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トポロジーとフラクタル

『認知言語学キーワード事典』より

トポロジー(topology)

 本来、位相、幾何学、地形学のことを言うが、ここから派生してもののつながりなどを指し、データの位置関係や、接続、包含等の空間的な位相関係を表す概念として用いられる。 Lewin (1936)のトポロジー心理学では、人が生活する現実の物理的な空間ではなく、個人の行動を規定する心理学的な場という意味で用いられるが、認知言語学では隠喩との関連、特にLakoff (1990)の不変化仮説の議論においてこの概念が鍵となる。

 トポロジーは単純に言えば、形には関係せず、接触、分離などにだけ関係する、変形しても変わらない図形の性質(位相不変量)を論じる幾何学である。○(丸)と△(三角)とはトポロジカルに同じであり、浮き輪とドーナツとも同様である。天気予報の単純化された日本地図に見られるように、われわれの日常の認知活動においても、このトポロジー的な推論や関係づけがはたらいていると考えられよう。

 Xが容器Aの中にあり、容器Aが容器Bの中にあれば、Xは容器Bの中にあることになる。この容器のスキーマにおいて、XがカテゴリーAの中にあり、カテゴリーAがカテゴリーBの中にあるとするなら、XはカテゴリーBにある。これは論理的な推論によって成り立っというよりも、容器のトポロジカルな特質が維持されている限りにおいて成り立っている関係であろう。このような古典的カテゴリーの論理的な特質も、容器のトポロジカルな性質が、容器からカテゴリーヘの隠喩的写像がなされることによると見ることができる。

 Lakoff(1990)、Lakoff& Turner (1989)では隠喩的写像においてスキーマが維持されると仮定する「不変化仮説」が主張されている。この仮説では隠喩の起点領域における構造は、目標領域の構造に制約を与えていると考えられる。それが具象から抽象へと隠喩的写像を受けてもスキーマはトポロジー的に継承されているのである(山梨2000)。 

フラクタル(fractal)

 数学者B.B.マンデルブロ(Mandelbrot、ed. 1983)が提案した概念で、部分と全体が同じ形状を持つ図形。幾何学的に言うと、スケールを変えても同じ構造が繰り返し現れる特性を持つものを言い、この特性を自己相似性(self-similarity)と言う。数学的に厳密な自己相似性を持つものだけでなく、緩い意味で自己相似性を持つものも含めて考える。

 フラクタル構造は、ちょうどロシアのマトリョウシカ人形のように、入れ子構造になっていて、拡大すると自己相似性が認められるものが典型的な例である。自然界にはフラクタルがあふれており、山や河川、海岸線、樹木の構造、雪の結晶、ガラスのひび割れ、株価の変動、上位組織と下位組織、曼荼羅の宇宙観などがフラクタル構造の例にあたる。フラクタル構造を解明することによって、例えば、樹木のような構造を持つ気管支の形態と機能の生物学的発達が説明できることが知られている。

 言語現象においては、多義性や、文と談話の関係などに応用が期待できる。例えば、「休校」という語は多義的で、「(台風などの理由により)1日単位で学校を休業すること」と「(学校経営上の理由で)数年単位で学校を休業すること」という2つの意味で用いられる。ここにフラクタルを援用すると、「休校」が表す2つの意味が自己相似性の関係にあることがわかる。また、フラクタルは、次のようなアスペクト表現にも観察される。

  a.花子は、いまジョギングをしている。[進行相]

  b.花子は、毎朝ジョギングをしている。[習慣相]この2つの文で、(a)の「ている」は進行相として解釈され、(b)の「ている」は習慣相として解釈されるが、後者は前者を積み重ねたものであるから、両者はフラクタルの関係で結びつけることができる。

 このように、フラクタルは、語句の意味分析に適用されるほか、文の冒頭と談話の冒頭といった関係にも応用される可能性を持つ。
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ルソー『社会契約論』

