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悲劇の根源--ポーランド問題

『冷戦の起源』より 勢力圏対普遍主義

一九四四年十月二十三日、ハリマン駐ソ大使はモスクワ会議から帰国し、ワシントン当局者に対して、ポーランドをはじめ東欧の地域におけるソ連秘密警察の生々しい恐怖支配の実態報告を行なった。スチムソン陸軍長官は、このハリマン報告に接して、ソ連社会の非公開性を十分に考慮に容れ、原子力の秘密公開とその国際管理の将来について再考をせまられつつあった。スチムソン日記に記されているように、「われわれの情報〕の公開によって確実に代償がソ連から期待できないかぎり、ソ連に秘密を明かすべきではない」という交換条件の考え方に傾いていく。ヤルタ会談を前に、ローズペルト大統領もスチムソン長官の見解に同意した。米指導層に深刻な不安を与えていたものは、いうまでもなくポーランド問題に対するソ連の態度であった。

ポーランド問題は英国にとっては、チャーチルが強調したようにぷ忿然の問題であり、ソ連にとっては自国の安全保障を賭けた〝死活〟の問題であり、合衆国にとっては大西洋憲章の原則そのものにがかおる〝原則〟問題であった。しかし、ポーランドの運命が戦時同盟の夢を崩壊させ、冷戦開始の単一、最大の争点となった根本の理由は、次の二点において東西対立の象徴的争点となる必然性を内包していたからである。第一に、それはポーランドの国境線確定をめぐる伝統的なヨーロッパ国家体系上の勢力圏確定の問題であり、第二に、戦後ポーランド統治の主体が何人であるべきか、という政治体制とイデオロギーにがかおる問題であったからである。すなわち、冷戦を特徴づげる空間の境界ラインとイデオロギーの分割ラインをめぐる二重の対立という性格はすでにここに胚胎されていたといっていい。

一九三九年九月、赤軍がモロトフロリでヘントロミフ秘密協定にもとづいて戦前のポーランド領土部分を占領したとき、ソ連はこの領土部分の併合は第一次大戦の終結で英国が提案した「カーゾン・ライン」にならったものであり、人種・宗教・風土の実質的根拠をもつ無理のない分割線であると主張した。だが、ロンドンに総司令部をおくポーランド亡命政府は、ソ連の提案を拒否し、かわりにはるかに東方寄りの一九三九年当時の国境に復帰させることを強く要求した。両政府の仲介の労をとった英国政府の努力にもかかわらず、ロンドン亡命政府とソ連政府は、一九四一年ドイツのソ連侵入後も解決に達することができなかった。合衆国においては、当初、東欧という周辺的問題に対する大統領及びホワイト(ウスの持続的関心はうすく、一般国民、世論の関心も低かった。その対応は、国務省内部の欧州問題局のルーティン的決定の累積に委ねられていた。特にアメリカ特有の平和観にもとづいて、外交と軍事問題は分離され、東欧問題の処理に関して将来の安全保障の視点から陸軍省や統合参謀本部が関与することはほとんどなかった。また国務省が本腰を入れて米国の国益に照らしてポーランド政策の目標に検討を加えたのは、ハル国務長官が辞任した後、ヤルタ会談を前に米国代表派遣団の資料準備を行なったとき以降のことといっていい。

既述のように、ポーランド領土問題に関して合衆国政府が強い関心を示す出発点となったものは、過去の誤りをくりかえすまいという外交当局者の堅い決意にあったという点で、《ウィルソンの亡霊》に、その悲劇の根源を求めることができよう。そもそも、米英の共同戦争目的を明確化した大西洋憲章が草案された具体的動機は、東欧をめぐる領土問題に関する米英間の考え方を調整する必要からであった。すなわち、一九四一年七月中に、東欧における戦後の領土的とりきめと勢力圏確定の密約が英ソ間にひそかに進められているとの噂がワシントン関係筋に流布され、国務省はローズベルトを説得して、「領土、住民、経済に関する、いかなる戦後和平のコミットメントも行なわない」という誓約のとりつけを、チャーチル英首相に求めたことに始まる。国務次官補のアドルフ・バールをはじめ、国務省当局が恐れていたのは、第一次世界大戦後のパリ平和会議でウィルソンが直面した最大の困難のひとつが、戦時中、英仏間にとりきめられた、イタリアに関する秘密協定の存在が突如あかるみに出て、国内世論を刺激し国際連盟を御破算にしたという歴史的教訓であった。このような「戦時の二国間秘密協定」を本能的に嫌悪する怨念は、《ウィルソンの亡霊》となって、米政府の行動を呪縛した。一九四一年八月の大西洋憲章にもうかがえるように、領土問題の解決は、軍事占領のような戦時の既成事実の圧力によってなさるべきものではなく、戦後その設置が期待される国際機関を通じて行なわるべきものであり、その国民の自由に表明する自決の権利を尊重して決めらるべきものだという信念がその基調になっていたからである。
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貧困化の果てに--変容する弁護士界

『ブラック企業ビジネス』より なぜ弁護士は食えなくなったのか?

