形式であるということである。カントによれば、この対象を受け入れる形式は、対象ごとにあるのではなく、人間の直観形式としての時間はすべて同じであるという。そして、異なった時間というのは、この同一の時間がそれぞれの状況において現れる部分だと考えたのである。一定の長さの時間というのは、それらのものの根底になっている唯一の時間が、条件によりて制限されたものにほかならない。したがって、根底にある直観の形式としての時間は一つであり、その制限されたかたちが個々の異なった時間だというのである。こう考えて、初めて、時間の無限性が説明されうるとしたのである。
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