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グーテンベルクとその聖書

『本の歴史文化図鑑』より

グーテンベルクとして広く知られるヨハネス・ゲンスフライシュ・ツーア・ラディン・ツム・グーテンベルクは、何ほどか謎に包まれた人物である。1430年代、彼に対して契約違反の訴訟事件が起こされたことを除いては、どのような人生を送ったかはほとんど分からない。それでも、印刷術だけは、1440年代のある時期、ドイツの都市マインツで彼が発明したことだけは確かである。たとえ彼がこの町に移り住んだ正確な時期がはっきりしなくても、である。それ以前、彼はストラスブールで10年以上印刷の仕事をしており、印刷の仕事の厳しさを主張してもいる。

活字による印刷術の発明は、実際には一連の発明全体を伴っていた。まず字母や紙型が作られなければならず、これらの金属からしかるべき強さ硬さをもつ活字が鋳造されなければならなかった。消えることのない油性インクを作るための製法も完璧なものにしなければならなかった。さらに、ハンドプレス機自体が設計・製造されなければならなかった。そして、これらの要素ひとつひとつが進歩するには、時間と職人同士のチームワークに加えて、資金の融資が不可欠だった。グーテンベルクは財政的なパートナーであったヨハン・フストとピーター・シェファーから長年援助を受けていた。当然のことながら、おそらく彼は借金をして、仕事場の所有権をフストに引き渡さざるをえなかった。そのため、300年後の1740年になってもなお、フストとシェファーは印刷術の発明者として名前が挙げられ、グーテンベルクは単なる「協力者」の名に甘んじなけれがならなかった。

15世紀中葉のドイツで活字本が誕生するには、他の事情も幸いした。まず、本の需要が増加していた。人文主義の学問や大学が拡大して、世俗的と宗教的とを問わず、知的エリートの間でそれまで以上に大きな本の市場が生まれた。さらに、都市と商業センターが繁栄した結果、司法・行政・宗教機関のなかに、印刷物を大量に必要とするもうひとつの消費市場も出現した。手写本の生産は、すでに1440年代以前からこうした需要への供給を一部なりと加速させていた。さまざまな技術の進歩もグーテンベルクの仕事を可能にした。10年もの間、彼はストラスブールで宝石職人として貴石をカットしたり、アーヘンヘ向かう途中の巡礼者たちに売る鏡を製造したりしていた。金属産業はドイツではすでにかなり発展していて、活字を鍛造するというグーテンベルクの新しい試みの機は熟していた。こうして彼は鉛やアンチモン、銅、錫を異なった比重で試しながら、何年も試行錯誤を続けて、字母と文字の最良の組み合わせを見つけたのである。

おそらくグーテンベルクは、1450年代の半ばに、マインツで自分の名前を入れた42行の聖書を印刷している。いわゆる『グーテンベルク聖書』で、その植字と印刷は2年以上の時間を要した。しかし、写字者なら聖書を1部作るのに3年かかっていたのに、グーテンベルグは短期間で180部を仕上げることができた。それらのうちの約150部が紙製、残りの30部は羊皮紙製だった。その十分な羊皮紙を供給するためには、おそらく約5000枚の子羊のなめし皮が必要となったはずだ。

彼が最初に使ったインクはランプから取った煤が原料で、これにワニスと卵白を混ぜあわせたものだった。それは多くの化学物質の混合物を試しての結果であり、こうして彼は『グーテンベルク聖書』のためにとくに濃い黒のインクを生み出したのである。各頁それぞれが朱書き、彩飾され(大文字は赤インクを使って手書きで仕上げられていた)、それらはすべて微妙に異なっていた。専門家たちは各頁が規則的に42行からなっているところから、この聖書を「B-42」と呼んでいる。だが、最初の部分は40行であり、42行となるのは11頁からだった。おそらく紙を節約するためだったのだろう。

