未唯への手紙
未唯への手紙
信仰と純粋洞察
『はじめてのヘーゲル「精神現象学』より
信仰
どこにも本質というものがない現実世界から彼岸へと「逃避」して、そこに、純粋な思考からなる本質の世界をつくりあげるのが、「信仰」の態度である。これは「安らいだ肯定的な普遍態」、つまり「自体存在」を求めようとする動機から起こったものだ。
われわれ(哲学的観望者)から見ると、彼岸の世界の内容は現実の教養の世界のそれと同じであり、それは最終的には、精神のもつ三つの契機として理解されるべきものである。すなわち、国家権力と対応するのが「絶対本質」、すなわち単一で永遠な実体であり(父、自体存在の契機)、財富と対応するのが「自分を犠牲にする本質」であり孚、対自存在の契機)、さらに、そこから第一のものへの還帰(精霊、自体的かっ対自的)がある。
しかし信仰にとって、これら三つはそれぞれ異なったものである。そのどれもが精神の諸契機であって精神のなす必然的な運動であることは自覚されていない。だから、精神の運動は「出来事」として理解され、概念的には理解されず「表象」(イメージ)として語られるのである〔神がイエスという人間の子として生まれ、人びとの罪を背負って十字架にかかり天に帰って行った、ということは、精神の三つの契機としてではなく、実際に起こった事実であるとされるI。
信仰する意識は現実を空しいものと思い、彼岸を真実と思っている。そして、信仰することで絶対本質と自分との統一を感じたいと願う。しかし現実生活のなかでそれを得る、つまりこの統一を実際に「直観する」ことはできないのである。
純粋洞察
信仰が、安らいだ「肯定的な普遍態」「自体存在」(信仰の対象としての神)を求めるのに対し、純粋洞察は「対自存在」を求める。つまり、あらゆる外在的な対象に立ち向かって。それを概念的に理解してわがものにしようとするのである。信仰の静止に対し、純粋洞察は運動と否定性とを特徴とする。
純粋洞察のほんらいの対象は「純粋自己」である。つまり、なによりも「自分が洞察し納得すること」を求めるのであり、一切を「自己」化しようとする要求をもつ〔純粋洞察とは、ただ世界の空しさを語ることをやめ、むしろ積極的に世界の実相を理解してそれを「わがもの」にしようとする自己意識であり、つまり近代的な理性のことである。次項では「啓蒙」と名を変える〕。
純粋洞察が求めるのは、個別的な自己ではなく「普遍的な自己」であり、だれもが納得するような普遍的な洞察を形作ろうとする。なぜなら、意識は教養の世界を経てもろもろの自然的な生得性を脱落させてしまい、さらに、エスプリに富んだ分裂した意識において、世界のあらゆる物事について普遍的に判断するすべを身につけたからである。
とはいっても、この段階では純粋洞察はまだまったく内容をもたず、純粋で普遍的な洞察を得ようとする「意図」でしかない。だからまずは、納得できないものに対してもっぱら「否定性」をふるう。そして純粋洞察の主要な敵こそ、神の実在を素朴に信ずる信仰なのである。
しかし、信仰も啓蒙も、じつは同じ精神のもつ二つの契機にすぎない。「絶対本質」を求めそれと一つになって安らどうという自体存在の要求も、あらゆる物事に対して「自分が納得したい」という対自存在の要求も、どちらも精神が本質的に備えている両契機なのである。しかし、この疎遠になった精神の世界においては、この二つは互いに疎遠なものとして現れ、争うことになる。
どう生きてよいかがさっぱり分からなくなったときに、人はどういう態度をとるか。信仰と純粋洞察を、そのさいの二つの類型と考えてみるとおもしろい。現実の相対的な諸目的を超えた絶対の真実を彼岸に求めるか、それとも、自分でもって考え納得したい、納得できないことになど従わないぞ、という自分に重きを置く態度をとるか。人はその資質によってどちらかに傾くのではないだろうか。
信仰
どこにも本質というものがない現実世界から彼岸へと「逃避」して、そこに、純粋な思考からなる本質の世界をつくりあげるのが、「信仰」の態度である。これは「安らいだ肯定的な普遍態」、つまり「自体存在」を求めようとする動機から起こったものだ。