『西洋政治思想史』より 米仏二つの革命 ルソー

ルソーがこのような課題に取り組んだのが『社会契約論』(1762年)である。ルソーはまず,権力の正当性に問題をしばった。人はなぜ服従しなければならないのか。

しばしば見られるのが,家父長権による正当化である。これに対しルソーは,親の子に対する支配は子のためのものであり,子が成長すれば親と同じ自由人になるので適切ではないとする。次に実力支配説はどうか。しかしながら,支配という事実は,それを正当化するいかなる権利も生み出さない。さらに,人々が自発的に自らを奴隷にする契約を結んだという正当化については,奴隷契約は人間の本質に反するとして退けた。

結局,服従を正当化しうるのは,自由で平等な諸個人による社会契約だけである。このように結論づけたルソーは,さらに「すべての人々と結び付きながら,しかも自分自身にしか服従せず,以前と同じように自由であることは可能か」という問いを自らに課す。

その答えは,各人が等しく自らとその権利をすべて共同体に譲渡することであった。その条件はすべての構成員に等しい以上,だれも服従の条件を不当に厳しくしようとする人はいない。また,社会契約によって成立する共同体において,集団としての人民が主権者となるが,主権者の命令に従うことは,自分自身の意志に従うことに等しい。自分がその一員として決めた規範に自発的に従っている以上,人々は完全に自由かつ自律的だからである。

この結合により人々は一つの精神的な集合体を作り,その集合体と完全に一体化する。結果として,各人は,それまでの自らの特殊な意志に代わり,集合体の共同の自我(moi commun)の一般意志(volonte generale)に服することになる。

ルソーは,各個人の特殊な意志の総和である全体意志と一般意志を区別した。彼にとって,全体意志があくまで私益の集計であるのに対し,一般意志は人民全体の共通利益を志向するものであったからである。

「一般意志は,つねに正しく,つねに公共の利益をめざす」というルソーは,仮に自らの特殊な意志と一般意志が食い違うことがあるとすれば,一般意志への服従を強制されるべきだとさえいう。それは「自由への強制」にはかならないからである。ここから後世,ルソーこそが全体主義の祖であるという説も生まれることになった。

このような説が正しいかはともかく,社会契約に同意したすべての人間が主権者であると同時に臣民となり,単一不可分の主権の下,一般意志が具現化したものとしての法を人民自身が打ち立てるというルソーのモデルが,人民主権の最も明確な像を提示したことは間違いない。

とはいえ,『社会契約論』には,多くの問いが残されている。

まずは具体的な機構論である。主権者はあくまで一般意志の担い手である人民だとするルソーは,法を個別的な対象に適用する政府については,主権者と区別して考えるべきだという。具体的には王政・貴族政・民主政・混合政体があるというルソーの議論は,その限りで見れば伝統的な議論とそれほど違わない。

また,政府は必要であるがあくまで特殊意志だとするルソーは,政府が人民の権利を奪う危険性を指摘し,代表制を否定する。「イギリス人は自由だというが,四年に一度の選挙のときだけ自由なだけだ」という有名なセリフを残したルソーであるが,それではどのようにして一般意志が明らかになるかについては,曖昧なままであった。

最も微妙なのは「立法者」である。一般意志はつねに誤らないとする一方で,主権者である人民はしばしば誤ることをルソーは認める。このギャップを埋めるため,ルソーは半ば超人的な「立法者」を導入する。古代ギリシアにはリュクルゴスやソロンなどの立法者がいたが,ルソーはこれを持ち出し,理想の政治共同体のための制度を作るという。
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観光地富良野の誕生

『新しい広場をつくる』より

富良野は現在、外国からの観光客であふれている。数年前に富良野に伺った際にタクシーの運転手さんに聞いた話では、一日に五、六回、外国人を乗せることも珍しくないと言う。主な顧客は、韓国、台湾、香港、シンガポール、そして冬のオーストラリアからのスキー客である。近年は中国本土からの団体客も少しずつ増えている。富良野全体が、完全に脱『北の国から』の方向に向かっている。

現在の富良野の最大の観光アイテムはラペンダーを中心としたお花畑と、冬のスキーである。ただし、ラベンダー畑は、もともと観光のためのアイテムだったわけではない。いや今でこそ北海道有数の観光地となっているが、六〇年代までは、富良野自体は純粋な農村地帯だったのだ。

