未唯への手紙
未唯への手紙
シリアがどうなるか
存在の力を示す時
存在の力を示す時です。
シリアがどうなるか
国際関係で重要なのは、シリアです。イスラム世界がどうなるか、共和制がどんな関係になるのか。民族を超える求心力を示せるかどうか。
存在の力を示す時です。
シリアがどうなるか
国際関係で重要なのは、シリアです。イスラム世界がどうなるか、共和制がどんな関係になるのか。民族を超える求心力を示せるかどうか。
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情報メディアのツール、形式、価値
『世界の文字の歴史文化図鑑』より
情報メディアは、コード化された目に見えない形式でメッセージを保存すると同時に、次々に、物質的で、知覚可能、操作可能な形式に変換することで、これらのメッセージを人間に伝える。つまり、読むことのできない書き込みと読むことの可能な文書とを結び付けているのである。このため情報メディアの発展には、物理学(情報機器)、記号論理学(情報処理装置)、詩学(表現形式)の分野に同時にまたがって、絶えず繰り返される技術革新が不可欠なものとなる。こうした技術革新は、書くという行為を、いまだかつてないほどに産業界と深くかかわらせることとなった。この技術革新を行なうためには、構造的に、莫大な機械および人的手段が必要となり、その技術を用いるためには、ますます機器設備の利用が必要とされるようになっていったためである。
こうして技術は進歩を続け、社会的コミュニケーションのための型や規範を担う技術や経済におけるシナリオを次々に書き換えていくことになった。とりわけ、ハードウェアの小型化、新しい機器の使用、機械の処理能力の向上、高度で相互運用性のあるネットワーク・プロトコルの創出、自動的なドキュメント検索手続きの改良などが、その発展に貢献することになった。なかでも、グラフィックや、文字、解釈にかかわる操作を絶えず形式化し、再利用しつつ、情報工学を、株取引から、学術論文の発表、恋人探しに至るまでの、あらゆるコミュニケーション空間を支配する力を持つ「侵略的テクノロジー」へと変えた決定的な要因は、ソフトウェアエ学であると言える。
こうした変化はひじょうに速いテンポで進んでいった。レーザーの実用化が始まり、初期のIC(集積回路)が誕生したことで、データの大量処理が可能となったのは1%O年代初頭のことである。マウスは1%O年代末に普及し、1975年には腕時計に液晶が使用され、1984年にはアイコンが一般大衆向けのソフトウェアに登場した。 CD-ROMが発売されたのは
1986年のことである。ネットワーク間の情報交換プロトコルであるTCP/IP(トランスミッション・コントロール・プロトコル/インターネット・プロトコル)は1972年に開発されていたが、ドキュメントの標識であるHTML(ハイパーテキスト・マークアップ・ラングージ)が開発され、画像とテキストのグローバルネットワークが可能となったのは1989年になってからのことである。
しかしながら、こうした歴史的変遷をたんに技術上の問題のみに帰すべきではない。この間、つねに、書記をめぐる考察が行われてきたのであり、書くという行為、表記記号、読むこととその社会的機能に関する概念が問題とされ続けてきたのである。以下、簡潔に述べてみよう。まず最初は、ハイパーテキストという形式に憑かれた時代であった。この形式は、テキストのオーバーフローを、開かれた、ツリー構造によって示すものであるが、そのアプローチの特徴とは、文書を結びつけていくことにあった。ついで、新しいコミュニケーション方式を誕生させる契機となる、マルチメディアの時代がやってくる。そこではユーザーをヴァーチャルな世界に入り込ませることを可能にする、ポスト文字としての記号の世界が、文字に、しばしば対比させられていた。しかし「CD-ROM」によって圧倒的な優勢を誇ったマルチメディアにおける記述の研究開発は、「ネットワーク」の登場によって急激に影を潜めることになる。ネットワークの支持者たちは、国境も規制もなく、誰もが、膨大な文書作成に「参加」できるという利点を掲げ、それまでのマルチメディアの形式研究開発の勢いを失わせたのである。これが「ウェブ2.0」である。