われわれ(哲学的観望者)から見ると、彼岸の世界の内容は現実の教養の世界のそれと同じであり、それは最終的には、精神のもつ三つの契機として理解されるべきものである。すなわち、国家権力と対応するのが「絶対本質」、すなわち単一で永遠な実体であり(父、自体存在の契機)、財富と対応するのが「自分を犠牲にする本質」であり孚、対自存在の契機)、さらに、そこから第一のものへの還帰(精霊、自体的かっ対自的)がある。
しかし信仰にとって、これら三つはそれぞれ異なったものである。そのどれもが精神の諸契機であって精神のなす必然的な運動であることは自覚されていない。だから、精神の運動は「出来事」として理解され、概念的には理解されず「表象」(イメージ)として語られるのである〔神がイエスという人間の子として生まれ、人びとの罪を背負って十字架にかかり天に帰って行った、ということは、精神の三つの契機としてではなく、実際に起こった事実であるとされるI。
信仰する意識は現実を空しいものと思い、彼岸を真実と思っている。そして、信仰することで絶対本質と自分との統一を感じたいと願う。しかし現実生活のなかでそれを得る、つまりこの統一を実際に「直観する」ことはできないのである。
純粋洞察
信仰が、安らいだ「肯定的な普遍態」「自体存在」(信仰の対象としての神)を求めるのに対し、純粋洞察は「対自存在」を求める。つまり、あらゆる外在的な対象に立ち向かって。それを概念的に理解してわがものにしようとするのである。信仰の静止に対し、純粋洞察は運動と否定性とを特徴とする。
純粋洞察のほんらいの対象は「純粋自己」である。つまり、なによりも「自分が洞察し納得すること」を求めるのであり、一切を「自己」化しようとする要求をもつ〔純粋洞察とは、ただ世界の空しさを語ることをやめ、むしろ積極的に世界の実相を理解してそれを「わがもの」にしようとする自己意識であり、つまり近代的な理性のことである。次項では「啓蒙」と名を変える〕。
純粋洞察が求めるのは、個別的な自己ではなく「普遍的な自己」であり、だれもが納得するような普遍的な洞察を形作ろうとする。なぜなら、意識は教養の世界を経てもろもろの自然的な生得性を脱落させてしまい、さらに、エスプリに富んだ分裂した意識において、世界のあらゆる物事について普遍的に判断するすべを身につけたからである。
とはいっても、この段階では純粋洞察はまだまったく内容をもたず、純粋で普遍的な洞察を得ようとする「意図」でしかない。だからまずは、納得できないものに対してもっぱら「否定性」をふるう。そして純粋洞察の主要な敵こそ、神の実在を素朴に信ずる信仰なのである。
しかし、信仰も啓蒙も、じつは同じ精神のもつ二つの契機にすぎない。「絶対本質」を求めそれと一つになって安らどうという自体存在の要求も、あらゆる物事に対して「自分が納得したい」という対自存在の要求も、どちらも精神が本質的に備えている両契機なのである。しかし、この疎遠になった精神の世界においては、この二つは互いに疎遠なものとして現れ、争うことになる。
どう生きてよいかがさっぱり分からなくなったときに、人はどういう態度をとるか。信仰と純粋洞察を、そのさいの二つの類型と考えてみるとおもしろい。現実の相対的な諸目的を超えた絶対の真実を彼岸に求めるか、それとも、自分でもって考え納得したい、納得できないことになど従わないぞ、という自分に重きを置く態度をとるか。人はその資質によってどちらかに傾くのではないだろうか。
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岡崎図書館の10冊
モノつくりよりサービス
人間はモノを作るように作られているのか、サービスするように作られているのか。偶々、効率からする方が儲かるようになっているだけです。
スペイン危機でのニュースで企業の募集がないことを嘆いていた。だけど、スペインで何を作るのですか。自分たちのためなら分かるけど、他の国のために作るのは、勤勉な国とかの競争関係になります。スペインの国民性に合わないでしょう。
むしろ、他の国の人をスペインに招いて、イベリコ豚を売った方がいいかもしれません。国土全体を使うことができます。ネタは生涯学習でもいいです。アピールできることです。