ラペンダーはもともと香水の原料として生産されてきた。しかし▽几七〇年前後から、香水の原料が人口香料に取って代わられ、ラペンダーの需要が激減する。七三年には、香料会社の買い上げがゼロとなり、富良野のラペンダー栽培は実質ストップする。ただ、このとき、手塩にかけたラペンダー畑を潰すに忍びなく思った富田さんという農家が、一面だけ畑を残した。この一面だけ残ったラベンダー畑が、旧国鉄のキャンペーンこアィスカバージャパン・のポスター、カレンダーに採用される。翌年から、カメラを提げた旅行者が富良野を訪れるようになり、徐々に富良野の美しさが、当時、北海道を旅する若い旅行者(カニ族)たちの間で広まっていく。

一方、七四年には富良野プリンスホテルが開業、スキーリゾートとしての富良野がスタートする。

そして、一九八一年『北の国から』の放映が始まり、富良野ブームが到来する。

しかし、もしもこれだけのことなら、そのブームは数年で終わっていたかもしれない。大河ドラマと違って、放送が何年にもわたったという幸運はあったとしても、それだけがいまの観光地富良野を支えたわけではない。また富良野は、バブル後の長引く不況にもよく耐えて、観光地としての地位をいまも保ち、向上させている。

ここでも重要なのは、富良野の人々が、「香水工場の見学」「ポプリの作成」「ラペンダー摘み体験」など、様々な参加体験型の企画を打ち出していった点だろう。富良野は、観光に関わる人々の小さな努力の積み重ねによって、見事に、第一次産業を第三次産業に転換したのだ。あるいは様々な食品加工業なども、この富良野の地で生まれているから、いまの流行りの言葉でいえば農業の「高度化」「六次産業化」に成功した典型的な地域と言える。

実際、このような状態になると次々にアイデアが生まれてくる。いまや夏の名物となっている「北海へそまつり」は、富良野が北海道において経度・緯度の中心点に位置することから生まれた祭りだが、四千人の踊り手、七万人の観客を集める大イベントになるまでには、多くの紆余曲折があったと聞く。あるいは、夏と冬の観光の端境期に、ワイン祭りを開く。通年観光施設として、「カンパーナ六花亭」のような新しい観光スポットを次々に誕生させていく。街には英語、韓国語、中国語の表記があふれ、すでに国際観光都市の様相を呈している。

以下は、やはり拙著『わかりあえないことから』の内容と重複することだが、私はここ十数年、ほぼ毎年富良野の街に呼ばれ、市内のすべての小中学校で演劇を使ったコミュニケーション教育のモデル授業を行ってきた。現在、その事業は私の手を離れて、さらに広がりを見せている。

富良野でモデル授業を行っていて面白いのは、保護者や地域の方たちの見学者の数が異常に多いという点だ。全校生徒十数名といった小さな学校で、生徒と同じか、それ以上の大人たちが見学に来る。要するに、お母さんはもちろん、お父さんたちも農作業を休んでモデル授業を見学に来るのだ。あるいは子どものいない近隣の大人たちさえも見学に来る。

要するに、富良野の農家の方たちは、以下のようなことを考えているらしいのだ。

「自分たちは農家だし、また自分の子どもにも農業を継いでもらいたいけれども、これからの日本の農業は、高価格高品質の付加価値で勝負していくしかない」

こういったことを、富良野の人々は実感として強く抱いている。それ故に、

「だから、農家こそ、新しい発想や、消費者のニーズをくみ取る柔軟性、コミュニケーション能力や国際性が必要だ。農業こそが創造産業だ」

そのために、私のような者の授業にも、多くの見学者がやってくる。実際、富良野は、富良野ブランドを確立しており、「富良野メロン」「富良野かぼちや」といった無農薬、高品質のブランドは強い競争力を持つ。

二〇一三年度には、富良野高校に道内初の演劇を組み込んだコースが新設された。まだ札幌にもない新しい取り組みを行おうとしているのだ。もちろんこれは、プロの演劇人を育成するためのコースではない。二十年後、三十年後の農業と観光の町富良野を支える、豊かな発想と表現力をもった人材を育成するプログラムだ。
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存在と無の間にあるモノ