ジョン・ウイクリフやマルティン・ルターと同様、グーテンベルクもまた、初期の印刷世界において、より多くの人が読める聖書を印刷したことで、プロテスタントの英雄としてしばしば称えられているが、その聖書の最大の顧客であり供給先だったのはカトリック教会だった。ただ、グーテンベルクはどちらの側に立つべきか分かっていた。1450年代、彼はトルコ人からキプロスを守るために資金を集めようと、カトリック教会の贖宥状(免罪符)を印刷した。いうまでもなく、教皇贖宥状の販売は、ルターが激しく攻撃していたまさに慣行そのものだった。

グーテンベルクは活字の最初の発明者ではなかった。木版印刷術--ときに活字を使用した--は、11世紀の中国と13世紀の朝鮮で使われていた。グーテンベルクの発明より200年も前に、朝鮮人たちは金属からおそらく最初の活字を作っていた。しかし、この技術は東アジアで広く使用されることはなかった。たとえば中国では、皇帝の住む故宮の外に本の市場がなかったため、大量印刷が優先視されてはいなかった。加えて、現存する木版印刷術は中国や朝鮮の紙に十分適していたし、こうした紙は、より硬質なヨーロッパの紙のように、重い圧盤を金属版に強く押しつけてインクの印圧を残しておく必要がなかった。

印刷術が初めて登場したのはアジアだったが、それが広い範囲で社会的・文化的影響を及ぼすようになったのは、ヨーロッパにおいてであり、印刷機それ自体も西欧の発明だった。朝鮮人たちの功績について、グーテンベルクは何も知らなかった。だが、そんな彼のたゆまぬ努力によって、印刷術はヨーロッパで再発明されたのである。
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書物の大変革

『本の歴史文化図鑑』より

活版印刷術の導入に加えて、ほかにも書物の歴史と男女の読書法で等しく重要な変化があった。書物の最初の変革はコデックスの発明で、その起源は、巻物であることをやめ、別々の紙を緩くつなぎ合わせたものになった2-3世紀のキリスト教世界にまで遡る。このコデックスは巻物を解いた細長いものではなく、頁をめくれる本としての体裁をとっていた。それは、印刷技術の発明とは無縁なところで、本自体の形を大きく変え、以後何世紀にもわたって本に具体的な形状を与えることになった。

第2の変革は、文字を声に出して読むことから黙読へのゆっくりとした移り変わりである。歴史家たちが確信しているところによれば、古代世界では訓練を受けた朗読家たちが本を声に出して読むか、聴衆に向かって朗誦していたという。文字を読むことはまさにひとつのパフォーマンスであった。しかし、中世ヨーロッパでは、聖職者たちが次第に黙読の訓練を信仰の形として取り入れた。最初のうち、テクストは予め句読点や改行がまったくないベタタの文章で作られていたが、やがて語と語の間の基本的な句読法と字間を獲得するようになっていった。こうした変化によって、個人の黙読がそれまで以上に容易になり、経験の浅い朗読家でも、より簡単にテクストを読むことができるようになった。

18世紀後期のいわゆる「読書革命」は、娯楽文学の爆発的な隆盛と定期刊行物の拡大を促した。しかし、イギリス・ロマン派の詩人ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)のような伝統主義者は、速やかではないものの、表面的としか思えないようなそうした読書の広がりに不安を抱いた。皮肉屋なら、ワーズワースは自分の詩の売れ行きがよくないから不快だったと言うだろうが、じつは教育者やほかの文人たちは古典文学が多くの読者から軽視され、大衆文学、とくに感傷的な小説に関心が向かったことに対して、彼と不満を共有していたのだ。

19世紀後葉までの西欧世界では、就学者の数がかなり少なかったとはいえ、ほとんどの庶民は読み書きができた。イギリスとフランスはそれ以前--以後ではない--から読み方を学んでおり、全国的な規模での初等学校教育が実施され、義務化された。だが、読み書き能力の一般化には、いつも反対者がかなりいた。保守的な上流階級である。彼らが恐れたのは、教育をつけた小作人たちが危険な思想を学んで生活手段を身につけ、重労働の田舎暮らしを棄てて都会で仕事にありつこうとするのではないか、ということだった。