モノを作る方に魅力を感じるのはなぜか。環境社会が次のテーマです。ここでは、そこまで含めて考えていきます。環境というものは工業を中心にしてはできるはずがない。
環境は観光だけでできるのか。その先はどうなるのか。不安定さは増します。だけど、戦争という産業にしても同じです。そこでどこまでできるのか。人類は色々な経験をしてきました。それぞれに対して、それなりの答を持つ時です。繋がるための道具はできて来ています。それが今までと大きな差です。
ガードレールがない
ドイツ列車旅行の本を読んでいました。ドイツには電柱とかガードレールがない。フィンランドのロヴァニエミにもガードレールがなかった。空間をどう使うかと考えて、町を設計してきた。
項目の完結性
256の項目の一つずつを完結させます。これは重要なことです。そのためには、何回も回すしかないでしょう。この3か月のすべての時間を使います。
上位からのインヘリタンスがあります。いい町・いい社会のライブラリ共有が項目になります。それの内容を描き切ります。色々なところにライブラリがあるけど、これはいい町・いい社会に対してのライブラリです。もう一つ上の階層からすると、次期ネットにおける、いい町いい社会の市民との接続になります。
ネットワーク会社での展開
電算部の了解を得て、Hに展開すると言っても、実際に行うのはネットワーク会社です。次期ネットも同じです。電算部は関心がないから、我々だけで決めてきた。それをあたかも、皆で決めたようなカタチにして展開している。
展開する責任をネットワーク会社に転嫁しています。電話についても同じです。
2006年のガイドブックで書いたことも、Hが具体的に採用したら、どうなっていたかというと、ネットワーク会社でやるしかなかった。その当たり前のことを管理部署と一緒になって、体制化していくだけです。これは今までやってきたことです。今後は管理部署が認識やることが重要な時期に来ています。
パートナーがメーカーの立場で電算部に承認させることが重要です。Oの悲劇にハマらないように、支援します。自分の頭で考えるしかない。あわせて、管理部署の認識を上げて、奥に入り込んでなく、Hに対して、自由に動けるようにさせていきます。
未唯へ
スタバでラテだけど、泡が多すぎる。最後は抹茶の作法で飲み切りました。
5時前から散歩に出たけど、やはり、暑いですね。背中からかんかん照りです。
国からの脅し
国での開設方法がそれぞれの国では重要です。これは論理ではなく、脅しです。ギリシャに対して、EUが行っていることです。これをやらないと災害があると言いながら、その次が見えていない。
一つを認めても、その先が成り行きでどうなるか分からない世界です。それをだれが信頼するのか。
この課題で、自民党と超国家にして、何の方針もなく、決めていこうという感じです。それで日本の未来が開けるのか。開けるわけがない。何しろ、方針がない。方針なしに、平和は語れない。
国民に任せると言っても、国民は育っていない。単に国に頼ってきた連中です。ギリシャのように、ドイツへの恨みがあり、自分たちの生活パターンを変えるつもりがないという世界です。似たようなもんです。
ギリシャには国民がノーというだけの力があります。日本はコメントは言うけど、ノーという力も動員の革命を起こす力もない。個人が育っていない。
岡崎図書館の10冊です。ヨーロッパ旅行とヘーゲルが半分を占めている。
G293.4『わがまま歩き ドイツ』
311『政治とはなにか』
310.7『襤褸の幡』松下政経塾の研究
130.2『西洋哲学史Ⅳ』「哲学の現代」への回り道
201.1『歴史哲学講義(上)』
201.1『歴史哲学講義(下)』
293.4『わがまま歩き オランダ ベルギー ルクセンブルグ』
140『心理学』キーワードコレクション
293.4『ドイツ鉄道の旅』
392,2『カンボジアを知るための62章』
人間はモノを作るように作られているのか、サービスするように作られているのか。偶々、効率からする方が儲かるようになっているだけです。
スペイン危機でのニュースで企業の募集がないことを嘆いていた。だけど、スペインで何を作るのですか。自分たちのためなら分かるけど、他の国のために作るのは、勤勉な国とかの競争関係になります。スペインの国民性に合わないでしょう。