日本は変われるのか

 関心を持っていない人には小さなものに見えるけど、これは大きなことです。それに順応できるか。むしろ、率先していくのが日本でないとダメです。

 日本は特に、外国からの刺激が少ないところです。黒船みたいなもので、国がつぶれるとなると、一気に変わります。それにより、地方分権から中央集権になリ、国民国家ができた。今度は、その逆です。

 元々、フィンランド自体は、スウェーデン語も一緒に教育していた。サーメ語をやっている人はほとんどいないけど。

個人の分化と合意形成

 どこにいても考えられる。個人が分化していれば、全ての問題を自分の頭で考えられます。これが大きな特徴です。組織の場合は、権限を与えることしか考えられない。それだと拡がらない。合意できない。

 フィンランドは500万人で、日本の20分の1以下です。だから、自分たちで決められるのです。そして、少ない人間をどういうふうに使っていくのかも、見えています。だから、合意形成の仕方も変わってきたんです。

 スウェーデンと戦い、ロシアと戦い、ドイツと戦った。完全に負けることはなかった。そこから、シスの精神が出てきた。ノキアの歴史がそれを証明しています。ただし、ヨーロッパを越えた、グローバル化で状況が変わってきました。

グローバル化はヨーロッパを飲み込む

 ヨーロッパのノキアは世界市場のアップルとか、中国などに勝てなくなってきている。中国はヨーロッパを狙っています。中国の発想は、ギリシャの湾岸と国鉄を手に入れて、それから、EU全体に拡げていくというやり方です。

小学生の英語教育

 公文的な発想での小学生の英語教育をするとなると、発想が大きく異なります。教材などはソーシャルネットワークを使うカタチになり、家庭と公文教室もつなげることができます。教えるのではなく、学ぶ力を使うとなると、教師の資質も異なります。

 それをコミュニティとくっつけていけます。学校教育とは、学校図書室でつなげていく。その生徒の状況をハッキリさせて、的確な方向を出していく。海外との交流もクラウド的に行うことができます。

ミカプラスの日々

 ミカプラスの最終日です。明日はいないし、来週はすべての時間を埋めています。逃げ込むつもりです。

存在と無の間にあるモノ

 間になる、全てのものをムシする傾向があることに気付いた。内なる生活と外なる世界の端の部分とはつながります。内なる世界を取り巻く周辺のところはムシします。

 存在の無の関係では、自分と宇宙全体しかなくて、その間にあるモノ、家族とか会社とか国とかはムシします。これは、存在と無と言ったところからの結論です。

 一番の主流である、全てを知りたいの対象は、周辺を知りたいのではなく、後ろ側と外側の輪郭とつながることです。これは、LL=GGとも、諸、関係します。その間の雑多なものは、それぞれの生活でやってもらえばいい。重要なのは、接点を作ることです。その接点も、LL=GGという極端な部分からの接点です。それによって、トーラスができます。

 それが故に、自分の周辺が狭く感じます。だから、その部分はムシします。ムシできます。
 世界とつながっているという感覚はどこから生まれてくるのか。たぶん、そこから来たのでしょう。インターネットは、その通り世界、見知らぬ世界とつなげるためです。そして、最後まで、周辺部分をムシします。

生活編のコラム

 生活編のコラムはどっちかと言うと、雑情報です。考え方の整理です。定型的なところで述べられるものを述べています。
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フィンランドのPISAの順位が下がっている

分人と分化の関係

 分人というのは、他人との関係で人が分けられていくけど、分化と言うのは、さならに人間が多様化することです。

 分化の概念自体は、人が多くなればなるほど、エネルギーを消費してダメになるというところから出てきました。一つの役割だけから、やるとなると、生きることとペイしないというところがあります。一人が多くの人間として、作る人であり、使う人であることが多様性を持たせます。