しかし少し距離を置いてみると、これらのかくも多様な、理想の書記についての概念は、何よりも、書記に関してそれぞれが持っていた知的、美的、政治的概念を示すものであるように思われる。これらのイデオロギーは、時には書記を書記それ自体として、時には書記以外の、「コンテンツ」、「バーチャリティ」、「コミュニティ」などの理論モデルによって評価してきたが、つねに書記に価値を置いてきたことにかわりはない。確かにこういった理論モデルは、言説を方向づけるだけでなく、対象や、その利用法をも生み出すため、ひじょうに重要なものであると言える。しかしこれらの理論モデルの示す志向性は、普及の要因の一つではあるものの、分析対象としてはみなしにくくもしている。例えば、「ウェブ2.0」は、「編集する」インターネットから「社会的な」インターネットヘの大きな転機とみなされているが、しかし「ウェブ2.0」においても読ませるという行為は依然として決定的な要素なのであり、以後「ウェブ1.0」にれは架空のものであり、因果関係を説明するために「事後的に」作り出されたものである)と名づけられることになる時代におけるのと何ら変わってはいない。
それゆえ、これらの規範となる理論モデルは、ディスプレイ上における文書文化の一部をなすものであり、その変遷を重視する必要があるとはいえ、形式、動作、装置の実際の騰きを理解したければ、他の対象に頼る必要がある。つまりこれまで本書が示してきた、書くことの領域にである。
情報メディアは、コード化された目に見えない形式でメッセージを保存すると同時に、次々に、物質的で、知覚可能、操作可能な形式に変換することで、これらのメッセージを人間に伝える。つまり、読むことのできない書き込みと読むことの可能な文書とを結び付けているのである。このため情報メディアの発展には、物理学(情報機器)、記号論理学(情報処理装置)、詩学(表現形式)の分野に同時にまたがって、絶えず繰り返される技術革新が不可欠なものとなる。こうした技術革新は、書くという行為を、いまだかつてないほどに産業界と深くかかわらせることとなった。この技術革新を行なうためには、構造的に、莫大な機械および人的手段が必要となり、その技術を用いるためには、ますます機器設備の利用が必要とされるようになっていったためである。
こうして技術は進歩を続け、社会的コミュニケーションのための型や規範を担う技術や経済におけるシナリオを次々に書き換えていくことになった。とりわけ、ハードウェアの小型化、新しい機器の使用、機械の処理能力の向上、高度で相互運用性のあるネットワーク・プロトコルの創出、自動的なドキュメント検索手続きの改良などが、その発展に貢献することになった。なかでも、グラフィックや、文字、解釈にかかわる操作を絶えず形式化し、再利用しつつ、情報工学を、株取引から、学術論文の発表、恋人探しに至るまでの、あらゆるコミュニケーション空間を支配する力を持つ「侵略的テクノロジー」へと変えた決定的な要因は、ソフトウェアエ学であると言える。
こうした変化はひじょうに速いテンポで進んでいった。レーザーの実用化が始まり、初期のIC(集積回路)が誕生したことで、データの大量処理が可能となったのは1%O年代初頭のことである。マウスは1%O年代末に普及し、1975年には腕時計に液晶が使用され、1984年にはアイコンが一般大衆向けのソフトウェアに登場した。 CD-ROMが発売されたのは
1986年のことである。ネットワーク間の情報交換プロトコルであるTCP/IP(トランスミッション・コントロール・プロトコル/インターネット・プロトコル)は1972年に開発されていたが、ドキュメントの標識であるHTML(ハイパーテキスト・マークアップ・ラングージ)が開発され、画像とテキストのグローバルネットワークが可能となったのは1989年になってからのことである。
