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デンマークの農耕民

『デンマークの歴史教科書』より 農耕民 紀元前1万1000-1000

○デンマークでは

 およそ6000年前、現在デンマークと呼ばれる地域にはじめて農業がやってきた。すでにエルテベレ期の狩猟民は農業を知っていた。なぜなら北ドイツの農耕民と接触し、物を交換していた。しかし土地を耕し、家畜を飼うことは、狩猟民であることよりもはるかに多くの労働を必要としたので、必要性が出てくるまではデンマーク人は農耕民にならなかった

 ところがデンマークでは人口が増えていった。これは、狩猟、漁猟、食用ベリーや植物の採集では十分ではないことを意味した。飢えで死にたくなければ、狩猟民は農耕民になる必要があった。どのよ引こしてデンマーク人が農耕民となったのかは学者の問で意見が分かれる。ある者は、デンマーク人は少しずつ自分で農耕民であることを学んでいったと主張する。別の者は、デンマークに移住してきた人々から人地を耕し、家畜を飼うことを学んだと言う。

 人々はこれまで同様に多くの道具を石で作った。それゆえ、紀元前4000-1800年の時代は、農耕石器時代と呼ばれる。

○どうやって大地を耕したのか

 人が大地を耕した最初の方法は、焼畑農法と呼ばれる。大木を切り倒して森を開き、潅木や小さな木を焼く。燃焼の熱によって、土の一番上の数センチの層に含まれる栄養分が解き放たれる。同時に熱は雑草の種子を壊す。一旦は穀物を栽培することができるかもしれないが、数年後には土壌の栄養分は使い果たされ、雑草がはびこる。そうなると、最初からやり直し、新しい森を切り開かなければならなかった。

 焼畑農法によって、森の大きな面積が燃やされていった。そのため、餌となる動物や鳥の生息地が減っていき、人々は農業からもっともっと多くの食糧を手に入れなければならなくなった。同時に同じく、人口が増えていった。700一800年の問に、焼くのに適した森を見つけるのは難しくなっていた。生き残るためには、別の方法で畑を耕さなければならず、そのためそれほど急速には畑はやせなかった。

 こうして人々は次第にアード農法に移っていった。アードとはとても単純な鋤で、畑を縦横に引っかき、耕した。この方法で、畑がやせるまでより長く耕すことができた。しかしアード農法は焼畑よりも多くの労働を必要とし、畑を“すく”のに長い時間がかかった。耕す前に、石や根を取り除かなければならなかっ:だ。100㎡の畑をすくのに2日かかることが実験でわかっている。

○家畜

 実際には、農耕石器時代の豚、羊、ヤギ、牛を、家畜、と呼ぶのは間違っている。それらの動物は実際には年中外におり、牧夫が番をしていた。豚は、堕落に近い森で、根っこや木の実、食川になるものを自分でほじくり返して食べ物を得ていた。草が多い地域では、多くの羊やヤギが飼われた。牛はもっとも重要な家畜で、役畜として使われた。牛からは食べる肉の半分以上を取得し、衣服の革にも使われた。しかし牛は他の家畜よりもより手問がかかった。例えば、木々や潅木の葉を切り分けて、冬の食べ物としなければならなかった。

 農耕石器時代の最初の頃は、まず肉を目的に家畜を飼った。しかし次第に牛レ孔ヤギから乳を絞り始め、羊の毛を衣服を作るのに使い始めた。

○死は身近

 農耕石器時代の人々は狩猟石器時代と同じようには自然に依存していなかった。しかし、十分な食べ物を確実に得ていたと言うわけではない。干ばつや雨は収穫を台無しにし、動物は病気にさらされた。これは飢饉を意味した。

 農耕石器時代の人骨の調査から、わずかな数だけが40歳になったことがわかる。多くが出産中に亡くなり、生きて生まれた者のほぼ3分の2が成人になる前に死んだ。今日、多くの人が死を恐れ、死とは、滅多に話さない遠ざけられるものとされている。農耕石器時代でも人は、可能な限り長く生きたいと願った。しかし当時は薬、医者、病院などはなかった。だから死は常に身近なものであり、日常の生活の一部だった。死者は集落の近くの塚に埋葬された。もしかしたら、死者は崇拝されたのかもしれない。死者は必ず高価な贈り物とともに墓に埋葬された。

○集落

 集落は森の外れ、湖、小川、せせらぎもあるフィヨルドのそばにあった。ここでは、漁猟を営み、飲み水を得ることができた。同じ場所に何年も暮らしていたので家々は頑丈に建てられた。

 狩猟石器時代には、ひとつの集落の住民は独立したグループだった。農耕石器時代には、部族社会が出現した。つまり、複数の集落の住民が、部族長のような共通したリーダーの下に集まった。部族長は隣の部族と物を交換し、もし暮らす地域が敵に攻撃されれば、部族の男たちの先頭に立った。それぞれの部族は集会場を持っていた。ここに共同で死者への墓室を持った大きな塚を建てた。塚では、綺麗な陶器、琥珀細工、斧、動物、そして時には人川も捧げられた宗教的儀式が行われた。集会場では、フリント製斧や琥珀のような物も交換された。
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