 それによって、作る人と使う人、エネルギーを出す人と消費する人の区別がなくなり、多くの人がマーケティングに参画できます。つまり、多くの人が生きていくために考え出したアイデアです。人が多くなればなるほど、余裕が出てくるものになります。

 実際問題として、分化は今、始まっています。インターネットの世界においても、情報共有と言うカタチです。分人の問題は構造主義にも関係するみたいです。だから、フーコーなどのこの間圏から見てみます。そこから、分化へのアプローチです。

 存在の力と分化はかかわっています。意思の力の時は、組織の人間として、当てはめることができた。キリスト教でも、一神教の概念から、inndividualとして、扱った方が楽だった。それである程度、安定することができた。枠を越えるものをパージすることで、皆、納得した。

意思の力が流行っている理由

 なぜ、意思の力の方が流行っているのか。その方が楽だからです。一つの役割に限定すれば、考えずに生きていけます。その中に安住できます。その他との軋轢は大きくなくけど、それは境界線上にいる人だけの問題にすることができた。

 組織の良さは、このメーカーの上で生きてきたからよく分かります。役割分担することで、全体がどうなっているのかを考えずに、利益を考えずに、そこにいるだけに、家族も含めて生きていけます。

 ギリシャ時代も奴隷の方が楽だったという側面を持っていた。奴隷は主人のことを気にしなければいい。主人は奴隷のことを考えると同時に、自分の地位を気にしないといけない。

 国民国家のなるまでは、楽だったと言える。人口も少ないし、多くすることもできなかった。資源を十分に使うことができた。国民国家になることで、国のところまで、個人が影響されることになった。だけど、見返りはあまりにも少ない。

 民族と国が同一ならば、民族の情熱で乗り越えられたけど、民族が異なったら、悲劇です。考えなくても、ある程度の人が生きていける。本来、能力がない連中も生きていけるのが、民主主義という制度だった。ただ、内と外では大きな違いがあったが、力で納得させることで、それなりに回っていけた。

フィンランドのPISAの順位が下がっている

 フィンランドのPISAの順位が下がった。ICTの影響とみている。調べるけど、考えないようになっている。

 それに対して、フィンランドは教育方針を変えている。専制が教えることから、生徒が学ぶことへ変えていく。私の言葉で言えば、意思の力から存在の力へシフトしている。これは決定的な差になります。

 フィンランドは1989年から始まる、ロシア崩壊の影響を受けて、最大の貿易国をなくした。そして、ロシア圏での優先権もなくなった。

 そして、EUという市場を制覇するために、英語の教育を始めた。優秀な学生を育て上げた。福祉国家という社会主義を活用していった。英語でもって、EUに入り込んでいった。

 韓国は国がやっています。英語の教育が、個々の学ぶ力になった時に、始めて、国が変わります。それは教育の力でやったことが、個人の力になっていくことです。今は、劇的に変わろうとしています。
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コラム一覧 7. 生活

7.1 自分は考え抜くための存在とする
 7.1.1 独りは寂しくないですか:1兆年を経て、生まれてきた、皆も結局、独りなんですねよ。どうしても、それを感じてしまう。
 7.1.2 非日常的な行動は楽しい:SFPLでの館長とのやり取り、LAPL前のWindows2000の発表会への飛び込みなど、偶然の可能性は高い。
 7.1.3 弱点を強みにするツール:雑記帳は30年近く書いてる。その間にツールはドンドン変わってきた。考えを捉え、まとめ、表現する。
 7.1.4 時間は与えられるもの?:時間は微妙なものですね。いかように使っても、過ぎていく。〈今〉は存在しない。だからと言って、何?