しかしながら、こうした歴史的変遷をたんに技術上の問題のみに帰すべきではない。この間、つねに、書記をめぐる考察が行われてきたのであり、書くという行為、表記記号、読むこととその社会的機能に関する概念が問題とされ続けてきたのである。以下、簡潔に述べてみよう。まず最初は、ハイパーテキストという形式に憑かれた時代であった。この形式は、テキストのオーバーフローを、開かれた、ツリー構造によって示すものであるが、そのアプローチの特徴とは、文書を結びつけていくことにあった。ついで、新しいコミュニケーション方式を誕生させる契機となる、マルチメディアの時代がやってくる。そこではユーザーをヴァーチャルな世界に入り込ませることを可能にする、ポスト文字としての記号の世界が、文字に、しばしば対比させられていた。しかし「CD-ROM」によって圧倒的な優勢を誇ったマルチメディアにおける記述の研究開発は、「ネットワーク」の登場によって急激に影を潜めることになる。ネットワークの支持者たちは、国境も規制もなく、誰もが、膨大な文書作成に「参加」できるという利点を掲げ、それまでのマルチメディアの形式研究開発の勢いを失わせたのである。これが「ウェブ2.0」である。
しかし少し距離を置いてみると、これらのかくも多様な、理想の書記についての概念は、何よりも、書記に関してそれぞれが持っていた知的、美的、政治的概念を示すものであるように思われる。これらのイデオロギーは、時には書記を書記それ自体として、時には書記以外の、「コンテンツ」、「バーチャリティ」、「コミュニティ」などの理論モデルによって評価してきたが、つねに書記に価値を置いてきたことにかわりはない。確かにこういった理論モデルは、言説を方向づけるだけでなく、対象や、その利用法をも生み出すため、ひじょうに重要なものであると言える。しかしこれらの理論モデルの示す志向性は、普及の要因の一つではあるものの、分析対象としてはみなしにくくもしている。例えば、「ウェブ2.0」は、「編集する」インターネットから「社会的な」インターネットヘの大きな転機とみなされているが、しかし「ウェブ2.0」においても読ませるという行為は依然として決定的な要素なのであり、以後「ウェブ1.0」にれは架空のものであり、因果関係を説明するために「事後的に」作り出されたものである)と名づけられることになる時代におけるのと何ら変わってはいない。
それゆえ、これらの規範となる理論モデルは、ディスプレイ上における文書文化の一部をなすものであり、その変遷を重視する必要があるとはいえ、形式、動作、装置の実際の騰きを理解したければ、他の対象に頼る必要がある。つまりこれまで本書が示してきた、書くことの領域にである。
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『存在と時間』目次 2
第二編 現存在と時間性
第四十五節 現存在の準備的な基礎分析の成果と、この存在するものを根源的に実存論的に解釈するという課題
第一章 現存在が全体的であることの可能性と、死に臨んで在ること
第四十六節 現存在らしく全体的で在ることを存在論的に捉えたり規定したりするのは、 一見、不可能であるかに見えること
第四十七節 他者の死が経験できることと、ひとつの現存在を全体として把捉する可能性
第四十八節 未済と終わり、全体性
第四十九節 死の実存論的分析を、死の現象について考えられる別の解釈から峻別する
第五十節 死の実存論的かつ存在論的な構造の素描
第五十一節 死に臨んで在ることと現存在の日常性
第五十二節 終わりに臨んで在ることの日常的な様態と、死の万全な実存論的概念
第五十三節 本来的に死に臨んで在ることの実存論的な素描
第二章 本来的な在りうべき在り方を裏付ける現存在にふさわしい証と果断さ
第五十四節 本来的な実存的可能性を裏付ける証の問題
第五十五節 良心の実存論的かつ存在論的な基礎
第五十六節 良心の呼び声としての性格
第五十七節 気遣いの呼び声としての良心
第五十八節 呼びかけを理解するということと負い目
第五十九節 実存論的な良心解釈と通俗的な良心解釈
第六十節 良心がその証となる本来的な在りうべき在り方の実存論的な構造
第三章 現存在の本来的に全体として在りうべき在り方と気遣いの存在論的な意味としての時間性
第六十一節 現存在固有の本来的に全体として在る在り方を定義することから時間性を現象的に洗い出すまでの方法上の行程のあらまし
第六十二節 現存在が実存的かつ本来的に全体として在りうべき在り方とは先駆ける果断さである