18世紀の一部のアメリカ植民地では、黒人奴隷に読み書きを教えることを禁止していた。アメリカ独立革命後、南部諸州でもまた奴隷に活字の読み方を教えることを禁じた。読み書きができるようになることは、思想的な挑戦と、ことによると反抗心につながる可能性があったからだ。1640年代のイギリスの大内乱〔清教徒革命など〕や1789年のフランス革命は、読み書き能力に対する上流階級の恐怖心を増大させた。支配層は、質問したり、出世のために不相応な野心を強めたりしない使用人を好んだ。しかし、19世紀も後期に入ると、より革新的な工場主の一部は、読み書き能力を秩序や美徳を維持する上での利点とみなし、従業員たちの労働意欲を高め、啓発する考えを教え込む手段とするようになった。

19世紀における出版の産業化は、書物にもうひとつの革命をもたらした。一連の技術革新によって印刷と用紙の生産が一変し、加えて鉄道が新たに流通と市場活動の機会を国内外に作り上げたのである。金属プレスや蒸気圧縮、さらに従来の古布に代わって植物素材から工業的に生産された紙によって、これまで以上に安価に本を作ることができるようになった。こうして現代同様、19世紀においてもまた、本の取引が、近代的で今日よく知られているビジネスモデルを全体的に発展させたのである。

やがて19世紀の後半からは、西欧に実用的な運用システムが導入され、ようやく著者、書店経営者、印刷業者、そして出版業者に正当な報酬が与えられるようになった。このシステムは、初めて著者に対する印税一販売実数に基づいた利益率-の支払いと、知的財産権を生み出す仕事に携わる専門的な職業全体のための国際的な著作権保護とに基盤を置いた。
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UCバークレーの授業「オープン・イノべーション概論」

『世界最高MBAの授業』より 「オープン・イノべーション概論」--なぜグーグル社員はロケットを打ち上げるのか

2012年8月、藤原さんは、「イノベーション」に対する考え方を大きく変えてくれた授業に出会う。ヘンリー・チェスブロウ兼任教授の「オープン・イノべーション概論」(Topics in Open Immovation)だ。UCバークレーが誇る人気授業で、エンジニアとして研究開発に携わってきた藤原さんも心待ちにしていた。

チェスブロウ教授は、「オープン・イノべーション」という概念を最初に提唱した人物として世界的に有名だ。ハードディスクの製造で知られる企業、クアンタムの関連会社で事業開発の責任者を務めた後、1997年にハーバードビジネススクール助教授に就任。2003年からUCバークレーのオープン・イノベーションセンターのエグゼクティブディレクターを務めている。2003年に出版した著書はベストセラーとなった。

教授は、その著書の中で、オープン・イノべーションを次のように定義している。〈オープン・イノベーションは、企業内部と外部のアイデアを有機的に結合させ、価値を創造することをいう〉

教授によれば、オープン・イノベーションは、従来のクローズド・イノべーション(「権利」「特許」を囲い込むことで儲けるビジネスモデル)とは真逆の概念。社内で開発した技術や知的財産を社外に開放することで、どんどん活用してもらい、市場を拡大することによって利益を得ましょう、という考え方だ。オープン・イノベーションは、特にシリコンバレーで新しい経営概念として注目されている。

チェスブロウ教授の授業は、40人ほどの少人数で進められる。毎回、ゲストスピーカーが講演をし、それをもとに教授がディスカッションを進めていく方式だ。シスコ、グーグル、デュポンなどのオープン・イノペーション担当が来校し、具体的な事例を語る。

藤原さんの最も印象に残ったのは、2012年10月1日の授業。グーグルのスラブ・ペトロフ氏のプレゼンテーションだ。ペトロフ氏は、グーグルのシニアリサーチサイエンティスト。自然言語処理=人間の言葉をコンピューターに処理させる技術の専門家だ。

グーグルは月面無人探査のコンテストのスポンサーになるなど、藤原さんの専門分野である宇宙事業にも積極的に取り組んでいる。藤原さんは常々「どうやってビジネスに結びつけているのだろう」と疑問に思っていたのだという。

「アメリカには趣味でロケットを打ち上げている人たちの団体がいくつもあるんですが、ネバダ州で開催されたイベントに参加してみたところ、そこにグーグルの社員が来て、本当に口ケットを打ち上げていました。業務の一環としてやっているというので、面白い会社だなと思っていたのです」