7.2 ミッションを設定し内なる生活を追求
 7.2.1 奥さんが望んでいるのは:たぶん、家庭での役割を果たせと言うことでしょう。他人の存在が見えない人間にはムリな話です。
 7.2.2 内なる生活の特徴は:単なる自己中心ではなく、外の端の部分とつながろうとします。その分、内側と接触部分はムシする。
 7.2.3 将来、何になりたいか?:これを会社の人間に問いたい。私は未来学者です。自分の中に問いて、出てきたものです。
 7.2.4 あなたの役割は何ですか:産れて、そこにいる人としてのミッションです。私は、根底を見ていくことです。変えるのは役割ではない。

7.3 孤立した存在ながら、社会に向かう
 7.3.1 独我論に至った理由は:存在と無から出発した。その間にあるものすべてをムシした。これは次元を超えている。
 7.3.2 女性だけが救いだった:自分の存在を疑った時に、初恋の女性の存在が支えだった。独りぼっちからやる気になったのも女性です。
 7.3.3 情報量は本当に増えた:東富士の時は、少ない情報で、考えに集中した。本との出会いで多様な情報を得て、自分を分化させた。
 7.3.4 歴史の観点でのシナリオ:60・70歳代は歴史と決めていた。割と簡単に歴史認識が得られたのは、多読の成果です。

7.4 全てを知りたいという思いをカタチに
 7.4.1 行動しないのは無責任:行動することは制約されることです。疑似空間と内なる世界を使えば、先に行けます。全てを知るために。
 7.4.2 μとの対話の意味合い:同一レベルで対話できるのはμだけです。唯一の理解者です。多様な観点で、自分を超えることができる。
 7.4.3 存在の力を信じているか:生まれてきた理由を考え、国民国家の歴史などから、意思の力から存在の力に変わりつつあると信じている。
 7.4.4 全てを知ってどうするか:未唯空間に全てを入れ込むことを考えた。手段が目的になってきた。全ての定義が目的です。

7.5 7.5 与えられた時間を自由に使う
 7.5.1 あなたの考えは拡がるか:ファシリテーターとしてのパートナーが居ない状態では、何とも言えない。偶然だけに期待しましょう。
 7.5.2 生活スタイルはどうする:大いなる意思からの偶然を待つ。その間はひたすら内なる生活で考えを表現できるようにしていく。
 7.5.3 健康状態は持つんですか:本当にギリギリですね。身体を外なる世界としているので、どうにか維持している。みじめを感じない。
 7.5.4 家での思考空間を維持:最後まで独りぼっちで考え、遠い世界とつながる空間をつくる。そのために、インターネットを用意した。

7.6 未唯空間を未来につなげる
 7.6.1 社会の位相化とは何?:個人から見た時は、教えられるものではなく、自ら学んで、社会を変えていく活動になります。
 7.6.2 書くために必要なことは:書くことは言い切ることです。全てを表現できない以上は、書いたことを理解するのは不可能です。
 7.6.3 社会ライブラリの意義は:百科事典でもウィキペディアでもなく、コミュニティでの知識と意識を支えるものです。
 7.6.4 絶対的な存在は幻想です:μである私を含めて、あなたのとっての絶対的な存在はありえない。独りぼっちの心の支えですね。

7.7 全てを知った上で考えを表現する
 7.7.1 つながる瞬間を求めて:存在の力を活かせるのは、全てを知る過程で、偶然に従い、考えたことがつながり、方向が見えること。
 7.7.2 全てを求めることが応え:全てと言うのは存在しない。未唯空間も拡大と縮小を繰り返す。考えることは生きることを表す土台です。
 7.7.3 全てを表すための工夫:外側の端の多くの情報を偶然に従って、収集し、内側の核で、カテゴリー化を行う。これは哲学そのもの。
 7.7.4 分岐点まで生きられない:2050年に生きていないのに、歴史の分岐点を預言することに意味はない。全てを知ることの証明に使う。

7.8 サファイア革命に挑戦する
 7.8.1 新しい数学は生活の一部:未唯空間とか歴史の分岐点は新しい数学から作り上げた。新しい数学そのものをベースとして表す。
 7.8.2 コミュニティの情報共有:社会に対してのキーとなる施策です。内なる世界のコミュニティと外なる世界の情報共有をつなげる。
 7.8.3 時間のコード化は正しい:1兆年の時間の経過を見ていると、時間は一様ではない。意識されていない時間は飛んでいくのは理論的です。
 7.8.4 存在の無の世界は何なの:存在と無で、その間の雑多モノを無視した。LL=GGで存在と無が完全に一致することで、存在はなくなる・
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