むしろ、他の国の人をスペインに招いて、イベリコ豚を売った方がいいかもしれません。国土全体を使うことができます。ネタは生涯学習でもいいです。アピールできることです。
モノを作る方に魅力を感じるのはなぜか。環境社会が次のテーマです。ここでは、そこまで含めて考えていきます。環境というものは工業を中心にしてはできるはずがない。
環境は観光だけでできるのか。その先はどうなるのか。不安定さは増します。だけど、戦争という産業にしても同じです。そこでどこまでできるのか。人類は色々な経験をしてきました。それぞれに対して、それなりの答を持つ時です。繋がるための道具はできて来ています。それが今までと大きな差です。
ガードレールがない
ドイツ列車旅行の本を読んでいました。ドイツには電柱とかガードレールがない。フィンランドのロヴァニエミにもガードレールがなかった。空間をどう使うかと考えて、町を設計してきた。
項目の完結性
256の項目の一つずつを完結させます。これは重要なことです。そのためには、何回も回すしかないでしょう。この3か月のすべての時間を使います。
上位からのインヘリタンスがあります。いい町・いい社会のライブラリ共有が項目になります。それの内容を描き切ります。色々なところにライブラリがあるけど、これはいい町・いい社会に対してのライブラリです。もう一つ上の階層からすると、次期ネットにおける、いい町いい社会の市民との接続になります。
ネットワーク会社での展開
電算部の了解を得て、Hに展開すると言っても、実際に行うのはネットワーク会社です。次期ネットも同じです。電算部は関心がないから、我々だけで決めてきた。それをあたかも、皆で決めたようなカタチにして展開している。
展開する責任をネットワーク会社に転嫁しています。電話についても同じです。
2006年のガイドブックで書いたことも、Hが具体的に採用したら、どうなっていたかというと、ネットワーク会社でやるしかなかった。その当たり前のことを管理部署と一緒になって、体制化していくだけです。これは今までやってきたことです。今後は管理部署が認識やることが重要な時期に来ています。
パートナーがメーカーの立場で電算部に承認させることが重要です。Oの悲劇にハマらないように、支援します。自分の頭で考えるしかない。あわせて、管理部署の認識を上げて、奥に入り込んでなく、Hに対して、自由に動けるようにさせていきます。
未唯へ
スタバでラテだけど、泡が多すぎる。最後は抹茶の作法で飲み切りました。
5時前から散歩に出たけど、やはり、暑いですね。背中からかんかん照りです。
国からの脅し
国での開設方法がそれぞれの国では重要です。これは論理ではなく、脅しです。ギリシャに対して、EUが行っていることです。これをやらないと災害があると言いながら、その次が見えていない。
一つを認めても、その先が成り行きでどうなるか分からない世界です。それをだれが信頼するのか。
この課題で、自民党と超国家にして、何の方針もなく、決めていこうという感じです。それで日本の未来が開けるのか。開けるわけがない。何しろ、方針がない。方針なしに、平和は語れない。
国民に任せると言っても、国民は育っていない。単に国に頼ってきた連中です。ギリシャのように、ドイツへの恨みがあり、自分たちの生活パターンを変えるつもりがないという世界です。似たようなもんです。
ギリシャには国民がノーというだけの力があります。日本はコメントは言うけど、ノーという力も動員の革命を起こす力もない。個人が育っていない。
岡崎図書館の10冊です。ヨーロッパ旅行とヘーゲルが半分を占めている。
G293.4『わがまま歩き ドイツ』
311『政治とはなにか』
310.7『襤褸の幡』松下政経塾の研究
130.2『西洋哲学史Ⅳ』「哲学の現代」への回り道
201.1『歴史哲学講義(上)』
201.1『歴史哲学講義(下)』
293.4『わがまま歩き オランダ ベルギー ルクセンブルグ』
140『心理学』キーワードコレクション
293.4『ドイツ鉄道の旅』
392,2『カンボジアを知るための62章』
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