第六十三節 気遣いの存在意味の解釈のために得られた解釈学的状況と、実存論的分析作業全般の方法上の性格
第六十四節 気遣いと自己性
第六十五節 時同性が気遣いの存在論的な意味である
第六十六節 現存在の時間性と、そこから生じる実存論的な分析をさらに根源的に反復するという課題
第四章 時同性と日常性
第六十七節 現存在の実存論的体制の根幹と、この体制の時間的解釈についての大まかな構図
第六十八節 開示性全般の時間性
第六十九節 世界=内=存在の時間性と、世界の超越の問題
第七十節 現存在固有の空間性の時間性
第七十一節 現存在の日常性の時間的な意味
第五章 時間性と歴史性
第七十二節 歴史の問題の実存論的かつ存在論的な提示
第七十三節 通俗的な歴史理解と現存在の歴史生起
第七十四節 歴史性の根本体制
第七十五節 現存在の歴史性と世界=歴史
第七十六節 史学の実存論的な根源は現存在の歴史性にある
第七十七節 以上での歴史性の問題の提示とディルタイの一連の研究ならびにヨルク伯爵の構想との連関
第六章 時間性と、通俗的な時間概念の起源としての時間内部性
第七十八節 これまでに行なった現存在の時間的な分析が不完全であること
第七十九節 現存在の時間性と時間の配慮
第八十節 配慮される時間と時間内部性
第八十一節 時間内部性と通俗的な時間概念の成立
第八十二節 時間性と現存在、ならびに世界時間の実存論的かつ存在論的な連関と、時間と精神の関係についてのヘーゲルの見解との対比
第八十三節 現存在の実存論的かつ時間的な分析作業と、基礎的存在論が提起する存在全般の意味を問う問い
第四十五節 現存在の準備的な基礎分析の成果と、この存在するものを根源的に実存論的に解釈するという課題
第一章 現存在が全体的であることの可能性と、死に臨んで在ること
第四十六節 現存在らしく全体的で在ることを存在論的に捉えたり規定したりするのは、 一見、不可能であるかに見えること
第四十七節 他者の死が経験できることと、ひとつの現存在を全体として把捉する可能性
第四十八節 未済と終わり、全体性
第四十九節 死の実存論的分析を、死の現象について考えられる別の解釈から峻別する
第五十節 死の実存論的かつ存在論的な構造の素描
第五十一節 死に臨んで在ることと現存在の日常性
第五十二節 終わりに臨んで在ることの日常的な様態と、死の万全な実存論的概念
第五十三節 本来的に死に臨んで在ることの実存論的な素描
第二章 本来的な在りうべき在り方を裏付ける現存在にふさわしい証と果断さ
第五十四節 本来的な実存的可能性を裏付ける証の問題
第五十五節 良心の実存論的かつ存在論的な基礎
第五十六節 良心の呼び声としての性格
第五十七節 気遣いの呼び声としての良心
第五十八節 呼びかけを理解するということと負い目
第五十九節 実存論的な良心解釈と通俗的な良心解釈
第六十節 良心がその証となる本来的な在りうべき在り方の実存論的な構造
第三章 現存在の本来的に全体として在りうべき在り方と気遣いの存在論的な意味としての時間性
第六十一節 現存在固有の本来的に全体として在る在り方を定義することから時間性を現象的に洗い出すまでの方法上の行程のあらまし
第六十二節 現存在が実存的かつ本来的に全体として在りうべき在り方とは先駆ける果断さである
第六十三節 気遣いの存在意味の解釈のために得られた解釈学的状況と、実存論的分析作業全般の方法上の性格
第六十四節 気遣いと自己性
第六十五節 時同性が気遣いの存在論的な意味である
第六十六節 現存在の時間性と、そこから生じる実存論的な分析をさらに根源的に反復するという課題
第四章 時同性と日常性
第六十七節 現存在の実存論的体制の根幹と、この体制の時間的解釈についての大まかな構図
第六十八節 開示性全般の時間性
第六十九節 世界=内=存在の時間性と、世界の超越の問題
第七十節 現存在固有の空間性の時間性
第七十一節 現存在の日常性の時間的な意味
第五章 時間性と歴史性
第七十二節 歴史の問題の実存論的かつ存在論的な提示
第七十三節 通俗的な歴史理解と現存在の歴史生起
第七十四節 歴史性の根本体制
第七十五節 現存在の歴史性と世界=歴史