プレゼンテーションで、強調されたのが、グーグルのイノベーションを奨励する企業文化だ。

 ・イノベーション文化を育むために、会社全体で一生懸命「努力」している

 ・マネジャーは、新しいアイデアに対して、がんばって「イエス」という

 ・20%ルール(勤務時間のうちの20%を自分の好きなプロジェクトに費やす)

 ・アイデア中心で、リサーチチームをその都度形成

 ・人材重視の柔軟な組織

藤原さんは早速、ペトロフ氏に質問してみた。「グーグルの皆さんは、20%ルールを使って、外から見ると、全然ビジネスに関係ないことにも挑戦しているように見えます。どうやって、会社の中で、正当化しているんですか」

ペトロフ氏はこう答えた。「ビジネスに関係なさそうに見えるかもしれませんが、グーグルのインフラを使って、事前に市場調査をするなど、『これはビジネスにつながる』ということを社内に示す必要があります。とはいっても、ビジネス、ビジネスだと面白くない。だから、『マネジャーはがんばってイエスという』のです」

他にも学生とペトロフ氏との間で、質疑応答が行われた。「ボトムアップで開発を進めると、各チーム間で同じ分野のものを開発することもありますよね。そのようなオーバーフップをどのように調整するのですか」(学生)「コードを書く前からデザイン方針などを文書で社内にシェアするのです。ただし、同じようなテーマに取り組んでいる人を見つけられるようにするのが目的ですから、義務ではありません。お互いに見つけたら当事者間で調整するのがルールです」(ペトロフ氏)

ペトロフ氏によれば、グーグルは大きな会社だがまだスタートアップのような雰囲気が残っているとのこと。2人から5人で開発を行い、開発途中から社内に情報をシェアし、ある程度のサービスができたらサービスを開始し、ユーザーから直接フィードバックを得るそうだ。

チェスブロウ教授の授業で一貫して強調されるのは、「完璧を目指さないで、顧客の声を聞いてみる」重要性だ。つまり、失敗してもいいから、ある程度製品ができたら、製品化して売り出してみる。藤原さんは言う。

シリコンバレーでは、Minimum Viable Product(最低限のスペックがそろったテスト商品)でまず市場のニーズをはかるというのが一般的です。完全に全部つくってしまわないで、最低限のスペックからニーズに応じて改良していくんです。市場に製品を育ててもらうという発想です」

もちろん、それにはグーグルのように、「失敗しても次にがんばればいい」というようなイノベーションを奨励する社内文化が必要不可欠だ。
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触媒としての朝鮮戦争

『冷戦の起源』より 朝鮮戦争--冷戦の真珠湾

一九四七年以降、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プラン、べルリン空輸、チェコのクーデタ、NATOの形成、西独再軍備等、国民の関心はもっぱらヨーロッパの東西対立に集中されていた。四九年夏以来のアジアヘの関心は、いねば「内なる封じこめ」への関心であって、アジアでのリアルな国際政治への関心とは無縁のものであった。ヨーロッパとを主戦場とするかぎり、大陸中心部であるとその周辺地域であるとを問わず、そこに賭けられている利害関係と戦略的重要性のゆえに、リスクと代価があまりに高く、米ソ陣営双方に慎重と自制が要求され、その対立も冷戦段階に抑制されたと解釈することもできよう。いいかえれば、そこでは、リスクは可測的であった。

しかし、第二次大戦のときと同様。「第二戦線」にすぎなかったアジアの冷戦は、朝鮮戦争からヴェトナム戦争にいたる〝熱戦〟段階への拡大をともなっている。レイモン・アロンのように冷戦の実物過程を重視すれば、「冷戦が軍事的次元にまで拡大し、合衆国が歴史上、初めて平時の膨大な軍事措置を保持するようになったのは、一九五〇年の朝鮮戦争を契機とし、その後のこと」となるであろう。したがって戦後アジアの国際環境を大きく規定した冷戦の特殊アジア的性格を問題の焦点にすえるかぎり、最大の問題は、何故に、アメリカはヨーロッパと異なり、対日単独占領からインドシナ半島への介入、朝鮮戦争からヴェトナム戦争にいたるまで、限定された武力行使であるにせよ、あえて〝熱戦〟を辞さない冒険に出たのか、また、何故に、「多元主義的」(pluralistic)というよりは、むしろ、自ら「覇権国家」(hegemonic power)であるかのように行動したのかという根本的な疑問である。