前章では司法制度改革が「ブラック企業ビジネス」を促進している様を見た。本章では、この点をもう少し掘り下げてみたい。改革の結果、今や若い弁護士たちは「報酬」のために、背に腹は変えられないところまで追い込まれている。

貧困化した弁護士すべてが、ブラック企業に加担する「ブラック弁護士」だというわけではないし、本章で紹介する事例が直接ブラック弁護士だというわけでもない。だが、弁護士の貧困化は、明らかにブラック企業に加担せざるを得ない弁護士の増加の一要因なのである。

1999年7月、内閣に「司法制度改革審議会」が設置され、司法制度改革を目指す議論が開始された。主要な柱は、①法科大学院(ロースクール)の設置(2004年4月から)、②司法試験制度改革(2006年5月に新司法試験開始)、③裁判員制度の施行(2009年5月から)の3つである。特に①②で目指されたのは、法曹人口の拡大だった。訴訟件数の増加、企業や公共機関などへの弁護士の進出といったニーズの増大を見込んで、政府は年に3000人程度の合格者を出すことを目標とした(2013年7月に撤回)。実際、この数年は毎年約2000人が合格している。

だが、こうした改革が進行する中で、弁護士の貧困化が進んでいる。従来、高額所得が保証されているイメージのあった弁護士という仕事は、今や食べていけない人々を生み出すまでに貧困化している。もっとも大きな要因は、弁護士になるまでに多額の費用を必要とするからだ。

まず、ロースクールで学ぶための費用である。入学金20万~30万円にはじまって、年間の授業料が国公立で約80万円、私立なら約150万円以上かかる大学もある。施設費用などその他の支出も合わせれば、法学既習者(修業年限2年)でも約400万円、未習者(同3年)なら約600万円以上かかる。こうした費用を奨学金などでまかなう学生も多く、平均して約340万円の奨学金を借りているという。もちろん、大学時代から奨学金を借りている人ならば、貸与総額はさらに膨らむ。

さらに、司法試験に合格したあとが問題である。法律家になるためには、約1年間の司法修習を行わなければならない。司法修習生は、最高裁に採用されて、法律実務を担える人材となるために、裁判官、検察、弁護士の三者すべての実務の現場で研修を行う。期間中は、「準公務員」として扱われ、修習に専念する義務が課せられるため、修習時間以外でのアルバイトなど一切の兼業が禁止される。

では、修習期間中の収入はどうするのか? これまでは、国が修習期間中の生活費と必要経費をまかなう「給費制」がとられてきた。だが、2011年11月に修習生となった人たち(新第65期と呼ばれる)から、この「給費制」が廃止され、国が修習生に金を貸す「貸与制」に移行した。この結果、新第65期の修習生のうち、87%が貸与を受けて約300万円もの借金を新たに背負うことになったのである。ロースクール時代の奨学金と合わせれば600万円以上の借金を、弁護士になる前の段階で抱えてしまうことになる。

こうした経済的負担に堪え兼ねて、司法試験に合格したにもかかわらず、司法修習の辞退を考えざるを得ない人が増えている。日弁連が2012年に行った「新第65期」の司法修習生を対象としたアンケート調査では、司法修習を辞退しようと考えたことがあると答えた人が28・2%もおり、辞退しようと考えた理由として「貸与制に移行したことによる経済的な不安」を挙げた人が、実に86・1%にのぼっている。

実際に辞退者も相次いでいる。大学時代からの奨学金と教育ローンで合計1200万円近い借金を背負っていたある合格者は、これ以上の借金は重ねられないと考え、司法修習を辞退した。また、別の合格者も司法修習生にはなったが、返済の不安から「貸与制」を利用せず、食事を減らすなど、ぎりぎりまで支出を削って修習生活を送っていた。

だが、本屋で勉強に必要な書籍を「買うべきだろうか」と躊躇している自分に気づいたとき、「このままではだめになる」と思って、貸与を受けることにしたという。前述のアンケートでも、貸与を受けて返済の不安を抱えている修習生から、食費を削り、書籍の購入や病院に行くことすら控えているという回答が多数、寄せられている。

ロースクールの設置と司法修習における「給費制」の廃止によって、今多くの弁護士たちは「法律家の卵」の段階ですでに貧困状態に陥っているのである。
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