第七十六節 史学の実存論的な根源は現存在の歴史性にある
第七十七節 以上での歴史性の問題の提示とディルタイの一連の研究ならびにヨルク伯爵の構想との連関
第六章 時間性と、通俗的な時間概念の起源としての時間内部性
第七十八節 これまでに行なった現存在の時間的な分析が不完全であること
第七十九節 現存在の時間性と時間の配慮
第八十節 配慮される時間と時間内部性
第八十一節 時間内部性と通俗的な時間概念の成立
第八十二節 時間性と現存在、ならびに世界時間の実存論的かつ存在論的な連関と、時間と精神の関係についてのヘーゲルの見解との対比
第八十三節 現存在の実存論的かつ時間的な分析作業と、基礎的存在論が提起する存在全般の意味を問う問い
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『存在と時間』目次 1
『存在と時間』より
諸言
序論 存在の意味を問う問いの提示
第一章 存在の問いの必要性と構造と優位
第一節 存在を問う問いをあえて明示的に反復するのが必要であること
第二節 存在を問う問いの形式的構造
第三節 存在の問いの存在論的な優位
第四節 存在の問いの存在相上の優位
第二章 存在の問いを練り上げる上での二重の課題、考察の方法と概略
第五節 現存在の存在論的な分析の作業とは、存在全般の意味を解釈する地平を洗い出すことである
第六節 存在論の歴史の解体という課題
第七節 考察の現象学的方法
A 現象の概念
B ロゴスの概念
C 現象学の予備概念
第八節 論考の概略
第一部 現存在を時間性へと解釈し、時間を、存在を問う問いの超越論的地平として解明する
第一編 現存在の準備的な基礎分析
第一章 現存在の準備的な分析の課題の提示
第九節 現存在の分析作業の主題
第十節 現存在の分析作業を人間学や心理学、生物学から峻別する
第十一節 実存論的な分析作業と未開の現存在の解釈、「自然な世界概念」を獲得するのに伴うさまざまな困難
第二章 現存在の基本的な体制としての世界=内=存在の全般
第十二節 世界=内=存在の略図を内=存在そのものに着目して描いてみる
第十三節 世界を認識することは、内=存在を基盤とし、かつ内=存在のひとつの様態であり、これを例にとって内=存在ということを示してみる
第三章 世界の世界性
第十四節 世界全般の世界性の理念
A 身のまわりの世界に固有の世界性と世界性全般の分析
第十五節 身のまわりの世界で出会う存在するものの存在
第十六節 世界の内部に存在するものからは、身のまわりの世界が世界に即応していることが窺われる
第十七節 指示と記号
第十八節 帰趨と有意性、世界の世界性
B デカルトにおける世界の解釈と対比して世界性の分析の特質を明らかにする
第十九節 「延長する物」として規定された「世界」
第二十節 「世界」の存在論的規定の基盤
第二十一節 デカルト流の「世界」の存在論に対する解釈学的検討
C 身のまわりの世界に備わる「まわり」という性格と現存在の「空間性」
第二十二節 世界の内部で手許に在るものの空間性
第二十三節 世界=内=存在の空間性
第二十四節 現存在の空間性と空間
第四章 共同存在と自己存在としての世界=内=存在、「ひと」
第二十五節 現存在とは誰なのかを問う実存論的な問いの設定
第二十六節 他者の共同現存在と日常的な共同存在
第二十七節 日常的な自己存在と「ひと」
第五章 内=存在そのもの
第二十八節 内=存在の主題的分析という課題
A 現の実存論的構成
第二十九節 情態性としての現=存在
第三十節 情態性のひとつの様態としての恐れ
第三十一節 理解としての現=存在
第三十二節 理解と解釈
第三十三節 解釈の派生的な様態としての言明
第三十四節 現=存在と語り。言語
B 日常的に現を在る在り方と現存在の顛落
第三十五節 巷談
第三十六節 好奇心
第三十七節 曖昧さ
第三十八節 頽落と被投性
第六章 気遣いが現存在の存在である
第三十九節 現存在の構造全体の根源的な全体性を問う問い
第四十節 現存在の格別な開示性としての不安という根本的情態性
第四十一節 現存在の存在は気遣いである
第四十二節 現存在とは気遣いだとする実存論的な解釈を、現存在の前存在論的な自己解釈から裏付ける