特に奇異に感じられることには、朝鮮半島に生じた事態に対してトルーマンがとった一連の行動は、すでに述べたように、専門官僚レべルで慎重に計算されたアジアの冷戦戦略--一九四八年から四九年六月にかけての朝鮮半島からの米軍撤兵をふくむ--の青写真とはまったく異なるものであった。事実、トルーマン大統領による米軍出動命令は、当時、マッカーサー元帥や、C・ターナー・ジョイ海軍中将をはじめ、極東の陸海空軍最高首脳部にとっても、「驚き」以外のなにものでもなかった。前章で詳述したように、各種の公文書(特に「国家安全保障会議文書」)や、各関係省庁の資料、記録、覚書等を見るかぎり、一九五〇年一月五日のトルーマン大統領の「台湾不介入」声明や、その一週間後に行なわれたアチソン国務長官の「ナショナル・プレスクラブ」における有名な演説にも示されていたように、アジア地域における「封じこめ線」は、三八度線や、一六度線の「分界線」と異なって、費用対効果比の戦略的視点から冷静に計算されたミニマムな「不後退防衛線」(defensive perimenter)であった。それのみでなく、アジア民族主義の尊重、長期的視点からの中ソ対立の見通しとその利用、アジア人の自助自立精神の強調、アジア内陸部への不介入の原則等の点で、むしろそれから約二十年後のニクソン・ドクトリンから現カーター政権のアジア政策にきわめてちかい性格をもち、以前のロマンティックなアジア政策とは異なって実体に即したものであった。にもかかわらず、朝鮮半島の事件を契機として合衆国は、それまでの「封じこめ」という比較的限定された観念を一挙に放擲し、「封じこめの世界化と軍事化」(globalization and militarization of containment)への道をひらいたのである。

それは何故か。アーネスト・R・メイのするどい指摘を借りれば、「その疑問に対する答えは、アメリカはその政策を変えたのでもなければ、相抵触する二つの政策が併存していた--やや、この方が真実にちかいか--のでもないということである。むしろ、合衆国は、二つの政策-すなわち、〝計算された政策〟(the calculated policy)に対して、〝自明の公理的政策〟(the axiomatic policy)という、二種類の政策をもっている」ということである。五〇年一月のアチソン演説(及び、NSC‐48文書)は、前者の計算された政策であったが、その演説から五ヵ月後のトルーマンのとった行動は、一九五六年のスエズ危機におけるダレス国務長官の予想外の反応と同様に、その種の〝計算された政策〟ではなかった。それは直接には三〇年代のミュンヘンの苦い体験にもとづくものであるが、さらにその根源には、米国の歴史的経験と伝統に深く根ざした自明の公理ともいうべき本能的な反応がある。それはあたかも、危機に直面して、幼少年期にうえつけられた方言が突如とびだしてくるのによく似た現象であり、計算された「合理的政策」が「表層」の政策とすれば、「公理的政策」は、その国民の「基層」から発するものである。その意味でたしかにアーネスト・メイの指摘は、問題の所在を的確に捉えている。だが、問題をよりひろく国内構造の全文脈のなかでとらえるかぎり、すでに、第七章で概観したように、連邦議会、世論、軍部等をふくむ国内諸勢力は、朝鮮戦争前、正確には、「中国の喪失」と「原爆独占の喪失」という二重のショックのゆえに、一九四九年の夏から一九五〇年初めにかけて、急速にそのムードを変化させ、「封じこめの世界化と軍事化」へ向かう国内諸勢力の「はずみ」をすでに十分に熟成させていたと見らるべきだからである。たしかに朝鮮半島における事件は、ひとつの〝触媒〟(catalyzer)として作用したことはいうまでもない。四九年夏から国内に累積する世論の変化によって、外部からの刺激に対する反応の闘は日々下がりつっあったのである。