第四十三節 現存在、世界性、実在性
a 「外的世界」が存在し証明されうるのかという問題としての実在性。
b 存在論的問題としての実在性。
c 実在性と気遣い。
第四十四節 現存在、開示性、真理性
a 伝統的な真理概念とその存在論的な基盤
b 根源的な真理の現象と伝統的な真理概念の派生的性格
c 真理の在リようと真理の前提
諸言
序論 存在の意味を問う問いの提示
第一章 存在の問いの必要性と構造と優位
第一節 存在を問う問いをあえて明示的に反復するのが必要であること
第二節 存在を問う問いの形式的構造
第三節 存在の問いの存在論的な優位
第四節 存在の問いの存在相上の優位
第二章 存在の問いを練り上げる上での二重の課題、考察の方法と概略
第五節 現存在の存在論的な分析の作業とは、存在全般の意味を解釈する地平を洗い出すことである
第六節 存在論の歴史の解体という課題
第七節 考察の現象学的方法
A 現象の概念
B ロゴスの概念
C 現象学の予備概念
第八節 論考の概略
第一部 現存在を時間性へと解釈し、時間を、存在を問う問いの超越論的地平として解明する
第一編 現存在の準備的な基礎分析
第一章 現存在の準備的な分析の課題の提示
第九節 現存在の分析作業の主題
第十節 現存在の分析作業を人間学や心理学、生物学から峻別する
第十一節 実存論的な分析作業と未開の現存在の解釈、「自然な世界概念」を獲得するのに伴うさまざまな困難
第二章 現存在の基本的な体制としての世界=内=存在の全般
第十二節 世界=内=存在の略図を内=存在そのものに着目して描いてみる
第十三節 世界を認識することは、内=存在を基盤とし、かつ内=存在のひとつの様態であり、これを例にとって内=存在ということを示してみる
第三章 世界の世界性
第十四節 世界全般の世界性の理念
A 身のまわりの世界に固有の世界性と世界性全般の分析
第十五節 身のまわりの世界で出会う存在するものの存在
第十六節 世界の内部に存在するものからは、身のまわりの世界が世界に即応していることが窺われる
第十七節 指示と記号
第十八節 帰趨と有意性、世界の世界性
B デカルトにおける世界の解釈と対比して世界性の分析の特質を明らかにする
第十九節 「延長する物」として規定された「世界」
第二十節 「世界」の存在論的規定の基盤
第二十一節 デカルト流の「世界」の存在論に対する解釈学的検討
C 身のまわりの世界に備わる「まわり」という性格と現存在の「空間性」
第二十二節 世界の内部で手許に在るものの空間性
第二十三節 世界=内=存在の空間性
第二十四節 現存在の空間性と空間
第四章 共同存在と自己存在としての世界=内=存在、「ひと」
第二十五節 現存在とは誰なのかを問う実存論的な問いの設定
第二十六節 他者の共同現存在と日常的な共同存在
第二十七節 日常的な自己存在と「ひと」
第五章 内=存在そのもの
第二十八節 内=存在の主題的分析という課題
A 現の実存論的構成
第二十九節 情態性としての現=存在
第三十節 情態性のひとつの様態としての恐れ
第三十一節 理解としての現=存在
第三十二節 理解と解釈
第三十三節 解釈の派生的な様態としての言明
第三十四節 現=存在と語り。言語
B 日常的に現を在る在り方と現存在の顛落
第三十五節 巷談
第三十六節 好奇心
第三十七節 曖昧さ
第三十八節 頽落と被投性
第六章 気遣いが現存在の存在である
第三十九節 現存在の構造全体の根源的な全体性を問う問い
第四十節 現存在の格別な開示性としての不安という根本的情態性
第四十一節 現存在の存在は気遣いである
第四十二節 現存在とは気遣いだとする実存論的な解釈を、現存在の前存在論的な自己解釈から裏付ける
第四十三節 現存在、世界性、実在性
a 「外的世界」が存在し証明されうるのかという問題としての実在性。
b 存在論的問題としての実在性。
c 実在性と気遣い。
第四十四節 現存在、開示性、真理性
a 伝統的な真理概念とその存在論的な基盤
b 根源的な真理の現象と伝統的な真理概念の派生的性格
c 真理の在リようと真理の前提
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