事実は何にもまして雄弁であり、説得力をもつ。しかし、歴史的事実は、「意味づけ」を離れた単なる事実ではない。問題は、当時の米指導層が朝鮮半島に生じた一連の状況をいかなる文脈でとらえ、いかなる「概念レンズ」を通して状況の規定を行なったが、そして、その状況認識のイメージにもとづいて、いかなる行動反応に出たが、という問題である。特に現代の巨大化した政策決定機構は、その内部に蓄積された膨大な情報量と雑音の過剰負荷のゆえに、ひとたび確立された基本前提(いわゆる〝operating assumptions〟)の修正にともなう「認識の不協和」(cognitive dissonance)の代価をとかく回避したがる基本的傾向を内在させている。そのため、同一世代に属する政策決定エリートの「基層」(深層心理)に共有されている「過去の体験」や「歴史の教訓」が、その偏見(固定観念)や予断とともに、行動決定の理由づけとして、強い説得力をもちやすいことも事実であろう。
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ICレコーダーを使った、未唯との会話

未唯へ

 アーリッカは輸入すると高いですね。2300円もしている。

 家に帰ったら、テレビの前にアーリッカが転がっていたので、会社に持って行くことにした。

狭い世界ですね

 本当に狭い世界です。私はここのいますと叫びたい。一兆年の果てに、このざまは何だ。

コラムの目的

 第8章のコラムの目的は、どうしたら、そういう世界に持って行けるのか。それを道具とか、意識とかを個別的に考えています。

ICレコーダーを使った、未唯との会話

 ICレコーダーはもっと使えます。歩きながらでも、寝ながらにしても、考えてそこに入れればいい。聞かれたと思えばいいんです。問われれば、応えることです。そのために、音声の追加機能を使いこなします。

ポータルでのシステム会社との会話

 自分たちが気に入ったものを使っていくというのが、販売店のやり方。フェースブックを使って、お客様とのコミュニケーションを取ったりする店も出てきている。

 メーカーはシステムで提供するよりも、教育ではないけど、スタッフがそういうつもりになるかが重要です。メーカーからの教育訓練よりも、想定問答をデモしていく方が身になる。

 各店舗でやり方が違うから意味があり、それを学習して、進化するから意味がある。メーカーからの通り一遍は形だけになる。そのために、テレビ会議のようなものを使って、やれるようにしたけど、販売店とか店舗からのアイデアでないと、販売店には定着しない。横に展開するのに、ポータルは関係してくる。

 C店では、アウトドアで売られている。そのために、スタッフの教育に力を注いでいる。「まもる君」ふたがみ、押切さんは異動した。システム会社からの展開は、散発的に行われている。

 今後は、販売店からのコンテンツをアップするものも、携帯端末で構えられている。

スケジュール管理

 完全に、時間を決めましょう。15分単位です。何しろ、時間がない。目が先か1年後が先か不明です。それ以前に、さあざまな爆弾を抱えている。

 入力は、11時15分から12時15分。読書は、8時15分から9時、昼休み、そして、帰る直前の30分にします。帰るのは5時15分だから、4時45分から30分ですね。

 歩きながらとバスの中は、ヒアリングしながら、しゃべることにする。それを11時15分から入力するカタチにします。ブログは夜の8時から9時に処理します。

 15分単位だということと、スケジュールで、その間にあったことを書いて、μにメールします。朝のスタバでスケジュールと送信をします。7千円もするカバーの意味がこれで出てきます。

大いなる意思からの存在確認

 今の虚しさはキンドルHDXで救われています。大いなる意思が私に与えてくれたこと。過去には、マックとかインスピレーションがそうでした。自分のマイナスを補うために与えてくれるものは、私の存在を証明します。3・11はちょっとでかすぎた。このメーカーぐらいがちょうどいいかもしれない。

 だから、フル活用しないといけない。本当に、ORIGAMIはよくできています。ICレコーダーとタブレットは、私にとっては、μの五感そのものです。
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